とうどう・たかとら
藤堂高虎死因と生涯、豊臣秀長との関係
- 生没年
- 1556–1630
- 出身
- 近江
- 家
- 豊臣
- 主な合戦
- 6

- 生年
- 弘治2年1556
- 没年
- 寛永7年1630・数え75歳
- 出身
- 近江犬上郡滋賀県甲良町
- 居城
- 津城・伊賀上野城三重県
- 家紋
- 藤堂蔦
藤堂高虎
藤堂高虎は、主君を相次いで失いながらも、豊臣秀長の家臣から津藩の祖となった築城の名手である。秀長の下で武功と普請の経験を重ね、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に加わった。今治城や津城、伊賀上野城に関わり、城下町の整備と領国支配にも足跡を残している。
死因は病没とされ、寛永7年(1630年)10月5日、江戸で亡くなった。享年75は数え年で、具体的な病名は分からない。身長は約188〜190cmと伝わるが、記録によって数値が異なる。津藩を継いだ実子の高次と、名張藤堂家につながる養子の高吉を区別すると、子孫の系統も追いやすい。
高虎を知るには、主君を替えた回数だけでなく、誰の下で何を任され、何を残したのかをたどりたい。その中心にあるのが、秀長への長い奉公と、家康の下で担った城づくりである。
近江から秀長のもとへ——若き日の主君替え

弘治2年(1556年)、藤堂高虎は近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県甲良町在士に生まれた。父は藤堂虎高。幼名を与吉、のちに与右衛門と名乗る。津藩の祖となる人物の出発点は、琵琶湖の東にある村だった。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、浅井長政に従って初陣を飾ったと伝わる。数え15歳である。織田・徳川方と浅井・朝倉方が衝突したこの戦いの後も、近江では争いが続いた。天正元年(1573年)には浅井家が滅び、若い高虎が身を置いた政治状況も大きく変わる。
若年期の仕官先には阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄らの名が挙がる。ただし、詳しい順序や離反の事情は後世の記録に依存する部分が大きい。後に語られる「七度の主君替え」を、そのまま七回の裏切りとして並べることはできない。
高虎の経歴が大きく動くのは天正4年(1576年)だった。津市の略年譜では、この年に羽柴秀長、のちの豊臣秀長に300石で仕えたとされる。秀長は兄・秀吉の軍事行動を支え、やがて大和・紀伊・和泉を治める大名となる人物である。
以後、高虎は秀長の下で長く働く。主君を転々とした青年期の後に、約15年に及ぶ奉公が続いた。ここで任されたのは合戦だけではない。豊臣秀長への仕官が、武功と城づくりの両方で高虎を押し上げた。
豊臣秀長との15年——合戦と普請で頭角を現す

秀長の家臣となった高虎は、中国地方への進出や各地の合戦を通じて地位を上げた。津市の略年譜は、天正8年(1580年)の三木城攻めや丹波での働きを挙げ、3,000石を加えられたと記す。300石での仕官から、任される兵力と役目は広がっていった。
天正11年(1583年)には、秀長に従って伊勢で滝川一益と戦った。続く天正13年(1585年)、豊臣方は紀州と四国へ軍を進め、高虎も紀州征伐に参戦する。四国で対したのは長宗我部元親の勢力だった。秀長は豊臣政権の有力大名となり、高虎の軍歴も、その領国と責任が拡大する過程に重なる。
同じ年、高虎は和歌山城の普請にも関わった。軍を動かして土地を得ても、支配の拠点を整えなければ領国は治まらない。城の立地を選び、堀や石垣を築き、資材と人を集める仕事が必要になる。後に築城で名を知られる高虎にとって、秀長配下での普請は重要な経験となった。
天正15年(1587年)の九州征伐にも秀長軍の先鋒として従軍し、加増を受ける。敵方の総大将は島津義久で、弟の義弘・家久らは高城救援の軍を率いた。高虎と島津三兄弟との関係は、この戦役での敵対を指す(「根白坂の戦い」)。この頃までに高虎は、秀長家の軍事と普請を担う有力な家臣となっていた。
