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高天神城と包囲陣を想像した情景。遺構配置の復元図ではない(AI生成イメージ)
合戦・事件1580–1581天正八年八月〜九年三月(旧暦)

第二次高天神城の戦い1581年、家康の奪還

遠江国・高天神城

AI生成イメージ

第二次高天神城の戦いは、1580年から翌年にかけて徳川家康が武田方の山城を包囲し、奪還した攻城戦。六砦による兵糧攻め、岡部元信らの助命交渉、信長の書状から、救援の届かなかった城の最期と武田氏への影響をたどる。

戦国ジャーナル編集部戦いを読む
最終包囲戦
1580〜81年
前史の攻防は1575年以降
落城
三月二十二日
天正九年・旧暦
包囲を支えた拠点
六砦
横須賀城とともに封鎖を支える
武田方の城将
岡部元信
城から討って出て戦死

この戦いの要点

  1. 城外で進んだ兵糧攻め

    家康は横須賀城や周辺の砦を使い、攻囲側の補給を支えながら高天神城への物資搬入を妨げた。

  2. 助命を求めた籠城衆

    天正九年正月二十五日付とされる信長書状は、城内から矢文で命の保証と三城引渡しの交渉があったことを伝える。

  3. 救援が届かないままの落城

    岡部元信らが討って出て戦死。信長は、救援の欠如が武田方の城々の維持に響くと見込んでいた。

援軍を待ち続けた山城

かつて武田勝頼が奪った高天神城は、今度は徳川家康の包囲に苦しみ、城兵の命を助けてほしいという矢文を敵陣へ送るまでに追い詰められた。 城将は岡部元信。 遠江の山上で持ちこたえるには、外から来る援軍か、城を明け渡す交渉が必要だった。 だが、包囲は解けず、助命の申し入れも実らなかった。

天正九年(1581年)三月二十二日、岡部らは城から討って出て、多くが戦死した。 これが、第二次高天神城の戦いの終局である。 家康は失った城を取り戻し、勝頼は遠江の有力な拠点を失った。 ただし勝敗を分けたのは、最後の出撃だけではない。 城へ入る物資をどう止め、助けに来るはずの武田軍をどう待ち受けるか。その争いが、落城より何年も前から続いていた。

本文の月日は旧暦で記す。 最終包囲戦は天正八年(1580年)から翌年にかけてのものとして扱い、それ以前の城争奪と区別する。

遠江に残った武田方の拠点

高天神城があるのは、現在の静岡県掛川市に位置する標高132メートルの鶴翁山である。 井戸曲輪を間に置いて東西に峰が分かれ、斜面や尾根を使って複数の曲輪を設けていた。 石垣と大天守の威容で守る近世の城とは異なり、山そのものの険しさと、削り分けた地形が防御を支えていた。 城へ攻め上がる側は、こうした高低差のある場所で守備兵と向き合わなければならない(出典:掛川市の歴史と構造の解説)。

天正二年(1574年)、勝頼は徳川方だったこの城を攻略した。 ところが翌年、武田軍は長篠の戦い織田信長と家康の連合軍に敗れる。 遠江でも徳川方の反攻が進み、高天神城は再び攻撃を受ける側になった(「長篠の戦い」)。

それでも、長篠の敗北によって城の守りが即座に崩れたわけではない。 国立公文書館の解説も、その後に高天神城を巡る攻防が続いたことを記している。 武田方はここを維持し、徳川方は取り戻そうとした。 両者の間に残ったのは、一日で勝負がつく野戦とは違う、長い城争いだった(出典:国立公文書館「長篠の戦い」)。

急斜面を利用した山城の曲輪を想像した情景。高天神城の建物配置を復元したものではない(AI生成イメージ)

横須賀城から支える包囲

堅い城を囲み続けるには、囲む側も食べ続けなければならない。 家康が高天神城攻略の拠点として整えた横須賀城は、その長期戦を支えた。 掛川市の年表は『家忠日記』を根拠に天正六年(1578年)の築城を掲げ、別の記録には異なる年次があることも添えている。 築城年を一つ選ぶ以上に確かなのは、高天神城を取り戻すため、家康が周辺に足場を築いていったことである。

