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戦国時代〜安土桃山長宗我部家15391599
長宗我部元親|四国の覇者と一領具足の夢の肖像
伝・秦神社蔵『長宗我部元親像』
土佐四国一領具足
ちょうそかべ・もとちか

長宗我部元親|四国の覇者と一領具足の夢

CHOSOKABE MOTOCHIKA · 1539 — 1599 · 享年 61

姫若子から鬼若子へ — 戸ノ本にて覚醒(伝・江戸前期軍記の文学的表現)

長宗我部
生年
天文8年
1539(一説に1538)
没年
慶長4年
1599
出身
土佐国岡豊
高知県南国市岡豊町
石高
土佐一国
約22万石(豊臣期安堵)
家紋
七つ片喰
NANATSU-KATABAMI
CONTENTS · 七章
  1. 01出自と若年期 — 姫若子と呼ばれた青年
  2. 02戸ノ本初陣 — 永禄3年、姫若子から鬼若子へ
  3. 03土佐統一 — 一条家追放と四万十川合戦
  4. 04四国制覇への道 — 阿波・讃岐・伊予侵攻
  5. 05豊臣秀吉四国攻めと降伏 — 天正13年
  6. 06戸次川の戦いと信親戦死 — 天正14年12月
  7. 07元親百箇条と晩年 — 盛親後継への道
01
出自
ORIGIN

出自と若年期 — 姫若子と呼ばれた青年

土佐岡豊城・若年期の長宗我部元親
土佐岡豊城・若年期の長宗我部元親
天文八年(1539年・辞典類には1538年説も併載)、長宗我部元親は土佐国岡豊城(現・高知県南国市岡豊町)に長宗我部国親の嫡男として生まれた。母は美濃斎藤氏一族の出と伝わるが、同時代史料による裏づけは不確かで、近年の研究でも比定は慎重を要する論点とされる。長宗我部氏は土佐国香美郡長宗我部郷を本貫とする土佐七雄の一つで、応仁の乱前後に没落していたが、父・国親が一条氏の庇護のもとで岡豊城を再興し、土佐東部に勢力を広げていた。元親は色白で物静かな少年だったため、若年期には「姫若子(ひめわこ)」と渾名されたと、江戸前期成立の後世軍記『元親記』(高島孫右衛門正重著・寛永八年〈1631年〉成立)などに伝わる。同時代史料での裏づけは乏しく、少年期の評伝は基本的に江戸前期成立の編纂物に依拠する。父・国親が元親の凡庸を憂慮したと『元親記』は記すが、これも後世のドラマ的脚色を含む可能性がある。元親の幼年期について確実に言えるのは、土佐の在地領主の嫡男として武芸・教養の双方を学んだ土佐武士であった、という点に留まる。
戸ノ本初陣に父・国親が授けたとされる教え(伝・後世軍記『元親記』所載)

「敵の目を狙え、馬上より首を狙え」

02
戸ノ本初陣
TONOMOTO

戸ノ本初陣 — 永禄3年、姫若子から鬼若子へ

戸ノ本初陣・鬼若子覚醒の伝承
戸ノ本初陣・鬼若子覚醒の伝承
永禄三年(1560年)五月、元親は二十二歳で初陣を迎えたと『元親記』など江戸前期成立の後世軍記は伝える。戦場は土佐長浜・戸ノ本(現・高知県高知市長浜地区周辺)で、相手は本山氏の援軍を受けた長浜城方であった。『元親記』によれば元親は出陣に先立ち父・国親に槍の使い方を尋ね、「敵の目を狙え、馬上から首を狙え」とのみ教えられたと伝わる。当日、元親は先陣を切って奮戦し、家臣たちが「姫若子」と侮っていた青年が一夜にして「鬼若子(おにわこ)」と呼び替えられた、という伝承の物語化が成立した。この戦いで長宗我部勢は本山方を撃退し、土佐東部における長宗我部の優位を決定づけたが、戸ノ本戦の戦況・年代については後世編纂物と一次史料での記述に幅があり、永禄二年(1559年)末から永禄三年中の展開と総括する穏当な理解が学界で支持される。同年六月二十日、父・国親が急逝し、元親は二十二歳で家督を継承して土佐長宗我部家の当主となった。「姫若子から鬼若子へ」の劇的な転換譚は『元親記』など江戸前期軍記に淵源を持つ文学的表現と理解するのが穏当だが、現代でも長宗我部元親の人物像を形成する核となっている。
天正14年(1586年)12月12日、戸次川敗戦の記録(『土佐物語』『元親記』など後世軍記)

「信親、戸次川にて討死、享年二十二」

03
土佐統一
TOSA UNITY

土佐統一 — 一条家追放と四万十川合戦

四万十川の戦い・土佐統一
四万十川の戦い・土佐統一
家督を継いだ元親は、永禄六年(1563年)の本山氏降伏、永禄十二年(1569年)の安芸氏滅亡を経て、土佐東部の制圧を完了した。次の標的は土佐西部の名門・土佐一条氏で、京都から下向した公家武将・一条兼定の勢力であった。元親は天正二年(1574年)に一条兼定を豊後国へ追放し、傀儡として一条内政(兼定の子)を立てた。これに反発した兼定は天正三年(1575年)七月、伊予の宇都宮氏や豊後大友氏の支援を受けて土佐西部へ侵攻したが、四万十川(中村)の戦いで元親に大敗し再起の機を失った。この戦いで元親は土佐一国の統一を実質的に完成させ、土佐七雄の最後の一つを制圧した。土佐統一は元親が二十代後半から三十代後半まで一五年以上をかけて達成した長期戦略の集大成で、家督相続から実に十五年の歳月を要した。土佐一国を手中に収めた元親は、続いて阿波・讃岐・伊予への侵攻を本格化させていくことになる。
04
四国侵攻
SHIKOKU EXPANSION