高虎と秀長の結びつきは、主従の期間だけでは測れない。高虎は秀長の没後、徳川方の大名となってからもその供養に関わった。慶長12年(1607年)の十七回忌と元和9年(1623年)の三十三回忌の営みは、三重大学の解説でも紹介されている。家康への奉公と、かつての主君・秀長を弔うことは、高虎の生涯の中で両立していた。
秀長・秀保の死——高野山から伊予の大名へ

天正19年(1591年)、豊臣秀長が亡くなった。高虎は直ちに家康へ移ったわけではない。秀長の養子・豊臣秀保の下に残り、その後見を務めた。高虎の主君をたどる際に、秀長と秀吉の間から落としてはならない人物が秀保である。
この時期、豊臣政権は朝鮮へ侵攻した。高虎も渡海し、水軍の指揮などに関わる。国内の陸上戦だけでは済まない任務であり、兵や物資を船で運ぶ必要があった。加藤嘉明らとの関係も、この朝鮮での軍務と切り離せない。三重県の解説には、両者の間に確執があったことも記されている。
文禄4年(1595年)、今度は秀保が若くして没した。秀長に続いてその後継者も失った高虎は、高野山に入ったと伝わる。長く仕えた家の断絶は、単に新しい雇い主を選ぶという話では片づかない転機だった。
その高虎を召し出したのが豊臣秀吉である。高虎は伊予の板島、現在の宇和島を中心とする7万石を与えられ、秀吉に直接仕える大名となった。宇和島市は、高虎による城の創建を慶長元年から6年(1596〜1601年)とする。海に面した丘を利用した城づくりが進められた。
秀長から秀保へ、そして秀吉へ。この移動には、主君の死と家の継承が関わっている。一人の主君を長く支えた時期と、相次ぐ死によって奉公先が変わった時期を分けると、高虎の歩みは見えやすくなる。高野山に入った高虎は、秀吉の召還によって、城と領国を預かる大名として再出発した。
関ヶ原の戦い——大谷方との交戦と20万石への加増

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、豊臣政権内部の対立が深まった。高虎は徳川家康に接近する。津市の略年譜では、翌年に弟の正高を江戸へ遣わし、家康との関係を強めたとされる。関ヶ原の当日だけで決めた陣営ではなかった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、高虎は東軍に属した。岐阜県観光連盟の陣跡案内は、高虎と京極高知が東軍左翼の縦隊の第二陣に位置し、大谷吉継方の平塚為広隊などと戦ったと説明する。西軍の大谷方に向き合う一角を担ったのである。
大谷方の戦線は、小早川秀秋らの攻撃を受けて崩れた。高虎らの正面からの攻撃と、周囲の部隊の動きが関わる局面だった。ただし、諸隊が動いた時刻や攻撃の順序には議論がある。高虎一人が大谷軍を破った、あるいは高虎自身が特定の武将を討ち取った、とまとめることは避けたい。
合戦後、高虎は12万石を加えられ、従来の領地と合わせて伊予20万石の大名となった。関ヶ原への参加が、領国の拡大と家康からの信任につながったことは確かである。その後の今治城の築城や、徳川方の大規模な普請を担う経歴は、この加増を経て本格化する。
秀長の家臣として成長した高虎が、家康方に立った。その選択を評価するには、合戦前の交渉と、戦後に任された仕事の両方を見る必要がある。関ヶ原は、高虎が徳川政権の中で地位を築いていく分岐点となった。
今治城の築城——海水の堀と船入を備えた城

慶長7年(1602年)、高虎は瀬戸内海に面した今治で築城を始めた。山上にこもる城ではなく、海岸の平地に大きな堀を巡らせる城である。海水を引き込んだ堀と、城内に船を入れるための船入が、その特色となった。
今治市の年表では、慶長9年(1604年)に普請、すなわち土木工事が完成したとされる。建物まで含む全体の完成は慶長13年(1608年)頃と推測されている。「1604年完成」という年だけでは、土木工事と建築工事の違いが消えてしまう。
船が入れる城は、防御だけでなく物資の輸送にも関わる。高虎は朝鮮で海上の軍務を経験し、宇和島でも海に接する土地を治めていた。今治では堀と港を備える形で、海に面した領国の拠点を築いた。城郭の壮大さを見るだけでなく、船と人が出入りする経路にも目を向けたい。
