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1578年の九鬼方の大船を描いた想像図。船の外観・装甲は確定した復元ではない。(AI生成イメージ)
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合戦KASSEN

木津川口の戦い|場所と地図、村上水軍と鉄甲船の勝敗

木津川口の戦いは1576年と1578年、石山本願寺への補給をめぐる海戦。場所と砦の位置関係を地図で示し、村上水軍が勝った第一次、九鬼嘉隆の鉄甲船が勝った第二次の違いと、船の構造に残る謎を史料から解説する。

1576–1578年天正四〜六年摂津国・木津川口勝 第一次: 毛利方 / 第二次: 織田方敗 第一次: 織田方 / 第二次: 毛利方戦国ジャーナル編集部戦いを読む
第一次
1576年7月
毛利方が補給に成功
第二次
1578年11月6日
九鬼方が勝利・日付は旧暦
建造された大船
6隻+1隻
九鬼の6隻と滝川の1隻
争われた場所
木津川口
石山本願寺への海上補給路

この戦いの要点

  1. 二度の海戦で勝者が交代

    1576年は毛利方が本願寺への補給に成功。1578年は九鬼嘉隆の大船が毛利方を退けた。

  2. 木津の場所と砦

    当時の木津は海と川をつなぐ補給拠点。現在の河口と同一視せず、砦の位置も未確定として読む。

  3. 鉄甲船の記録を分ける

    『信長公記』が伝える大船・大鉄砲と、『多聞院日記』の鉄の船の記述を照らして考える。

戦いの概要

木津川口の戦いは、天正4年(1576年)と天正6年(1578年)、大坂の石山本願寺へ向かう海上補給をめぐって起きた二度の海戦である。第一次は村上水軍を含む毛利方が勝ち、本願寺へ兵糧を届けた。第二次は九鬼嘉隆の大船が毛利方を退けた。この大船が、鉄甲船の名で知られている。

戦場は現在の大阪市にあたる木津川の河口域と沖合だった。ただし、当時の海岸線は今と違う。木津の砦がどこにあり、海から来た物資をどう本願寺へ送ったのかをたどると、船同士の戦いと陸上の包囲がつながって見えてくる。

比較する点第一次木津川口の戦い第二次木津川口の戦い
時期1576年7月1578年11月6日
織田方真鍋・沼野らの船団九鬼嘉隆の大船を主力とする船団
毛利方能島・来島などの海上勢力『信長公記』が西国の船と記す船団
史料に見える戦い方焙烙火矢などで織田方の船を焼き崩す九鬼方が敵を引き寄せ、大鉄砲を使う
結果毛利方が本願寺への補給に成功九鬼方が毛利方を退ける

本文中の月日は当時の暦による。年の西暦表記に続く月日を、現在の暦へ換算した日付とはしていない。第一次の日付は、今回参照した『信長公記』巻九では7月15日と記される。

場所はどこか|当時の木津川口を地図で読む

木津川口の戦いの場所を探すときは、現在の浪速区から西成区北部にかけての木津周辺と、その沖合を手がかりにしたい。大阪歴史博物館の調査は、木津城に関わる範囲として浪速区敷津西〜西成区出城を挙げている。これは一つの城跡の住所が確定したという意味ではない。木津の集落と、海や入江に面した補給拠点を考えるための地域である。

現在の河口と戦国時代の河口は同じではない

難波・木津の西側では、近世に勘助島、難波島、津守などの新田開発が進んだ。現在は陸地になっている場所も、時代をさかのぼれば水辺の景観が違っていた。そのため、現代の地図で木津川を海までたどり、その河口へ古戦場の印を置くだけでは戦国期の戦場を示せない。

南秀雄の考古学研究は、木津を現在の浪速区・西成区北部に位置づけ、難波砂堆と周辺の開発を検討している。大阪歴史博物館の木津城の解説も、中世の集落が木津川河口から東へ広がる入江に面していたと考える。当時の川筋や海岸線を復元するには、こうした発掘成果と史料の両方が必要になる。

この記事の拠点の地図では、北を上にして木津、本願寺、天王寺、住吉の位置関係を示した。船が並んだ場所や正確な航路は描いていない。現代の町名との対応は国土地理院の地理院地図で確認できるが、この地図自体は戦国時代の海岸線を示すものではない。

木津の砦はどこにあったのか

史料に現れる木津の城・砦は、本願寺への物資搬入を支える拠点だった。しかし、大阪歴史博物館の調査は、その所在地・規模・構造を具体的に確定できないとしている。現在の西成区出城に比定する説がある一方、木津の集落と城を一体に考える必要も指摘されている。

