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安土桃山〜江戸時代前期斎藤氏15791643
武将列伝安土桃山〜江戸時代前期徳川

かすがのつぼね

春日局どんな人?父親・家系図と大奥、死因をたどる

享年 65Kasuga no Tsubone
生没年
1579–1643
出身
丹波黒井(伝承・異説あり)
家
徳川
春日局の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 人物・衣装・情景はAIによる想像復元。史料としての肖像や建築復元ではない。
  • 姫・女性
  • 大奥
  • 徳川家光
生年
1579年天正7年・通説
没年
1643年寛永20年・数え65歳
父親
斎藤利三明智光秀の重臣
役割
家光の乳母江戸城奥向きの統率

春日局は、徳川三代将軍・家光を育てた乳母で、江戸城の大奥の基礎を築いた女性である。名は福。父親は明智光秀の重臣・斎藤利三、夫は稲葉正成で、息子に正勝らがいた。1579年に生まれたとされ、1643年に数え65歳で没した。具体的な死因の病名は確定できない。

生い立ちからは、斎藤家と稲葉家のつながりが見える。家光の乳母になってからは、徳川家康への訴えの伝承、朝廷への参内、大名や天海との書状のやり取りへと活動が広がる。「どんな人だったのか」を知るには、強い乳母という印象に加え、将軍家の内外を結んだ仕事をたどるとよい。

大河ドラマや『大奥』では、お江やお万の方との対立が印象に残る。しかし、生母と乳母の役割、後に整った大奥の制度、作品のために作られた場面は同じではない。本記事では、人物事典、自治体・博物館の資料、書状の解題と研究論文を照らし合わせて、その違いも紹介する。

01出自ORIGIN

生まれと父親——斎藤利三の娘・福

丹波の山と麓の館を題材にした無人の想像風景。黒井城下の実測復元ではない(AI生成イメージ)
丹波の山と麓の館を題材にした無人の想像風景。黒井城下の実測復元ではない · AI生成イメージ

春日局の名は福という。天正7年(1579)の生まれとされ、父は斎藤利三だった。利三は明智光秀の重臣である。光秀と春日局の関係をたどる出発点は、この父の奉公先にある。春日局を光秀の娘として家系図につなぐのは誤りだ。

生まれた場所として知られるのは、丹波の黒井である。現在の兵庫県丹波市にあたり、黒井城の麓には福の生誕を伝える興禅寺がある。丹波市の文化財案内も、利三が居館を構えた場所と春日局の出生伝承を紹介している。ただし、人名事典には美濃生まれとするものもある。黒井をゆかりの地として紹介することと、出生地を確定することは分けておきたい。

幼い福の暮らしを変えたのは、天正10年(1582)の本能寺の変だった。父利三は光秀に従い、その後の山崎の戦いで明智方は羽柴秀吉に敗れる。利三は捕らえられ、処刑された。1579年生まれの説によれば、福は数え4歳で父を失ったことになる。

ここから福がどこを通り、誰と何日を過ごしたかは、細部まで追えない。逃避行を描く物語は多いが、幼児の記憶や会話がそのまま記録に残ったわけではない。確かな筋道として押さえられるのは、父の死後、福が稲葉家の保護につながっていったことである。

岐阜市歴史博物館の研究ノートは、福が稲葉一鉄に匿われ、重通の養女になったと紹介する。父を失った後の生い立ちは、戦の勝敗だけでは説明できない。斎藤氏と稲葉氏の縁が、その後の生活と婚姻を支えた。乳母として江戸へ入る以前に、福には美濃の武家社会で過ごした時間があった。

02稲葉家FAMILY

夫・稲葉正成との婚姻と息子たち

室内で布を手にする福の想像図。婚姻生活の特定の出来事を再現したものではない(AI生成イメージ)
室内で布を手にする福の想像図。婚姻生活の特定の出来事を再現したものではない · AI生成イメージ

