
合戦KASSEN
姉川の戦い|1570年の勝敗・徳川家康と浅井長政
姉川の戦いは1570年、現在の滋賀県長浜市で織田信長・徳川家康が浅井長政・朝倉軍を破った合戦。場所と布陣図、秀吉のしんがりとの違い、お市の逸話、戦いの後と跡地を、史料をもとにわかりやすく解説する。
この戦いの要点
勝ったのは織田・徳川
1570年の姉川で浅井・朝倉軍を破り、続いて横山城を確保した。
家康は朝倉軍と対陣
野村方面では織田と浅井、三田村方面では徳川と朝倉が戦った。
決着は三年後
浅井・朝倉は姉川の敗戦後も抵抗を続け、両家が滅ぶのは1573年だった。
姉川の戦いをわかりやすく
姉川の戦いは、1570年(元亀元年)六月二十八日、近江国の姉川河原で織田信長・徳川家康の軍が浅井長政・朝倉軍を破った合戦である。日付は旧暦で、場所は現在の滋賀県長浜市野村町・三田町一帯にあたる。朝倉方の指揮官は朝倉景健であり、当主の朝倉義景本人ではない。
勝ったのは織田・徳川方だった。ただし、浅井長政も朝倉氏も、この一戦では滅びていない。信長が直後に得た成果は、浅井方の横山城を確保したことだった。小谷城にいる長政との戦いは続き、両家の滅亡は三年後の1573年まで持ち越される。
| 知りたいこと | 姉川の戦いの基本 |
|---|---|
| いつ | 1570年、旧暦六月二十八日 |
| 場所 | 近江国姉川河原、現在の滋賀県長浜市 |
| 勝った陣営 | 織田信長・徳川家康 |
| 敗れた陣営 | 浅井長政・朝倉景健の軍 |
| 戦いのきっかけ | 浅井長政と信長の同盟破綻、横山城をめぐる攻防 |
| 戦いの後 | 横山城を織田方が確保し、秀吉を城番に置く |
春の金ヶ崎で撤退した信長が、夏には北近江へ攻め戻ってきた。その進路に立ったのが、妹のお市を妻に迎えていた浅井長政である。婚姻で結ばれた二つの家は、同じ年のうちに敵同士になっていた。
浅井長政はなぜ信長と戦ったのか
浅井長政は、北近江の小谷城を本拠とする大名だった。織田信長と同盟を結び、その妹お市を妻に迎えていたが、1570年春の信長による越前攻めを機に離反する。信長は朝倉氏を攻める途中で、背後の浅井氏まで敵に回すことになった。
なぜ長政が離反したのか。よく知られる説明は、浅井氏が朝倉氏との関係を重んじたというものだ。ただし、「代々の恩義を守った」「朝倉を攻める前に知らせる約束を信長が破った」といった筋書きまで、一続きの確定した事実として受け取ることはできない。同盟の条件や長政の決断の理由を、残された記録から一つに絞るのは難しい。
『信長公記』は、離反の知らせを受けた信長が、長政は縁者であり、厚く遇しているのだから虚報ではないかと考えた、と記している。やがて各方面から知らせが届き、信長は撤退に踏み切った。これは信長側の記述だが、少なくとも離反が信長にとって重大な不測の事態だったことは読み取れる。

長政を単に「妹婿なのに裏切った武将」と見ると、近江の領主としての立場が抜け落ちる。一方で、長政が何を最も恐れ、誰の意見で決めたのかを、史料のないまま補うこともできない。ここで押さえたいのは、越前への遠征が浅井氏の離反で行き詰まり、次の主戦場が北近江へ移ったという順序である。
秀吉のしんがりと金ヶ崎の退き口
秀吉がしんがりを務めたことで知られるのは、姉川の戦いに先立つ四月の金ヶ崎の退き口である。しんがりは「殿」と書き、退く軍の最後尾を守る役目をいう。六月の姉川合戦そのものと、同じ出来事ではない。
