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長篠の戦い|場所・鉄砲・勝者を地図とともに解説
長篠の戦いは1575年、今の愛知県新城市で織田信長・徳川家康が武田勝頼を破った合戦。何時代に誰と誰が戦ったのか、場所と地図、鉄砲三段撃ちの真偽、秀吉の役割、武田信玄との関係、古戦場の見どころまで解説する。
この戦いの要点
勝者は織田・徳川
1575年、長篠城を救援した織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った。
鉄砲だけで決まらない
連吾川沿いの地形、柵、鉄砲の射撃、酒井忠次の別働隊をあわせて戦況を読む。
三段撃ちは未確定
鉄砲三千挺・三列交代射撃という有名な説明は、そのまま確定した史実にはできない。
長篠の戦いとは?何年に、誰と誰が戦ったのか
長篠の戦いは、1575年(天正三年)、現在の愛知県新城市で起きた合戦である。織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼を破った。長篠城をめぐる攻防と、城の西にある設楽原(したらがはら)での決戦を含むため、「長篠・設楽原の戦い」とも呼ばれる。
勝者は織田・徳川方。武田方の大将は信玄ではなく、息子の勝頼である。よく知られる鉄砲の戦いを理解するには、まずこの人物関係と二つの戦場を押さえたい。
| 知りたいこと | 答え |
|---|---|
| 何年・いつ? | 1575年、決戦は旧暦五月二十一日。現在の暦では七月九日に当たる |
| 何時代? | 戦国時代の後期。安土桃山時代に当たる |
| どこ・何県? | 今の愛知県新城市。長篠城と、その西の設楽原が舞台 |
| 誰と誰? | 織田信長・徳川家康の連合軍と、武田勝頼の軍 |
| どっちが勝った? | 織田・徳川連合軍が勝ち、武田軍は撤退した |
| なぜ有名? | 鉄砲と柵を用いた戦い。ただし三段撃ち長篠の戦いで織田・徳川連合軍が用いたとされる鉄砲斉射戦法。実在性については近年諸説あり、定説は揺らいでいる。の実態には議論がある |
年月日には注意がいる。歴史の年表で見る「五月二十一日」は旧暦の日付で、新城市の解説は現在の暦に直すと七月九日になると示している。本記事の戦況年表も、当時の日付で統一した。時代区分は、室町幕府が滅んだ1573年からを安土桃山時代とする説明に沿っている。戦国時代という呼び方と重なるが、矛盾するわけではない。前後の出来事は戦国時代の年表で確認できる。
小学生向けに簡単に説明すると
武田勝頼が、徳川家康の味方の城である長篠城を攻めた。家康は織田信長に助けを求め、信長たちは城の近くまで大きな軍を進めた。そして柵をつくり、鉄砲を使って武田軍の攻撃に備えた。別の部隊も武田軍の砦を攻め、最後は信長と家康の側が勝った。
覚える順番は「城を攻める」「助けに来る」「設楽原で戦う」の三つでよい。長篠の戦いは、鉄砲の場面だけでなく、長篠城を助けるための戦いだった。武器の名前から入るより、誰が何を守ろうとしたのかを追うほうが、全体の流れはつかみやすい。
場所と地図:長篠城と設楽原は同じ場所ではない
戦場は当時の三河国、今の愛知県東部に当たる。長篠城は川の合流点に築かれた城で、現在の新城市長篠に城跡が残る。一方、鉄砲や馬防柵で知られる野戦の中心は、その西にある設楽原である。長篠城跡だけを地図で探すと、鉄砲隊が戦った場所まで同じ地点だと思いやすい。
長篠城の地形を新城市は、豊川と宇連川に挟まれた要害として説明している。寒狭川・三輪川という呼び方もあり、資料によって川の表記が異なる。川が合流し、崖に守られた城の周囲と、連吾川が流れる設楽原の低地を分けて考えると、城攻めと野戦が別々に進んだことが分かる。