福の養父となった稲葉重通は、稲葉一鉄の子である。福はその養子・正成に嫁いだ。夫の正成は、もとは美濃の十七条城主・林政秀の子だった。岐阜市歴史博物館の解説によると、林氏と稲葉氏の和睦に伴い、重通の婿に入って稲葉姓を名乗ったという。福は正成にとって二番目の妻にあたる。

同じ「稲葉家」という呼び方の中にも、実の親子、養子、婚姻による結び付きがある。福と正成が同じ養父につながるからといって、実の兄妹だったわけではない。後の子孫を調べる際にも、姓だけで血のつながりを判断しないことが大切になる。

息子として挙げられるのが、正勝・正定・正利らである。湯島の麟祥院はこの三人を紹介する一方、人物事典には四男を生んだとする記述もある。本記事では、資料で名前を確認できる主要な息子を掲げ、子どもの総数は固定しない。なかでも正勝は、母と家光との結び付きの中で幕府の重職へ進んでいく。

福と正成は、のちに離縁した。広く知られる筋書きには、夫婦の不和や福の激しい気性を原因とする話がある。しかし、今回確認した辞典と博物館の解説から、離縁の具体的な場面や動機までは確定できない。夫婦の会話を補うと、乳母として働く前の福を、一つの性格に決めつけることになる。

福の婚姻生活と江戸での仕事は、正勝らを通じてつながっている。家を離れたからといって、実子との関係が消えたわけではなかった。後年の春日局は家光の養育者であると同時に、正勝の母であり、正則の祖母でもある。それぞれの関係を分けて見ると、将軍家と稲葉家を結ぶ立場が分かりやすい。

03乳母NURSE

1604年、竹千代の乳母になる

眠る幼児を抱く福の想像図。竹千代の養育を題材とした場面(AI生成イメージ)
眠る幼児を抱く福の想像図。竹千代の養育を題材とした場面 · AI生成イメージ

慶長9年(1604)、徳川秀忠と江の間に竹千代が生まれた。後の三代将軍・徳川家光である。福はその乳母に選ばれた。1579年生まれとすれば数え26歳。自分の子を産み育てた経験のある女性が、将軍家の子の養育を担うことになった。

乳母は、乳を与えるだけの役目ではない。幼児の身近にいて成長を支え、長く奉公すれば、育てた子との間に強い結び付きが生まれる。春日局の場合、その子が将軍になった後にも関係が続いた。家光の幼少期だけを見ていては、後年に大名や朝廷との間で活動する理由を捉えきれない。

乳母選びの経緯について、日本大百科全書などは京都所司代・板倉勝重の推挙を挙げる。一方、推薦者や募集の様子をめぐっては複数の説明がある。公募に応募した一人の女性が、面接で他の候補者を圧倒したという場面まで、確認済みの史実として描くことはできない。確実なのは、この年に家光の乳母になったという経歴だ。

家光の生母は江であり、福は乳母である。この区別は家系図でも欠かせない。江は浅井長政とお市の娘で、豊臣秀吉の側室となった茶々の妹にあたる。家光は浅井家・織田家にも血縁を持つが、その系譜が福の実家である斎藤家につながるわけではない。

江戸城での福の位置は、将軍の妻でも側室でもなかった。家光の養育に奉仕する立場から、信頼と影響力を得ていったのである。息子の正勝も家光に近侍した。幼少期から身辺にいた人々が、成長後の将軍を支える人々にもなる。その過程に、春日局と稲葉家の歩みを読む手掛かりがある。

04継承SUCCESSION

竹千代と国松、徳川家康への訴え

笠を手に旅路を進む福の想像図。家康への訴えの伝承を題材とし、経路は復元していない(AI生成イメージ)
笠を手に旅路を進む福の想像図。家康への訴えの伝承を題材とし、経路は復元していない · AI生成イメージ

竹千代には、弟の国松がいた。後の徳川忠長である。春日局の生涯でよく語られるのは、秀忠と江が弟を好み、兄の継承が危うくなったため、福が駿府の徳川家康に訴えたという話だ。日本大百科全書は元和元年(1615)の出来事とし、伊勢参宮を口実にした「春日の抜参り」と紹介している。

