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冬の三方原台地に展開する軍勢を題材にしたAI生成の想像図(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

三方ヶ原の戦い|1572年の結果・敗因と家康の脱糞伝説

三方ヶ原の戦いは1572年、武田信玄が徳川・織田軍を破った合戦。結果と敗因、浜松の戦場、家康の年齢、討ち死にした武将をわかりやすく解説。本多忠勝・真田昌幸の関わりと、脱糞・しかみ像の伝説も出典から確かめる。

1572年元亀三年遠江国・三方ヶ原勝 武田信玄敗 徳川家康・織田援軍戦国ジャーナル編集部戦いを読む
合戦の年
1572
元亀3年12月22日・旧暦
結果
武田勝利
徳川・織田軍が敗退
場所
三方原台地
現在の静岡県浜松市
家康の年齢
数え31歳
満年齢では29歳
両軍の規模
兵力差
人数は資料ごとに異なる
家康の帰還先
浜松城
敗戦後も拠点を維持

この戦いの要点

  1. 勝ったのは武田信玄

    徳川・織田軍は敗れ、家康は浜松城へ退いた。ただし、浜松城が落城したわけではない。

  2. 家康は数え31歳

    満年齢では29歳。兵力に劣る家康がなぜ出撃したのかは、記録によって説明が異なる。

  3. 逸話と史実を分ける

    脱糞を事実と認める根拠は確認できず、しかみ像を敗戦直後に描かせたという話にも史料的な裏づけがない。

三方ヶ原の戦いの結果をわかりやすく

徳川家康は敗れ、浜松城へ逃げ帰った。三方ヶ原の戦いで勝ったのは、武田信玄である。元亀3年(1572年)12月22日、遠江の三方原台地で、武田軍は徳川軍と織田信長の援軍を破った。家康は数え31歳、満年齢では29歳だった。

「どっちが勝ったのか」という問いには、武田軍の勝利と答えられる。ただし、家康が討ち取られたわけでも、浜松城が落ちたわけでもない。野戦での敗北と、徳川家の滅亡は別である。家康は家臣らを失いながらも本拠へ戻り、その後も信玄、さらに後継者の勝頼と向き合うことになった。

知りたいこと答え
いつ起きたか元亀3年(1572年)12月22日。日付は旧暦
場所はどこか遠江国三方ヶ原。現在の静岡県浜松市に広がる三方原台地
誰と誰が戦ったか武田信玄の軍と、徳川家康・織田援軍
結果はどうなったか武田軍が勝利し、家康は浜松城へ敗走
家康の年齢は数え31歳、満29歳
本多忠勝は討ち死にしたか生還している。討ち死にした本多忠真とは別人
脱糞の話は史実か史実と認める根拠を確認できない逸話

この戦いには、脱糞、身代わり、開け放たれた城門、しかみ像など、多くの話が重なっている。それだけに、印象の強い逸話から入ると、誰が勝ち、家康が何を失ったのかが見えにくくなる。まず合戦の経過を追い、そのあとで伝説の根拠を確かめたい。基本的な年月日と勝敗は、辞典の解説と久能山東照宮の年譜で一致する。

場所は浜松城の北、三方原台地

三方ヶ原は、現在の静岡県浜松市に広がる台地である。家康の拠点だった浜松城から見れば北方にあたり、武田軍はこの台地を進んだ。合戦名の「三方ヶ原」と、地名や資料に用いられる「三方原」は、ここでは同じ地域を指す。

戦場を一つの点として理解するのは難しい。旧来の説明では、台地北部の祝田方面へ向かう武田軍を家康が追い、交戦したとされる。一方、どの範囲で、どの部隊が、どちらへ向いて戦ったのかを細部まで確定する資料は乏しい。現在の地名や史跡の案内地点だけを使って、当日の両軍を正確に並べることはできない。