設楽原は、果てしない平原ではない。愛知県の地形解説によれば、連吾川(れんごがわ)沿いの低地と、その両側の段丘・丘陵からなる。織田・徳川軍は川の西側に防御を構え、武田軍は東側から攻撃した。川、斜面、柵を越えて進む側と、そこで待つ側では、同じ人数でも戦いやすさが違う。
ページの位置関係図は、この東西関係を示した概念図である。個々の武将の立ち位置を確定する図でも、当日の移動を復元した地図でもない。長篠城や鳶ヶ巣山方面まで含む実際の位置を調べるなら、新城市の長篠・設楽原歴史探訪マップが役立つ。戦場の理解に使う模式図と、現地へ行くための地図は使い分けたい。
なぜ起きた?武田信玄から勝頼へ続いた徳川との対立
武田方を率いたのは武田勝頼であり、父の武田信玄は出陣していない。信玄は長篠の戦いの二年前、1573年に亡くなっていた。信玄と家康が対戦した三方ヶ原の戦いと、勝頼が敗れた長篠の戦いを混同しないようにしたい。
信玄の死によって、武田氏と徳川氏の争いが終わったわけではない。勝頼は父の勢力を受け継ぎ、1574年には遠江の高天神城を攻略した。翌年の長篠城攻めも、この三河・遠江方面での争いの中に位置づけられる。長篠で負けたという結末から、勝頼が初めから軍事的に無力だったと考えるのは早計である。
長篠城は、奥三河で徳川方が足場を保つうえで重要な城だった。新城市の案内では、1575年に家康が奥平貞昌を城主に置いたとされる。貞昌は、後に奥平信昌と名乗る人物である。記事や史跡案内に二つの名前が出てくるのは、別人が守っていたからではない。
武田軍が城を落とせば、徳川方は奥三河の拠点を失う。家康にとっては救う理由があり、勝頼にとっては攻める理由があった。信長の援軍が加わったことで、城をめぐる争いは大軍同士の決戦へと広がった。長篠の戦いの発端は、徳川方の城を武田方が攻めたことにある。

長篠城の包囲と鳥居強右衛門の伝承
五月上旬、長篠城は武田軍に包囲された。新城市の解説では、武田方は約一万五千、城を守る側は約五百と伝えられる。包囲の開始日は資料によって説明が異なるため、ここでは特定の一日に固定しない。また、この兵数は伝わる数字であり、全員の所在を確認できる名簿から得た確定値ではない。
城を守る人数が少なくても、川と崖は攻撃の方向を制限する。守備側は地形を利用して持ちこたえられるが、包囲が続けば外との連絡や物資の確保が難しくなる。城内にとって切実なのは、援軍が来るかどうか、来るならいつまで耐えればよいかという点だった。

この籠城戦で知られるのが、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の伝令の話である。城を抜けて援軍を求め、戻る途中で武田方に捕らえられた。援軍が来ないと城へ告げるよう求められたものの、救援の到来を知らせ、命を失ったと伝わる。新城市の展示でも、長篠城の救援を語る重要な逸話として紹介されている。
ただし、今日語られる会話や場面の細部まで、当日の記録で確認できるわけではない。本記事では、台詞を再現したり、強右衛門一人の行動だけで勝敗が決まったと説明したりはしない。伝承が伝えるのは、包囲された城にとって、外からの知らせがどれほど重かったかということである。
城の攻防を省いてしまうと、後に酒井忠次が別働隊を率いた意味も見えにくくなる。織田・徳川方は、設楽原の武田本隊に勝つだけでなく、長篠城の周囲に残る包囲部隊にも対処する必要があった。
信長・家康の救援と、設楽原の柵
太田牛一の『信長公記』巻八によれば、信長は五月十三日に嫡男の信忠と出陣し、三河へ進んだ。十八日には設楽原方面に入り、徳川勢とともに武田軍に対する態勢を整えた。設楽原で防御の準備を進めたことが、後の戦い方につながっていく。

連合軍の兵力は、織田三万・徳川八千、合わせて約三万八千という説明が広く知られる。ただし、数字には史料上の幅がある。『信長公記』が記す信長の軍勢と、後世の解説が整理した両軍の合計は、同じ数え方とは限らない。武田方の約一万五千にも長篠城攻めの部隊が含まれ、全員が設楽原の一線に並んだわけではなかった。