この逸話は、福が家光の将来を守った女性として記憶される理由になった。ただし、家康が兄弟を並べて座らせた場面や、その時に発した言葉まで、同時代の記録で確認できるわけではない。後年の記録と物語が重なった話として読む必要がある。

一方、家康が家光の地位に関心を持っていたことには、別の手掛かりがある。井澤潤の研究は、金地院崇伝の書状を検討し、1615年末から翌年にかけて、家康のもとで家光の上洛や元服の予定が相談されていたと指摘する。ここから分かるのは、家康が孫の将来の立場を整えようとしていたことだ。

春日局が後年に日光へ奉納したとされる「東照大権現祝詞」も、家康の恩を強調する。ただし、祝詞は神をたたえ、感謝をささげる文章である。過去の出来事を中立に記録した日記とは性格が違う。家光を支える側が、家康とのつながりをどう理解していたかを伝える史料として読むと、その特徴が見えてくる。

家光が将軍に就いたのは元和9年(1623)だった。家康の死からは年月がたっている。継承を福の直訴一回で決まった出来事としてまとめると、秀忠から家光へ政権が移る過程を見落とす。福の働きを評価しつつ、将軍家の継承には複数の人と手続きが関わったことも押さえておきたい。

05春日局COURT

大奥での役割と1629年の参内

扇を持って座る春日局の想像図。朝廷との関わりを題材とし、参内儀礼そのものの再現ではない(AI生成イメージ)
扇を持って座る春日局の想像図。朝廷との関わりを題材とし、参内儀礼そのものの再現ではない · AI生成イメージ

家光が将軍となり、寛永3年(1626)にはその母・江が亡くなった。福は江戸城の奥向きで大きな力を持つようになる。人物事典は、女中たちを統率し、幕府の内外に影響を及ぼしたと説明する。養育者として得た信頼が、家光の周囲の人々や仕事を取りまとめる立場につながった。

寛永6年(1629)、福は京都へ上り、後水尾天皇に拝謁した。この時に受けたのが春日局の号である。以後の名を生涯全体の呼び名として使うことはできるが、子どもの頃から「春日局」と呼ばれていたわけではない。

参内に際しては、公家の三条西実条の猶妹となったと伝えられる。猶妹とは、実の姉妹ではない女性を妹に準じる関係に置くことだ。これは幼少期に稲葉重通の養女となった話とは別である。「養女になった」という一語で両方を説明すると、誰と、いつ、どのような関係を結んだかが曖昧になる。

当時は、紫衣事件などを背景に朝廷と幕府の関係が緊張していた。福の上洛も、単なる個人的な栄誉としては捉えきれない。人物事典は秀忠の内意を受けた行動として説明している。春日局の活動の範囲は、江戸城の居室から京都の宮中にまで及んでいたのである。

ただし、大奥の制度をすべて春日局が一度に完成させたとするのは正確ではない。東京国立博物館の特別展「江戸☆大奥」の解説は、女中の序列が整い「大奥」と称されるようになるのを四代家綱の時代とし、家光の時代にその礎を築いた人物として春日局を挙げる。後世の整った制度を、そのまま福の時代へ戻して考えないようにしたい。

06交流CONNECTIONS

息子・正勝の死と、天海へ送られた書状

文机の前で書状を確かめる晩年の春日局の想像図。現存文書の文字は再現していない(AI生成イメージ)
文机の前で書状を確かめる晩年の春日局の想像図。現存文書の文字は再現していない · AI生成イメージ

春日局の息子・稲葉正勝は、家光のもとで老中に相当する役を担った。母が乳母だったという縁は、正勝の奉公の出発点にもなった。岐阜市歴史博物館の研究ノートは、正勝を、後の淀稲葉家の礎を築いた人物として位置付けている。

