お江(おごう)は、浅井長政とお市の方の三女で、徳川秀忠の正室、徳川家光の母となった女性である。茶々・初・江の浅井三姉妹では末娘にあたる。崇源院(すうげんいん、そうげんいん)は死後の呼称だ。
生涯には三度の婚姻があったとされ、子供の系譜は豊臣家、徳川家、公家、皇室へ広がった。なかでも、家光が息子、明正天皇が孫という関係は押さえておきたい。一方、春日局との対立や秀忠との夫婦像には後世の逸話が重なっている。残された書状と、後から語られた話では、お江の見え方も変わる。
1573年、浅井長政とお市の娘として生まれる

お江は天正元年(1573)、近江の浅井長政とお市の方の間に生まれた。長女が茶々、次女が初、三女がお江である。母のお市は織田信長の妹だった。父が浅井氏、母方の伯父が信長という関係は、後のお江を知るうえでも出発点になる。
生まれた場所は小谷とされる。現在の滋賀県長浜市にあたり、父長政が小谷城を本拠としていた土地だ。長浜市の紹介も、小谷で生まれたお江が、その年のうちに落城を経験したと説明する。詳しい誕生日や城内の出生場所までは確定していない。
お江の誕生時、浅井家と織田家の関係はすでに破綻していた。両家の婚姻による同盟は、長政が朝倉氏とともに信長に対抗したことで崩れる。1573年、織田軍に攻められた小谷城は落ち、長政は自害した。お江は父と暮らした記憶をほとんど持ち得ない年齢で、浅井家の領国を失ったことになる。
母と三姉妹は生き延び、織田方の保護を受けた。小谷の山城から離れた後の暮らしについては、記録の少ない部分も多い。救出の細かな手順や幼児のお江が見た光景を、後世の絵や物語からそのまま復元することはできない。
それでも、浅井氏の娘であるという身分は失われなかった。茶々は後に豊臣秀吉の側室となり、初は京極高次へ、お江は徳川秀忠へ嫁いだ。三人の婚姻先は異なるが、姉妹という関係は続く。お江の家系を織田・豊臣・徳川の有名人だけで眺めると、その下にある浅井家と三姉妹の結び付きが見えにくくなる。
母との別れと、茶々・初それぞれの婚姻

天正10年(1582)、信長が本能寺の変で亡くなると、お市は柴田勝家と再婚した。三姉妹も母とともに越前の北庄へ移ったとされる。しかし翌年、勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた。北庄城も攻められ、お市と勝家は自害する。1573年生まれのお江は、この時に数え11歳だった。
三姉妹は再び城を離れ、秀吉の保護下に入った。幼少期のお江には、父を失った小谷と、母を失った北庄という二つの大きな転機がある。ただし二度の落城から、本人の性格や後年の選択をすべて説明できるわけではない。母との最後の会話などは、史料で確かめられる経歴と分けて読む必要がある。
長姉の茶々は秀吉の側室となり、豊臣秀頼の母となった。一般に淀殿と呼ばれる女性である。次姉の初は京極高次の正室となり、後に常高院を称した。お江から見れば、豊臣家にも京極家にも姉がいることになる。婚姻で別の家へ移っても、贈り物や書状を交わす親族の関係は残った。
お江の最初の夫として挙げられるのが、尾張の佐治一成である。人物事典では一成に嫁いだ後、離縁したという経歴が定着している。一方、神戸女子大学図書館の資料紹介は、婚約だけだったのか、実際に婚姻生活を送ったのかに異説があると記す。結婚した年や離縁の理由まで、一つの筋書きに固定するのは難しい。
佐治との縁組を経て、お江は秀吉の甥である秀勝と結ばれる。同じ秀吉の庇護下にいた姉妹も、この後はそれぞれの家で異なる立場を担った。三姉妹の人生がもう一度交わる大きな場面は、千姫の婚礼、そして大坂の陣だった。
夫・豊臣秀勝との死別、娘・完子の誕生

