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戦国時代〜江戸初期浅井氏・京極氏1633
武将列伝戦国時代〜江戸初期京極

おはつ

お初(常高院)結婚相手・子供と生涯、死因をたどる

Ohatsu / Jokoin
生没年
?–1633
出身
近江
家
京極
お初(常高院)の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 薄紫の頭巾と赤い打掛の人物像を参考に制作。
  • 姫・女性
  • 浅井三姉妹
  • 京極家
生年
1568年/1570年説生年・享年には諸説
没年
1633年寛永10年8月27日(旧暦)を採用
結婚相手
京極高次1587年に婚姻したとされる
姉と妹
茶々・お江浅井三姉妹の次女

お初は、浅井三姉妹の次女として生まれ、京極家の正室となり、大坂の陣では豊臣・徳川間の和睦に関わった女性である。出家後の名が常高院で、茶々の妹、お江の姉にあたる。

結婚相手は京極高次。二人の間に実子はいなかったとされるが、高次の子・忠高の嫡母となり、江の娘・初姫を養女に迎えた。大坂落城後も生き、1633年に江戸で死去する。病没と伝わる一方、病名までは分かっていない。

姉や妹の間で何をしたのか。夫と子供、信仰、寺に残る資料をたどると、戦乱に巻き込まれた少女から、交渉や供養を担う常高院へと続く生涯が見えてくる。

01浅井家の娘

茶々とお江の間に生まれた、浅井三姉妹の次女

近江の湖と山並みを望む幼いお初。顔・衣服・場所はAIによる想像復元(AI生成イメージ)
近江の湖と山並みを望む幼いお初。顔・衣服・場所はAIによる想像復元 · AI生成イメージ

お初の父は、近江の小谷城を拠点とした浅井長政である。母のお市の方は織田信長の妹だった。姉は茶々、妹は江。のちに茶々は淀殿、お初は常高院、江は崇源院と呼ばれる。三つの院号や通称を別の人物と考えると、家族関係が分かりにくくなる。

お初の生年は確定していない。小浜市の人物紹介は永禄11年(1568)とし、米原市教育委員会の年表は元亀元年(1570)に置く。『日本大百科全書』は生年を不詳としている。幼少期の出来事を追う際も、一つの生年から年齢を決めつけずに読む必要がある。

長政と信長は婚姻で結ばれていたが、その関係は続かなかった。元亀元年、両者は敵対し、姉川で戦う。さらに天正元年(1573)、織田勢に攻められた小谷城が落ち、長政は死去した。姉川の戦いと小谷城の落城は、三年隔たった別の出来事である。

お市と三人の娘は城を出て助かった。お初にとっては、父のいる家から母の実家側へ移る転機となる。父を討った側に母方のおじがいるという複雑な関係も、浅井と織田の婚姻を押さえると理解しやすい。

父の政治と戦いについては、浅井長政の記事で詳しく扱っている。

02北ノ庄の落城

母を失い、姉妹とともに秀吉の庇護を受ける

包みを抱えて屋敷の戸口に立つ十代のお初。北ノ庄を離れる時期を題材とする想像復元(AI生成イメージ)
包みを抱えて屋敷の戸口に立つ十代のお初。北ノ庄を離れる時期を題材とする想像復元 · AI生成イメージ

天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死んだ。その後、お市は柴田勝家と再婚し、お初たち三姉妹も越前の北ノ庄へ移る。勝家は母の再婚相手であり、お初の実父は浅井長政である。

翌天正11年、勝家と羽柴秀吉は賤ヶ岳で戦った。敗れた勝家は北ノ庄城へ退き、お市とともに命を落とす。三姉妹は生き延び、秀吉の庇護下に入った。小谷城で父を失ってから約十年後、今度は母との暮らしが終わった。

お初の生涯には、落城と保護者の交代が続いている。母の再婚、勝家の敗北、秀吉への引き取りは、本人が政略を組み立てた結果ではない。その後にどの家へ嫁ぐかも、天下の主導権を握りつつあった秀吉との関係を離れては考えられない。