しかし、寛永11年(1634)、正勝は母に先立って亡くなった。家を継いだ正則はまだ幼く、春日局が養育したとされる。同年には家光が正則のいる小田原城へ立ち寄ったことも、同館の解説に見える。家光の乳母としての関係が、次の世代の稲葉家にも及んでいた。

春日局は、僧の天海とも連絡を取っていた。井澤潤の論文が紹介するのは、寛永14年(1637)7月16日付と推定される、天海宛の春日局・英勝院の書状である。家光の娘・千代姫の宮参りに触れ、男児の誕生を期待する内容が読み取れるという。後継者の誕生を願う奥向きの女性と、祈りに関わる僧との接点がここにある。

この書状は、原本を直接確認したものとして扱うことはできない。同論文の注記によると、『日光市史』所収の女房消息は、天保年間にまとめられた史料集へさかのぼり、原本の所在は不明という。書き継がれた文書から交流を検討することと、現存する自筆原本を示すことは区別される。

寛永17年(1640)には、春日局の日光参詣が確認できる。井澤はこの時期と「東照大権現祝詞」の内容を照合し、同年8月の奉納と判断した。乳母の仕事は、すでに成人した家光の健康や子孫の繁栄を願う活動にも広がっていた。育てた子の身辺を支える関係は、乳幼児期が終わった後も続いていたのである。

07最期LEGACY

死因は分かるのか——1643年、数え65歳で没する

夕暮れの縁側に座る、白髪まじりの春日局の想像図。臨終の場面ではない(AI生成イメージ)
夕暮れの縁側に座る、白髪まじりの春日局の想像図。臨終の場面ではない · AI生成イメージ

春日局は寛永20年(1643)旧暦9月14日に亡くなった。1579年生まれとする通説では、数え65歳にあたる。満年齢の65歳という意味ではない。墓は江戸湯島の麟祥院にあり、同寺の由緒もこの没日と年齢を伝えている。

死因について、特定の病名を確実に示す記録は、今回確認した資料からは得られなかった。よく知られるのは、家光の病気平癒を祈って薬断ちを誓い、自分が病んだ時にも薬を飲まなかったという話である。これは麟祥院が伝える由緒であり、病名や医学的な死因が分かったという意味にはならない。

同じ話でも、家光が病気になった年や、最期の場面には説明の違いがある。そこで本記事では、誓願の年を一つに固定せず、家光を案じる春日局の人物像を伝えてきた逸話として扱う。「薬を断ったから亡くなった」と因果まで言い切ると、史料に書かれたことを越えてしまう。

麟祥院は、春日局の生前から関わりの深い寺だった。文京区の案内によれば、家光から湯島の土地を与えられて庵を設け、のちに寺として整えた。1634年、息子正勝の死後に受けた麟祥院という号が、寺名にもつながる。墓を訪ねると、将軍家の乳母という立場と、子を失った母としての来歴が同じ場所に重なる。

墓石に穴があることも知られている。同寺は、死後も天下の政道を見守りたいという遺言に由来すると伝える。穴の存在と、その意味を語る由緒は、それぞれ受け止めたい。春日局の死後も、江戸城の奥を支えた女性としての記憶は、寺の供養や土地の呼び名、そして後世の物語の中に残っていった。

02
READING

史料の読み解き

家系図で整理する父親・夫・息子——家光は実子ではない

春日局の家系図は、実家の斎藤氏、養家・婚家の稲葉氏、奉公先の徳川家を分けると理解しやすい。父・斎藤利三から福、福から正勝、正勝から正則へと続くのが、血縁をたどれる一つの系統である。徳川家光は、この親子の列には入らない。

人物春日局との関係家系図での注意点
斎藤利三実父明智光秀に仕えた武将
稲葉重通養父実父の利三とは別に記す
稲葉正成夫、のち離縁林政秀の子で、稲葉家に入った
稲葉正勝・正定・正利ら息子子の総数には資料差がある
稲葉正則正勝の子、春日局の孫父の死後、春日局が養育したとされる
徳川家光乳母として育てた人物生母は江。実子や養子として線を引かない
三条西実条参内時に猶妹となった相手稲葉重通との養親子関係とは別