お江の夫となった豊臣秀勝は、秀吉の姉・日秀の子で、豊臣秀次の弟だった。秀吉の養子でもある。「秀勝」という名には注意が要る。秀吉の子や、織田信長の子で秀吉の養子になった人物にも同名があり、お江の夫を取り違えやすいからだ。
秀勝は岐阜城主となった後、文禄の役で朝鮮へ渡った。岐阜県図書館の調査回答が紹介する『岐阜市史』によれば、文禄元年(1592)に現地で亡くなっている。お江との結婚年には複数の説があるが、この死別によって夫婦の生活が終わった点は一致する。
二人の間には完子という娘がいた。「さだこ」と読む。完子は後に九条幸家へ嫁いだ女性で、徳川秀忠との間に生まれた千姫とは別人である。お江の子供を調べる時、秀忠との子だけを数えると、この娘が抜け落ちてしまう。
お江が秀忠と再婚する際、完子は茶々に養育されたと伝えられる。ここには実の母と、育てた女性の違いがある。茶々は完子にとって伯母であり、お江が生母だった。豊臣家のもとで養育され、公家の九条家へ嫁いだ来歴を、父の名前だけで説明することはできない。
お江には、秀忠の妻になる以前から子を持つ女性としての時間があった。徳川家へ移ったことで、豊臣家で生まれた娘との血縁が消えるわけでもない。後に大坂で起きる出来事を考える際にも、お江と豊臣家の関係は、姉の茶々がいたという一点にとどまらなかった。
完子の系譜は、将軍家へ続く家光の系譜とは別の枝である。お江の子孫が複数の家へ広がったことを示す、早い段階の分岐だった。
1595年、徳川秀忠と結婚する

文禄4年(1595)、お江は徳川秀忠と結婚した。お江が数え23歳、秀忠が数え17歳。お江の方が6歳年長だった。現在の満年齢と混ぜず、当時の数え年として見ると年齢関係をつかみやすい。
婚姻を進めたのは秀吉だった。『徳川実紀』の婚礼記事を紹介する神戸女子大学図書館の解説には、秀吉の取り計らいと養女としての縁組が示されている。浅井長政の娘という実の出自を持つお江が、豊臣家と徳川家を結ぶ婚姻の当事者になったのである。
この時点の秀忠は、まだ将軍ではない。家康が征夷大将軍になるのは1603年、秀忠が将軍職を継ぐのは1605年だった。「将軍の妻」という後の肩書を結婚した時へ戻すと、豊臣政権下で結ばれた婚姻の意味を見失う。
慶長8年(1603)、二人の娘・千姫が豊臣秀頼へ嫁いだ。国立公文書館の解説は、お江が千姫に付き添って上洛し、秀頼の母・茶々と婚礼の日程を相談したと伝える。嫁ぐ娘の母として、お江自身が動いたことを知る手掛かりである。秀頼はお江の甥であり、この婚姻によって娘婿にもなった。
姉妹が相談した婚礼は、豊臣と徳川の縁組でもあった。母親同士の交際と、大名家の政治は同じ出来事の中に重なっている。お江の役割を「政略結婚に使われた女性」だけで説明すると、娘の婚礼を支える側へ移った後の活動を捉えられない。
秀忠が二代将軍となると、お江は将軍の正室として御台所と呼ばれる立場になった。婚姻、出産、親族との交際を通じて、徳川家の内側を支える存在となっていく。
家光・忠長と娘たち、将軍家に広がる家族

お江と秀忠の子供は、通説では2男5女である。息子が家光と忠長、娘が千姫・珠姫・勝姫・初姫・和子。国立公文書館もこの整理で紹介する。秀勝との娘・完子を加えると、お江の子として一般に挙げられるのは8人となる。
慶長9年(1604)に生まれた竹千代が、後の徳川家光である。その乳母になったのが福、後の春日局だった。お江が生母、福が乳母という関係は明確だ。家光が春日局に育てられたからといって、春日局が家光の母として家系図につながるわけではない。
弟の国松は、後の徳川忠長である。兄弟のどちらが将軍家を継ぐかをめぐり、お江が弟をかわいがり、乳母の福が兄を守ったという話が知られる。ただし、その細かな対立場面は後世の逸話を含む。お江の子供への態度を、すべて確定した出来事として描くことはできない。
