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第一次高天神城の戦い|1574年、難攻不落の城を勝頼が攻略
第一次高天神城の戦いは、1574年に武田勝頼が城主・小笠原氏助を降伏させた攻城戦。難攻不落とされた城の場所と地図、攻撃と開城交渉、届かなかった援軍を解説し、1581年の兵糧攻めや弥助との関係も史料から確かめる。
この戦いの要点
攻撃と交渉が並行する籠城戦
勝頼は曲輪へ攻め寄せる一方、城主小笠原氏助と交渉した。険しい山城でも、外からの救援なしに守り続けることは難しかった。
城に届かなかった織田の援軍
信長父子は岐阜から出陣したが、開城を知って引き返した。家康と信長は高天神城を救う戦闘に持ち込めなかった。
1581年の兵糧攻めと分けて読む
1574年は勝頼が徳川方の城主を降らせた戦い。1581年は家康が武田方の城を包囲した戦いで、城主も結末も異なる。
第一次高天神城の戦いとは
第一次高天神城の戦いとは、天正二年(1574年)、武田勝頼が遠江の高天神城を攻め、徳川方の城主・小笠原氏助を降伏させた戦いである。場所は現在の静岡県掛川市。勝頼は険しい山城を包囲し、曲輪への攻撃と開城交渉を進めて城を手に入れた。
城外では、徳川家康が同盟相手の織田信長に救援を求めた。信長と嫡男の織田信忠も出陣したが、高天神城を救う戦闘には至らない。難攻不落と呼ばれる城でも、外からの救援が届かなければ守り抜けるとは限らなかった。
ここでは1574年の勝頼による攻略を「第一次」と呼ぶ。 1581年に家康が奪い返す第二次高天神城の戦いとは、攻守も城主も異なる。本文の月日は旧暦で示し、開城日は掛川市の歴史年表に従って六月十七日を採る。ただし、日付を裏づける史料には違いがあるため、開城の節で確かめていく。
場所と地図――高天神城はどこにあるか
高天神城跡は、静岡県掛川市上土方嶺向にある。標高約132メートルの鶴翁山に築かれた山城で、現在の城跡では東西の峰に曲輪が分かれ、その間に井戸曲輪が位置する。曲輪とは、建物や兵を置くために整えた城内の平場のことだ。高い山ではないが、急な斜面と曲輪の組み合わせが守りを支えた。
現地の場所は、掛川市公式「高天神城跡」の地図で確認できる。同じページに散策マップがあり、南側の追手門と北側の搦手門から城跡をたどれる。城内の位置関係を知りたい場合は散策マップ、現在地からの経路を調べたい場合は所在地の地図を使うと分かりやすい。
| 地図で確かめたいこと | 見る場所・資料 |
|---|---|
| 城跡の所在地 | 掛川市公式ページの地図。住所は掛川市上土方嶺向3136外 |
| 登り口と曲輪の位置 | 同ページの散策マップ。追手門・搦手門、東西の曲輪を確認 |
| 城の地形と歴史 | 掛川市の歴史解説 |
| 1574年の軍勢配置 | 現在の散策図からは確定できない。城跡案内と当時の布陣図を分ける |
城跡に残る遺構は、一度の戦いだけでできたものではない。武田方による改修も重なっているため、現在の堀や曲輪をすべて1574年の姿と考えることはできない。また、家康が後年に設けた六砦は、武田方となった城を包囲するためのものだった。その配置を勝頼の攻城軍の位置として地図に重ねると、二つの戦いが混ざってしまう。

城主は小笠原氏助――長忠・信興との関係
1574年に高天神城を守っていたのは、小笠原与八郎氏助である。長忠、信興とも呼ばれる人物で、史料や解説によって名前が異なる。この名前の違いを、戦いの途中で城主が交替したという意味に受け取る必要はない。
高天神城はもともと今川氏の勢力下にあり、小笠原氏が城主を務めていた。今川氏の勢力が衰えると、氏助は家康に従った。しかし、その後も徳川と武田のあいだで帰属が揺れる。山城を守ることは、周囲の土地や家臣を維持し、城外の大名との関係を保つことでもあった。
城主を調べる際には、岡部元信との区別も欠かせない。氏助は1574年に勝頼へ降った城主で、岡部元信は後に武田方の高天神城を守り、1581年の攻防で討死した人物だ。第一次の開城を、岡部元信が最後に出撃した戦いとして説明するのは誤りになる。
難攻不落と呼ばれた城を、なぜ勝頼は落とせたのか
高天神城の強みは、険しい斜面と、複数の曲輪を連ねた守りにあった。攻め手は一つの場所へ近づいても、さらに奥の防御拠点と向き合う。ただし、「難攻不落」は城の堅固さを表す言い方であり、一度も敵に渡らなかったという意味ではない。
勝頼は信玄の死後も徳川領への攻勢を続け、1574年に高天神城へ迫った。『日本歴史地名大系』が紹介する六月十一日付の勝頼書状写によれば、城の諸口へ攻め寄せたのは五月十二日。城を遠くから取り囲むだけでなく、守りの拠点を一つずつ圧迫していた。
同時に、小笠原氏助を降らせる交渉も進めた。平山優の研究整理によると、勝頼は五月中、所領の保証などを誓う起請文を氏助へ示している。仲介したのは穴山信君(梅雪)だった。起請文は、約束を神仏に誓って示す文書である。勝頼は攻撃を加えながら、氏助が武田方へ移る条件も用意していた。
交渉が始まったからといって、すぐに開城が決まったわけではない。勝頼の五月二十八日付書状は、残る曲輪の塀際へ迫り、あと十日ほどで攻略できると見込んでいた。ところが、戦いは六月に入っても続く。この書状が伝えるのは攻め手の見通しであり、予告した時点で城全体が落ちていたわけではなかった。

