戦国時代織田氏15341582
織田信長の肖像
長興寺蔵(愛知県豊田市)
天下布武楽市楽座鉄砲
おだ・のぶなが

織田信長

ODA NOBUNAGA · 1534 — 1582 · 享年 49

天下布武

織田
生年
天文3年
1534
没年
天正10年
1582
出身
尾張那古野
愛知県
居城
安土城
近江
家紋
木瓜紋
MOKKO
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CONTENTS · 七章
  1. 01「うつけ」と呼ばれた那古野の三郎
  2. 02桶狭間の奇跡 — 今川義元を討つ
  3. 03足利義昭を奉じての上洛と天下布武
  4. 04楽市楽座と経済革命
  5. 05長篠の設楽原 — 鉄砲と新戦術
  6. 06安土城 — 天下人の居城
  7. 07本能寺の変 — 夢幻の終焉
01
少年期
BOYHOOD

「うつけ」と呼ばれた那古野の三郎

少年期の信長・那古野城
少年期の信長・那古野城
天文三年(1534年)五月、織田信長は尾張国那古野に織田信秀の三男として生まれた。幼名は吉法師。幼少期から粗野な振る舞いが目立ち、家臣たちは「尾張のうつけ(愚か者)」と陰口を叩いた。袖をたくし上げて城下を歩き回り、食べながら歩き、脇差を腰に差して市場に出入りする姿は、武家の嫡男としてはあまりにも奇異に映った。しかしその奇行の背後には、民の暮らしを直接観察し、城下の経済を把握しようとする鋭い観察眼があったと後世の研究者は指摘する。天文二十一年(1552年)、父・信秀の急死により家督を継いだ信長は、翌年には弟・信行(信勝)の謀叛を制圧し、尾張統一への第一歩を踏み出した。
出陣前に舞った幸若舞『敦盛』の一節

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり。」

02
桶狭間
OKEHAZAMA

桶狭間の奇跡 — 今川義元を討つ

桶狭間の戦い・今川本陣奇襲
桶狭間の戦い・今川本陣奇襲
永禄三年(1560年)五月、今川義元が約二万五千の大軍を率いて尾張へ侵攻した。対する信長の兵力は二千前後。衆寡敵せずと誰もが思う絶望的な差だった。しかし信長は臆することなく、嵐が接近する中、桶狭間山の窪地で休息中の今川本陣へ奇襲をかけた。「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり」——敦盛の一節を舞ってから出陣した信長は、突如の暴風雨を利用し、義元の首を獲ることに成功した。この勝利により信長の名は全国に轟き、三河の松平元康(後の徳川家康)との同盟(清洲同盟)も締結され、信長の天下への道が開かれた。
信長の印章に刻まれた志

「天下布武」

—— 織田信長朱印状
03
上洛
MARCH TO KYOTO

足利義昭を奉じての上洛と天下布武

上洛軍・京都入城
上洛軍・京都入城
永禄十一年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、名実ともに中央政界に登場した。「天下布武」の印章は、武力で天下の秩序を整えるという信長の宣言である。上洛後、信長は延暦寺焼き討ち(1571年)、長篠の戦い(1575年)と立て続けに旧来の権威・軍事力を破壊していった。永禄十三年(1570年)には義昭を将軍に据えながらも実権は信長が握り、元亀四年(1573年)には義昭を追放して室町幕府を事実上滅亡させた。「天下布武」の構想は、単なる軍事的支配ではなく、中世的な既得権益を解体し近世的な統治体制を樹立することにあった。
本能寺の変・明智軍の包囲を知らされた際の信長の言葉

「是非に及ばず。」

—— 太田牛一『信長公記』
04
楽市楽座
RAKUICHI-RAKUZA

楽市楽座と経済革命

楽市楽座・岐阜城下の市場
楽市楽座・岐阜城下の市場
信長の政治的革新のうち最も永続的な影響を持つのが楽市楽座令である。永禄十年(1567年)の加納(岐阜)令が嚆矢とされ、天正五年(1577年)の安土令で完成した。座(ギルド)の特権を廃止し、市場の独占を解体することで、誰もが自由に商売できる環境を整えた。同時に関所を撤廃して物流を円滑にし、城下町の経済活性化を図った。この政策は単なる経済措置に留まらず、既存の荘園制・寺社勢力の経済的基盤を直接攻撃するものでもあった。流通経済の発展と城下町の繁栄が、信長政権の軍事力を財政面から支えた。
05
長篠
NAGASHINO

長篠の設楽原 — 鉄砲と新戦術

長篠設楽原・鉄砲三段撃ち
長篠設楽原・鉄砲三段撃ち
天正三年(1575年)五月、長篠城を巡る戦いで、信長は三千挺の鉄砲を三段に分けて運用する「鉄砲三段撃ち」で武田の精強騎馬隊を壊滅させた。鉄砲自体は以前から使われていたが、馬防柵と組み合わせた持続的な一斉射撃という戦術は信長が完成させたものとされる。武田勝頼率いる軍勢は壊滅的打撃を受け、戦国最強と称された武田騎馬軍団の神話は崩れ去った。この戦いは近世的な兵農分離・足軽鉄砲隊による集団戦法の優位を証明した歴史的な転換点であり、日本の戦争様式を根本から変えた。
06
安土城
AZUCHI CASTLE

安土城 — 天下人の居城

安土城天守・琵琶湖を望む
安土城天守・琵琶湖を望む
天正四年(1576年)、信長は近江国安土山に前例のない規模の城郭を築き始めた。天守は地上六階・地下一階の壮麗な多層建築で、外壁は黒漆喰と金の装飾に彩られた。城下には楽市を設け、安土宗論(1579年)を主催して仏教界の権威を失墜させる舞台ともなった。信長は自らを「神」と位置づける施策も行ったとされ、総見寺に自身の石像を安置して参詣させたという。安土城は単なる軍事要塞ではなく、新しい時代の秩序を体現するシンボルだった。しかしその輝きは六年余りで幻と消え、本能寺の変の直後に焼失した。
07
本能寺
HONNOJI

本能寺の変 — 夢幻の終焉

本能寺の変・炎上する本能寺
本能寺の変・炎上する本能寺
天正十年(1582年)六月二日未明、信長は中国征伐に向かう羽柴秀吉の援軍として京都に滞在していた。その宿所・本能寺を、家臣・明智光秀が一万三千の軍勢で突如包囲した。わずかな近習しか伴っていなかった信長は弓・槍で応戦したが、火を放って自刃した。享年四十九。「天下布武」の志半ばにして倒れた信長の死は、秀吉による中国大返しと山崎の戦いで光秀が討たれたことで、後継者争いの口火を切ることとなった。光秀の謀反の動機は今なお「四国説」「怨恨説」「野望説」など諸説あり、歴史の謎として残る。