ただし、秀吉に引き取られた時点で、三姉妹の将来がすべて同時に決まったわけではなかった。お初は京極高次の正室となり、茶々は秀吉の側室となる。江は複数の婚姻を経て、のちに徳川秀忠の正室となった。それぞれの結婚には別の時期と相手がある。

姉妹の呼び方にも注意したい。「お江」は江に敬称を添えた呼び方で、茶々はのちの淀殿にあたる。お初が大坂の陣で訪ねた姉は、この茶々である。母を同じくする三人が、成長して豊臣・京極・徳川の各家と結びついていく。

幼い日に同じ家を失った三人は、後年も親族として関わり続けた。お初は姉と妹を通じて、豊臣方と徳川方の双方に接点を持つことになる。

03結婚と嫁ぎ先

結婚相手は京極高次。浅井と京極を結ぶ婚姻

扇を持って庭を眺める若いお初。京極高次との婚姻期を題材にした想像復元(AI生成イメージ)
扇を持って庭を眺める若いお初。京極高次との婚姻期を題材にした想像復元 · AI生成イメージ

お初の結婚相手、つまり夫にあたるのは京極高次である。天正15年(1587)に、秀吉の取り持ちで嫁いだとされる。お初の嫁ぎ先は京極家であり、姉・茶々の嫁ぎ先である豊臣家とは異なる。高次の正室となったお初は、その後、近江から若狭へ移る京極家と歩むことになる。

高次は近江の名門・京極氏の出身だった。京極氏はかつて浅井氏の主筋にあたる家で、戦国期にはその勢力関係が変わっていた。名門の家柄を持つ高次も、若い時期から大きな領国を安定して継いだわけではない。織田家・豊臣家のもとで地位を得て、家の再興を進めた。

二人には血縁もあった。高次の母は浅井長政の姉で、キリシタンとして知られる京極マリアである。長政の娘であるお初と、その姉の子である高次は、いとこ同士にあたる。この続柄は、小浜市教育委員会の歴史講座資料でも確認できる。

結婚当時、高次は近江大溝を拠点としていた。その後は八幡山、大津へと移り、文禄4年(1595)には大津城主となる。現在の福井県小浜市に結びつく印象が強い夫婦だが、結婚直後から小浜に住んだわけではない。まず近江での年月があった。

お初と高次の間には、実子はいなかったとされる。一方、高次には別の女性との間に生まれた忠高がいた。お初は正室として忠高の嫡母となる。嫡母とは、家の正室としての母の立場を指し、実際に産んだ母と一致するとは限らない。

高次の領主としての歩みは、京極高次の記事で詳しく扱っている。

04大津から若狭へ

本人の所領を持ち、京極家と小浜へ移る

海を望む廊下に立つお初。若狭での暮らしの想像復元で、当時の小浜城の再現ではない(AI生成イメージ)
海を望む廊下に立つお初。若狭での暮らしの想像復元で、当時の小浜城の再現ではない · AI生成イメージ

慶長3年(1598)8月、お初は秀吉から近江国蒲生郡の所領を与えられた。『日本大百科全書』は、その石高を2,045石と記す。高次の領地とは別に、お初自身に所領が与えられていた点が注目される。秀吉に保護された少女が、成人後には土地を与えられる立場になっていた。

所領は、本人の暮らしや家の維持、後年の寄進を考える手がかりになる。石高は土地の生産力などを米の量で示した数字で、毎年そのまま手元に届く米俵の数ではない。ここでは、お初にも経済的な基盤があったことを押さえたい。秀吉との関係も、結婚の仲介だけで終わらなかった。

秀吉の死後、天下の情勢は再び変わる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、高次は最終的に徳川家康の側につき、大津城に籠城した。小浜市の人物紹介は、お初も夫とともに徳川方についたとする。大津城は攻められ、開城に至った。

高次は大津城を守り切れなかったが、その抵抗は徳川方に評価された。戦後には若狭を与えられ、京極家は小浜へ入る。お初の暮らしの中心も、琵琶湖周辺から日本海に面する若狭へ移った。