同じ時期、高虎は徳川方の普請にも携わる。津市の年譜には慶長6年(1601年)の膳所城、慶長11年(1606年)の江戸城などが挙がる。自分の居城を整える仕事と、家康の命令で他の大名とともに進める工事は、分けて考える必要がある。
現在の今治城天守は、昭和55年(1980年)に建てられた模擬天守である。高虎の天守がそのまま残っているのではない。一方、堀や石垣からは海城の構えをたどれる。今治城で注目したい高虎の仕事は、天守の姿だけでなく、海・堀・船入を備えた城全体の配置である。
津藩の基礎を築く——22万石から32万石へ

慶長13年(1608年)、高虎は伊勢・伊賀へ移った。伊予の一部を含めた石高は約22万4千石であり、この時点ですでに32万石だったわけではない。高虎は津城を本拠とし、伊賀上野城とともに領国の拠点を整えた。
津には、高虎が来る前から城と城下があった。高虎はそれを改修・拡張し、町の整備を進める。同年に伊賀へ出した21か条の法度には、年貢の徴収や、家臣が百姓を私用の人足として使うことへの規制が見える。石垣を築く一方で、支配の決まりも定めていた。
慶長16年(1611年)には伊賀上野城の改修に着手した。豊臣氏の大坂城に近い伊賀は、軍事的に重要な土地である。ところが翌年の暴風で、建設中の天守が倒壊した。現在の木造天守は昭和10年(1935年)に建てられたもので、高虎時代の建物とは異なる。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、藤堂軍は八尾で長宗我部盛親の軍と激しく戦い、大きな損害を受けた。大坂方の毛利勝永は別方面の道明寺で敗兵を収容し、撤退した。両者の敵対はこの戦役での関係であり、高虎と勝永が直接戦ったという意味ではない。高虎の徳川方での奉公には、普請だけでなくこうした実戦も含まれていた。
大坂の陣後に領地は約27万石となり、元和3年(1617年)の加増で約32万石に達した。津藩の規模は、入封後に段階を追って大きくなったのである。城下町の整備、領国の法度、軍役と加増を合わせて見ると、津藩の基礎がどのように築かれたかが分かる。
1630年、江戸で病没——高次へ継がれた津藩

高虎は家康の死後も徳川家に仕え、秀忠・家光の時代まで生きた。外様大名でありながら幕府の重要な仕事を担い、晩年にも朝廷と幕府を結ぶ大きな行事に関与している。
元和6年(1620年)、秀忠の娘・和子が後水尾天皇のもとへ入内する際、高虎は沿道の人馬の手配に携わった。三重県が紹介する百々太郎兵衛宛ての書状には、四日市での伝馬や人足に関する指示が残る。高虎の役目を伝えるのは、華やかな人物評だけではない。人を動かすための具体的な文書がある。
寛永7年(1630年)、高虎は眼の病を患い、失明したと伝えられる。同年10月5日、江戸で病没した。日付は当時の旧暦であり、享年75は数え年である。死去の直前に眼の病があったことと、それが直接の死因だったことは同じではない。確認できる公的解説から、死に至った病名までは特定できない。
津藩を継いだのは実子の高次だった。高虎には、それ以前に迎えた養子の高吉もいる。高吉は丹羽長秀の子で、秀長の養子となった後に藤堂家へ入った人物である。高次と高吉を、ともに高虎の実子として並べてはならない。
高吉の系統は後に名張藤堂家として続いた。高次の系統からは久居藩の藤堂家も分かれる。高虎の死後、家の歴史は一本の系図だけでは追えなくなった。高虎が残した津藩は実子の高次が継ぎ、養子の高吉は別の家として藤堂氏の歴史を担った。
史料の読み解き
藤堂高虎の死因は何か——病没と眼の病を区別する
藤堂高虎は寛永7年(1630年)10月5日、江戸で病没した。津市の略年譜や三重県の人物解説は、病による死として伝えている。戦死や切腹を最期とする人物ではない。日付は旧暦であり、現在の暦の10月5日に読み替えることはできない。
晩年の病状として確認できるのは、眼の病を患い、失明したという記述である。ただし、「失明した」と「眼の病が原因で死亡した」は別の主張になる。今回確認した資料には、現代医学の病名を確定できるような記録はない。そのため、死因を特定の病気や老衰と断言せず、病没、詳しい病名は不明とするのが妥当である。根拠は津市の略年譜と三重県の関係史料解説で確認できる。