「木津砦跡」として一つの地点を訪ねても、そこが1576年の砦の中心だったと直ちにいえるわけではない。現地では敷津西や今宮周辺の町並みを、かつての木津と海との関係を考える入口にできる。残っている石垣や天守を見学する城と同じ感覚で探すと、場所を取り違えやすい。

石山本願寺の補給路と、陸の砦

織田信長と本願寺顕如の対立は、石山合戦と呼ばれる長期戦になった。周囲に織田方の陣があっても、海から兵糧が届けば本願寺は戦いを続けられる。毛利輝元方の船団が向かった木津は、その物資を陸へ渡す場所だった。

『信長公記』巻九は、1576年4月に信長が本願寺への通路を断とうとし、諸将を配置した経緯を記す。 5月には木津方面を攻めた原田直政が討死し、天王寺の織田方も攻撃を受けた。夏の海戦に先立って、物資の陸揚げ口をめぐる戦いが進んでいたのである。

拠点1576年の攻防での役割
木津の砦・集落海と川をつなぐ本願寺方の補給拠点
楼の岸砦本願寺側の水運に関わる拠点
天王寺砦織田方の拠点。7月には佐久間信盛がここから出動
住吉の拠点本願寺方の攻撃対象となった織田方の砦のある地域

第一次海戦の際にも、本願寺方は木津や楼の岸などから出て住吉の織田方を攻めた。これに対し、佐久間信盛が天王寺から動いたと『信長公記』は伝える。海上の船団を破るだけでなく、陸で物資を受け取る側の動きも止めなければ、封鎖は成り立たなかった。

本願寺側の連絡を担った人物には、坊官の下間頼廉がいる。 1579年の雑賀御坊惣中宛書状は尼崎への軍勢の着陣を伝えており、海戦の後も陸海の支援をめぐる連絡が続いたことが分かる。これは頼廉本人が木津川口の海戦に乗船したことを示す史料ではない。

木津の水辺で兵糧を陸揚げする人々と、土塁・柵の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

木津の補給拠点を描いた想像図。砦の形や建物の配置を復元したものではない。

第一次木津川口の戦い|村上水軍を含む毛利方の勝利

1576年7月、毛利方の船団が本願寺へ兵糧を届けるために大坂湾へ進んだ。『信長公記』巻九に挙がるのは、能島、来島、児玉、粟屋、浦の名である。同書は西国から来た船を700〜800艘、対する織田方を300余艘と記す。この数字は史料の記載であり、船の大きさや乗員をそろえて数えた兵力表ではない。

織田方の将として記されるのは、真鍋や沼野らだった。後の鉄甲船の印象から、第一次まで九鬼嘉隆が総指揮を執ったと思いがちだが、この記述からはそう読めない。二度の海戦で、織田方の船団の構成は変わっている。

焙烙火矢と、兵糧を運び込むという目的

毛利方は織田方の船に取りつき、史料が「ほうろく火矢」と呼ぶ火器を使って焼き崩した。織田方では将たちが討たれ、海上の封鎖を維持できなくなった。『信長公記』は、毛利方が本願寺へ兵糧を入れ、西国へ引き返したところまで記している。

この戦いでは、敵船を何隻沈めたか以上に、輸送の目的を果たしたかが勝敗をよく表す。毛利方は物資を届けた。織田方は、それを阻めなかった。船を焼いた場面だけを切り取ると、海戦と本願寺の籠城との関係が見えなくなる。

焙烙火矢の詳しい形や投げ方を、この短い記述だけから再現することはできない。また、織田方の全船が沈没したとまでは書かれていない。史料が確かに伝えるのは、火を用いた攻撃で織田方が敗れ、補給船団が目的を遂げたという経過である。

第一次木津川口の戦いで、小型の木造船が接近し火災が起きる海戦の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

第一次海戦の想像図。船の配置や焙烙火矢の使い方を確定する図ではない。

村上水軍とは|村上武吉だけで説明できない船団

村上水軍、あるいは村上海賊と呼ばれる海上勢力には、能島・因島・来島を拠点とする三家があった。文化庁の日本遺産の解説では、三家が芸予諸島の航路に海城を構え、海上交通や船の警固に関わった姿が紹介されている。戦場で船を操る技術は、こうした海の往来と結びついていた。

木津川口へ来た毛利方の船団も、村上氏だけで編成されたものではない。『信長公記』には村上系の能島・来島とともに、児玉、粟屋、浦が挙がる。

小早川隆景ら毛利方の動きと、海上で働く複数の勢力をあわせて考える必要がある。

能島村上氏の村上武吉は、この時代の村上海賊を知るうえで欠かせない人物である。ただし、村上氏が関わった海戦をすべて「武吉が現地で指揮した戦い」と言い換えることはできない。二度の木津川口の戦いを、嘉隆と武吉が直接対決した一続きの勝負として描くのも慎重でありたい。