母方の系譜には注意が要る。稲葉一鉄の娘と紹介されることもあるが、今回参照した複数の辞典は稲葉通明の娘と記す。稲葉家との縁があったことと、母の父を誰とするかは別の論点だ。そのため、この家系図では母を稲葉氏の女性とし、一鉄まで確定した血縁線を延ばしていない。岐阜市歴史博物館の研究ノートと人物事典の各項目も併せて参照されたい。

明智光秀・豊臣秀吉・長宗我部との関係

明智光秀は父利三の主君だった。豊臣秀吉は、1582年の山崎の戦いで光秀を破った人物である。この敗戦が福の家族の境遇を変えた。一方、その後の福の行動を、秀吉への復讐心から説明できる史料は、今回の調査では確認していない。父の死という出来事と、本人が後に何を考えたかは区別が必要だ。

長宗我部元親とのつながりは、父の縁戚と外交にある。林原美術館・岡山県立博物館の共同研究によれば、利三の実兄・石谷頼辰は石谷光政の養子となり、光政の娘が元親に嫁いでいた。頼辰は福の伯父であり、養家を介して元親と義兄弟になる。ここを「利三の実妹が元親の妻」とだけ説明すると、養子関係を落としてしまう。石谷家文書は、利三や頼辰が元親との交渉に関わったことも伝える。共同研究の発表

福自身が幼い頃に土佐へ逃れたという伝承もある。高知市の歴史散歩は、寺石正路の『南国遺事』などに見える話を紹介している。ただし、後世の郷土史に残る伝承を、当時の日付を伴う滞在記録と同じには扱えない。長宗我部家との縁を知る手掛かりとして紹介し、生い立ちの確定した年表には組み込まない。

徳川家康との関係は、どこまで史料で分かるのか

春日局と徳川家康は、家光の養育と後継者問題を通じて結び付く。家康は家光の祖父であり、福はその乳母である。二人を夫婦や実の親子とする根拠は、参照した資料にはない。

有名な直訴の話を読む際には、少なくとも三つの記録の性格を分けたい。一つは、抜参りを伝える後年の叙述。次に、家光の元服や上洛の計画を伝える崇伝の書状。もう一つが、家康の死後に奉納された「東照大権現祝詞」である。これらは、同じ場面を別々に実況した三つの記録ではない。

祝詞では、家光が将軍となれたことを家康の恩として語る。その表現と、実際に準備されていた元服などの手続きを照合したのが井澤潤の研究である。祝詞の内容をそのまま継承決定の議事録とせず、家光と側近たちの認識を伝えるものとして読む。この区別によって、家康の関与を認めつつ、劇的な直訴の一場面だけに説明を集めずに済む。井澤潤「東照大権現祝詞にみる徳川家光の東照大権現崇拝心理」

お江・お江の方・茶々は、それぞれ誰なのか

お江、お江の方、江は、ここでは徳川秀忠の妻で家光の母となった女性を指す。法号が崇源院である。春日局とは、家光を産んだ母と、乳母として育てた女性という関係になる。江の姉が茶々、すなわち淀殿で、豊臣秀吉の側室となり秀頼を産んだ。崇源院・淀殿の人物事典で系譜を確認できる。

呼び名夫・家族春日局を読む際の位置
江・お江の方・崇源院徳川秀忠の妻、家光・忠長らの母家光の生母
茶々・淀殿豊臣秀吉の側室、秀頼の母江の姉。家光から見れば伯母
春日局・福稲葉正成の元妻、正勝らの母家光の乳母

竹千代と国松の継承をめぐる話では、江が国松を好んだと語られる。しかし、それを江と春日局の毎日の敵意や、育児の細かな衝突まで裏付けるものにはできない。継承問題について後年に語られたことと、二人がその場で交わした言葉の再現は違う。