享年75という年齢にも注意がいる。これは生まれた年を1歳とする数え年で、1556年から1630年までの年差は74年となる。「満75歳まで生きた」という意味ではない。病名の推測や年齢の換算を加えすぎず、記録が伝える範囲で最期を押さえたい。
豊臣秀長との関係——出世の土台となった主従
高虎が秀長に仕えたのは、津市の年譜では天正4年(1576年)である。秀長が没する天正19年(1591年)まで約15年となる。主君を替えた人物という印象が強いが、この期間は短くない。高虎の軍歴と普請の経験を考えるうえで、秀長への奉公は中心を占める。
秀長は、兄・秀吉の下で軍を指揮し、大和・紀伊・和泉の支配を担った。高虎はその家臣として紀州・四国・九州の戦役に参加し、和歌山城の普請にも関わった。秀長自身の領国が拡大する過程で、高虎にも仕事が増えたのである。秀長を単に「高虎の才能を見抜いた人」と描くより、何を任せた主君だったかを見る方が、両者の関係は具体的になる。
秀長の死後も、高虎は養子の秀保を支えた。秀保が没した1595年に高野山へ入り、秀吉に召し出される。秀長から家康へ一直線に移ったという説明では、この4年間と秀吉直属の大名になった時期が抜け落ちる。
豊臣秀長の生涯と合わせると、豊臣家の中で高虎が置かれた立場を追いやすい。
さらに、徳川方となった後の秀長供養も見逃せない。
三重大学の特集が紹介する十七回忌と三十三回忌は、奉公先の変更と、以前の主君を弔う行為が両立した具体例である。これは高虎の忠誠心を数値で測る証拠ではないが、主君替えだけで人物像を決める見方を見直す材料にはなる。
主君は何人いたのか——「七度」の数え方
高虎の主君として、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、徳川家康らの名が挙がる。ただし、これは全員への仕官年月や順序が同じ確かさで確認できる一覧ではない。特に青年期は、後世の家譜や略伝による整理の違いがある。
| 時期 | 仕官先として挙がる人物 | 経歴を読む際の要点 |
|---|---|---|
| 近江での青年期 | 浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄 | 細かな順序や奉公の事情には留保が必要 |
| 1576〜1591年 | 豊臣秀長 | 長期の奉公。合戦と普請で地位を上げる |
| 1591〜1595年 | 豊臣秀保 | 秀長の後継者を支える |
| 1595年以降 | 豊臣秀吉 | 高野山から召し出され、伊予7万石の大名となる |
| 秀吉没後〜江戸初期 | 徳川家康、のち秀忠・家光 | 関ヶ原では東軍。徳川家の下で軍役・普請を担う |
三重大学の特集にある「主な主君」の一覧と、津市の略年譜を突き合わせると、秀保や織田信澄の扱いなどが異なる。さらに、七人に仕えたことと、七回主君を替えたことも、数としては同じではない。有名な「七度」という言葉を優先して、経歴を無理に七つへ切り分ける必要はない。
主君替えの背景も一様ではなかった。主家の滅亡、主君の死と後継者への奉公、豊臣政権内部での立場の変更、徳川方への接近は、それぞれ違う出来事である。高虎の評価をさらに考えるなら、主君替えと「裏切り者」像を扱うコラムも参照したい。
身長は188cmか190cmか——記録に残る大柄な姿
藤堂高虎の身長は、約188〜190cmと伝わる。この幅は、測定誤差を計算したものではない。六尺二寸とする紹介と、六尺三寸とする紹介があるためである。
伊賀市の『広報いが市』2026年5月号
は、『公室年譜略』の人物描写を紹介し、六尺二寸、約188cmとする。 一方、三重大学の広報誌は六尺三寸、約190cmと記す。両者を併記すれば、大柄な人物として語られてきた点は共通していても、センチメートル単位の実測値が一つに定まっているわけではないと分かる。
| 紹介資料 | 原文の寸法として紹介される値 | 現代の目安 |
|---|---|---|
| 伊賀市『広報いが市』が引く『公室年譜略』 | 六尺二寸 | 約188cm |
| 三重大学広報誌の高虎特集 | 六尺三寸 | 約190cm |