小浜では高次が城の建設や町づくりを進めた。現在の小浜と京極家の結びつきは、この入部に始まる。ただし、町割りや領内支配をすべてお初が指揮したかのように語る根拠はない。夫の領主としての仕事と、お初本人に確認できる活動は分けて考える。

また、関ヶ原で高次が徳川方についたことを、そのまま「お初が茶々と戦った」と言い換えるのも単純すぎる。茶々のいる豊臣家と、関ヶ原で戦った西軍全体は同じものではない。京極家の立場が変わっても、姉妹としてのつながりは、その後の交渉のなかに残っていく。

05常高院となる

高次の死後に出家し、京極家との関わりを保つ

頭巾姿で手を合わせる常高院。1609年の出家後を題材とした想像復元(AI生成イメージ)
頭巾姿で手を合わせる常高院。1609年の出家後を題材とした想像復元 · AI生成イメージ

慶長14年(1609)、夫の高次が死去した。京極家の家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。は忠高が継ぎ、お初は髪を落として出家し、常高院と号する。「お初」と「常高院」は同じ女性を指すが、生涯のなかで呼称が変わっている。

高次を亡くした後も、常高院は京極家との関わりを保った。忠高は高次の子であり、常高院が産んだ子ではない。実母は於崎といい、玉台院の名でも知られる。常高院は正室として忠高の嫡母にあたり、この関係は夫の死によって消えるものではなかった。

常高院の家には、もう一人「初」と呼ばれる女性が関わる。妹の江と徳川秀忠の娘で、常高院の養女となった初姫である。のちに京極忠高と結婚したこの女性は、常高院自身とは別人だ。お初の夫を忠高とする説明は、二人の初を取り違えている。

出家は、世の中との関わりを一切やめたことを意味しない。夫を弔う一方で、家族との連絡や、寺を建てるための活動は続く。常高寺には常高院の書状が伝わり、大津市歴史博物館の展覧会でも自筆書状が紹介されている。

信仰については、仏門に入る前の受洗を記す資料もある。京極家には高次の母・マリアというキリシタンがいた。お初と高次自身にもキリスト教の洗礼を受けたとする記述があるが、その年には資料差がある。後の出家や常高寺創建と併せて考える必要があるため、詳しくは読み解きで取り上げる。

常高院という号で知られる後半生には、大坂の陣の交渉が待っていた。夫の正室としての年月を経て、姉の豊臣家、妹の徳川家、忠高の京極家に関わる立場から、戦争を終わらせるための使者を務めるようになる。

06大坂の陣

茶々のいる城と徳川方をつなぎ、和睦を求める

書状を手に交渉へ臨む壮年の常高院。大坂の陣を題材とし、会談の実景ではない想像復元(AI生成イメージ)
書状を手に交渉へ臨む壮年の常高院。大坂の陣を題材とし、会談の実景ではない想像復元 · AI生成イメージ

慶長19年(1614)、豊臣家と徳川家は大坂冬の陣で直接ぶつかった。大坂城には姉の茶々と、その子・豊臣秀頼がいた。妹の江は徳川秀忠の正室であり、常高院が嫡母となった忠高も徳川方に属していた。常高院の親族は、戦う双方の家に分かれていた。

この戦いで、常高院は和睦交渉にあたる。『日本大百科全書』は、豊臣方の代表として徳川方の阿茶局と交渉したと説明する。阿茶局は家康に仕えた女性で、常高院とともに和平を進めた当事者だった。

一方、小浜市の紹介は、常高院を徳川家の使者として説明している。これは、豊臣方の意向を伝える役割と、家康側の意向を大坂へ運ぶ役割の、どちらに注目するかによる違いも含む。常高院を生涯一貫した一方の陣営の家臣として捉えると、交渉の実態が見えにくい。

冬の陣では和睦が成立し、いったん戦闘が止まった。大坂城の堀を埋めるなど、その後の城の防御に大きく関わる条件も伴った。和平は豊臣と徳川の対立を根本から解消したわけではない。翌慶長20年(1615)には、再び戦争となる。