茶々についても同様だ。江の姉だからといって、春日局と直接争ったことにはならない。大坂の豊臣家と江戸の徳川家が対立した歴史に、女性同士の個人的な会談や対決を追加するには、別の根拠が要る。家族関係を押さえたうえで作品を見ると、どこから脚色が加わったのかを考えやすくなる。

大奥は春日局が作ったのか——お万の方との関係も整理する

春日局は大奥の基礎を築いた人物といえる。ただし、後世の役職やしきたりのすべてを一人で制定した、とまで広げない方が正確だ。東京国立博物館は、女中の序列と「大奥」の呼称が整う時期を家綱の代としている。家光の時代の活動を理解するには、後に完成した制度との時間差を意識する必要がある。特別展「江戸☆大奥」解説

お万の方にも、同名の別人がいる。春日局や家光とともに語られるのは、のちの永光院である。家康の側室である長勝院や養珠院も「お万の方」と呼ばれるため、名だけを手掛かりに人物関係をつなぐと混乱する。お万の方の人物事典

家光のお万の方については、慶光院の院主だった女性を春日局が還俗させ、大奥へ入れたという話が知られる。従来の辞典にもこの筋書きがあるが、平凡社の解説は福田千鶴の研究を紹介し、院主だったとする記録が見つからない点を指摘する。古い説明を繰り返すだけでなく、研究上の再検討があることを併記したい。

また、「大奥総取締」は、時代劇でなじみのある呼び名でも、当時の正式な役職名としてそのまま使えるものではない。同解説は、お万の方に関して大上臈という呼称を示す。春日局が彼女に出産を禁じたとする話にも検討の余地があり、確認済みの命令として扱わない。平凡社「Web太陽」のお万の方解説

将軍家の後継者を確保することは、奥向きの女性たちの生活にも深く関わった。それでも、側室の来歴や出産の有無を、一人の女性の陰謀だけで説明することはできない。お万の方の話は、よく知られた大奥像と、史料から確かめられる人物の来歴を分ける例になる。

天海との交流は、明智光秀の生存説の証拠になるか

春日局と南光坊天海の交流は、天海宛の書状を検討した研究からたどれる。ただし、その交流が天海と明智光秀を同一人物とする証拠になるわけではない。父の主君だった光秀と、江戸時代の天海との間を、春日局との接点だけでつなぐことはできない。

国立国会図書館の人物解説は、天海を天台宗の僧として紹介し、家康の信頼を得て宗教活動を行った経歴を示す。春日局の側にも、家光の健康や子孫の繁栄を願う活動があった。両者の接点を考えるには、まず、その奉公と宗教活動の関係を見るのが順当である。国立国会図書館「天海」

「東照大権現祝詞」や女房消息を扱う研究は、家光の周囲で家康への信仰がどのように共有されたかを考える材料になる。人物の正体を入れ替えなくても、春日局と天海が連絡を取り合う背景は理解できる。交流の有無と、二人の人物の同一性は、それぞれ別の証明を必要とする問題だ。

大河ドラマ『春日局』はいつの作品?史実との違いは?

NHK大河ドラマ『春日局』は1989年放送の第27作で、全50回。主演は大原麗子、原作・脚本は橋田壽賀子だった。放送ライブラリーは第1回「父の出陣」の記録を公開しており、放送日、制作、出演者を確認できる。放送ライブラリーの番組記録

作品は、父を失った福が家光の乳母となる生涯を物語として描く。人物を身近に感じられる一方、会話や心理、出来事のつなぎ方には脚色がある。大河ドラマで見た場面を調べる時は、年号や親子関係を確認した後、その場面を伝える史料があるかを別に確かめるとよい。

七色の飯を用意して家光の食欲を促したという話も、春日局の気配りを伝える逸話として知られる。平凡社の解説は江戸時代中期の『明良洪範』に見える話として紹介する。ただし、この飯の逸話から大奥の創設理由まで導くのは飛躍である。物語の分かりやすさを楽しみながら、史料の成立時期も確かめると、春日局像が作られてきた過程まで見えてくる。平凡社「Web太陽」の春日局解説