甲冑を着た画像から身長を確かめることもできない。肖像画や創作画像は、人物の大きさを測るための資料ではないからだ。「190cmの巨漢だった」と断言するより、どの記録に基づく数字かを添えた方が、伝承の内容を正確に伝えられる。
伊賀市の解説は、背の高さだけでなく、柔和な顔立ちなどの記述にも触れる。そこには、後世の藤堂家が藩祖をどのような姿として記憶したかという問題もある。身体測定の結果と、人物像を伝える文章とを、同じ種類の記録として扱わないことが大切である。
子孫はどう続いたか——高次・高吉・久居の藤堂家
津藩を継いだのは、高虎の実子・藤堂高次である。一方、藤堂高吉は丹羽長秀の子で、高虎の養子となった。高次の津藩主家と、高吉の名張藤堂家を分けることが、子孫をたどる最初の整理になる。
名張市の名張藤堂家邸の解説
によれば、高吉は丹羽長秀の三男で、幼名を仙丸といった。 秀長の養子を経て、高虎に迎えられている。血縁上は丹羽氏の出身であっても、藤堂家の養子として家の継承に関わった人物である。「高虎の子孫」という言葉には、実子の血筋と、養子を含む家の系統という二つの意味がある。
高次が津藩を継ぐと、高吉はその家臣という立場になった。伊予今治から伊勢への移転を経て、寛永13年(1636年)に名張へ移る。名張藤堂家は、その後も津藩主家とは異なる家として続いた。津藩と同格の独立した藩が、そのまま二つに分裂したわけではない。
| 系統 | 起点となる人物 | 高虎との関係・その後 |
|---|---|---|
| 津藩主の本家 | 藤堂高次 | 高虎の実子。1630年に津藩を継承 |
| 名張藤堂家 | 藤堂高吉 | 高虎の養子。丹羽長秀の子で、1636年に名張へ移る |
| 久居藩の藤堂家 | 藤堂高通 | 高次の次男、高虎の孫。1669年に5万石を分けられる |
久居藩は高虎の存命中に成立したのではない。
津市の久居史
によれば、高通が5万石を分けられたのは寛文9年(1669年)で、入城は1671年である。高虎の死から約40年後の出来事になる。
家族については、久芳夫人が一色氏の娘であり、高次の母が松寿夫人であることを、津市の年譜と四天王寺の解説から確認できる。妻や養子の取り違えは、そのまま子孫の系図の誤りにつながる。本記事では、確認できる関係に絞って示した。
松寿夫人と宮部家との関係は、鳥取市教育委員会の『鳥取城調査研究年報』第18号でも検討されている。谷本進の論考は、宮部継潤と死別した松寿院が1599年に高虎へ再嫁したとする。宮部継潤との婚姻関係の表示は、この松寿院を介したつながりを指す。家譜に基づく研究上の整理であり、継潤の娘を高虎が妻にしたという意味ではない。
現代までの家のつながりについては、名張市が平成3年(1991年)に名張藤堂家から屋敷と伝来品の寄贈を受けたと公表している。これは家の伝来を確認できる具体的な記録である。一方、同じ藤堂姓であることや、インターネット上の紹介だけで、現代の人物を高虎の直系子孫と認定することはできない。
関ヶ原の戦いで何をしたのか——陣営・相手・戦後を分ける
関ヶ原における高虎の立場は東軍であり、主な交戦相手として大谷吉継方、なかでも平塚為広隊が挙げられる。京極高知とともに布陣したとされる場所は、現在も陣跡として案内されている。戦後には12万石を加えられ、伊予20万石を領した。
この三点、すなわち陣営、交戦相手、戦後の領地を先に押さえると、高虎の役割を過不足なく捉えやすい。戦場の全体像は関ヶ原の戦いで、対峙した大谷方の経歴は大谷吉継の記事でたどれる。
注意したいのは、小早川秀秋の動きが起きた時刻や、高虎隊が個々の相手を倒した順番である。陣跡の解説図は全体を理解する助けにはなるが、分単位の動きをすべて確定する記録ではない。高虎が大谷方と戦ったことから、高虎個人が大谷吉継を討ったという話へ広げてはならない。
また、勝者となった結果から「初めから家康の勝利を見抜いていた」と高虎の内心を断定するのも難しい。合戦前年から家康と関係を強め、実際に東軍として戦い、その後に加増された。この行動の連なりこそ、資料から説明できる高虎の政治的な選択である。
築城の名手と呼ばれる理由——城ごとの仕事を見る