『信長公記』は、信長が金ヶ崎の城に木下藤吉郎を残し、朽木を通って京都へ退いたと記す。この木下藤吉郎が、のちの豊臣秀吉である。後世に膨らんだ退却戦の名場面をすべてそのまま確認できるわけではないが、秀吉を現地に残したという記述はある。
姉川の記事で秀吉を追うなら、合戦後の仕事にも目を向けたい。横山城が開くと、信長は秀吉を城番として入れた。撤退時に残された秀吉が、今度は攻勢の拠点を任される。金ヶ崎と横山城を続けて見ると、信長の近江・越前方面の戦争に秀吉がどう関わったかが見えてくる。
横山城の包囲から姉川へ
四月の撤退と六月の合戦の間には、別の危機もあった。『信長公記』巻三は、五月に京都から岐阜へ帰る信長が、千草越えで杉谷善住坊に狙撃されたと記す。姉川の戦場で起きた事件ではなく、近江で信長への敵対が続いていたことを伝える一件である。
六月、信長は再び北近江に兵を進めた。『信長公記』によれば、小谷城下を攻めた後、二十四日には浅井方の横山城を取り囲んでいる。信長と家康は龍ヶ鼻に陣を置いた。横山城は、小谷城へ圧力をかけるうえで見過ごせない拠点だった。
そこへ朝倉景健の援軍が来て、長政の軍と合流する。『信長公記』は、両軍が小谷城の東にある大依山に陣を置いた後、姉川方面へ進んだと伝える。横山城を囲む織田・徳川方と、これに対抗する浅井・朝倉方が、川辺で向き合うことになった。

信長の狙いを「長政を誘い出すための罠」と説明することもある。ただ、城を囲んで救援軍と戦ったという経過と、信長が初めから合戦の展開をすべて計算していたという説明は、分けて考える必要がある。姉川で勝った後も、信長はすぐには小谷城を落とせなかった。

場所と布陣図で見る二つの戦線
姉川の戦場は、現在の長浜市を流れる姉川の周辺に広がっていた。対陣をわかりやすく整理すると、東の野村方面で織田軍と浅井軍、西の三田村方面で徳川軍と朝倉軍が戦う形になる。長浜市の史跡解説も、この二方面を示している。
『信長公記』には、三田村口へ家康が向かい、野村方面には信長の馬廻、そのさらに東には美濃の三人衆がいたと記される。馬廻とは、主君の近くで奉仕し、戦場でも働く直属の家臣たちを指す。「織田対浅井、徳川対朝倉」は全体をつかむ入口になるが、各軍が完全に分離して戦ったという意味ではない。
この記事の布陣図は、主要な四勢力の向かい合う関係を示した模式図である。上を北、右を東にそろえ、川筋や距離、各隊の配置は細かく復元していない。人物名の点も、その武将が立っていた場所を特定するものではない。
現在の地図で場所を確かめる場合は、観光協会の姉川古戦場案内にある地図が使える。合戦の布陣図と現地への道案内は目的が異なる。小谷城、横山城、姉川河原の位置を見比べると、城をめぐる戦争の途中で起きた野戦だったことがつかみやすい。
徳川家康の役割と織田勢の加勢
徳川家康は信長の同盟者として出陣し、姉川では朝倉軍を相手に戦った。家康の役割を確かめる手がかりは、合戦当日付の信長書状にもある。
佐藤圭の研究が紹介する、六月二十八日付の細川藤孝宛信長書状の写しには、家康が越前衆と戦い、池田勝三郎と丹羽五郎左衛門が加わったとある。この二人は池田恒興と丹羽長秀である。家康の働きを、織田勢との協力まで含めて伝える記録だ。
朝倉方では、大太刀の使い手として知られる真柄直隆(十郎左衛門)が討死した。『信長公記』の戦死者の名簿にも十郎左衛門の名が見える。本多忠勝との一騎打ちや最期の討手については後世の伝承と人物同定の問題があり、記録に残る討死とは分けて考えたい。

有名なのは、榊原康政の側面攻撃が朝倉軍を崩し、その勢いで浅井軍も敗れたという説明だ。しかし、誰がどの道を通り、何時に攻撃したかまで同時代の記録で追えるわけではない。「家康が信長を救った」という一場面だけにまとめると、織田側から家康へ加勢した記録も見えなくなる。