常高院は夏の陣でも和議を求めたが、今度は戦いを止められなかった。大坂城は落ち、茶々と秀頼は命を落とした。姉と甥を失った常高院は、その後も生き続ける。お初の死因を大坂の落城による自害とする説明は、茶々の最期との混同である。

交渉を一人の功績だけで説明することはできない。軍事状況、家康や秀頼の判断、双方の家臣や使者の働きがあった。そのなかで、常高院自身が相手方へ意向を伝える役を担ったことは、結婚相手や姉妹関係だけでは尽くせない本人の活動である。

冬に戦いを止めたことと、翌年の滅亡を防げなかったことは、どちらも生涯に含まれる。茶々側から見た経過は淀君・淀殿の記事、戦況は大坂冬の陣と大坂夏の陣で確認できる。

07晩年と死去

常高寺を創建し、1633年に江戸で死去

寺の境内に立つ晩年の常高院。1630年ごろを題材とし、現存の常高寺建築を再現しない想像復元(AI生成イメージ)
寺の境内に立つ晩年の常高院。1630年ごろを題材とし、現存の常高寺建築を再現しない想像復元 · AI生成イメージ

寛永7年(1630)、常高院は若狭小浜に常高寺を創建した。開山には槐堂周虎を迎えている。父母や夫を弔い、自身にも関わる寺を建てたことは、晩年に確認できる大きな事跡である。夫の死去から二十年以上が過ぎていた。

寺を建てるには、建物だけでなく、その後の維持を支える収入も必要になる。『日本歴史地名大系』は寺蔵文書に基づき、1634年に忠高が110石を与え、1638年には家光が300石を寄進したと記す。これは常高院の死後のことだ。1630年の創建と、後に進んだ寺領の整備には時間差がある。

常高院は寛永10年(1633)8月27日、江戸で死去したとされる。日付は当時の旧暦である。常高寺の由緒は、病を得て京極家の江戸屋敷で亡くなったと伝えている。ただし、病名や具体的な症状を確定できる資料は、今回確認した範囲にはなかった。

遺骸は小浜へ運ばれ、常高寺に葬られた。亡くなった場所と墓所は異なる。小浜市の解説も、江戸での死去と、後瀬山に設けられた墓を区別して記す。現在も常高寺は、お初の生涯をたどる場所の一つである。

小浜に残るのは墓だけではない。寺には肖像画や書状も伝わる。幼少期の落城、京極家への婚姻、大坂での交渉を経た常高院は、晩年に自身の名と結びつく寺を残した。その寺を将来も若狭にとどめたいという意向は、市の紹介する遺言にも見えている。

02
READING

史料の読み解き

お初の結婚相手・旦那は誰か。高次と忠高の違い

お初の夫は京極高次である。京極忠高は夫の子にあたり、お初自身の結婚相手ではない。養女となった初姫が忠高に嫁いだため、「初」と「京極」という二つの名前だけを頼りにすると、夫婦の組み合わせを間違えやすい。

人物実親結婚相手常高院との関係
初・常高院浅井長政とお市の方京極高次本人
京極忠高京極高次と於崎(玉台院)初姫常高院を嫡母とする
初姫・興安院徳川秀忠と江京極忠高常高院の姪で養女

結婚年は、小浜市と米原市の資料が天正15年(1587)とする。この年を採る場合も、お初が何歳だったかは生年説によって変わる。1568年説なら数え20歳、1570年説なら数え18歳となる。結婚の時期と結婚年齢は、確かさが同じではない。

「嫁ぎ先」を場所として知りたい場合は、京極家の移動も合わせて見る必要がある。婚姻期の大溝、その後の八幡山・大津、関ヶ原後の小浜という順である。小浜藩主の妻という肩書を結婚当初へさかのぼらせると、近江で暮らした時期が抜け落ちてしまう。

お初の子供はいたのか。実子・嫡母・養女を分ける

高次とお初の間には実子はいなかったとされる。ただし、「子供がいなかった」の一言だけでは、京極家での立場を十分に説明できない。忠高の実母は別にいたが、高次の正室であるお初は嫡母にあたった。