主な出来事と、分かっていることの確度

1579年
福が生まれたとされる
通説の生年。黒井生誕は伝承、美濃説もある
1582年
父・斎藤利三が山崎の戦い後に処刑される
父の経歴は確認できる。福の避難経路の細部は不明
1604年
竹千代の乳母となる
辞典・博物館・寺院の解説で一致
1615年頃
家康に訴えたと伝わる
抜参りの伝承。具体的な会話は確定しない
1623年
家光が三代将軍となる
福の乳母としての関係は以後も続く
1629年
参内し、春日局の号を受ける
幼少期からの名ではない
1634年
息子・正勝が死去
正則への家督継承と春日局による養育を博物館が解説
1637年
天海宛の春日局・英勝院書状
論文による年次推定。原本の所在は不明
1640年
日光参詣
祝詞の内容との照合により同年8月の奉納とする研究がある
1643年
旧暦9月14日に死去
数え65歳。具体的な死因の病名は確定できない
年出来事確度・読み方
1579年福が生まれたとされる通説の生年。黒井生誕は伝承、美濃説もある
1582年父・斎藤利三が山崎の戦い後に処刑される父の経歴は確認できる。福の避難経路の細部は不明
1604年竹千代の乳母となる辞典・博物館・寺院の解説で一致
1615年頃家康に訴えたと伝わる抜参りの伝承。具体的な会話は確定しない
1623年家光が三代将軍となる福の乳母としての関係は以後も続く
1629年参内し、春日局の号を受ける幼少期からの名ではない
1634年息子・正勝が死去正則への家督継承と春日局による養育を博物館が解説
1637年天海宛の春日局・英勝院書状論文による年次推定。原本の所在は不明
1640年日光参詣祝詞の内容との照合により同年8月の奉納とする研究がある
1643年旧暦9月14日に死去数え65歳。具体的な死因の病名は確定できない

春日局を知る史料には、それぞれ得意なことがある。書状は具体的な相手とのやり取りを示し、家譜は親子や家の継承をたどる材料になる。寺の由緒や後世の逸話は、どのような女性として記憶されたかを伝える。これらを読み分けると、家光への献身だけでなく、親族を支え、宮中へ出向き、城外と文を交わした春日局の仕事が見えてくる。

04
EPISODES

春日局の逸話

  1. 逸話 01

    抜参りの逸話——家康に会うための旅

    社の前で手を合わせる春日局の想像図。参宮の逸話を題材にした情景(AI生成イメージ)
    社の前で手を合わせる春日局の想像図。参宮の逸話を題材にした情景 · AI生成イメージ

    春日局が家康へ訴えた話は、「春日の抜参り」と呼ばれる。伊勢参宮を願い出て江戸を離れ、駿府へ向かったという筋書きだ。家光の将来を心配する乳母が、自ら行動して大御所の判断を求める。後世の春日局像を形作った代表的な逸話である。

    読む時に気を付けたいのは、参宮、駿府への立ち寄り、家康の返答を、すべて同じ確かさで語らないことだ。日本大百科全書はこの話を人物の経歴に含めるが、会話の一言一句を裏付ける同時代の記録を示しているわけではない。旅の途中の不安や決意も、本人の言葉として補うことはできない。

    家康による家光の後押しは、崇伝の書状に見える元服・上洛の計画からも考えられる。逸話と文書を並べると、家康が孫の将来に関与したという共通点と、春日局がどのように働きかけたかという未確定の部分が分かれる。伝承の印象的な場面に加え、別の記録でどこまで確かめられるかを見ることで、継承問題の理解が深まる。

  2. 逸話 02

    薬断ちの逸話——家光への祈りと死因の違い

    器を前に静かに考える春日局の想像図。薬断ちの伝承を題材とし、実際の治療器具は復元していない(AI生成イメージ)
    器を前に静かに考える春日局の想像図。薬断ちの伝承を題材とし、実際の治療器具は復元していない · AI生成イメージ