家康が朝倉軍と交戦したことと、後世に整えられた細かな戦術の筋書きは、確かさが異なる。布陣図に側面攻撃の矢印を描いていないのも、そのためである。矢印が一本あるだけで、実際に通った道まで判明しているように見えてしまう。
勝敗と兵力、横山城の確保
勝敗は織田・徳川方の勝利である。『信長公記』は、川辺で激しく戦った後、敵を追い崩したと記す。ただし、勝利したことから直ちに「浅井・朝倉の主力が全滅した」とは言えない。逆に、後世の勇戦譚を根拠に「信長は辛うじて勝っただけ」と断定するのも行き過ぎになる。
兵力の数字も一つには定まらない。『信長公記』は、朝倉勢およそ八千、浅井勢およそ五千と記している。一方、合戦当日付の信長書状が挙げる敵兵数はこれより多い。現代の辞典にも異なる総数が載っており、特定の数字だけを取り出して厳密な戦力比にすることはできない。
合戦の成果を知るには、人数よりその後の行動が手がかりになる。『信長公記』では、織田方は小谷城の麓まで追撃したものの、険しい地形にある城を一度に攻め落とすのは難しいと判断し、横山城へ戻っている。横山城は開城し、秀吉が守備を任された。
川辺の勝利は、城を一つ確保する成果につながった。それでも、長政の本拠は残った。この二つを一緒に見ると、姉川で何が変わり、何が未解決のままだったかが分かる。
お市と磯野員昌のエピソード
お市は信長の妹であり、浅井長政の妻だった。そのため姉川の戦いは、お市の兄と夫が敵味方に分かれた合戦でもある。ただし、お市自身が戦場で指揮を執ったという話ではない。
お市が両端を縛った小豆袋を兄へ送り、挟み撃ちの危険を知らせたという逸話はよく知られる。これは金ヶ崎からの退却と結びつけて語られる話で、姉川当日の連絡ではない。今回確認した『信長公記』の越前撤退の記事には小豆袋は登場せず、伝承どおりの出来事として裏付けることはできない。兄と夫の間でお市が何を感じていたかも、物語の描写と記録を混同しないようにしたい。
もう一つの名場面が、磯野員昌の「十一段崩し」だ。員昌が織田の十三段の備えを十一段まで破り、信長の近くに迫ったという勇戦譚である。後世の軍記が伝える話だが、『信長公記』の姉川合戦の記事には、この段数を伴う突進は記されていない。

員昌に関わる文書が残ることと、十一段を崩したという話が証明されることは別である。員昌の武名を知る材料として読むことはできるが、織田軍の配置を十三本の線で描く根拠にはしにくい。
通説と俗説の射程
浅井家の遠藤直経にも、信長の本陣に単騎突入し、暗殺を狙ったという最期の物語が伝わる。『信長公記』が記すのは、遠藤喜右衛門を竹中久作が討ち取ったという戦死の記録である。首を携えて味方に紛れ込む筋書きや、信長までの距離は、後世の軍記との比較が必要になる。
古い合戦図も、そのまま当日の見取り図になるわけではない。長浜城歴史博物館が公開する「姉川合戦図」は、江戸時代の十九世紀に制作されたものとされる。合戦から二百年以上後の作品で、博物館は図中の年号にも誤記があると説明している。
人名が詳しく書かれ、陣形が整然と描かれていると、正確な記録に見えやすい。しかし、その細かさ自体は正確さの保証にならない。合戦当日の書状、後年に編纂された記録、さらに後の軍記や絵図では、作られた時期も目的も異なる。
姉川を読む際には、物語をすべて退ける必要はない。ただ、勝敗や対陣の大枠と、誰か一人が戦局を逆転させる名場面を、同じ確かさで扱わないことが大切になる。