娘たちの婚姻先も広い。珠姫は前田利常、勝姫は松平忠直、初姫は京極忠高へ嫁いだ。初姫と、お江の姉である初は別人だが、二人には養育を通じた関係もあった。世代を省いて「初」とだけ記した家系図では、姉と娘を混同しやすい。
和子は後水尾天皇の中宮となり、明正天皇を生んだ。お江は将軍家光の母であるとともに、明正天皇の祖母でもある。将軍と天皇は、ともにお江の子だったのではない。一世代の違いが、家系図を読む時の大切な目印になる。
子供たちの婚姻は、お江一人の意向で決まったものとはいえない。しかし、各地の大名家や朝廷との間に母子・祖母と孫の関係が生まれたことは確かだ。お江の生涯を江戸城だけで考えると、京都や北陸へ広がる家族の姿を見落とす。
大坂の陣で分かれた茶々・初・お江の立場

慶長19年(1614)、徳川方と豊臣方は大坂で戦った。お江の夫・秀忠と義父・家康は徳川方の中心にいた。一方、大坂城には姉の茶々と甥の秀頼、そして秀頼に嫁いだ娘の千姫がいた。大坂の陣は、お江の家族を両陣営に分ける戦いだった。
冬の陣では一度、和睦が成立する。この交渉で活動した女性として記録に現れるのが、豊臣方の常高院、すなわちお江の姉・初と、徳川方の阿茶局である。国立公文書館は、京極忠高の陣で阿茶局と本多正純が常高院と交渉したと説明する。
姉妹の一人が和睦に関わったことと、お江自身が交渉に立ったことは別である。お江を大坂城へ赴いた仲介者として描く根拠は、今回確認した資料からは得られない。茶々、初、お江の行動を一人分の働きにまとめると、三姉妹それぞれの立場が消えてしまう。
翌1615年、再び戦いが始まった。夏の陣で大坂城は落ち、旧暦5月8日に茶々と秀頼は自害した。千姫は城から生き延びる。お江にとっては姉と甥を失い、娘が生還した結末だった。ただし、その知らせを聞いた時の言葉や表情を、本人の記録として伝えることはできない。
姉の死をもって、豊臣家につながるお江の家族がすべて失われたわけではなかった。千姫も、すでに九条家へ嫁いでいた完子も生きている。戦争で滅んだ大名家と、その家に縁を持つ女性たちの系譜は、同じ範囲を指すわけではない。
かつて母とともに城を離れたお江は、今度は将軍の妻として、姉のいる城が落ちる時代を生きた。その立場の違いを押さえると、浅井三姉妹の物語は、単純な徳川対豊臣の対立図には収まらない。
1626年に死去、崇源院として葬られる

元和9年(1623)、家光が三代将軍となった。お江は、夫が将軍職を継ぎ、その後に息子が継ぐ時代を生きたことになる。娘の和子も宮中に入り、お江の家族は江戸の将軍家と京都の朝廷の双方にいた。
寛永3年(1626)旧暦9月15日、お江は江戸城で亡くなった。数え54歳だった。現在の満年齢で54歳だったという意味ではない。没日は辞典類に加え、墓石の銘文を検討した高橋修の研究でも確認できる。
具体的な死因を示す病名は確定できない。没日が分かることと、医学的な原因が分かることは別である。夫婦や母子の不仲を原因とする説明、特定の人物による暗殺説などを、裏付けのある最期として採用することはできない。
葬送については、日付を伴う記録がある。高橋の論文によると、遺体は増上寺へ移され、旧暦10月18日に葬儀と火葬が行われた。火葬骨は石塔に納められた。後世の発掘で確認された骨が火を受けているのも、この葬法と対応する。
崇源院は死後の呼称である。墓や霊廟の名に残るため、現在は生涯全体を指す人物名としても広く用いられる。お江が幼い頃から「崇源院」と呼ばれていたわけではない。院号から調べ始めると、徳川家での晩年や葬送の資料へ行き着きやすい。