信長らは連吾川の西に柵を設けた。馬防柵とは、敵の接近を妨げる木の障害物である。柵があれば必ず勝てるわけではないが、攻め手は通れる場所を探し、越えるか壊すかしなければならない。川や段差と組み合わさることで、攻撃する側の動きを制限する働きが期待できる。
この準備と鉄砲の射撃を別々に考えると、長篠の戦いは分かりにくくなる。火縄銃は撃った後に次の発射の準備が必要な武器であり、射手が敵にすぐ接近されない環境には意味がある。柵は鉄砲を使う兵を守り、攻め手の足を鈍らせるための備えだった。
ただし、柵が戦線のどこでも同じ高さ・同じ三重構造だったとまでは言い切れない。現在の復元柵は防御の仕組みを想像する手掛かりになるが、戦場全体を寸法どおりに復元した証拠として扱うべきではない。
酒井忠次の別働隊と五月二十一日の決戦

五月二十日夜、酒井忠次らの別働隊は、長篠城の南方に広がる山地を進んだ。目標は武田方が城の包囲に使っていた鳶ヶ巣山(とびがすやま)方面の砦である。『信長公記』はこの部隊への鉄砲の増援にも触れており、鉄砲が設楽原の正面だけで用いられたのではないことが分かる。
翌二十一日、別働隊が砦を攻めた。設楽原で向き合う両軍から見れば、もう一つの場所で戦闘が始まったのである。長篠城の包囲が崩れれば、織田・徳川方は救援という目的に近づく。武田方は本隊と城攻め部隊の両方で戦況に対応しなければならなかった。

設楽原では、武田方の諸隊が織田・徳川方の陣地へ攻撃を加えた。『信長公記』には、山県昌景らの部隊が攻め、鉄砲によって退けられていく様子が記される。信玄の弟・武田信廉も正用軒の名で登場し、その部隊が攻撃して損害を受け、退いたと記されている。ただし、各隊の進路、突撃の順番、戦闘の時刻をすべて分単位で復元できるわけではない。複数の場所で進む戦闘を、一列の簡単な順番だけで捉えないほうがよい。
武田方は大きな損害を受け、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らが戦死した。勝頼自身は戦場を離れ、撤退した。長篠城は落ちず、織田・徳川方の勝利に終わった。
戦死者数にも、史料や解説による違いがある。武田方一万という数字はよく知られるが、正確な集計として扱うことはできない。一方で、有力な家臣を相次いで失ったこと、武田軍が長篠城攻略を断念して退いたことは、勝敗を判断するうえで明確な結果である。
鉄砲は何挺?「三千挺」と三段撃ちを分けて考える
長篠の戦いの鉄砲といえば、「三千挺を千挺ずつ三組に分け、交代で撃った」という説明が有名である。しかし、鉄砲の総数と射撃の手順は別の問題だ。三千挺という数を採ることと、三列交代の射撃が行われたと認めることは、同じではない。
本記事で確認した『信長公記』巻八の翻刻は、設楽原の本隊について鉄砲がおよそ千挺であったと記す。また、酒井忠次らの別働隊には五百挺の鉄砲を付けたとする記述がある。だからといって、単純に足した千五百挺が連合軍全体の総数だったと断定することもできない。記録の対象が、すべての鉄砲を漏れなく数えたものとは限らないからである。

三千挺という通説は自治体や博物館の解説にも残るが、史料のどの記述を採るかによって数字は変わる。「鉄砲を多く用いて武田軍を退けた」と、「三千挺が三列で規則正しく交代射撃した」は、確かさの異なる説明である。本記事の図や数値欄では、後者を確定情報として示さない。
三段撃ちは嘘なのか
逆に、三段撃ち長篠の戦いで織田・徳川連合軍が用いたとされる鉄砲斉射戦法。実在性については近年諸説あり、定説は揺らいでいる。は絶対になかった、と断言するのも慎重であるべきだ。確認した『信長公記』の該当箇所は、三列が順番に入れ替わる射撃の手順を説明していない。この沈黙から、何らかの交代や射撃の統制まで存在しなかったと証明できるわけではない。