姉川の戦いの後
姉川で敗れた浅井・朝倉は、その年の秋には再び信長を脅かした。志賀の陣では坂本方面へ進み、信長は摂津方面から軍を引き返すことになる。六月の勝利で近江の戦争が終わっていなかったことが、はっきり表れている。
決着は1573年だった。信長は撤退する朝倉軍を追って越前へ進み、朝倉氏を滅ぼす。続いて小谷城の戦いで浅井長政も自害し、浅井氏は滅亡した。お市と三人の娘が城を出るのは、この小谷落城の時期であり、1570年の姉川直後ではない。

秀吉にとっても、その三年間は大きかった。姉川後に横山城の守りを任された秀吉は、浅井氏滅亡後、その旧領を与えられ、やがて長浜を拠点とする。しんがりの功名の後にも、城を守り、近江で戦い続けた経過があった。前後の合戦は戦国年表でもたどれる。
姉川の戦いの跡地を訪ねる
姉川古戦場を現在の地図で探すときは、長浜市の野村町・三田町を目印にするとよい。野村橋付近には慰霊碑があり、周辺の説明板と合わせて戦場の位置を確かめられる。
観光協会の案内と地図で、訪問前に場所を確認しておきたい。同協会は野村橋の老朽化による車両通行規制を案内しているため、車の経路は最新情報を確認する必要がある。
もう一か所、戦いの前段を考える手がかりになるのが、長浜市東上坂町の茶臼山古墳・龍ヶ鼻砦である。横山城を包囲した際、信長と家康が陣を置いた場所として紹介されている。ただし、観光協会の説明でも合戦時には陣を移したとされており、姉川で戦っている最中の本陣とそのまま重ねることはできない。
| 跡地・地点 | 確かめたいこと |
|---|---|
| 野村橋付近 | 姉川と古戦場の碑、野村方面の位置 |
| 三田村方面 | 徳川軍と朝倉軍が対陣した側の地理 |
| 龍ヶ鼻砦 | 横山城包囲の段階で信長・家康が置いた陣 |
| 小谷城跡 | 姉川の敗戦後も残った浅井長政の本拠 |
川辺だけを眺めると、一日で終わった野戦に見える。そこから周囲の城へ視線を移すと、姉川は三年に及ぶ近江の争いの途中にあったことが分かる。
両軍の対比
織田信長・徳川家康
浅井長政・朝倉景健
布陣図
1570年旧暦6月28日、野村・三田村方面の主要な対陣
上が北、右が東。『信長公記』と長浜市の解説に基づく模式図。点は各軍の代表で、本陣の正確な位置を示さない。川筋・距離・部隊の広がりは復元せず、各隊の進路や十一段崩しも描いていない。
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 信長公記 巻三「越前手筒山被攻落之事」「あね川合戦之事」「志賀御陣之事」太田牛一著・甫喜山景雄刊(1881年本、Wikisource翻刻)参照日 2026-10-11
- 佐藤圭「姉川合戦の事実に関する史料的考察」『若越郷土研究』59巻1号、12–29頁(2014)福井県立図書館・文書館参照日 2026-10-11
- 姉川合戦図長浜城歴史博物館参照日 2026-10-11
- 三田村氏館跡長浜市参照日 2026-10-11
- 姉川の戦い(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典ほか)コトバンク参照日 2026-10-11
- 姉川古戦場長浜・米原・奥びわ湖観光協会参照日 2026-10-11
- 茶臼山古墳(龍ヶ鼻砦)長浜・米原・奥びわ湖観光協会参照日 2026-10-11
- 小谷の歴史小谷城戦国歴史資料館参照日 2026-10-11
- 織田信長の妹・市(お市の方)の生涯小学館 サライ.jp参照日 2026-10-11