嫡母と養母は同じ意味ではない。忠高との関係は夫の子に対する正室の立場で、初姫との関係は養女として迎えたことによる。二人を一律に「お初の実の子」としたり、逆に家族としての関わりを無かったことにしたりすると、家の継承や婚姻が見えにくくなる。

お初が実子を持たなかった理由は分かっていない。不妊の原因や病気、夫婦の事情を史料なしで推測する必要はない。また、忠高の日々の世話を誰がどのように担ったのかまで、嫡母という呼称だけから決めることもできない。

養女の初姫が忠高と結婚したことで、常高院は妻の側にも夫の側にもつながる立場となった。京極家と徳川家の婚姻を、家名だけで見るよりも、このように親子・養子・夫婦を分けてたどる方が正確である。

お初はキリシタンだったのか

お初と高次がキリスト教の洗礼を受けたとする記述はある。米原市教育委員会の『京極家激闘譜』17頁の年表は、慶長6年(1601)に二人の受洗を記す。一方、小学館『サライ』の解説は『国史大辞典』を引き、慶長7年(1602)に高次や子らと受洗したと紹介している。

したがって、「キリシタンだった根拠は全くない」と切り捨てるのは適切ではない。同時に、受洗年を一つに断定したり、本人の内面の変化まで説明したりするには、宣教師の報告などの原史料をさらに確かめる必要がある。本記事では、受洗を伝える資料があり、その年代に差があるという範囲で扱う。

高次の母・京極マリアの信仰は、家族の宗教的な環境を考える手がかりになる。しかし、義母がキリシタンだったことだけを理由に、お初の受洗を証明することはできない。家族の信仰と本人に関する記録を分けたうえで、上の二つの資料を読む必要がある。

後年のお初には、1609年の出家と1630年の常高寺創建という仏教との関わりが確認できる。受洗と出家を単純な二者択一にすると、時間の経過が消えてしまう。晩年の寺院活動は追えるが、生涯を通じた信仰の変化や、どの時点で何を信じていたかまでは断定しない。

性格は穏やかだったのか。交渉役から分かること

お初には、姉と妹の間を取り持つ穏やかな女性という印象がある。大坂の陣で和睦に関わったことは、その人物像と結びつけやすい事跡である。ただし、交渉を務めた事実から、日常の性格のすべてが分かるわけではない。

常高院が交渉相手に近づけた背景には、浅井三姉妹の血縁と、京極家・徳川家の婚姻関係があった。姉の茶々は大坂城におり、妹の江は秀忠の正室だった。さらに忠高は徳川方に属する。連絡を取り得る相手が双方にいたことは、具体的に確認できる条件である。

一方で、交渉役が伝えた内容と、その人自身の希望は必ずしも同じではない。常高院を家康の意向だけを伝えた人物と固定するのも、姉の望みだけを代弁した人物と固定するのも、役割を狭めてしまう。使者が誰の意向を、誰に、いつ伝えたのかを一件ずつ見る必要がある。

「優しかったから和平が成立した」と説明すると、軍事的な圧力や双方の判断が抜ける。「交渉に失敗したから無力だった」と評価すると、冬の陣で戦闘を止めた働きが消える。本人の行動として言えるのは、和議の使者を務め、冬には成立に関わり、夏には豊臣家の滅亡を防げなかったということである。

死因・死去した場所・享年はどこまで分かるか

常高寺の由緒は、常高院が病を得て、1633年に京極家の江戸屋敷で亡くなったとする。病死と紹介する根拠はあるが、病名を特定する記述は確認できない。「老衰」「がん」などの現代の診断名を当てはめることは避けたい。

没年は『日本大百科全書』や小浜市の説明に合わせ、寛永10年(1633)を採用した。『サライ』の解説は、『西讃府志』では寛永11年(1634)とされることも紹介している。異説が存在することと、どの説を本文の基準に置くかは分けて示している。

享年は生年説と組み合わせて読む必要がある。1633年没の場合、1568年生まれなら数え66歳、1570年生まれなら数え64歳となる。数え年は生まれた年を一歳とするため、現代の満年齢とは異なる。生年を1568年としながら享年64歳をそのまま並べると、説明が合わなくなる。