現段階で読者が区別したいのは、史料に書かれている射撃と、後世に分かりやすく整えられた三段撃ちの図解である。通説の図を当日の写真のように受け取らず、射手をどう守り、どのように攻撃を防いだのかへ目を向けると、戦場の条件を考えやすくなる。
『信長公記』も無条件に正しい記録ではない。信長に仕えた太田牛一がまとめた重要史料だが、合戦当日の速記録ではなく、勝者側からの叙述でもある。数字や戦果の表現を読む際には、別の史料や地形の情報と照らす必要がある。一次史料を使うとは、一冊の文言をすべて確定値に置き換えることではない。
鉄砲はどこから来た?武器と戦い方の変化
長篠の鉄砲を「外国から届いた新兵器」とだけ考えると、1575年までの時間が抜け落ちる。鉄砲伝来の年として知られる1543年から、すでに三十二年がたっていた。その間に、鉄砲の製造や使用は日本の各地へ広がっていた。前史は鉄砲伝来の記事で追える。
近江の国友は、その生産地の一つである。長浜の公式観光解説は、国友の鉄砲が信長や秀吉に供給されたことを紹介し、長篠の戦いで用いられた鉄砲の一部も国友製だったと伝えている。ただし、同解説が掲げる「三千挺のうち五百挺」という内訳は伝承としての説明であり、全丁の製造地を確認した一覧ではない。
したがって、「長篠の鉄砲は全部どこから買ったのか」という問いには、一つの産地や商人を挙げて答えることはできない。本記事で確認した資料から確かめられるのは、国産の鉄砲製造が進み、織田方もその供給を受ける関係にあったというところまでである。調達先と当日の配備数は分けて考える必要がある。
鉄砲そのものも、長篠で初めて使われたわけではない。新城市の展示解説は、長篠以前の合戦にも鉄砲が使われたことを説明している。長篠の特徴は、未知の道具を突然持ち込んだ点よりも、鉄砲・柵・地形・援軍を組み合わせた戦いに見ることができる。
また、武田軍を騎馬だけの軍団、織田軍を鉄砲だけの軍団として描くと、実際の合戦から離れる。武田方も徒歩の兵を含む軍勢であり、戦いは一種類の兵器同士の対決ではなかった。柵と川を前にした軍が、相手の防御をどう崩すか。鉄砲の性能だけではなく、兵を動かす条件が問われたのである。
秀吉は長篠の戦いで何をしたのか
豊臣秀吉も参戦していた。 ただし当時の名は羽柴秀吉であり、『信長公記』には「羽柴藤吉郎」として現れる。後に天下人となる秀吉も、この時点では信長の指揮下で戦う武将の一人だった。
同書は、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀らの軍勢を記している。これにより、秀吉が織田方として設楽原の布陣に関わっていたことは確認できる。一方、細かな立ち位置を現代の地図上で一点に決めたり、特定の射撃手順を秀吉の発案としたりするには、別の根拠が必要になる。
鉄砲の指揮については、同書に佐々成政・前田利家ら五人の奉行が挙げられている。ここに秀吉の名はない。「秀吉も参戦した」ことから、「秀吉が三千挺の鉄砲隊をすべて指揮した」と話を広げることはできない。
ここで確認できる範囲を整理しよう。秀吉の役割は、信長軍の一部を率いて布陣した武将として捉えるのが、確認した史料に沿った説明になる。後年の活躍からこの合戦の主役に据え直す必要はない。豊臣秀吉の記事では、信長の家臣だった時期から天下統一までの歩みを追っている。鉄砲奉行については佐々成政と前田利家も参照したい。
勝敗の理由と、その後の武田勝頼
織田・徳川方が勝った理由を一つに絞るなら、鉄砲の新しさより、防御を整えたうえで救援を進めたことが重要になる。ただし、これは史料に記された戦況を整理した見方であり、一つの装備だけで勝利が保証されたという意味ではない。
連合軍は設楽原で地形と柵を利用し、武田軍の攻撃に射撃で対応した。その間、酒井忠次らは長篠城の周囲を攻め、包囲を崩す方向へ動いた。城を守る側、設楽原で戦う側、別働隊として進む側の働きを合わせて見ると、勝利までの流れが分かる。