お江の死後も、家光と忠長はそれぞれ母を供養する事業に関わった。現在の増上寺の墓所、鎌倉へ移された建物、祐天寺に残る宮殿には異なる来歴がある。一つの霊廟がそのまま残ったと考えるより、各地に受け継がれた建物や墓石を一つずつたどる方が、崇源院の記憶を具体的に知ることができる。
史料の読み解き
お江・お江の方・崇源院の読み方と違い
「江」はごう、「お江」はおごう、「お江の方」はおごうのかたと読む。小督という表記もある。崇源院は辞典では「すうげんいん」の見出しが一般的だが、目黒区の文化財解説などは「そうげんいん」を用いる。同じ女性を指しており、どちらかの表記を別人と考える必要はない。
| 呼称 | 読み方 | 意味・使われ方 |
|---|---|---|
| 江・お江 | ごう・おごう | 人物の通称。「お」は敬称を添えた形 |
| お江の方 | おごうのかた | 敬称を付けた呼び方 |
| 小督 | おごう | 辞典に見える別表記 |
| 江与・お江与 | えよ・おえよ | 別名として挙げられる呼称。資料で表記が異なる |
| 崇源院 | すうげんいん/そうげんいん | 死後の院号。現在は人物名としても使われる |
「徳川秀忠の妻」「家光の母」として紹介された文書と、崇源院の霊廟に関する文書では、使われる呼称が異なる。名前の違いだけを数えるより、誰の妻・母として記されているか、いつ成立した記録かを合わせると同定しやすい。
お江の夫は誰か、結婚相手を順に整理
お江の夫として一般に挙げられるのは、佐治一成、豊臣秀勝、徳川秀忠の三人である。最後の夫が二代将軍の秀忠だった。「お江の旦那」を一人だけで答えるなら秀忠だが、生涯をたどる時には、それ以前の縁組と死別を省けない。
| 順 | 相手 | お江との関係と結末 |
|---|---|---|
| 最初 | 佐治一成 | 初婚の相手とされる。婚約と実際の婚姻の区別、時期には異説がある |
| 二番目 | 豊臣秀勝 | 秀吉の甥で秀次の弟。娘・完子の父。1592年に朝鮮で死去 |
| 三番目 | 徳川秀忠 | 1595年に結婚。お江が1626年に亡くなるまで夫婦だった |
佐治との離縁を、夫の軍事行動への制裁だけで説明する通俗的な筋書きもある。しかし、最初の婚姻そのものの経過に検討の余地がある以上、原因だけを確実なものとして切り離せない。秀勝との結婚年も資料差があるため、年表では細かな月日を固定していない。
秀忠との婚姻は、秀吉が存命中に進められた。後の徳川対豊臣の戦争からさかのぼって、最初から対立する二家を仲直りさせる結婚だったと説明するのも適切ではない。1595年の権力関係と、1614年以降の大坂の陣は、約20年を隔てた状況だった。
家系図で見る茶々・秀頼・家光との関係
お江の実父は浅井長政、実母はお市の方。お市の兄が織田信長なので、信長はお江の伯父となる。姉の茶々(淀殿)は豊臣秀頼の母だった。家系図では、豊臣と徳川に分かれる姉妹の線と、千姫の婚姻による線が重なる。
| 人物 | お江から見た続柄 | 関係の理由 |
|---|---|---|
| 浅井長政・お市 | 父・母 | 実の両親 |
| 茶々・初 | 姉 | 浅井三姉妹の長女・次女 |
| 織田信長 | 伯父 | 母・お市の兄 |
| 徳川秀忠 | 夫 | 1595年に結婚 |
| 徳川家康 | 義父 | 秀忠の父 |
| 豊臣秀頼 | 甥、娘婿 | 姉・茶々の子で、娘・千姫の夫 |
| 徳川家光 | 息子 | 秀忠との子 |
| 明正天皇 | 孫 | 娘・和子と後水尾天皇の子 |
秀頼と千姫は、母同士が姉妹なので、いとこ同士の婚姻となる。お江は秀頼の叔母であると同時に、妻の母でもあった。これが、大坂の陣をお江の家族史から見る時に関係が複雑になる理由だ。徳川家康と秀頼の対立だけでは、両家の中にいる親族の位置を表せない。
子供は何人か、娘6人と息子2人という通説
