安土桃山時代徳川氏15431616
徳川家康の肖像
江戸幕府関ヶ原大坂の陣
とくがわ・いえやす

徳川家康

TOKUGAWA IEYASU · 1543 — 1616 · 享年 74

鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす

徳川
生年
天文11年
1543
没年
元和2年
1616
出身
三河岡崎
愛知県
居城
江戸城
武蔵
家紋
三葉葵
MITSUBA-AOI
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CONTENTS · 七章
  1. 01今川・織田の人質——竹千代の苦難
  2. 02三方ヶ原の大敗——信玄への敗走
  3. 03信長亡き後——秀吉への臣従と小牧長久手
  4. 04関ヶ原の戦い——天下分け目の決戦
  5. 05征夷大将軍——江戸幕府の開府
  6. 06大坂の陣——豊臣家の滅亡
01
人質時代
HOSTAGE

今川・織田の人質——竹千代の苦難

竹千代・人質時代の岡崎
竹千代・人質時代の岡崎
天文十一年(1542年)十二月、三河国岡崎城主・松平広忠の長男として生まれた竹千代は、わずか六歳にして今川氏の人質となった。駿府へ向かう途中、今川氏と対立していた織田信秀に横取りされ、尾張に二年間抑留される。その後、今川義元への人質交換で駿府に移り、義元の庇護のもとで武芸・学問を学ぶ。十三歳で元服して「元康」と名乗り、今川家の旗のもとで合戦に初参加した。人質として過ごした幼少期の孤独と苦難が、後の忍耐強い性格の礎となったと伝えられている。
家康の遺訓

「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。」

—— 東照公御遺訓
02
三方ヶ原
MIKATAGAHARA

三方ヶ原の大敗——信玄への敗走

三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦い
元亀三年(1572年)十二月、武田信玄が西上作戦を開始し、大軍を率いて徳川領へ侵攻した。家康は武田勢の挑発に乗り、三方ヶ原台地で野戦を挑んだが、信玄の巧みな戦術の前に壊滅的な大敗を喫した。味方は次々と討ち取られ、家康自身も命からがら浜松城へ逃げ帰ったという。この敗戦の直後に描かせたと伝わる「しかみ像(顰像)」は、恐怖と屈辱に顔を歪めた家康の姿を写し取っており、「敗北を忘れぬ戒め」として彼が生涯手元に置いたと語り継がれている。三方ヶ原の敗戦は、家康が慎重な用兵を貫く原点になったとも評される。
家康の処世訓

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」

—— 東照公御遺訓
03
清洲同盟後
ALLIANCE

信長亡き後——秀吉への臣従と小牧長久手

小牧長久手の合戦
小牧長久手の合戦
桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が討たれると、家康は独立して松平氏の自立を果たし、織田信長と清洲同盟を結ぶ。以後、信長との同盟関係は信長の横死まで二十年以上続いた。天正十年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、家康は伊賀越えで三河へ辛くも脱出する。信長亡き後、台頭した羽柴秀吉と天正十二年(1584年)に小牧・長久手で激突。局地戦では秀吉軍の一翼を破る戦果を上げたが、戦略的には秀吉の優位を覆せず、講和を経て天正十八年(1590年)には正式に臣従した。関東への移封を命じられ、江戸を本拠地と定めた家康は、以後の雌伏の時をひたすら忍んだ。
忍耐を説いた言葉

「不自由を常と思えば不足なし。」

—— 東照公御遺訓
04
関ヶ原
SEKIGAHARA

関ヶ原の戦い——天下分け目の決戦

関ヶ原の戦い・東軍陣形
関ヶ原の戦い・東軍陣形
慶長三年(1598年)に豊臣秀吉が没すると、家康は五大老筆頭として政権内での主導権を握りはじめる。石田三成ら奉行衆との対立が深まる中、慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原において東西両軍が激突した。東軍を率いた家康は、西軍の小早川秀秋が東軍へ寝返るという策謀を成功させ、わずか半日で決着をつけた。この勝利により、家康は名実ともに全国の覇権を掌握する。論功行賞で全国の大名配置を刷新し、豊臣家の影響力を急速に削ぎ落としていった。
05
江戸幕府
EDO

征夷大将軍——江戸幕府の開府

江戸城・幕府開府
江戸城・幕府開府
慶長八年(1603年)二月、家康は朝廷より征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。これにより、室町幕府滅亡以来続いた戦国の乱世に制度的な終止符が打たれた。家康は征夷大将軍職を二年後には三男・秀忠に譲り、将軍位が徳川家の世襲であることを内外に示した。自身は駿府に移り「大御所」として実権を掌握し続け、諸大名の統制・外交・法制度の整備を精力的に進める。大名の配置・参勤交代の原型・武家諸法度の原案など、後の幕藩体制を支える諸制度の基礎はこの時期に敷かれた。
06
大坂の陣
OSAKA

大坂の陣——豊臣家の滅亡

大坂夏の陣・豊臣家滅亡
大坂夏の陣・豊臣家滅亡
慶長十九年(1614年)、家康は方広寺鐘銘問題を口実として豊臣家討伐を開始した(大坂冬の陣)。冬の陣では講和が成立したものの、翌元和元年(1615年)の夏の陣で大坂城は落城し、豊臣秀頼・淀殿が自刃して豊臣家は滅亡した。これにより、戦国乱世は完全に終結した。元和二年(1616年)四月、家康は駿府城にて七十四歳で没した。遺言によって日光に祀られ、「東照大権現」として神格化される。その治世は約260年続く江戸時代の繁栄の礎となり、後世「神君」と仰がれ続けた。