横須賀城を拠点とする大須賀康高らの軍勢と、城内へ物資を届けようとする武田方との間では、補給路を巡る戦闘が続いた。 城壁を破れなくても、食糧を運ぶ側に負担をかけることはできる。 一方、城へ物資が入り続ければ、守備兵はその分だけ長く抵抗できる。 攻防は山の頂上だけでなく、その外の道や水辺にも広がっていた(出典:掛川市「高天神城の歴史」)。

家康は周辺の砦も整備した。 高天神六砦として知られる小笠山、能ヶ坂、火ヶ峰、獅子ヶ鼻、中村、三井山の拠点は、城への接近や補給を妨げるために働いた。 横須賀城で自軍の活動を支え、砦で相手の動きを押さえる。 兵糧攻めは、包囲する兵を養い、監視を続ける拠点があってこその作戦だった。城に米がなくなるのを待つ間も、徳川方は兵を動かし、物資を運び続ける必要があった(出典:掛川市「家康の六砦」)。

遠江の水辺で荷を運ぶ無名の人々。横須賀城が担った補給拠点の役割を想像した場面(AI生成イメージ)

堀と柵が閉ざした道

天正八年になると、包囲はいっそう厳しくなった。 大久保忠教の『三河物語』は、八月から城の四方に堀を掘り、土塁や塀、柵を設けて監視したと伝える。 江戸初期にまとめられた記録であり、柵の重数などをそのまま精密な設計図にはできない。 それでも、突撃を重ねるより、出入りを押さえるために人手と資材を投じた様子が読み取れる(出典:『高天神城の総合的研究』93頁所引『三河物語』)。

城番の岡部元信は、武田方の守将としてここにいた。 掛川市の年表には、天正七年六月十四日、勝頼が岡部に高天神城の城番を命じたことが、文書に基づいて記されている。 高天神城の守備は、城にいる者だけで完結する仕事ではなかった。 援軍が外から攻め、籠城衆が内から動けば、包囲側は二方向に備える必要が生じる。 守備兵にとって、勝頼の後詰が来るかどうかは、城内の備えと切り離せない問題だった。

ただし、守将が救援を求めたことと、救援を実行できたことは別である。 城へ食糧を届けるにも、まとまった軍勢を近づけるにも、徳川方が押さえる地域を越える必要があった。 最終的に包囲を解く援軍は届かなかった。 その理由を、勝頼の気持ちや一度の軍議だけで説明できる同時代史料は、ここで確認した資料の範囲にはない。

堀と木柵のそばで見張る無名の兵。高天神城を囲む監視拠点の想像図(AI生成イメージ)

命と引き換えに申し出た三つの城

城内から徳川方へ、矢文が放たれた。 その中身を伝えるのが、天正九年正月二十五日付とされる信長の朱印状である。 宛先は、家康の陣中にいた水野宗兵衛忠重だった。 信長は届いた報告を受け、籠城衆の申し入れと今後の対応を論じている。

書状によれば、城側は命が助かるなら城を渡すと申し出た。 交渉には高天神城だけでなく、滝坂(滝堺)城と小山城も含まれていた。 城内の者が遠江の武田拠点を実際にすべて処分できたかまでは、この書状から確かめられない。 しかし、助命を求めるために提示された条件が、一城の引渡しを越えていたことはわかる(出典:信長朱印状の掲載翻刻、98〜99頁)。

三城を受け取れば、家康は遠江の戦いを大きく前へ進められる。 信長も、その利点は認めていた。 だが同時に、今後一、二年のうちに駿河と甲斐へ兵を出す計画を述べ、山がちな敵地の奥まで進んで長く戦う負担を気にかけている。 高天神城の処置は、すでに次の対武田戦争と結びついていた。

