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宇佐山の山城と琵琶湖を題材にしたAI生成の想像図。地形・建物配置の復元ではない(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

宇佐山の戦い|1570年、森可成の最期と織田信長の帰還

宇佐山の戦いは1570年、森可成が浅井・朝倉勢を迎え撃った合戦。森可成と織田信治の討死、残兵による守城、織田信長の帰還をたどり、兵力や命日の史料差、志賀の陣との関係を確かめる。

1570年元亀元年九月(旧暦)近江・宇佐山城と坂本戦国ジャーナル編集部戦いを読む
元亀元年
1570年
九月・月日は旧暦
城外での戦闘
坂本
森可成・織田信治らが討死
宇佐山城の帰結
守城継続
信長帰還後も拠点となる

この戦いの要点

  1. 森可成は城を出て戦った

    織田信長が摂津に出陣していた間に、浅井・朝倉勢が坂本へ進出。森可成は山を下りて迎え撃ち、再度の攻撃で討死した。

  2. 可成の討死後も城は維持された

    野戦で敗れても宇佐山城の守備は続いた。一方、敵軍は大津・山科方面へ進み、京都への脅威は残った。

  3. 信長の帰還から志賀の陣へ

    信長は摂津から戻り、宇佐山城を陣所とした。比叡山に入った浅井・朝倉勢との対陣は、12月の和睦まで続く。

宇佐山の戦いとは

森可成は城の外で討死し、宇佐山城には守備兵が残った。宇佐山の戦い(宇佐山城の戦い)は、元亀元年(1570年)9月、近江の宇佐山城と坂本周辺で起きた合戦である。現在の滋賀県大津市にあたり、織田信長に仕える森可成らが、浅井・朝倉勢を迎え撃った。本記事の月日は旧暦で記す。

当時、信長は摂津の野田・福島方面に出陣していた。可成は宇佐山を下りて坂本で戦い、再度の攻撃を受けて織田信治らとともに命を落とす。ただし、宇佐山城はその後も持ちこたえ、帰還した信長の陣所になった。城外での敗戦と、城が維持されたこと。この両方が宇佐山の戦いの結末である。

一方、浅井・朝倉勢は大津や京都近郊へも進んだ。森可成が敵の進撃をすべて止めたわけではない。信長の帰還後には比叡山周辺での対陣へ移り、戦いは志賀の陣として年末まで長引く。まずは、可成が守った城の場所から見ていこう。

宇佐山城の場所と、摂津にいた織田信長

宇佐山城は、琵琶湖の西岸に迫る山の上にあった。現在の近江神宮の背後にそびえる、標高336メートルの宇佐山である。大津市歴史博物館は、1570年に森可成が築いた城と説明し、本丸・二の丸・三の丸や石垣が残ることを紹介している。山上からは琵琶湖と湖西の平野を見渡せる。大津市歴史博物館「宇佐山城跡」

この城が置かれたのは、信長が近江で足場を固めていた時期だった。北から湖西を進む軍勢と、京都・大津を結ぶ道が交わる地域に近い。滋賀県文化財保護協会の解説も、宇佐山城を琵琶湖西岸の防御拠点として位置付けている。城の意味は山頂の守りだけでなく、周囲の道や町との関係にあった。

同年6月には姉川の戦いがあったが、浅井・朝倉との争いは終わらなかった。 9月、織田軍の主力は摂津にあり、信長は野田・福島の三好方と向き合っていた。その間に、浅井長政・朝倉義景の軍勢が坂本方面へ進出したのである。

宇佐山城の守将は森可成だった。信長の本隊が駆け付ける前に、可成は近づく敵へ対応しなければならなかった。ここを信長自身が指揮した防衛戦として読むと、可成の出撃と、後の信長帰還の順序が入れ替わってしまう。

坂本方面へ進む軍勢と湖岸の道を描いたAI生成の想像図。実際の進軍路や町並みの復元ではない

9月16日、森可成は坂本へ出撃した

『信長公記』巻三の「志賀御陣之事」は、9月16日に浅井・朝倉勢が坂本口へ進んだと記す。森可成は宇佐山の坂を下り、坂本の町外れで敵と戦った。同書によれば、初戦では敵の首を取り、勝利を得ている。可成は城に籠もったまま討死したのではなく、町の側へ出て戦っていた。『信長公記』巻三

山城が残れば、それだけで周囲の往来まで守れるとは限らない。敵が山麓の町や道へ進んだ時、守備側は城外への対応も迫られる。可成の行動を考える際には、山上の城と坂本の町を分けて捉える必要がある。

もっとも、出撃前の軍議や、可成が部下に語った言葉までは確認できない。『信長公記』が町を破らせまいとした可成を描くのは、次の攻撃を受けた場面である。これを遡って、初めから死を覚悟して信長のためだけに出陣した、と心中まで決めることはできない。