    麟祥院の由緒は、家光が疱瘡を患った時、春日局が東照大権現に回復を願ったと伝える。その際、自分が病気になっても薬を用いないと誓い、家光が回復した後も誓いを守ったという。家光の命を守ろうとする姿が、後世まで強く印象に残る話である。

    ただ、祈りの内容を伝える文章は、医師が残した診療記録とは違う。春日局が最期に何の病気だったのか、治療がどの程度可能だったのかは、この由緒から判断できない。薬断ちを紹介する時には、逸話の意味と死因の特定を一つにしないことが必要になる。

    一方、家光の健康を願う気持ちは、祝詞や天海との連絡を扱う研究にも現れる。こちらからは、病気や世継ぎの問題が祈願と結び付き、春日局の奉公の一部になっていたことを考えられる。伝承を事実そのものと見なさなくても、なぜその話が春日局に結び付けられたのかを、当時の活動と照らして読むことはできる。

  3. 逸話 03

    塩漬けの鶴への礼状——書状に残る日々の交際

    文机で手紙を整える春日局の想像図。伊賀市所蔵書状の筆跡を模写したものではない(AI生成イメージ)
    文机で手紙を整える春日局の想像図。伊賀市所蔵書状の筆跡を模写したものではない · AI生成イメージ

    伊賀市が公開する「春日局書状」には、鶴を贈られたことへの礼が記されている。同市の解題は、包紙の上書きから相手を藤堂高次と推定する。鶴は国元から塩漬けにして届けられたものらしい。劇的な対立の場面とは違い、贈り物を受け取って返事をする春日局の姿が見える。

    書状の年次は記されていない。伊賀市は、高次が藩主になった1630年から春日局が没する1643年までの間と推定している。宛先も年代も、解題の判断を含む。この留保を残すと、実物がある文書でも、すべての情報が自動的に確定するわけではないことが分かる。

    鶴への繰り返しの謝意は、大名家との交際を支える具体的なやり取りだった。ただし、この一通だけで、贈答を賄賂や特別な政治取引と解釈することはできない。春日局の影響力を考える時、逸話の勇ましさだけでなく、こうした返礼と書状の仕事にも目を向けたい。城の奥にいる女性が、城外の人々と連絡を取り続けていたことを伝える資料である。

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関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 斎藤利三(実父)
  • 稲葉氏の女性(母・系譜に異説)
  • 稲葉重通(養父)
本人春日局(福)
配偶者稲葉正成(のち離縁)
子
  • 稲葉正勝
  • 稲葉正定
  • 稲葉正利ら

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 春日局(日本大百科全書・世界大百科事典・日本史小辞典ほか)
    小学館・平凡社・山川出版社ほか/コトバンク参照日 2026-10-22
  2. 麟祥院の由緒・開基春日局・春日局墓石について
    臨済宗妙心寺派 天澤山 麟祥院参照日 2026-10-22
  3. 麟祥院
    文京区参照日 2026-10-22
  4. 特別展「江戸☆大奥」プレスリリース(2025年)
    東京国立博物館参照日 2026-10-22
  5. 三代将軍・家光の乳母「春日局」と大奥の始まり
    平凡社「Web太陽」参照日 2026-10-22
  6. 林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について(2014年)
    林原美術館・岡山県立博物館/ナガセヴィータ参照日 2026-10-22
  7. 天海(蔵書印の世界)
    国立国会図書館参照日 2026-10-22
  8. お万の方(世界大百科事典・日本人名大辞典)
    平凡社・講談社/コトバンク参照日 2026-10-22
  9. 崇源院(日本大百科全書ほか)
    小学館ほか/コトバンク参照日 2026-10-22
  10. 淀殿(日本史小辞典ほか)
    山川出版社ほか/コトバンク参照日 2026-10-22
  11. 春日局〔1〕父の出陣(NHK大河ドラマ・番組記録)
    放送番組センター・放送ライブラリー参照日 2026-10-22

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-22

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