安土桃山時代豊臣氏15371598
豊臣秀吉の肖像
天下統一太閤検地朝鮮出兵
とよとみ・ひでよし

豊臣秀吉

TOYOTOMI HIDEYOSHI · 1537 — 1598 · 享年 62

鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす

豊臣
生年
天文6年
1537
没年
慶長3年
1598
出身
尾張中村
愛知県
居城
大坂城
摂津
家紋
五七桐
GO-SHICHI-NO-KIRI
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CONTENTS · 七章
  1. 01信長の草履取りから——尾張の農村から天下へ
  2. 02墨俣一夜城——伝説の築城
  3. 03本能寺後の「中国大返し」
  4. 04賤ヶ岳の戦い——柴田勝家を破る
  5. 05小田原征伐——天下統一の完成
  6. 06朝鮮出兵と晩年——太閤の翳り
01
草履取り
SANDAL-BEARER

信長の草履取りから——尾張の農村から天下へ

草履取り時代の秀吉
草履取り時代の秀吉
天文六年(1537年)、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に農民の子として生まれた。幼名は日吉丸。貧しい農家の次男として育った彼は、十代のうちに家を飛び出し、諸国を流浪した。やがて織田信長の草履取りとして仕えることになったが、その機転と才覚はすぐに信長の目に留まる。信長の草履を懐で温めていたという逸話は、後世に伝わる有名なエピソードとして今日でも広く知られている。若き秀吉は足軽から頭角を現し、木下藤吉郎を名乗りつつ着実に出世の階段を上っていった。
秀吉の処世術を表す有名な句

「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす」

02
墨俣一夜城
SUNOMATA

墨俣一夜城——伝説の築城

墨俣一夜城の築城
墨俣一夜城の築城
永禄九年(1566年)ごろ、信長は美濃攻略の拠点として墨俣(現在の岐阜県大垣市)に砦を築くよう命じた。柴田勝家・佐久間信盛が相次いで失敗するなか、木下藤吉郎が名乗りを上げる。藤吉郎は長良川上流で木材をいかだに組み、川を流下させて一夜にして砦を完成させたと伝わる。この「墨俣一夜城」の伝説は後世の軍記物に脚色されて語り継がれ、秀吉の知謀と実行力を象徴するエピソードとなっている。真偽については諸説あるが、秀吉が信長の美濃平定に大きく貢献したことは史実であり、その功績によって羽柴秀吉へと名を改め、さらなる出世の道が開かれた。
刀狩り令発布時の秀吉の言葉と伝わる

「日本国中に城は一つあればよい」

03
中国大返し
GREAT RETURN

本能寺後の「中国大返し」

中国大返し・夜行軍
中国大返し・夜行軍
天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変が勃発し織田信長が斃れた。この報せは備中高松城を攻略中だった羽柴秀吉のもとに届いた。秀吉は直ちに毛利氏と和睦交渉を進め、わずか数日で停戦を成立させた。そして約二万の軍を率いて、約二百キロの行程をおよそ十日で踏破する「中国大返し」を敢行する。軍師・黒田官兵衛の進言もあり、秀吉は「ご運の開け候」と前向きに行動した。六月十三日の山崎の戦いで明智光秀を破り、天下取りの第一歩を踏み出した。この電光石火の行動が、信長後継者としての地位を確立する決定的な契機となった。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

—— 秀吉辞世の句
04
賤ヶ岳
SHIZUGATAKE

賤ヶ岳の戦い——柴田勝家を破る

賤ヶ岳の合戦
賤ヶ岳の合戦
天正十一年(1583年)、秀吉は信長の後継争いで最大のライバルだった柴田勝家と激突する。勝家は北ノ庄城(現在の福井市)を拠点に越前・加賀を支配する強大な勢力を持っていた。両軍は近江・賤ヶ岳で対峙し、長期にわたる対陣の後、秀吉は行軍から一夜にして引き返す「美濃大返し」で戦局を決した。賤ヶ岳七本槍と後に称される若武者たちの奮戦もあり、勝家軍は崩壊する。勝家は北ノ庄城に逃げ帰り、妻・お市の方とともに落城自害した。この勝利により秀吉の地位は確固たるものとなり、大坂城の築城を開始して政権基盤を整えていった。
05
天下統一
UNIFICATION

小田原征伐——天下統一の完成

小田原征伐・石垣山一夜城
小田原征伐・石垣山一夜城
天正十八年(1590年)、秀吉は関東の覇者・後北条氏を滅ぼすべく小田原城へ大軍を差し向けた。全国から集めた動員兵力は二十万とも伝わり、戦国史上最大級の軍事行動であった。秀吉は小田原城下の石垣山に一夜にして城を築き(石垣山一夜城)、北条方の士気を挫いた。約百日の籠城の末、北条氏政・氏直は開城降伏する。この勝利によって関東・奥羽の大名も次々と服属し、秀吉の天下統一はここに完成した。天正十四年(1586年)には関白・太政大臣に就任しており、官位・武力の両面で名実ともに天下人となった。
06
晩年と太閤
TAIKO

朝鮮出兵と晩年——太閤の翳り

晩年の秀吉・伏見城
晩年の秀吉・伏見城
天下統一後、秀吉は明国征服を目指して文禄元年(1592年)に朝鮮へ出兵する(文禄の役)。当初は快進撃で漢城(ソウル)まで占領したが、李舜臣率いる朝鮮水軍や明の援軍に苦しめられ、講和交渉へ移行した。交渉が決裂すると、慶長二年(1597年)に再出兵(慶長の役)。しかし慶長三年(1598年)八月、秀吉は伏見城で病没する。享年六十二。嫡子・秀頼の将来を涙ながらに五大老に托したと伝わる。この二度の出兵は国内の疲弊を招き、豊臣政権の基盤を大きく損なった。秀吉の死後、徳川家康が台頭し、慶長五年(1600年)の関ヶ原を経て政権は徳川へと移ることになる。