初戦の勝利は、脅威の解消にはつながらなかった。浅井・朝倉勢は改めて攻撃し、可成らは再び迎え撃つ。この二度目の戦闘で、織田方は守将を失うことになる。

濃紺の羽織と黒い甲冑を着け、山麓へ目を向ける森可成のAI生成の想像図

森可成の最期と織田信治らの討死

再攻撃の場面について、『信長公記』は浅井・朝倉勢が両側から押し寄せたと記す。可成らは抗戦したものの、敵の攻勢を支えきれず、討死した。同書は森三左衛門、織田九郎、青地駿河守らの名を挙げる。森三左衛門は可成の通称で、人物辞典も可成が織田信治とともに戦死したことを記している。

森可成の命日は、人物辞典では元亀元年9月20日とされる。平凡社の『世界大百科事典』や講談社の『日本人名大辞典+Plus』はこの日付を採る。一方、本記事で参照した1881年刊『信長公記』の公開翻刻では、討死の記事が9月19日に置かれている。本稿ではこの差を残し、どちらか一方で全資料が一致するとはしない。森可成の辞典項目

確かめられるのは、可成が9月の坂本方面の戦闘で命を落としたことだ。特定の敵将との一騎討ちや最期の台詞は、今回読んだ史料からは確定できない。『信長公記』は奮戦する可成らを描くが、それを現代の映像のように細部まで補うことは避けたい。

守将の討死は、織田方にとって大きな損失だった。それでも、戦場に出ていた者と城に残っていた者の運命は同じではない。宇佐山城には、まだ守備を続ける兵がいた。

坂本の町外れで向き合う両軍を描いたAI生成の想像図。兵数と布陣を再現したものではない

落城を免れた宇佐山城と、織田信長の帰還

『信長公記』は、浅井・朝倉勢が宇佐山城の端城まで攻め上り、火を放ったと伝える。端城とは城の外縁に置かれた施設を指す。その後も、武藤五郎右衛門と肥田彦左衛門が堅く守ったという。可成を失った後も城の守備は続き、宇佐山城は織田方の拠点として残った。

現代の城郭事典にも、残兵が抵抗して城を守り抜いた経過が載る。ただし、『日本の城がわかる事典』は守備側に各務元正を挙げるなど、紹介する人物は資料で異なる。ここでは当日の守備を『信長公記』に記された名でたどり、別資料の名前を無条件に付け足していない。『日本の城がわかる事典』宇佐山城

城が残る一方で、周囲の戦況は悪化した。『信長公記』は9月20日の大津・馬場・松本への放火、翌21日の醍醐・山科への進出を記す。 22日には、摂津の信長へ急報が届いた。山城一つを守ることと、京都へ向かう敵軍の行動をすべて封じることには違いがあった。

信長は9月23日に野田・福島方面から兵を引き、京都へ戻る。翌24日には本能寺を出て逢坂を越え、浅井・朝倉勢へ向かった。敵軍は比叡山へ移り、信長は麓に兵を配置して対峙する。この段階で、宇佐山城は信長自身の陣所となった。

信長の帰還は、すでに討死した可成を救うことにはならなかった。それでも、守備兵が維持した城は、その後の織田軍を支える拠点になった。可成の戦死だけで叙述を終えると、城内で続いた抵抗と、この後の役割が抜け落ちる。

宇佐山城内で門を補強し見張りを続ける守備兵のAI生成の想像図。城郭施設の復元ではない

兵力と勝敗はどこまで分かるのか

宇佐山の戦いは、少数の森勢が大軍に立ち向かった合戦として紹介される。『信長公記』の初戦の記事では、浅井・朝倉方はおよそ3万、可成の側は千人に満たない兵として描かれる。一方、びわ湖大津観光協会の案内は可成の手勢を600余りとする。観光協会「宇佐山城跡」

この数字を並べるだけで、全期間の兵力差が決まるわけではない。初戦で城から出た兵、城内に残る兵、再攻撃に参加した兵を、同じ範囲で数えているかが分からないためだ。とりわけ『信長公記』の約3万は、名簿と照合して得た確定値ではない。本稿では同書の記述として示し、正確な兵力比や犠牲者数の計算には使わない。

勝敗も、何を対象にするかで見え方が変わる。森可成らが討死した城外の戦闘では、浅井・朝倉方が勝った。しかし、宇佐山城そのものは織田方に残った。さらに、敵軍の京都近郊への進出は続き、信長は摂津の戦線を離れることになった。

したがって、「森可成が大軍を完全に止めた」「城主が戦死したので城も陥落した」というまとめ方では、経過の一部が消える。可成らの抗戦、残兵の守城、信長の転進を続けて読むことで、この合戦が織田方に与えた影響を捉えられる。兵力の大きな数字だけを見せ場にするよりも、三つの局面を区別する方が、戦いの実像に近づける。