一般的な整理では、完子と、秀忠との2男5女を合わせて8人となる。娘が6人、息子が2人という数え方だ。ただし、系譜資料には幼くして亡くなった子の扱いや生母の比定に問題が残る。ここでは国立公文書館が示す秀忠との7人を軸に、父親を分けて記す。
| 子供 | 読み方 | 父 | 主な関係 |
|---|---|---|---|
| 完子 | さだこ | 豊臣秀勝 | 茶々に養育されたと伝わり、九条幸家へ嫁ぐ |
| 千姫 | せんひめ | 徳川秀忠 | 豊臣秀頼の妻。大坂落城後も生存 |
| 珠姫 | たまひめ | 徳川秀忠 | 子々姫とも呼ばれ、前田利常へ嫁ぐ |
| 勝姫 | かつひめ | 徳川秀忠 | 松平忠直へ嫁ぐ |
| 初姫 | はつひめ | 徳川秀忠 | 姉・初との養育関係を持ち、京極忠高へ嫁ぐ |
| 徳川家光 | とくがわいえみつ | 徳川秀忠 | 竹千代。江戸幕府三代将軍 |
| 徳川忠長 | とくがわただなが | 徳川秀忠 | 国松。駿府藩主 |
| 和子 | まさこ | 徳川秀忠 | 後水尾天皇の中宮、東福門院。明正天皇の母 |
千姫を「お江の長女」と呼ぶ場合、秀忠との間の長女という意味になる。秀勝との娘・完子まで含めた出生順とは違う。「長女」「次女」という言葉には、誰との子供を数えているかという前提がある。
また、保科正之は秀忠の子だが、お江の子ではない。春日局も家光の乳母であって生母ではない。父を同じくする兄弟姉妹、実母、養育者を分けると、子供の人数の混乱を減らせる。
子孫と天皇、明正天皇はお江の孫
お江から皇室へ直接たどれる代表的な系譜は、「お江 → 和子 → 明正天皇」である。宮内庁の明正天皇の案内でも、父は後水尾天皇、母は皇后和子と確認できる。明正天皇は第109代の天皇で、1629年に皇位を継いだ。お江は1626年に亡くなっているため、孫の即位を見届けてはいない。
将軍家へは「お江 → 家光」と続き、公家へは「お江 → 完子 → 九条家」、大名家へは珠姫・勝姫らの婚姻による枝が広がる。婚姻先の家が続いたことと、ある人物がお江の血縁上の子孫であることは、同じ証明にはならない。養子による家督継承もあるためだ。
現代の著名人まで結ぶ場合には、世代ごとの実親子関係を確認する必要がある。姓の一致や、同じ家の当主であることだけで系譜をつなぐことはできない。確かな範囲で家系を見るなら、まず完子・家光・和子らの子の世代と、明正天皇という孫の世代を分けると理解しやすい。
家光と春日局、お江は本当に長男を嫌ったのか
家光を生んだのはお江で、育てた乳母が春日局だった。広く知られるのは、秀忠とお江が弟の国松をかわいがり、兄の竹千代の立場を案じた乳母が家康に訴えたという逸話である。
国立公文書館の解説は、この話を「一説」として紹介する。掲載する『武野燭談』は1709年成立の書物で、お江が生きた時代から年月を隔てている。家光の幼少期に誰がどの菓子をもらったかといった場面を、同時代の日記と同じ確かさで扱うことはできない。
乳母が将来の将軍を守る話は、春日局の功績を説明する物語として分かりやすい。その分、お江は弟を偏愛する母という役に置かれやすくなる。逸話の中で与えられた役割から、本人の感情を逆算するのは慎重でありたい。
母の死後に家光が供養へ関わった記録も残る。墓石を研究した高橋修は、霊廟の建て替えを母や弟への憎悪で説明する旧説に疑問を示している。家光と母の関係を考えるには、幼少期の逸話だけでなく、供養や造営の記録も照らし合わせる必要がある。
大奥でのお江と春日局の立場
お江は将軍秀忠の正室であり、福は家光の乳母だった。二人は同じ役職を争う女性ではない。お江は婚姻と母子関係によって将軍家の中心におり、福は家光の養育に奉仕する立場から影響力を持つようになった。