勝頼は有力家臣を失い、軍事面で大きな打撃を受けた。しかし、武田氏が滅亡したのは1582年であり、長篠から七年後のことである。「長篠で敗れたので、そのまま武田家は滅びた」とつなぐと、この七年間が消えてしまう。勝頼は敗戦後も領国を治め、周辺勢力との争いを続けていた。
長篠の敗北が武田氏にとって重かったことと、七年後の滅亡がこの一戦だけで決まったことは別である。後の政治関係や家臣の動向まで含めて考える必要がある。長篠は武田氏滅亡の年ではなく、勝頼が大きな損失を負った年として押さえたい。
「信玄が生きていれば長篠の敗戦はなかったのか」という問いは、出兵の時期や相手の行動も変わり得る仮説である。(「武田信玄が生きていたら」)では、父子の指揮と継承の条件から考えている。
古戦場を訪ねる:長篠城跡・馬防柵・資料館
長篠の古戦場は、現在の愛知県新城市にある。訪問先は一か所にまとまっていない。城の包囲を考える長篠城跡と、野戦を考える設楽原を分け、公式の案内図で位置を確認してから巡るとよい。
| 場所 | 見ると分かること |
|---|---|
| 長篠城跡・長篠城址史跡保存館 | 川と崖に囲まれた城の立地、籠城と救援の経緯 |
| 設楽原の復元馬防柵・連吾川周辺 | 柵、川沿いの低地、両側の高低差 |
| 新城市設楽原歴史資料館 | 設楽原の戦いと鉄砲に関わる資料 |
| 鳶ヶ巣山方面 | 酒井忠次らの別働隊が攻めた、城の包囲線の位置関係 |
長篠城跡では、壮大な天守を期待するより、残る土塁や堀、周囲の川を見るのがよい。新城市の案内によれば、当時の城の建物は残っていない。城がどの方向から攻められ、どの部分を川に守られていたかを想像すると、少数の守備兵が持ちこたえた地形上の条件を考えられる。
設楽原の馬防柵は、当時の木材が残ったものではなく、後世の復元である。柵の形だけを眺めるより、連吾川と斜面を一緒に見ると、防御する側と攻める側の足元の違いが分かる。広い平野を騎馬が一直線に駆け抜ける映像とは、違った印象を受けるはずだ。
実際の移動経路は新城市の歴史探訪マップで、開館日や利用案内は長篠城址史跡保存館の公式ページなどで訪問前に確認したい。資料館の展示を読み、城と野戦の場所を歩き分けると、長篠の戦いは鉄砲の一場面から、いくつもの現場がつながる戦いとして見えてくる。
両軍の対比
織田信長・徳川家康
武田勝頼
布陣図
設楽原の位置関係図(上が北・縮尺なし)
連吾川の西に織田・徳川軍、東に武田軍を置いた概念図。川筋は模式化し、個々の武将の陣地や部隊の規模・攻撃経路は示していない。長篠城と鳶ヶ巣山方面の戦闘は図の範囲外。
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 歴史を辿る(新城城跡・奥平信昌の築城)新城市参照日 2026-10-10
- 長篠・設楽原の戦い新城市参照日 2026-10-10
- 長篠城址史跡保存館・展示解説新城市参照日 2026-10-10
- 太田牛一『信長公記』巻八「三州長篠御合戦之事」(明治14年刊本の翻刻)Wikisource参照日 2026-10-10
- 長篠の戦い(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)小学館/コトバンク参照日 2026-10-10
- 設楽原(連吾川沿いの地形と古戦場)愛知県参照日 2026-10-10
- 長篠城址史跡保存館・長篠城跡の案内新城市参照日 2026-10-10
- 設楽原の馬防柵(復元)新城市参照日 2026-10-10
- 長篠・設楽原歴史探訪マップ新城市参照日 2026-10-10
- 特別展「桃山・天下人の100年」(政治史における安土桃山時代の区分)東京国立博物館参照日 2026-10-10
- 国友鉄砲の歴史と長篠合戦への伝承北近江豊臣博覧会実行委員会参照日 2026-10-10