宇佐山から志賀の陣へ、比叡山との対立が残る

宇佐山の戦いは、志賀の陣の始まりをなす局面として位置付けられる。可成の討死と信長の帰還で決着したわけではなく、その後も浅井・朝倉勢との対陣が続いた。京都国立博物館の下坂守による解説は、比叡山側の青山・壺笠山と、信長が陣取った宇佐山を挙げて、この長い膠着を描いている。京都国立博物館「宇佐山からの眺望」

比叡山延暦寺の側と浅井・朝倉勢との関係も、信長との対立を深めた。『信長公記』には、信長が山門側に協力か中立を求め、従わなければ焼き払うと警告した経過が記される。ただし、これは信長側から戦いを叙述した史料でもある。相手を非難する表現まで、そのまま当事者全員の立場を示す説明にはできない。

志賀の陣は12月に和睦へ至る。『信長公記』は13日に和談がまとまり、その後、双方が順に兵を引いたと記す。宇佐山城の戦闘から約3か月を経て、ようやくこの対陣は終わった。だが、浅井・朝倉や延暦寺との関係がすべて解決したわけではなかった。

翌1571年、信長は比叡山焼き討ちを行う。前年の対陣はその背景の一つであり、森可成への個人的な弔いだけで理由を説明することはできない。宇佐山の戦いには、可成の最期とともに、織田信長が複数の戦線を抱えた1570年の難局が表れている。前後の出来事は戦国年表で、可成の生涯と家族は森可成の記事でたどれる。

宇佐山を陣所とした織田信長を題材にしたAI生成の想像図。特定の日の姿を復元したものではない

両軍の対比

織田方

森可成・織田信治ら(初期の迎撃)

大将:森可成・織田信治ら(初期の迎撃)
総兵力初戦の森勢は千未満と『信長公記』に記す。総兵力は確定しない
出陣宇佐山城・坂本
信長の動向当初は摂津。森可成の討死後に帰還
城内の守備『信長公記』は武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門を挙げる
城外の戦闘で可成らが討死。城内では守備を継続
浅井・朝倉方

浅井長政・朝倉義景の軍勢

大将:浅井長政・朝倉義景の軍勢
総兵力約3万と『信長公記』に記す。実戦参加兵の確定値ではない
出陣坂本方面へ進出
攻勢坂本で再攻撃し、大津・山科方面にも進出
信長帰還後比叡山周辺を拠点に対陣
野戦で織田方を破るが、宇佐山城の奪取には至らず
vs

戦況の経過

坂本町外れで初戦
1570年9月16日(以下旧暦)
『信長公記』は、森可成が宇佐山を下り、浅井・朝倉勢と戦って初戦に勝ったと記す。
森可成・織田信治らの討死
9月19日または20日
浅井・朝倉勢が再び攻撃。参照した『信長公記』翻刻は19日、人物辞典は20日とする。宇佐山城では守備が続く。
大津から京都近郊へ
9月20〜22日
『信長公記』は20日の大津方面、21日の醍醐・山科への放火と、22日に摂津の信長へ届いた急報を記す。
信長が摂津から帰還
9月23〜24日
信長は23日に野田・福島方面から兵を引いて帰洛し、翌24日に逢坂を越えた。浅井・朝倉勢は比叡山へ移る。
宇佐山城を拠点に対陣
9月下旬以後
信長は宇佐山城を陣所とし、比叡山周辺の敵軍と対峙。戦局は志賀の陣として長引く。

その後の世界

1570年12月
志賀の陣は和睦に至る。『信長公記』は13日に和談がまとまり、双方が順次撤兵した経過を記す。
1571年9月
信長が比叡山を焼き討ちする。前年に延暦寺側と浅井・朝倉勢が結んだ関係が、対立の背景にあった。
現在
宇佐山城跡には曲輪や石垣が残る。現在の地形や遺構は城の立地を考える手掛かりとなるが、合戦当日の建物や部隊配置をそのまま示すものではない。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 太田牛一『信長公記』巻三(十)志賀御陣之事・巻四の叡山記事
    甫喜山景雄編1881年刊の公開翻刻/Wikisource参照日 2026-10-27
  2. 大津の歴史事典「宇佐山城跡」
    大津市歴史博物館参照日 2026-10-27
  3. 音声で紹介する戦国の大津歴史舞台「宇佐山城跡」
    びわ湖大津観光協会参照日 2026-10-27
  4. 『日本の城がわかる事典』宇佐山城
    講談社/コトバンク参照日 2026-10-27
  5. 『改訂新版 世界大百科事典』『日本人名大辞典+Plus』ほか「森可成」
    平凡社・講談社ほか/コトバンク参照日 2026-10-27

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-28

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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