また、茶々が亡くなったのは1615年の大坂夏の陣である。常高院はそれより約十八年後まで生きた。姉の死と本人の死を分ければ、「お初も大坂城で自害したのか」という混同は解ける。墓のある小浜と、死去した江戸も別の場所だ。

常高院ゆかりの寺と、資料として残るもの

常高院ゆかりの寺は、福井県小浜市の常高寺である。小浜市は、常高院を開基、槐堂周虎を開山とし、1630年の創建を紹介している。開基は寺の創建を支えた人物、開山は寺を開いた僧を指す。二人の役割を分けると、常高院自身の事跡がはっきりする。

寺には墓と肖像画、書状などが伝わる。ただし、現在の建物をそのまま常高院が見た姿と考えることはできない。小浜市の解説によると、現在の本堂は2001年に再建された。創建の歴史、現存建築の年代、そこに伝わる資料の年代は、それぞれ確認する必要がある。

大津市歴史博物館の2024年の出品目録は、常高院像を江戸時代前期、初の自筆書状を江戸時代初期の資料として扱う。人物像を描いた絵、本人の連絡を伝える手紙、後世の由緒書には、それぞれ違う役割がある。すべてを一枚の「当時の写真」のように読むことはできない。

常高院の生涯は、家族関係を入口にしながら、本人の交渉、所領、書状、寺の創建へとたどれる。残る資料の種類を確かめると、どこまでが本人に近い記録で、どこからが後世の説明なのかを見分けやすくなる。

確度のまとめ

主張確度根拠・留保
浅井長政とお市の次女で、茶々の妹・江の姉高辞典、自治体資料、常高寺の由緒で一致
京極高次と結婚し、正室となった高辞典・小浜市・常高寺で一致。1587年は市の資料と米原市年表による
高次との実子はいなかったとされる中『サライ』の辞典に基づく解説。忠高の実母は別に確認できる
忠高の嫡母となり、江の娘・初姫を養女にした中〜高辞典に基づく解説と寺・自治体資料を照合。実母・養母を区別
大坂の陣で和睦交渉に関わった高辞典・自治体・寺の説明で一致。所属の一語だけでは役割を尽くせない
高次とともに受洗した中米原市年表は1601年、辞典を引く解説は1602年。原史料の直接照合は未実施
1630年に常高寺を創建した高小浜市と寺の由緒で一致
1633年に江戸で病没した中〜高没年・場所は辞典と自治体、病没は寺の由緒。病名は不明、没年に異説
穏やかで姉妹を常に仲裁する性格だった保留和睦交渉の事跡から、日常の性格までは確定できない
04
EPISODES

お初(常高院)の逸話

  1. 逸話 01

    袈裟を縫わせて送る。江戸から和尚に宛てた手紙

    文机で筆をとる常高院。書状の存在にちなむ想像復元で、実際の文面は再現していない(AI生成イメージ)
    文机で筆をとる常高院。書状の存在にちなむ想像復元で、実際の文面は再現していない · AI生成イメージ

    常高寺には、常高院が江戸から槐堂和尚へ送った自筆の手紙が伝わる。小浜市のデジタル文化財解説によると、僧がまとう袈裟の用意について相談した手紙である。3月10日という日付はあるが、何年に書かれたかは分かっていない。

    市の現代語による紹介では、常高院は必要なら返事を求め、返答に応じて袈裟を縫わせようとしている。返事を待つうちに時間がたったので、まず出来上がった分を送るという。相手の健康を尋ね、自分の方に変わったことがないと伝える内容もある。

    寺を支える活動には、このような品物の手配と連絡も含まれていた。常高院が自分で袈裟を縫ったとする話ではなく、用意を指示して相手へ届けるやり取りである。寺の創建という大きな出来事のそばに、返事を待ち、品を送る具体的な用件が残っている。

    この手紙には相手を気遣う表現が見えるが、一通から生涯の性格までは決められない。大坂での交渉を語る手紙でもない。それでも、常高院と寺の僧との関係を、漠然とした人物評よりも具体的に知ることができる。