参戦者を考える際には、書状の年代の再検討も関わってくる。今治市の博物館は2020年の展示資料で、以前は第一次木津川口合戦に関わるとされた小早川隆景書状を、1577年のものとして紹介した。古い説明がどの文書に基づいているか、その文書の読み直しが進んでいないかも確認しなければならない。

瀬戸内海の船上で航路を見渡す村上武吉の想像肖像(AI生成)

瀬戸内の海上勢力を考えるための村上武吉の想像図。木津川口で本人が指揮した場面を示すものではない。

鉄甲船とは|九鬼嘉隆の大船と、史料に残る構造

1578年、信長方は新たな大船を大坂の海へ送った。『信長公記』巻十一によれば、信長が九鬼嘉隆に造らせた大船は6隻。これとは別に、滝川一益が白い大船1隻を用意した。建造された船をまとめれば7隻になるが、全隻が同じ装甲を備えたと確認できるわけではない。

「鉄の船」はどの史料に出てくるのか

鉄甲船の話では、船の数、大きさ、装甲、大鉄砲の記録を一つにまとめやすい。しかし、それぞれを伝える資料は異なる。

資料確認できる記述その記述だけでは決められないこと
『信長公記』巻十一九鬼の大船6隻、滝川の白い大船1隻、回航、大鉄砲による戦闘船体全体の装甲、鉄板の厚さ、正確な外観
鳥羽市資料が紹介する『多聞院日記』鉄砲への備えとしての鉄の船、大きさの記載実際にどこまで鉄で覆ったか、設計図にできる細部

鳥羽市の概要資料

は、『多聞院日記』に横7間・縦12〜13間という大きさと、鉄砲を防ぐための鉄の船の記述があることを紹介している。この記事では、この日記の記述を鳥羽市資料を通して参照した。『信長公記』自身が同じ装甲の説明をしているかのようには扱わない。

鉄甲船という名から、船体そのものを鋼鉄で造った近代の軍艦を想像すると時代を取り違える。どの部分をどれほどの鉄で守ったのか、残る記録だけでは外観を細部まで確定できない。復元模型や想像図を見る際も、記録に書かれた部分と、制作者が補った形を分けて考えたい。

熊野浦から堺へ、そして大坂沖へ

大船は完成後、すぐに11月の決戦へ入ったわけではない。『信長公記』は、1578年6月26日に熊野浦を出た船団が、雑賀・淡輪方面で小船の攻撃を受けた経過を記す。九鬼方は敵を近くへ寄せ、大鉄砲を使って退けた。大船だけでなく、それに付き従う小舟もいたとされる。

7月17日には堺へ到着し、翌18日に大坂沖へ進んだ。信長方はこの船団を使い、本願寺へ向かう海上の通路を押さえようとした。第二次海戦は、その数か月後に起きる。

伊勢の船造りの現場を見守る九鬼嘉隆の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

大船の建造を題材にした想像図。嘉隆の顔立ち・服装と造船現場の細部は史料から復元したものではない。

第二次木津川口の戦い|大鉄砲で敵船を退ける

天正6年11月6日、再び木津川口で海戦が起きた。『信長公記』は、西国の船600余艘が木津方面へ出てきたと記す。九鬼嘉隆が向かうと敵船に囲まれ、初めは持ちこたえられそうに見えなかったという。同書の叙述は、九鬼方の勝利だけでなく、その前に苦しい場面があったことも伝えている。

九鬼方の大船6隻には大鉄砲があり、敵を近くへ寄せたうえで、大将の船と思われる船を撃ち崩した。それを恐れた敵は近寄らなくなり、九鬼方は数百艘を木津浦へ追い上げたとされる。ここで具体的に書かれるのは、敵を引き寄せ、狙う船を選んだ火器の運用である。

鉄甲船の装甲だけを勝因として語ると、この経過を取り落とす。大きな船に火器を載せることと、それを海上で使うことは別の問題だった。嘉隆の働きを伝える記述では、敵船を寄せてから撃つ判断が目立つ。

「7隻対600隻」はどう受け止めればよいか

7隻は建造された大船を合計した数であり、11月6日の戦闘記事が明記するのは6隻の大船である。回航の記事には、それらに従う小舟も出てくる。したがって、7隻だけで戦い、600隻すべてを沈めたという話にはできない。

また、相手の600余艘についても、船ごとの大きさ、役割、乗員を同書が一覧にしているわけではない。船の数だけを棒グラフにして両軍の戦闘力を比べることは難しい。少数の大船が多数の船に対抗したという記録と、同じ性能の軍艦同士が戦ったかのような比較は分けて考える必要がある。