東京国立博物館は、女中の序列が整い、「大奥」の呼称が用いられるようになる時期を四代家綱の代と説明する。お江が生きたのは、それに先立ち、二代・三代へと将軍職が継承される初期だった。後世の整った職制をそのまま当てはめず、江戸城の奥向きで暮らす将軍の家族と、そこで働く女性たちを区別した方が、関係を理解しやすい。
福が「春日局」の号を受けるのは1629年で、お江の死後にあたる。後の呼称を用いて二人の関係を説明する場合も、生前からその名で争っていたような場面には注意が要る。お江の活動を調べる際には、乳母との対立だけでなく、千姫の婚礼への同行や親族との書状にも目を向けたい。
死因と墓所、崇源院霊廟は今もあるのか
お江の没日は1626年旧暦9月15日。病名は確定できず、墓所は東京都港区の増上寺にある。現在の徳川将軍家墓所では、秀忠と崇源院が合祀されている。増上寺の公式案内は、戦災後の墓所整理と改葬の経緯を紹介している。
「崇源院霊廟」と検索して見つかるものは、すべて同じ建物ではない。墓石、位牌を安置する建物、建物の中に置く宮殿を区別すると、各地の遺構の来歴を整理できる。
| 場所・資料 | お江との関係 | 現在の姿を理解するための注意点 |
|---|---|---|
| 増上寺・徳川将軍家墓所 | お江の墓所 | 現在は秀忠と合祀。創建時の霊廟群がそのまま残るわけではない |
| 鎌倉・建長寺 | 増上寺の旧霊拝所の建物が移された | 高橋論文は1647年の移築を整理。お江の遺骨を鎌倉へ移したという意味ではない |
| 祐天寺・旧崇源院霊屋宮殿 | 忠長が1628年に造らせた位牌を納める施設 | 静岡の宝台院から移された。増上寺からの移築品とは異なる |
| 恵林寺に再発見された墓石 | 初期の宝篋印塔に関わる石材 | 2014年の再確認を高橋論文が報告。現在の一般公開状況は別途確認が必要 |
目黒区によれば、祐天寺の宮殿は、もとは宝台院の崇源院霊屋に置かれていた。18世紀前半に移されたもので、江戸初期の装飾技術を伝える文化財である。「宮殿」はここでは天皇の住居の意味ではなく、位牌などを安置する小建築を指す。
一方、高橋修の研究は、初期の宝篋印塔が後の塔の下に埋められ、戦後の調査で発見された経緯を検討している。供養の場所は造営、改修、移築、戦災を経て姿を変えた。墓所を訪ねる場合には、今見ているものがいつの時代の何なのかを確かめると、お江の死後の歴史にも近づける。
お江の生涯をたどる年表
- 1573年
- 浅井長政とお市の娘として生まれる。同年に小谷城落城、父が死去
- 1582年
- 母お市が柴田勝家と再婚
- 1583年
- 北庄城落城。母お市が死去し、三姉妹は秀吉の保護下へ
- 1592年
- 夫・豊臣秀勝が朝鮮で死去
- 1595年
- 徳川秀忠と結婚
- 1603年
- 千姫が秀頼へ嫁ぐ。お江は娘に付き添って上洛したとされる
- 1604年
- 竹千代、後の家光が生まれる
- 1605年
- 秀忠が二代将軍になる
- 1614〜1615年
- 大坂の陣。姉茶々と甥秀頼が死去し、千姫は生還
- 1623年
- 家光が三代将軍になる
- 1626年
- 旧暦9月15日に死去。増上寺に葬られる
- 1629年
- お江の死後、孫の明正天皇が皇位を継ぐ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1573年 | 浅井長政とお市の娘として生まれる。同年に小谷城落城、父が死去 |
| 1582年 | 母お市が柴田勝家と再婚 |
| 1583年 | 北庄城落城。母お市が死去し、三姉妹は秀吉の保護下へ |
| 1592年 | 夫・豊臣秀勝が朝鮮で死去 |
| 1595年 | 徳川秀忠と結婚 |