高虎が関わった城は、すべて同じ条件で築かれたわけではない。新たな城の建設、既存の城の改修、幕府の命令による普請では、立場も担当も異なる。城名を並べて「すべて一人で設計した」と受け取ると、工事に関わった他の大名や職人の存在が消えてしまう。
| 城 | 高虎の仕事を考える手がかり | 現在の城との区別 |
|---|---|---|
| 宇和島城 | 1596〜1601年の築城。海に面する丘の地形を利用 | 現天守は後の伊達氏の時代の建物 |
| 今治城 | 1602年着工。海水の堀と船入を備える | 現天守は1980年の模擬天守 |
| 津城 | 1608年の入封後、既存の城と城下を整備 | 高虎以前から城の歴史がある |
| 伊賀上野城 | 1611年から改修。高石垣と大坂への備え | 現木造天守は1935年の建築 |
今治城の場合は、土木工事の完成が1604年、建物を含む完成が1608年頃と推測される。工事の始まりと終わりを一点の年に縮めると、城が数年をかけて造られた過程を見失う。さらに、今ある天守と高虎が建てた天守は同じ建物ではない。城の沿革を読む際には、築城・改修・再建という三つの時期を分けたい。
高虎の評価は、特定の天守形式の発明者と断言しなくても成り立つ。伊予、伊勢、伊賀の拠点整備に加え、徳川方の普請を任された経歴があるためだ。海に接する城では船の出入りを、内陸の拠点では街道や周辺の軍事情勢を考える。その仕事の広さに、築城の名手と呼ばれる理由がある。
城下町をどう治めたか——法度と書状から見る領主
高虎の領国支配を知る材料には、城跡だけでなく法度や書状がある。慶長13年(1608年)に伊賀へ出された21か条の法度は、年貢の扱いや家臣の行動を規定していた。三重県の解説では、百姓を家臣の私用の人足に使うことを禁じ、代官の不正にも目を配った内容が紹介されている。これは「領民思いの名君」という評語より、何を禁止し、誰を規制したかを具体的に示す資料である。
同じ年には伊勢側にも法度が出されたが、伊賀のものとすべて同文ではない。
三重県による比較
は、その違いを領国支配の実態を考える材料としている。同じ高虎の領地でも、地域ごとの事情を無視して一律に説明することはできない。
一方、津町中宛ての書状では、贈答への礼とともに国替えがないことを知らせている。法度は支配の規則を、手紙は町衆とのやり取りを伝える。両方を読むことで、高虎が城下をどのように治めたかに近づける。
ただし、規則が出されたことと、領内の全員がその通りに行動したことは別である。禁止条項の存在だけで、搾取がなくなった、領民が全員豊かになったとまでは言えない。高虎の行政能力を評価する場合も、文書に書かれた方針と、実際の効果を区別する必要がある。
藤堂高虎の年表
- 1556年
- 近江国犬上郡藤堂村に生まれる
- 1570年
- 浅井方で姉川の戦いに初陣したと伝わる
- 1576年
- 秀長に300石で仕えたとされる
- 1585年
- 紀州・四国の戦役に参加。和歌山城の普請に関わる
- 1587年
- 九州征伐に参加、加増を受ける
- 1591年
- 秀長が死去。後継の秀保を支える
- 1595年
- 秀保が死去。高野山に入り、秀吉の召還で伊予7万石へ
- 1600年
- 関ヶ原で東軍に属し、戦後に伊予20万石となる
- 1602年
- 今治城の築城に着手
- 1604年
- 今治城の土木工事が完成
- 1608年
- 伊勢・伊賀へ移り、約22万4千石を領する
- 1611年
- 伊賀上野城の改修に着手
- 1612年
- 伊賀上野城の建設中の天守が暴風で倒壊
- 1615年
- 大坂夏の陣。戦後に約27万石となる
- 1617年
- 約32万石に加増
- 1620年
- 徳川和子の入内に関わる人馬の手配
- 1630年
- 旧暦10月5日、江戸で病没。実子の高次が継ぐ
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1556年 | 近江国犬上郡藤堂村に生まれる |
| 1570年 | 浅井方で姉川の戦いに初陣したと伝わる |
| 1576年 | 秀長に300石で仕えたとされる |
| 1585年 | 紀州・四国の戦役に参加。和歌山城の普請に関わる |
| 1587年 | 九州征伐に参加、加増を受ける |