兵糧攻めだけではない――堂の尾曲輪への攻撃
六月十日、武田軍は堂の尾曲輪を占領した。翌十一日の勝頼書状写に「塔尾」と記された戦果である。城内の防御拠点が失われ、守る側が使える場所は狭まった。
静岡県の文化財解説
は、1574年の攻略も兵糧攻めの末の開城と説明している。兵糧攻めとは、食料の補給を断ち、籠城側を持ちこたえられなくする攻め方だ。一方、勝頼の書状からは、曲輪を奪う攻撃が進んだことも読み取れる。
包囲によって補給を難しくすることと、城へ直接攻め寄せることは両立する。そのうえで、氏助との交渉が続いていた。包囲、曲輪への攻撃、城主への条件提示が重なった末に、高天神城は武田方へ移った。「食料が尽きたから落ちた」という一つの理由だけでは、この経過を十分には説明できない。
城内に食料が何日分残っていたかは確定できない。攻囲軍や籠城兵の正確な人数も、今回確認した史料だけではそろわない。大軍に少人数が耐えたという数字の比較より、堂の尾曲輪の喪失と交渉の進展を追うほうが、開城に至る道筋は見えやすい。
信長と家康の援軍は、なぜ間に合わなかったのか
家康は高天神城を救うため、信長に援軍を求めた。『信長公記』巻七は、六月五日に勝頼の攻囲を知らせる注進があったと記す。この五日は信長側が報告を受けた日であり、五月十二日という攻撃開始日とは意味が違う。
同書によれば、信長と信忠は六月十四日に岐阜を発ち、十七日に三河の吉田城へ入った。現在の愛知県豊橋市にあたる場所で、高天神城まではなお距離がある。援軍は動いていたが、城の包囲を破る位置には達していなかった。

六月十九日の記事では、信長父子は今切の渡りを渡ろうとする途上で、氏助が武田方を引き入れるという報せを受けたとされる。父子は吉田へ戻り、家康も浜松から吉田へ赴いた。信長と家康が城の麓まで到着し、勝頼と決戦したわけではない。
援軍が間に合わなかったことは確認できる。しかし、信長が意図して城を見捨てたとか、家康が初めから氏助を救う気がなかったとまで、この記述からは言えない。進軍と情報到着の順序をたどると、城の側が救援を待ち切れず、開城の知らせが援軍の前進を止めた経過が見えてくる。
『信長公記』は氏助の行動を「逆心」と評する。これは信長側から見た離反の評価である。その一語だけで氏助を説明すると、城内への攻撃と、勝頼が示した降伏条件が抜け落ちてしまう。
六月十七日の開城と、城主の降伏
掛川市の歴史年表は、開城日を六月十七日とする。一方、『日本歴史地名大系』が引く六月二十一日付の信忠書状から確認できるのは、その日以前に武田方が城を得ていたことだ。「十七日」という採用日と、別の文書で裏づけられる期限を分けておきたい。
氏助は武田方へ降り、高天神城を明け渡した。険しい地形が消えたわけでも、すべての曲輪が壊されたわけでもない。勝頼は守備側を攻撃で圧迫し、最後には城主の帰属変更によって城を手に入れたのである。第一次の結末は開城と降伏であり、1581年の城兵の討死とは異なる。