  2. 逸話 02

    養女も「初」。二人のお初を見分ける

    幼い子を抱く出家前のお初。養女を迎えたことにちなむ想像復元で、抱き方や場面の記録はない(AI生成イメージ)
    幼い子を抱く出家前のお初。養女を迎えたことにちなむ想像復元で、抱き方や場面の記録はない · AI生成イメージ

    常高院が養女に迎えたのは、妹・江と徳川秀忠の娘である。こちらも初と呼ばれ、初姫、のちには興安院として知られる。叔母と姪が同じ名を持ったため、人物紹介や系図を読むときに取り違えやすい。

    小学館『サライ』の人物解説は、『国史大辞典』に基づき、慶長8年(1603)に江の娘を養女に迎えたと紹介する。ここで確認したのは同解説であり、『国史大辞典』の原項目を直接閲覧したわけではない。生まれた直後の具体的な場面については、この紹介以上に再現しない。

    養女の初姫は、のちに京極忠高と結婚した。忠高は常高院の夫・高次の子であり、初姫は常高院の妹の子である。血筋だけを一本の線で追うと混乱するが、「誰が産んだか」「誰の養女か」「誰と結婚したか」を分ければ整理できる。

    この婚姻によって、京極家と徳川将軍家のつながりはさらに重なった。常高院には実子がいないとされるものの、子供や次の世代との関係がなかったわけではない。忠高の嫡母、初姫の養母という二つの立場が、家のつながりのなかにあった。

  3. 逸話 03

    国替えがあっても、寺は若狭に残す

    文箱を傍らに置き、山並みを望む晩年の常高院。遺言を題材とする想像復元(AI生成イメージ)
    文箱を傍らに置き、山並みを望む晩年の常高院。遺言を題材とする想像復元 · AI生成イメージ

    常高院の晩年を伝えるのが、常高寺を若狭に残すよう求めた遺言である。小浜市の人物紹介は、将来京極家が国替えとなっても寺はその地にとどめる、という意向を紹介している。

    国替えとは、大名が別の領地へ移されることである。家が移れば、仕える人々や家に関わる施設の移動も問題になる。常高院の意向は、京極家の動きと、寺を置く場所を切り分けるものだった。本人は江戸で亡くなったが、葬られる場所は若狭に定められた。

    福井県文書館の展示記録には、「かきおきの事」と題する常高院の遺言状写が載る。常高寺に伝わり、若狭歴史博物館に寄託された常高寺文書の一つである。現在確認できるものが「写」であることは、本人の自筆原本と区別しておきたい。

    福井県文書館の企画展示解説によれば、常高院は死後も侍女たちに扶持を与え、寺の下に住まいを用意するよう求めた。扶持は生活を支えるための給付である。寺の場所だけでなく、自分に仕えた女性たちの暮らしも遺言の対象だった。

    翌1634年、京極家は出雲・隠岐へ移るが、常高寺は若狭に残った。文書館の解説は、侍女たちのための尼屋敷が建てられ、京極家も転封後に寺を保護したと伝える。常高院が願ったことと、死後に行われたことの双方をたどれる事例である。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 浅井長政
  • お市の方
本人初(常高院)
配偶者京極高次
子
  • 京極忠高(夫の子・常高院は嫡母)
  • 初姫(養女・江と秀忠の娘)

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 常高院(日本大百科全書・日本人名大辞典ほか)
    小学館・講談社ほか/コトバンク参照日 2026-10-24
  2. 常高院(お初)
    小浜市参照日 2026-10-24
  3. 常高院について
    凌霄山 常高寺参照日 2026-10-24
  4. 常高寺
    小浜市参照日 2026-10-24
  5. 企画展「京極高次」出品リスト(2024年)、作品96〜98
    大津市歴史博物館参照日 2026-10-24
  6. 常高寺:紙本墨書常高院自筆消息
    小浜市 若狭小浜のデジタル文化財参照日 2026-10-24
  7. 常高寺(福井県小浜市、日本歴史地名大系)
    平凡社/コトバンク参照日 2026-10-24

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-24

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