浜松市立図書館が公開する夏目琢史「徳川家康と三方原の合戦」も、合戦の場所や詳細を残された疑問に挙げる。そこでは、江戸時代の合戦絵図が実際の地形と食い違う点にも注意が向けられている。後世の絵図は、当時の人が戦いをどう理解したかを伝える資料である。だが、そのまま戦場の測量図にはならない。

浜松城、三方原台地、犀ヶ崖は、それぞれ役割の異なる場所として押さえると分かりやすい。浜松城は家康の出撃・帰還の拠点、三方原台地は野戦の舞台である。犀ヶ崖は浜松城の北西にあり、敗戦後の夜襲伝承と結びつく谷だ。谷での伝承を、三方原台地での本戦と一つの場面にまとめないことが、地理を理解する出発点になる。

なぜ武田信玄と徳川家康が戦ったのか

家康と信玄の対立には、今川氏の領国をめぐる動きがあった。桶狭間で今川義元が死んだあと、家康は三河で自立し、遠江へ勢力を伸ばす。信玄も駿河へ進出した。かつて今川氏が支配していた地域へ両者が進むなかで、隣り合う勢力として緊張が高まっていった。

元亀3年、信玄は徳川領へ軍を進めた。この軍事行動は、一般に西上作戦と呼ばれる。ただし、「京都へ一直線に進むための遠征だった」と決めてしまうと、遠江の城や領地をめぐる攻防が見えなくなる。

『浜松市史』の戦争目的の検討

には、遠江への侵攻を重視する見方と、上洛を考えていたとする見方の両方が示されている。

家康にとっては、自分の領地を守る戦いだった。同盟相手の織田信長にとっても、徳川の敗北は東方の情勢に関わる。織田方から佐久間信盛や平手汎秀らが援軍に加わったのは、この戦いが徳川家だけで完結しなかったことを示している。信長本人が三方ヶ原に出陣したわけではない。

信玄の大きな政治目的と、三方ヶ原当日の作戦は分けて考える必要がある。遠江へ侵攻すること、浜松城を直接攻めずに進むこと、出てきた家康を破ることは、同じ問いではない。信玄がすべてを最初から見通して家康を操った、とまで言い切れる記録はない。家康との対立に至る経歴は、「武田信玄」でたどれる。

この勝利の後、信玄が病から回復していた場合を扱うのが(「武田信玄が生きていたら」)である。三方ヶ原での勝利と、その先の上洛に必要な条件を区別して考察している。

遠江での軍事行動を題材に、陣中に座る武田信玄を描いたAI生成の想像図

一言坂と二俣城を経て、浜松へ

三方ヶ原の戦いは、一日だけを切り取るより、武田軍の侵攻の続きとして見ると理解しやすい。同じ年の遠江では、一言坂の戦いが起きていた。本多忠勝が退く味方を支えた働きは、この一言坂と結びつけて伝えられる。三方ヶ原の敗走と似た印象があるが、別の戦いである。

その後、武田軍は二俣城を攻略した。二俣城は、浜松城そのものではない。家康が浜松にいれば遠江の城すべてを守れるわけではなく、周辺の拠点が失われるほど、浜松にとどまる家康への圧力も増す。二俣の落城を先に押さえると、三方ヶ原が突然始まった孤立した野戦ではなかったことが分かる。

武田軍は浜松城を直ちに包囲・攻撃するのではなく、三方原台地へ進んだ。家康は城を出て、その武田軍と戦う。ここから先は、出撃理由や開戦の経緯について記録の説明が分かれる。前段の城攻めが確認できることと、当日の軍議を再現できることは別なのだ。

二俣城の攻防から三方ヶ原へという順序は、三方原の戦の辞典解説と、夏目琢史の解説で確認できる。ただし、信玄の全軍が一つの道を一列になって進んだと考える必要はない。複数方面に展開した軍勢の総数と、三方ヶ原で実際に交戦した人数も区別しておきたい。