城を救えなかった後、信長は兵糧代として黄金を入れた皮袋二つを家康へ贈った。『信長公記』が伝える吉田での出来事である。援軍の不成功によって、織田と徳川の同盟が終わったわけではなかった。翌1575年、両者は長篠の戦いで再び武田軍に対して共同で戦う。
「信玄も落とせなかった城」という通説を確かめる
勝頼の高天神城攻略は、しばしば「信玄も落とせなかった城を落とした」と語られる。 1571年の武田軍来攻については、『日本歴史地名大系』が徳川方の撃退を記している。ただし、その一戦だけで信玄存命中の関係をまとめることはできない。
平山優は1572年十月の信玄書状を検討し、この時には氏助が信玄へ降っていたと解釈する。さらに、信玄の死後に氏助が徳川方へ戻ったと推定している。この見方に立てば、1574年の攻略には、いったん武田に従った城を再び得る意味があった。 1571年の撃退と1572年の従属説を分ける必要がある。
『甲陽軍鑑』品第五十一は、東美濃と高天神城での戦果を受け、勝頼が信玄以上だと評判になった様子を描く。続けて、宿老の意見が通らなくなり、無理な戦いへ進むことを危ぶむ話を置く。勝利の直後に、後の敗北を予感させる構成となっている。
ただし、同書は高天神城の開城を七月としており、六月の文書に基づく整理とは合わない。氏助への所領一万貫の約束も、ここでは軍記が伝える話として扱うべきだろう。勝頼の勝利は確認できても、「勝ったために慢心した」という心理まで同じ確度で証明されるわけではない。
1574年と1581年――第二次高天神城の戦いとの違い
高天神城を得た勝頼には、その城を守り続ける課題が残った。家康は1574年八月に馬伏塚城を整備し、大須賀康高を置く。 1575年の長篠で勝頼が敗れた後も、高天神城がすぐ徳川方へ戻ったわけではなかった。
1578年には家康が横須賀城を築き、攻略の拠点を整えた。そして1581年三月、武田方の高天神城は徳川方の包囲の末に陥落する。同じ城をめぐり、攻める側と守る側が入れ替わった。
| 比較する点 | 第一次(1574年) | 第二次(1581年) |
|---|---|---|
| 攻める側 | 武田勝頼 | 徳川家康 |
| 城を守る側 | 徳川方の小笠原氏助 | 武田方の岡部元信ら |
| 攻略の経過 | 包囲、曲輪への攻撃、開城交渉 | 徳川方の包囲による兵糧攻め |
| 救援 | 信長父子が進出したが城を救えず | 勝頼による救援は実現せず |
| 結末 | 氏助が降伏して城を明け渡す | 城兵が出撃し、岡部元信らが討死 |

1574年には家康が城を救えず、1581年には勝頼が救えなかった。最初の攻略だけで遠江の争奪が終わらなかったことが、二つの戦いを並べると分かる。前後の出来事は戦国年表、武田方の城が孤立する経過は第二次高天神城の戦いで追える。
弥助は第一次高天神城の戦いに参加したのか
1574年の第一次高天神城の戦いに、弥助が参加したとする根拠は、今回確認した史料には見当たらない。信長に仕えた弥助について、『信長公記』で信長との対面が記されるのは天正九年(1581年)二月二十三日である。第一次の七年後にあたる。
この記述の所在は、横浜市中央図書館の調査回答が、同書巻十四「御爆竹の事」として示している。 1581年は第二次の年でもあるが、信長との対面記録だけで高天神城への参戦まで証明することはできない。人物の登場する年と、個別の合戦に参加した証拠は分けて考えたい。
第一次の経過を説明するのは、勝頼による攻撃、小笠原氏助の降伏、そして届かなかった信長・家康側の救援である。難攻不落と呼ばれた城が武田へ渡ったのは、地形の強さだけでは補えない条件が、城の内と外で重なったためだった。
両軍の対比
武田勝頼
小笠原氏助(長忠・信興とも)
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 高天神城に関する歴史について掛川市参照日 2026-10-14
- 平山優「徳川家康と武田信玄・勝頼―高天神城をめぐる抗争史―」(1〜3頁)掛川市参照日 2026-10-14
- 日本歴史地名大系「高天神城跡」(公開部分)平凡社/コトバンク参照日 2026-10-14
- 太田牛一『信長公記』巻七「高天神城小笠原与八郎謀叛之事」「黄金家康公へ被進候事」、巻十四天正九年二月二十三日条Wikisource(公開翻刻)参照日 2026-10-14
- 大日本史料第十編之二十三(所報第35号の紹介)東京大学史料編纂所参照日 2026-10-14
- しずおか文化財ナビ 高天神城跡静岡県参照日 2026-10-14
- 『甲陽軍鑑』品第五十一(高天神開城と勝頼評の段)Wikisource(公開翻刻)参照日 2026-10-14
- 高天神城の歴史掛川市「今、よみがえる高天神城」参照日 2026-10-14
- 徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―「長篠の戦い」国立公文書館参照日 2026-10-14
- 高天神城跡(所在地・地図・散策マップ)掛川市観光サイト参照日 2026-10-14
- 織田信長の黒人家来、弥助についての資料を知りたい。横浜市中央図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-14