城を開けて生き残りたい籠城衆と、敵の領国まで見据える織田方。 同じ交渉の席に載っていても、求めるものの範囲が違っていたのである。

残り少ない米と空の袋。籠城中の兵糧不足を表す想像の静物(AI生成イメージ)

信長が見込んだ救援の行方

信長には、勝頼が救援に出てくるなら国境付近で決着をつけられる、という見通しがあった。 相手の本国へ深く攻め込む前に、救援軍を捕らえることができればよい。 高天神城を包囲する軍勢は、城を落とすと同時に、城を助けに来る敵を待つ位置にもいた。

では、勝頼が現れなかったらどうなるか。 書状は、高天神城と同様に小山や滝坂まで見捨てるなら、駿河の端々にある小城を維持することも難しくなる、と予測する。 援軍を頼れないと知った守将が、そのまま武田方にとどまるとは限らない。 信長は、救援できない事実が、城外にいる武田方の人々にも伝わる効果を見ていた。

ただし、書状の末尾まで読むと、一方的な命令という印象は変わる。 信長は自分の考えを家康へ伝え、徳川家中の重臣にも相談するよう水野に求めていた。 包囲を長引かせれば、家康も現場の兵も苦労する。 その負担に言及したうえで、目先の開城と、将来の武田攻略をどう比べるかを問いかけている。

茨城県立歴史館の永井博も、この書状を武田家中の信頼を揺さぶる戦略と結びつけて解説する。 ただ、それは岡部らの死後に生まれた噂をさかのぼって書いたものではない。 城が落ちる前に、信長が救援の成否をどう利用しようと考えていたかを示す、当時の書状なのである(出典:永井博「武田氏滅亡への一歩」)。

三月二十二日の出撃

助命の交渉が実らないまま、包囲は続いた。 天正九年三月二十二日、岡部元信らの籠城衆は城外へ討って出る。 掛川市の年表と『浜松市史』は、この日に岡部らが戦死し、高天神城が落ちたとする。 家康は、武田方に奪われていた山城を取り戻した。

後世の『浜松御在城記』には、城兵が徳川方の持ち場へ出撃し、挟み撃ちに遭った経過が記されている。 同書は討ち取られた人数を七百三十とするが、これは籠城していた全員を数えた名簿ではない。 戦死者の数、包囲開始時の兵数、最後に出撃した人数を、同じ数字として扱うことはできない(出典:『高天神城の総合的研究』100〜101頁所引『浜松御在城記』)。

生還者もいた。 横田尹松は城を脱出した人物として知られるが、どの部隊の間を抜けたかなど、経路の細部には記録の違いがある。 「犬戻り猿戻り」の難路と結びついた話も伝わるものの、個々の記録が伝える道筋は一致していない。 多数が命を落とすなかにも、生きて城外へ出た者はいたのである。

城門から坂道へ向かう無名の兵たち。最後の出撃を想像した場面で、人物や経路を特定するものではない(AI生成イメージ)

通説と俗説の射程

「勝頼は高天神城を見捨てた」という言葉には、結果の説明と、当主への非難が重なっている。 救援が届かず城が落ちたことは確かである。 一方、勝頼がどの情報を受け、何を優先し、どの段階で実行を断念したのかは、同じ強さでは言い切れない。

『甲陽軍鑑』には、横田の意見や勝頼側近の判断によって救援を見送ることになったという筋書きがある。 しかし、それは後世に編纂された軍記の叙述であり、軍議の速記録ではない。 小和田哲男の研究はこの話を紹介する一方、信長の書状も掲載している。 軍記に現れる武田家中の判断と、敵側の書状に残る救援への見通しは、成立事情の異なる証拠として読み分けたい。

「岡部は降伏を拒み、最後まで戦うことだけを選んだ」という見方にも問題がある。 『浜松市史』には降伏のすすめを拒んだという叙述があるが、信長書状は城内から助命の申し入れがあったことを伝えている。 後の出撃だけを取り出すと、その前に生き残るための交渉があったことが見えなくなる。 この点では、戦いの途中に書かれた書状を重く見るべきである。