川沿いの丘に築かれた木造の城を、二俣城の攻防を題材に描いたAI生成の想像図。遺構の実測復元ではない

家康はなぜ出撃し、敗れたのか

兵力差はあったが、人数は一つに決められない

徳川・織田軍よりも、武田軍の方が多かったとする説明が一般的である。ただし、よく見かける人数を一組選び、それを確定値として扱うのは慎重でありたい。

『浜松市史』は、武田軍を約2万、徳川方を約1万とする。 『山川日本史小辞典』では、家康と織田援軍を合わせて約1万1千とする一方、武田の2万5千は出陣時の説明に現れる。『世界大百科事典』の武田軍には2万から4万という幅がある。いずれも、両軍の同じ時点の点呼名簿を比べた数字ではない。

さらに原史彦の論文が紹介する『当代記』には、武田2万、浜松勢8千ほどという記載がある。この差を無視して細かな兵力比や損耗率を計算しても、計算結果の精密さに史料が追いつかない。押さえたいのは、人数の細部よりも、家康が兵力に劣る側として野戦に入ったという点である。

怒って飛び出した、とだけ説明できるか

城の前を通る敵を見過ごせず、家臣の反対を押し切った。家康の出撃は、しばしばそう語られる。だが、どの記録を読むかによって、反対した人物や軍議の流れは違っている。

原史彦の論文

は、『落穂集』『武徳大成記』などの説明を比較している。そこには、家康が出撃を主張したという共通する筋がある一方、援軍の将たちが納得したのか、なお引き止めたのかといった違いがある。後世の記録から一つの台詞だけを抜き、当日の家康の心理として確定することはできない。

同論文が引く『当代記』は、さらに違う筋を記す。偵察に出た浜松勢が武田軍と小競り合いになり、それを引き取らせようと家康が出たところ、不意の合戦になったという。論文は、この記述の信憑性そのものを確定してはいない。それでも、家康が最初から決戦を望んだという物語だけでは、記録の幅を説明できないことが分かる。

魚鱗と鶴翼だけで敗因を説明しない

武田軍は魚鱗、徳川軍は鶴翼の陣だった、という説明も広く知られる。魚鱗は厚みを持たせた配置、鶴翼は左右を広げた配置として説明される陣形名だ。『浜松市史』にも、この組み合わせを用いた戦況の叙述がある。

しかし、陣形の名前が伝わることと、各部隊の位置や衝突の順を復元できることは同じではない。同市史の「家康の敗走」は、詳しい経過が明らかでないことを断ったうえで、『三河物語』などの話を紹介する。「魚鱗が中央を貫いたから敗れた」と図だけで説明すれば、史料が持つ不確かさを消してしまう。

兵力に劣る家康が武田軍と野戦を行い、大敗した。そこまでは押さえられる。出撃の目的、開戦のきっかけ、各部隊の動きには検討の余地が残るため、家康の短気や一つの陣形だけを唯一の敗因にはできない。

討ち死にした武将と、浜松城への敗走

家康は生還したが、多くの家臣や援軍の将が命を落とした。代表的な人物を並べると、敗戦の重さが見えてくる。ただし、個々の最期は後世の系譜や軍記による説明も多く、会話や動作まで当日の記録として扱えるわけではない。

武将記録・伝承で語られること
夏目吉信『浜松市史』では正吉とも記され、浜松城から出て家康の退却を助け、戦死したと紹介される
本多忠真忠勝の叔父。退却する味方を支えて戦死したとされる
成瀬正義家康の退却を助け、自身は討ち死にしたと市史が紹介する
平手汎秀織田方の援軍の将。敗走の途中で戦死したと市史に記される

これらは『浜松市史』「家康の敗走」と「平手汎秀の戦死」で確認できる。夏目吉信が家康の身代わりとなったという話は有名だが、家康を救ったとする伝承と、その場で交わされた言葉の再現は分けたい。平手汎秀は、信長の若い頃を支えた平手政秀とは別人である。政秀は1553年に亡くなっており、この戦いの参戦者ではない。政秀との続柄や平手一族のその後は、政秀の記事で整理した。同じように、忠真の最期を語る逸話も、発言の一字一句まで確かな記録があるという意味ではない。