| 1603年 | 千姫が秀頼へ嫁ぐ。お江は娘に付き添って上洛したとされる |
| 1604年 | 竹千代、後の家光が生まれる |
| 1605年 | 秀忠が二代将軍になる |
| 1614〜1615年 | 大坂の陣。姉茶々と甥秀頼が死去し、千姫は生還 |
| 1623年 | 家光が三代将軍になる |
| 1626年 | 旧暦9月15日に死去。増上寺に葬られる |
| 1629年 | お江の死後、孫の明正天皇が皇位を継ぐ |
史料から分かること、留保が必要なこと
| 主張 | 確度 | 根拠・留保 |
|---|---|---|
| 浅井長政とお市の娘、茶々・初の妹 | 高 | 人物事典、国立公文書館、長浜市の解説が一致 |
| 1595年に秀忠と結婚した | 高 | 辞典、公文書館の人物解説、『徳川実紀』を紹介する大学展示 |
| 秀忠との子は2男5女 | 通説 | 公文書館などの標準的な整理。早世児や生母比定には資料差 |
| お江の孫が明正天皇である | 高 | 和子の出自と、宮内庁による明正天皇の父母の確認 |
| 佐治一成との婚姻・離縁の細部 | 要留保 | 婚約との区別や時期に異説。細かな原因を固定しない |
| お江が忠長を偏愛し家光を嫌った | 伝承を含む | 『武野燭談』など後世の記録。本人の感情としては確定しない |
| お江自身が大坂の和睦使者だった | 裏付けなし | 確認した解説の交渉者は常高院・阿茶局ら |
| 1626年旧暦9月15日没 | 高 | 辞典類と墓石研究で照合 |
| 特定の病気や暗殺によって死んだ | 未確定 | 没日と葬送の記録から病名・加害者は特定できない |
お江は、家族を失った落城の経験だけで語り尽くせる女性ではない。千姫の婚礼に同行し、姉へ礼状を送り、将軍家の妻と母として暮らした時間がある。徳川秀忠と豊臣秀頼の生涯を合わせてたどると、両家の間で重なっていた婚姻と血縁が、より具体的に見えてくる。
お江(崇源院)の逸話
- 逸話 01
「五」と署名した、姉・初への礼状

文机で筆を取るお江の想像図。現存書状の筆跡や署名は模写していない · AI生成イメージ お江が姉の常高院に送った手紙には、「五」という署名がある。神戸女子大学図書館の展示解説によれば、将軍が北の丸へ来る祝いの日に、魚を贈られたことへの礼状だった。天気に触れ、贈り物に礼を述べる文面から、姉妹の日常の交際がうかがえる。
漢字一字の「五」は、「ごう」という名を表したものだ。同じ人物を江・郷などと書くことがあるため、表記が違うから別人とは限らない。ただし、展示解説だけではこの手紙の執筆年を確定できない。お江と初がどの出来事の直後に何を相談したかまで、この一通から広げることはできない。
この礼状でお江がしているのは、相手から届いた祝いに応じることだった。将軍家と親族の付き合いには、婚礼や和睦だけでなく、こうした贈答のやり取りもあった。魚の礼を伝える書状は、茶々・初・お江を落城の場面だけで記憶する時には見えにくい、姉妹のつながりを残している。
- 逸話 02
小袖の注文に残る、寸法と模様の指定

布を手に取るお江の想像図。雁金屋の注文品や店内の復元ではない · AI生成イメージ 京都の呉服商・雁金屋への注文も、お江の暮らしを知る資料となる。神戸女子大学図書館は、1604年の注文に寸法や模様の細かな指定があると紹介している。小柄な模様を求め、肩と裾に模様を置く仕立てなどを選んでいたという。
ここで見えるのは、必要な衣服を具体的に整える仕事である。寸法、模様の配置、数量が記されていれば、作り手はその指定に沿って準備できる。注文をすべて本人が口頭で伝えたとまでは分からないが、御台所の衣生活を支えるやり取りがあったことは読み取れる。