信長の書状も万能ではない。 それは信長が受けた報告と自分の戦略を記したものであり、勝頼の内心や、城内全員の意見までは教えてくれない。 また、救援の欠如が家臣の信頼を損なうという予測から、翌年のあらゆる離反を高天神城だけの結果とすることもできない。 包囲と交渉の経過を追うことで説明できる範囲は広がるが、残された記録の外まで当事者の心理を決めつけることは避けたい。

落城から武田氏滅亡まで

高天神城が落ちても、遠江に武田方の城がなくなったわけではない。 『浜松市史』は小山城が残り、その守備兵が退くのは翌天正十年二月だったと記す。 信長書状で引渡しの条件に挙がった三城が、一度に徳川方へ渡されたのでもなかった(出典:『浜松市史 二』「高天神落城」)。

天正十年(1582年)、織田方と徳川方は武田領へ侵攻し、三月に勝頼が自害した。 高天神城の落城から約一年後のことである(「甲州征伐」)。 山城を失ったことは重い打撃だったが、武田氏の終わりまでには、なお次の出兵と城々の離反があった。

その後、高天神城は廃城となった。 現在残る曲輪や堀を見れば、この城を正面から攻める難しさを想像できる。 だが、その険しさも、城へ届く米や援軍を保証はしなかった。 家康が取り戻したのは一つの山城であり、勝頼が救えなかったのは、そこに置いていた自分の城兵だった。

両軍の対比

徳川方

徳川家康

大将:徳川家康
総兵力正確な総兵力は確定しない
出陣横須賀城と周辺の砦
包囲の主体徳川軍
支援織田信長
作戦補給遮断と長期包囲
勝利・高天神城を奪還
vs
武田方

岡部元信

大将:岡部元信
総兵力籠城総数は確定しない
出陣高天神城
領国主武田勝頼
城番岡部元信ら
救援包囲を解く援軍は到着せず
落城・元信ら多数が戦死

戦況の経過

武田方の城へ
天正二年(1574年)
勝頼が高天神城を攻略。第二次の戦いでは、この城を家康が取り戻す側になる。
長篠後の攻防
天正三年(1575年)以降
長篠で勝った徳川方が反攻。高天神城は武田方に残り、補給路を巡る戦いが続いた。
横須賀城の整備
天正六年(1578年)
掛川市の年表は『家忠日記』による横須賀城築城をこの年に置く。城は高天神城攻略を支える拠点となった。
包囲の強化
天正八年八月(1580年・旧暦)
『三河物語』はこの月から堀や土塁、柵による封鎖を強めたと記す。周辺砦の整備はこれ以前から進んでいた。
矢文と信長書状
天正九年正月二十五日(1581年・旧暦)
この日付とされる水野忠重宛書状は、すでに城内から助命交渉があったことと、信長の対武田戦略を伝える。
城兵の出撃と落城
天正九年三月二十二日(旧暦)
救援が届かないまま岡部元信らが討って出て、多数が戦死。高天神城は徳川方の手に戻った。

その後の世界

1581年
家康は高天神城を奪還。武田方の小山城はなお残っており、この一戦で遠江の武田拠点がすべて消えたわけではない。
1582年
織田方と徳川方が武田領へ侵攻し、三月に勝頼が自害。高天神城の落城から約一年後、戦国大名としての武田氏が滅亡した。
その後
高天神城は廃城となり、山上には曲輪や堀などの遺構が残った。近世の城郭として使われ続けることはなかった。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 高天神城に関する歴史について
    掛川市参照日 2026-09-22
  2. しずおか文化財ナビ 高天神城跡
    静岡県参照日 2026-09-22
  3. 小和田哲男『高天神城の総合的研究』(1993年、第6章)
    大東町教育委員会/全国文化財総覧参照日 2026-09-22
  4. 浜松市史 二「高天神落城」
    浜松市立中央図書館/ADEAC参照日 2026-09-22
  5. 徳川家康「長篠の戦い」
    国立公文書館参照日 2026-09-22

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-09-22

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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