戦死者の総数にも注意が必要である。市史が紹介する信玄の書状には約千人、穴山信君の書状には徳川方の主だった者2千余という数字が現れる。前者は元亀3年12月28日、後者は翌年正月2日付である。ともに武田側の報告であり、数える対象や集計方法までそろった数字ではない。「徳川軍は正確に何人死んだ」と一つにまとめるだけの根拠にはならない。

家康が浜松城へ戻れたことは、その被害を小さくするものではない。主君の生還と、支えた家臣たちの死が同時に起きたのが、この敗走だった。戦いの結果を「家康は逃げた」の一言で終えると、帰還に伴った損失が抜け落ちてしまう。

冬の夕暮れに戦場から退く武士たちを描いたAI生成の想像図。特定の人物や退却路の復元ではない

本多忠勝と真田昌幸は何をしたのか

本多忠勝は生還した。討ち死にした叔父・忠真との違い

本多忠勝は、三方ヶ原の戦いで討ち死にしていない。桑名市の『広報くわな』は、忠勝の戦歴に三方ヶ原を挙げ、その後の小牧・長久手や関ヶ原、桑名での晩年まで紹介する。没年は1610年であり、1572年のこの戦いを生き延びたことが分かる。

忠勝と名前が似ている本多忠真は、叔父にあたる人物である。三方ヶ原で味方の退却を支えて戦死したと伝わるのは、忠真の方だ。「本多が家康を逃がして討ち死にした」という短い説明では、二人を取り違えやすい。忠勝の武勇を知っているほど、名を一文字ずつ確かめておきたい。

もう一つ分けたいのが、一言坂での働きである。

桑名市の忠勝年譜は、1572年の一言坂で、忠勝が退く家康軍の最後尾を守ったと紹介する。この殿軍の働きを、そのまま三方ヶ原当日の戦況へ移すことはできない。二つの戦いを含む忠勝の生涯は、「本多忠勝」で詳しく扱う。

真田昌幸は武藤喜兵衛と名乗っていた

真田昌幸は、当時まだ独立した大名ではなく、武田信玄に仕える家臣だった。『日本大百科全書』は、昌幸が信玄の近侍となり、武藤喜兵衛と称したことを記す。上田城で徳川軍を苦しめる、後年の昌幸とは立場が違う。

三方ヶ原への参戦は、岡崎商工会議所が公開する市橋章男の講演報告でも紹介されている。そこでは、1572年に武藤喜兵衛として家康と戦ったとされる。ただし、この講演報告から分かるのは参戦の紹介までで、具体的な部隊配置や戦功の根拠は示されていない。

昌幸がこの戦いの作戦を立案した、直接家康を追い詰めた、とまでは確認できない。後年の知略を知っていると、若いころの働きにも同じ大きさを与えたくなるが、それは別に証明すべき事柄である。ここでは、武田家臣時代の参戦として語られていることと、当日の詳しい役割は不明であることを併せて押さえたい。武藤喜兵衛から真田家当主へ至る経歴は、「真田昌幸」につながる。

三方ヶ原の家康は何歳だったのか

家康の年齢は、数え年なら31歳、満年齢なら29歳である。資料の「31歳」を、そのまま現在の年齢の数え方として読むとずれが生じる。

久能山東照宮の解説では、家康の誕生日は天文11年(1542年)12月26日である。合戦は元亀3年(1572年)12月22日なので、旧暦の誕生日をまだ迎えていなかった。年だけを引くと30になるが、満年齢の説明では誕生日前であることを考える必要がある。

数え年は、生まれた年を1歳とし、年が変わると一つ加える。そのため1542年生まれの家康は、1572年には「1572−1542+1」で31歳となる。『浜松市史』も、この合戦で家康31歳、信玄52歳という数え年の対比を示している。