| 1591年 | 秀長が死去。後継の秀保を支える |
| 1595年 | 秀保が死去。高野山に入り、秀吉の召還で伊予7万石へ |
| 1600年 | 関ヶ原で東軍に属し、戦後に伊予20万石となる |
| 1602年 | 今治城の築城に着手 |
| 1604年 | 今治城の土木工事が完成 |
| 1608年 | 伊勢・伊賀へ移り、約22万4千石を領する |
| 1611年 | 伊賀上野城の改修に着手 |
| 1612年 | 伊賀上野城の建設中の天守が暴風で倒壊 |
| 1615年 | 大坂夏の陣。戦後に約27万石となる |
| 1617年 | 約32万石に加増 |
| 1620年 | 徳川和子の入内に関わる人馬の手配 |
| 1630年 | 旧暦10月5日、江戸で病没。実子の高次が継ぐ |
史料からどこまで分かるか
高虎の生涯を調べる際には、当時の書状と、後世にまとめられた家の歴史を区別したい。三重県の関係史料解説によれば、藤堂家関係の原文書は震災や戦災などによって多くが失われた。『宗国史』『高山公実録』『聿脩録』などの編纂史料は、残された経歴をたどる重要な手がかりとなるが、同時代に書かれた手紙と同じ性格の資料ではない。
複数の自治体のページに同じ逸話が載っていても、元をたどれば同じ家譜に基づいている場合がある。紹介ページの数が、そのまま独立した証拠の数になるわけではない。身長や若年期の奉公について「伝わる」と記すのは、その違いを残すためである。
| 論点 | 本記事での扱い |
|---|---|
| 死去の年・病没 | 公的な年譜と人物解説が一致する範囲を採用 |
| 詳しい死因 | 病名を特定できないため不明とする |
| 身長 | 六尺二寸・六尺三寸の紹介差を明記 |
| 主君替え | 若年期の順序や「七度」の数え方を固定しない |
| 秀長への供養 | 実際の法要への関与を紹介し、架空の発言や心理を加えない |
| 津の町衆・和子入内との関係 | 個別の書状を紹介する博物館・県の解説に基づく |
| 子孫 | 実子・養子・分家を区別し、公的に確認できる系統を示す |
高虎の仕事は、伝説的な武勇や名言を増やさなくても見えてくる。秀長の家臣として戦い、普請に携わり、関ヶ原後には領国を広げた。城を造り、町の規則を定め、書状を通じて人を動かす。そうした具体的な行動をたどることが、築城の名手であり津藩の祖でもある高虎を理解する道筋となる。
参戦合戦
藤堂高虎の逸話
- 逸話 01
唐冠形兜——長い脇立がつくる輪郭

高い冠と左右の脇立を持つ兜の創作イメージ・遺品の写真ではない · AI生成イメージ 高虎を描く際に目印となるのが、唐冠形の兜である。津市は、高虎の遺品として伝わる兜について、中国の冠を思わせる形と、左右へ長く伸びる脇立を紹介している。黒漆の高い冠と張り出した部分が、独特の輪郭をつくる。
ただし、兜の形から高虎の性格や戦場での出来事まで確定できるわけではない。大きな装飾があることと、「目立つためにこの形を選んだ」と本人の意図を説明することの間には、史料の裏付けが必要になる。
本記事の画像は、指定された装備の形をもとに制作した創作イメージである。伝来品を撮影した写真や、考古学的な復元図ではない。実物の構造や材質を知る場合は、津市の遺品紹介と照らし合わせたい。画像が示す高虎らしさと、遺品から確かめられる事実は分けて受け取る必要がある。
- 逸話 02
徳川の大名になっても続いた秀長の供養

秀長の供養を思わせる寺院での高虎の創作イメージ · AI生成イメージ 高虎は関ヶ原で東軍に属し、家康から加増を受けた。その後にも秀長を弔う営みを続けている。三重大学の藤田達生による解説は、慶長12年(1607年)の十七回忌と、元和9年(1623年)の三十三回忌を挙げる。
1607年は伊予を治めていた時期、1623年は伊勢・伊賀に移り、すでに家康も亡くなった後である。供養が一度の儀礼で終わらず、長い年月を隔てて行われた点に注目したい。秀長に仕えた年月は、徳川方での地位を得た後も、高虎の行動に跡を残していた。
これをもって高虎の心中すべてが分かるわけではない。しかし、「主君を替えたから以前の主君とのつながりを断った」と言い切る見方は、この事実を説明できない。奉公する相手が変わった後にも、秀長への供養は続いていた。