一つの注文から、お江が生涯を通して同じ色や柄だけを好んだとはいえない。注文帳の記述と、現在描かれるお江の衣装も別である。本記事の人物画は指定の参照画像をもとにした想像図であり、雁金屋の注文品を復元したものではない。書状や注文の記録に目を向けると、大きな政治事件の間にあった日々の活動にも近づける。
- 逸話 03
秀忠が恐れた妻、という人物像はいつ生まれたか

扇を持って廊下に立つお江の想像図。恐妻の逸話を実際の場面として再現したものではない · AI生成イメージ お江は気が強く、旦那の秀忠も頭が上がらなかったという話がある。その根拠をたどると、秀忠の子・保科正之の出生をめぐる記録に行き着く。国立公文書館は『台徳院殿御実紀』について、正之の生母を「しづの局」と記し、お江をはばかって育てたという説明を噂として割注に載せると紹介している。
大道寺友山の『落穂集』にも、お江を恐れて正之を人知れず養育したという話がある。同書の成立は1727年。お江の死から約100年後だった。この頃までに、恐い御台所という人物像が語られていたことは分かる。
しかし、後世に成立した人物像と、夫婦が実際に交わした会話は同じではない。秀忠に正之という子がいた事実も、お江が側室を禁じたという主張を自動的には証明しない。正之の生母はお江ではなく、お江の子供の人数にも含めない。家族関係を確かめたうえで逸話を読むと、記録された出来事と、そこに加えられた性格の説明を区別できる。
関連人物
- 浅井長政(父)
- お市の方(母)
- 完子(父・秀勝)
- 千姫
- 珠姫
- 勝姫
- 初姫
- 徳川家光
- 徳川忠長
- 和子(以上7人は父・秀忠とする通説)
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 崇源院(日本大百科全書・世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)小学館・平凡社・講談社ほか/コトバンク参照日 2026-10-24
- 『広報ながはま』2011年2月号、4–5頁(江の生涯)長浜市参照日 2026-10-24
- 2011年 Early Spring 展示「江」神戸女子大学図書館参照日 2026-10-24
- 豊臣秀勝の岐阜城在城期間について(『岐阜市史 通史編 近世1』15–16頁の紹介)岐阜県図書館/レファレンス協同データベース参照日 2026-10-24
- 千姫の輿入れ国立公文書館参照日 2026-10-24
- お江と家光・忠長国立公文書館参照日 2026-10-24
- 大坂冬の陣・夏の陣国立公文書館参照日 2026-10-24
- 家康死去後も幕府を支えた阿茶局国立公文書館参照日 2026-10-24
- 44.御実紀(台徳院殿御実紀)国立公文書館参照日 2026-10-24
- 45.落穂集国立公文書館参照日 2026-10-24
- 明正天皇 月輪陵宮内庁参照日 2026-10-24
- 明正天皇(世界大百科事典ほか)平凡社・小学館ほか/コトバンク参照日 2026-10-24
- 高橋修「再発見にかかる崇源院(二代将軍徳川秀忠夫人)墓石の碑文考」『東京女子大学紀要論集』68巻1号、2017年、99–124頁東京女子大学参照日 2026-10-24
- 徳川将軍家墓所増上寺参照日 2026-10-24
- 旧崇源院霊屋宮殿 東京都指定有形文化財(建造物)目黒区参照日 2026-10-24
- 東福門院(世界大百科事典・日本史小辞典ほか)平凡社・山川出版社ほか/コトバンク参照日 2026-10-24
- 特別展「江戸☆大奥」プレスリリース、2025年、2頁東京国立博物館参照日 2026-10-24