なお、この記事の「1572年12月22日」は、元亀3年に対応させた年と旧暦の月日を組み合わせた表記である。現在の暦の12月22日に起きた、という意味ではない。戦国時代の記事を比べるときは、年齢だけでなく、日付が旧暦か換算後の暦かも確認したい。

浜松城への帰還を題材に、若い徳川家康が室内に座る姿を描いたAI生成の想像図。しかみ像の再現ではない

家康の「脱糞」は史実なのか

三方ヶ原から逃げる途中、家康は恐怖のあまり脱糞した。よく知られた話だが、史実と認めるだけの根拠は確認できない。家康が敗走したことと、逃走中に脱糞したことは、別々に確かめる必要がある。

徳川美術館の原史彦は、「徳川家康三方ケ原戦役画像の謎」の7頁で、この脱糞の逸話にも触れている。そこで原は、執筆時点で出典を明らかにできていないと述べ、近代以降の講談などから広まった可能性を推測する。後半はあくまで著者の推測であり、起源が確定したという説明ではない。

この点は、単に「全部うそだった」と逆向きに断言すれば解決するものでもない。根拠を見つけられないことは、出来事が絶対になかったという証明とは違う。ただ、根拠が確認できない以上、合戦の事実を説明する年表や家康の行動記録へ、そのまま組み込むことはできない。

脱糞の話を載せた現代の記事が多くあっても、引用の先が同じ逸話なら、独立した証拠が増えたわけではない。誰が、いつ、何を根拠に書いたのかまで戻る必要がある。三方ヶ原について確かに言えるのは家康が敗北し、浜松城へ帰ったことであり、脱糞の有無まで一続きの史実として語るのは避けたい。

通説と俗説の射程:しかみ像・空城の計・犀ヶ崖

しかみ像は敗戦直後に描かせた肖像ではないのか

しかみ像は、敗れた家康が自戒のために描かせた姿として知られてきた。しかし、所蔵する徳川美術館の現在の作品解説は、その伝承に史料的な裏づけがないことを明示する。同館は作品を江戸時代・17世紀とし、尾張徳川家の蔵帳では「東照宮尊影」と呼ばれていたことも紹介している。

家康が失敗を忘れないため、帰城直後の顔を描かせた。その物語は分かりやすく、肖像の表情とも結びつけやすい。だが、絵の印象だけで制作事情を証明することはできない。敗戦を経験した家康という人物像と、この作品が何のために作られたかは、分けて調べるべき問題である。

徳川美術館は、家康を武神として礼拝するための肖像と考えている。この説明に従えば、作品を見るうえで重要なのは、敗戦直後の記念写真のように扱うことではなく、後世の家康信仰との関係である。三方ヶ原の当日の顔を確かめる資料として使うことはできない。

城門を開いた話と、谷へ誘い込む話

浜松城へ戻った家康が門を開けたままにし、伏兵を疑った武田軍が引いたという話は、「空城の計」として語られる。原史彦の論文は、開門や篝火によって追撃をかわした話が『四戦紀聞』にあることを紹介する。後世の記録に見える逸話であり、家康の帰還と同じ確かさで戦術の細部まで断定しない方がよい。

犀ヶ崖にも、徳川方が夜襲し、布を架けた谷へ武田兵を誘い込んだという伝承がある。

浜松市の文化財解説

は、この話を伝承として紹介している。現在谷が残っていることと、語られる手順どおりに夜襲が行われたことは、別の証明を要する。夜襲伝承をもって三方ヶ原の敗北が勝利に逆転した、と読むこともできない。

脱糞は家康の弱さを、しかみ像は反省を、空城や夜襲は危機をしのぐ知恵を強調する。同じ敗戦に結びついていても、それぞれが描く家康の姿は異なる。ここからは、合戦の事実だけでなく、後世の人々が家康をどのように語ってきたかが見えてくる。