大船の船内から大鉄砲で海上の敵船に応じる乗員たちの想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

第二次海戦の大鉄砲の使用を題材にした想像図。砲の形、据え方、船内の構造は確定した復元ではない。

戦いの結果|本願寺の退去は1580年

第一次は、毛利方が本願寺へ兵糧を運び込むことに成功した。第二次は、九鬼方が毛利方の船団を退け、織田方の海上封鎖を進める結果になった。二度の勝敗を比べると、同じ補給路をめぐる争いのなかで、織田方が使う船と火器の運用が変わったことが分かる。

ただし、1578年11月の勝利によって、本願寺がその場で降伏したわけではない。講和と大坂からの退去は1580年のことである。『信長公記』巻十三では、顕如が4月9日に退去し、新門跡の教如が8月2日に退去したと記される。顕如と教如の退去を一つの日付にまとめると、最後の経過を誤ってしまう。

また、この一戦で村上海賊がすべて滅んだと考えることもできない。木津川口での勝敗は、本願寺の海上補給をめぐる戦いの結果である。瀬戸内に拠点を持つ諸勢力のその後まで、一度の海戦で決まったわけではなかった。

1614年の木津川口の戦いとは違うのか

大坂冬の陣で扱われる1614年の木津川口の戦闘は、この記事の1576年・1578年の海戦とは別である。石山合戦は信長と本願寺の争い、大坂冬の陣は徳川方と豊臣方の争いに属する。「木津川口」「砦」という言葉が共通していても、相手も時代も違う。

大阪歴史博物館の調査でも、木津の城は石山合戦期と大坂の陣期の史料に分けて検討されている。同じ場所に同じ構造の砦が、そのまま残り続けたと確定しているわけではない。 1614年の経過を探している場合は、大坂冬の陣を参照したい。

二度の海戦を前後の出来事と並べるには戦国時代の年表、大船を率いた将の生涯は九鬼嘉隆の記事でたどれる。

両軍の対比

ODA

織田信長方

大将:織田信長方
総兵力第一次は300余艘と記録
出陣住吉・天王寺方面
第一次の将真鍋・沼野ら
第二次の主力九鬼嘉隆の大船6隻
建造時の別船滝川一益の白い大船1隻
第一次は敗北、第二次は勝利
MORI

毛利輝元方の船団

大将:毛利輝元方の船団
総兵力第一次は700〜800艘と記録
出陣瀬戸内海から木津へ
第一次の記載能島・来島・児玉・粟屋・浦
第二次の記載西国の船600余艘
補給の相手本願寺顕如
第一次は補給に成功、第二次は敗退
vs

布陣図

戦場の配置

1576年・第一次木津川口の戦いを支えた陸の拠点

模式図 / 縮尺不同
100%
木津川口の戦い|場所と地図、村上水軍と鉄甲船の勝敗 布陣図木津川口の戦い|場所と地図、村上水軍と鉄甲船の勝敗の主要部隊と拠点。位置と距離は概略。番号は部隊一覧に対応。天王寺砦住吉の拠点石山本願寺楼の岸砦木津の砦・集落大阪湾北↑0102030405

北が上、東が右。地域単位の位置関係を示す模式図で、船の戦闘配置ではない。木津城の所在地・規模・構造は未確定。住吉などの点も地域の代表位置であり、正確な砦跡を指さない。当時の海岸線と川筋は描いていない。

布陣の根拠
布陣図

戦況の経過

封鎖
1576年4月
信長が木津の補給路を断つため、陸海の包囲を進める
陸戦
1576年5月
木津方面の攻撃で原田直政が討死。天王寺でも戦闘
第一次
1576年7月
毛利方が織田方の船団を破り、本願寺へ兵糧を入れる
回航
1578年6月26日
九鬼方の大船が熊野浦を出る。途中の攻撃を大鉄砲で退ける
到着
1578年7月17〜18日
堺に到着した大船が、翌日に大坂沖へ進む
第二次
1578年11月6日
九鬼嘉隆が大鉄砲を用い、毛利方の船団を退ける
退去
1580年4月・8月
4月に顕如、8月に教如が大坂を退去する

その後の世界

1576
毛利方の補給成功により、本願寺は海から兵糧を得る
1578
九鬼方の勝利で織田方が海上封鎖を進める
1580
講和と顕如・教如の退去により、大坂での石山合戦が終わる

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 太田牛一『信長公記』巻九・巻十一・巻十三(1881年刊本の翻刻)
    Wikisource(底本は甫喜山景雄編刊)参照日 2026-10-20
  2. 南秀雄「発掘からみた中世大阪の沿海開発―難波砂堆」1〜26頁(2022年)
    大阪市文化財協会・全国遺跡報告総覧参照日 2026-10-20
  3. 日本遺産「日本最大の海賊の本拠地:芸予諸島」ストーリー
    文化庁日本遺産ポータルサイト参照日 2026-10-20

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-20

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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