- 逸話 03
津の町衆へ——酒や海産物への礼状

文書に向かって政務を行う高虎の創作イメージ・書状の再現ではない · AI生成イメージ 三重県総合博物館には、高虎が津の町中へ送った書状が紹介されている。元和元年(1615年)に比定される文書で、町年寄の伊藤又五郎を通じて贈られた酒、鮑、鰹への礼を述べたものだ。
書状には、国替えはなく、領地の加増と金銀を与えられたことも記されている。大坂の陣を終えた大名が、城下の人々へ自分たちの領国に関わる知らせを届けていたのである。贈答への応答と政治上の報告が、一通の手紙に収まっている。
高虎を築城の名人と呼ぶだけでは、この町衆との接点は見えにくい。津に住む人にとっては、領主が引き続き当地を治めるのかどうかも大きな関心事だった。城下町の支配は、城を築いて終わる仕事ではなく、町の人々と情報をやり取りする日々の政務でもあった。
関連人物
- 藤堂虎高(父)
- 藤堂高次(実子・津藩2代藩主)
- 藤堂高吉(養子・のち名張藤堂家)
所縁の地
- 今治城愛媛県今治市通町
高虎が1602年に着工した海城。海水を引き込む堀と城内の船入に特色があり、海に面した領国拠点の構えをたどれる。現天守は1980年に建てられた模擬天守で、高虎時代の建物ではない。
- 津城跡三重県津市丸之内
1608年の入封後に高虎が本拠とし、改修や城下町の整備を進めた城。高虎以前の城の歴史も持つ。津の町衆に宛てた書状と合わせると、城郭と町の支配を両面から考える手がかりになる。
- 伊賀上野城三重県伊賀市上野丸之内
高虎が1611年に改修を始めた城。内堀沿いの高石垣が知られる一方、建設中の天守は1612年の暴風で倒壊した。現在の木造天守は川崎克によって1935年に建てられたものである。
- 名張藤堂家邸三重県名張市丸之内
高虎の養子・高吉が1636年に名張へ移った後、その子孫が暮らした屋敷。現存部分と伝来品を通じて名張藤堂家の歴史を知ることができる。津藩主の本家とは異なる系統をたどる場所である。
- 藤堂高虎公生誕地滋賀県犬上郡甲良町在士
高虎が生まれたとされる近江の藤堂村にあたる地。津や今治の城を見る前に、出身地が琵琶湖の東にあったことを押さえると、近江で仕官先を移した青年期と、その後の各地への転身がつながる。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 第二次高城合戦(根白坂古戦場跡)木城町参照日 2026-10-05
- 玉手山と大坂夏の陣柏原市参照日 2026-10-05
- 谷本進「藤堂高虎と二人の正室久芳院と松寿院」『鳥取城調査研究年報』第18号、1〜9頁鳥取市教育委員会参照日 2026-10-05
- 18 藤堂高虎の関係史料三重県参照日 2026-10-05
- 藤堂高虎 略年譜津市参照日 2026-10-05
- 広報誌第15号・藤堂高虎特集(3〜4頁)三重大学参照日 2026-10-05
- 藤堂高虎 × 滋賀県滋賀県参照日 2026-10-05
- 藤堂高虎・京極高知陣跡岐阜県観光連盟参照日 2026-10-05
- 広報いが市 2026年5月号・高虎の肖像と公室年譜略伊賀市参照日 2026-10-05
- 歴史散歩・藤堂高虎公の足跡④ 四天王寺と久芳夫人津市参照日 2026-10-05
- 名張藤堂家邸名張市参照日 2026-10-05
- 19 県外の藤堂藩領と名張藤堂家三重県参照日 2026-10-05
- 久居の歴史津市参照日 2026-10-05
- 今治城について今治市参照日 2026-10-05
- 宇和島城(城山)について宇和島市参照日 2026-10-05
- 藤堂高虎書状(資料番号468-3-14)三重県総合博物館参照日 2026-10-05
- 語り部と行く伊賀上野城三重県観光連盟参照日 2026-10-05
- 伊賀と伊勢の区別、裏付け三重県参照日 2026-10-05
- 大仕事リアルに記す三重県参照日 2026-10-05
- 藤堂高虎の遺品津市参照日 2026-10-05
- 戦国武将の交友関係三重県参照日 2026-10-05

