犀ヶ崖の伝承を題材に描いた林の中の谷のAI生成想像図。現在の史跡の写真や当日の地形の復元ではない

その後、家康と武田家はどうなったか

三方ヶ原で勝った信玄は、その勝利によって直ちに徳川家を滅ぼしたわけではない。家康は浜松城を保ち、武田軍は翌1573年に三河の野田城へ軍事行動を進めた。しかし信玄は、その後に病死する。戦場での勝利が、そのまま遠征全体の目的の達成を意味するわけではなかった。

信玄の死後も、徳川と武田の争いは続いた。 1575年の「長篠の戦い」では、織田・徳川軍が武田勝頼の軍を破る。三方ヶ原の勝者は信玄、長篠で敗れる武田方の当主は勝頼である。主将も戦場も違うため、同じ戦いの単純なやり直しとしては捉えられない。

武田氏が滅亡するのは1582年であり、三方ヶ原の直後でも、長篠の直後でもない。その間には、領国支配、城の攻防、周辺大名との関係が積み重なっている。家康が三方ヶ原で敗れたことと、後年に武田氏が滅んだことの間を、一つの教訓だけでつなぐことはできない。

家康がこの敗戦から何を学んだかは、読む側の関心を引く問いである。ただし、「ここで慢心を捨てたから天下を取れた」と結論づけるには、心の変化や後年の判断を裏づける資料が必要になる。しかみ像の伝承を、その証拠に使うこともできない。

三方ヶ原は、家康が大きく敗れながらも生き残った戦いだった。勝った信玄の軍事力と、退却を支えた家臣たちの損失を併せて見ると、敗戦の意味は一人の逸話だけでは収まらない。前後の出来事は戦国時代の年表、その後の家康の歩みは「徳川家康」で追える。

両軍の対比

TAKEDA

武田信玄

大将:武田信玄
総兵力約2万など諸説
出陣甲府
兵力の根拠浜松市史など。資料差は本文に記載
行動二俣城攻略後に徳川軍と交戦
目的遠江侵攻と上洛に諸説
勝利。徳川・織田軍を破る
TOKUGAWA / ODA

徳川家康

大将:徳川家康
総兵力約1万〜1万1千など諸説
出陣浜松城
兵力の根拠浜松市史・山川日本史小辞典。差異は本文に記載
織田援軍佐久間信盛・平手汎秀ら
戦死者平手汎秀・本多忠真・夏目吉信ら
敗北。家康は浜松城へ帰還
vs

戦況の経過

侵攻
元亀3年10月
武田信玄が徳川領へ軍を進める。遠江では一言坂の戦いなどが起きる。
二俣
12月
武田軍が二俣城を攻略。浜松城を拠点とする家康への圧力が強まる。
出撃
12月22日
三方原台地を進む武田軍に対し、家康が浜松城から出撃。出撃の目的には異なる記録がある。
交戦
同日
徳川・織田軍が武田軍に敗れる。開戦時刻や細かな戦況は確定できない。
敗走
同日
家臣らの討ち死にを伴い、家康は浜松城へ退く。浜松城は失わなかった。

その後の世界

1573
武田軍は三河の野田城を攻めるが、信玄はその後病死する。
1575
長篠の戦いで織田・徳川軍が武田勝頼の軍に勝利する。
1582
織田・徳川らの侵攻を受けて武田氏が滅亡する。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 三方原の戦(世界大百科事典・山川日本史小辞典ほか)
    平凡社・山川出版社ほか/コトバンク参照日 2026-10-10
  2. 夏目琢史「徳川家康と三方原の合戦」(2017年)
    浜松市立図書館参照日 2026-10-10
  3. 徳川家康公について(誕生日・略年譜)
    久能山東照宮参照日 2026-10-10
  4. 浜松市史 二「野田城攻略」(32頁)
    浜松市参照日 2026-10-10
  5. 徳川家康画像(しかみ像)
    徳川美術館参照日 2026-10-10
  6. 真田昌幸(日本大百科全書ほか)
    小学館ほか/コトバンク参照日 2026-10-10
  7. 犀ヶ崖古戦場
    浜松市参照日 2026-10-10

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-10

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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