四国制覇への道 — 阿波・讃岐・伊予侵攻

中富川・引田の戦い・四国侵攻
中富川・引田の戦い・四国侵攻
天正三年(1575年)の土佐統一後、元親は四国全域への侵攻を本格化させた。阿波国では三好氏の内紛に乗じて天正五年(1577年)から侵攻を開始し、天正十年(1582年)の中富川の戦いで十河存保を破って阿波国の大半を制圧した。讃岐国では天正七年(1579年)の長宗我部勢侵入以降、十河氏・香川氏との抗争を経て天正十一年(1583年)の引田の戦いで仙石秀久を破り、讃岐の大半を制した。伊予国では天正八年(1580年)以降、河野氏との抗争を続け天正十三年(1585年)には伊予の主要部を勢力下に置きつつあった。本能寺の変前後に元親は織田信長から「土佐・阿波二国安堵」の朱印状を受けたとの記述も後世史料に見えるが、その授受過程は同時代史料での確認に幅がある。天正十三年(1585年)の段階で長宗我部氏は四国の大半に勢力を伸ばし「四国制覇」の目前に達していたが、伊予の一部・讃岐の一部には敵対勢力が残り、「四国統一」の完成には至っていなかったと近年の研究は再評価する。
05
豊臣降伏
TOYOTOMI

豊臣秀吉四国攻めと降伏 — 天正13年

白地城本陣・豊臣秀吉への降伏
白地城本陣・豊臣秀吉への降伏
天正十三年(1585年)六月十六日ごろ、豊臣秀吉は弟・羽柴秀長を総大将とする四国攻め軍を派遣し、阿波方面から本格侵攻を開始した。総勢約十万と伝わる軍勢は阿波国白地城・木津城・一宮城を次々に陥落させ、讃岐方面では宇喜多秀家、伊予方面では小早川隆景・毛利輝元らが進撃した。元親は阿波国の白地城に本陣を置き抗戦したが、四国諸国の長宗我部勢力は秀吉軍の圧倒的兵力の前に各個撃破された。同年七月二十五日、元親は阿波・讃岐・伊予の三国を放棄して土佐一国安堵の条件で秀吉に降伏した。戦後、阿波には蜂須賀家政、讃岐には仙石秀久・十河存保、伊予には小早川隆景らが配分され、長宗我部氏は土佐二十二万石の領主として再編された。元親自身は天正十四年以降、九州征伐・小田原征伐に従軍することとなり、戦国大名としての独立性は失われたが、土佐一国を保つ形で家名を存続させることに成功した。降伏交渉では弟・羽柴秀長や黒田孝高(官兵衛)が窓口となったと諸書に伝わるが、交渉経緯の詳細は史料間で記述に幅がある。
06
戸次川
HETSUGIGAWA

戸次川の戦いと信親戦死 — 天正14年12月

戸次川敗戦・信親戦死の悲劇
戸次川敗戦・信親戦死の悲劇
天正十四年(1586年)十二月十二日(旧暦)、九州征伐の前哨戦として豊後国戸次川(へつぎがわ・現大分市)で戦闘が起こった。豊臣方の軍監・仙石秀久のもとに長宗我部元親・信親父子と十河存保らが参陣した連合軍は、薩摩・島津家久の軍勢と対峙した。後世軍記の『土佐物語』『元親記』などには、仙石秀久が黒田孝高や元親の慎重論を退けて急進的な渡河攻撃を主導したと描かれるが、会議場面の細部は江戸期成立の叙述に色濃く依存する。島津家久は得意の「釣り野伏せ」戦法で連合軍を誘い込み、川を越えた豊臣勢を分断・包囲して連合軍は大敗を喫した。この敗戦のなかで元親の嫡男・長宗我部信親(享年二十二)と十河存保が戦死した。信親の遺骸は家臣の手で土佐に運ばれ、雪蹊寺(高知市長浜)に葬られたと伝わるが、埋葬・分骨先には伝承の幅がある。仙石秀久は秀吉の怒りに触れて讃岐領を没収され改易されたが、元親にとっての打撃はそれ以上に深く、嫡男喪失と家中分裂の長い影が、その後の長宗我部家を覆い尽くしていくことになる。
07
百箇条
HYAKKAJO

元親百箇条と晩年 — 盛親後継への道

元親百箇条制定・晩年の伏見
元親百箇条制定・晩年の伏見
信親戦死後、元親は四男・盛親を後継に指名したが、これは家中で大きな反発を生んだ。次男・香川親和(讃岐香川氏に養子)、三男・津野親忠(伊予津野氏に養子)を推す重臣もおり、元親の側近・久武親直の主導で天正十六年(1588年)以降、反対派の粛清が進められたと『元親記』『土佐物語』は記す。後世編纂物には、信親未亡人と盛親との婚姻によって信親血脈を継承させる意図があったとする叙述も見える。慶長二年(1597年)三月二十四日付で「長宗我部元親百箇条」(通称『長宗我部氏掟書』)が伝わる。土佐国の分国法として軍役・農村統治・身分秩序・訴訟手続きを体系化したものとして知られるが、本文の伝来・成立事情には伝本差があり、条数の数え方(百条・百三条など)も伝本によって異同がある。文禄五年(1596年)十一月撰定、慶長二年(1597年)発布とする伝本など、本文の編成や成立過程をめぐる議論は近年の研究で進められている。慶長四年(1599年)五月十九日、元親は伏見邸にて死去した。享年六十一。盛親が家督を継いだが翌慶長五年の関ヶ原で西軍に属し、戦後土佐一国を没収・改易されて長宗我部の戦国大名としての歴史は幕を下ろした。