
第一次高天神城の戦い|1574年勝頼の攻略と届かぬ救援
遠江国高天神城
AI生成イメージ
第一次高天神城の戦いは、1574年に武田勝頼が徳川方の要衝を奪った攻城戦。小笠原氏助の籠城、勝頼の攻撃と開城交渉、信長の救援を追い、「信玄も落とせなかった城」という通説を史料と照らして読む。
この戦いの要点
攻撃と交渉が並行する籠城戦
勝頼は曲輪へ攻め寄せる一方、城主小笠原氏助と交渉した。険しい山城でも、外からの救援なしに守り続けることは難しかった。
城に届かなかった織田の援軍
信長父子は岐阜から出陣したが、開城を知って引き返した。家康と信長は高天神城を救う戦闘に持ち込めなかった。
信玄と勝頼の戦果を比べる前に
1571年の武田軍撃退とは別に、1572年には城主が信玄へ降ったとする研究がある。「信玄も落とせなかった」と単純には言い切れない。
救援を待つ山城
信長の援軍が三河へ進んでも、高天神城の門には届かなかった。 天正二年(1574年)、武田勝頼に攻められた城主小笠原氏助は徳川方を離れ、遠江の山城を武田へ明け渡す。 険しい地形を頼みに持ちこたえた城を、外からの救援が間に合う前に勝頼が手に入れたのである。
この戦いは、勝頼を「長篠で敗れた武将」とだけ見ると抜け落ちる勝利だった。 一方、徳川家康にとっては、自らに属する城を守れなかった戦いでもある。 城内で耐える者と、城外から助けようとする者。 そのあいだへ、勝頼の攻撃と開城交渉が入り込んだ。
ここで扱う第一次高天神城の戦いは、1574年の攻略である。 信玄の来攻を含めた数え方もあるが、1581年に家康が城を奪い返す戦いとは分ける。 月日は旧暦で示す。 五月の攻撃開始から六月の開城まで、城兵の抗戦と、救援を待つ時間が勝敗を左右した。
遠江の山城と小笠原氏助
高天神城は、現在の静岡県掛川市にある標高約132メートルの鶴翁山に築かれた。 山は高大ではないが、斜面は険しい。 現存する城跡は東西の峰に曲輪が分かれ、間に井戸曲輪がある。 曲輪とは、兵や建物を置くために山を削って設けた平場であり、それを連ねて城を守っていた。
もとは今川氏の支配下にあった城で、小笠原氏が城主を務めた。 今川氏の勢力が衰えると、小笠原与八郎氏助は家康に従う。 氏助は長忠、信興とも呼ばれる人物で、名前の違いを別の城主の交替と取り違えないようにしたい。
徳川と武田に挟まれた小笠原氏には、山中に籠もるだけでは済まない事情があった。 城を維持するには、周囲の土地と家臣、さらに城外の味方との関係が必要になる。 どちらの大名に従うかという選択は、そのまま家の存続に関わっていた。 1574年の開城も、城壁が破られたかどうかだけでは説明しきれない。
なお、現在見られる遺構のすべてが、この戦いの時点で完成していたわけではない。 武田方となった後の改修も重なっている。 後年の堀や砦をそのまま1574年の攻防へ置き戻すと、勝頼が攻めた城と、家康が奪い返した城の姿が混ざってしまう。

勝頼の攻撃と開城交渉
信玄が1573年に没した後も、武田の攻勢は止まらなかった。 翌年、勝頼は徳川方の高天神城へ迫る。 『日本歴史地名大系』が引く六月十一日付の勝頼書状写では、城の諸口への攻撃を始めたのは五月十二日だった。 この日付は、後から勝頼自身が書き送った戦況報告に基づく。
城への攻撃と同時に、氏助を降らせる交渉も進んでいた。 平山優の研究整理によれば、五月中には勝頼が所領の保証などを約束する起請文を、穴山信君を通して氏助へ渡している。 起請文は神仏に誓って約束を示す文書である。 武力で城を削りながら、城主が武田方へ移る条件も提示していた。
ただし、交渉は一度でまとまらない。 同じ整理では、氏助との交渉が難航した後、勝頼は強硬な姿勢を示したとされる。 氏助が何をどこまで受け入れようとしたのか、その心中は残る記述だけでは確定できない。 救援を待ちながら交渉することと、最初から開城を決めていることは同じではない。
勝頼の五月二十八日付書状は、残る曲輪の塀際まで攻め寄せたと伝える。 しかも、攻略はあと十日ほどと見積もっていた。 だが、実際には六月に入っても戦いは続く。 攻め手の書状にある強い見通しを、そのまま城内の確定した状態と読むことはできない。

堂の尾曲輪の陥落
六月十日、武田軍は堂の尾曲輪を占領した。 翌十一日の勝頼書状写が「塔尾」と記す場所である。 この戦果は、軍勢が城を遠巻きに眺めていただけではないことを示す。 城内の防御拠点へ攻め込み、守る側が使える場所を減らしていた。
静岡県の文化財解説は、この攻略を兵糧攻めの末の開城とまとめている。 一方、勝頼の書状に基づく記述からは、曲輪を奪う攻撃の進展が追える。 食料を断つ包囲と、城内へ迫る攻撃とは両立する。 どちらか一方だけを唯一の勝因とするより、包囲、曲輪への攻撃、城主との交渉が重なっていたと捉えるほうが、資料の示す経過に近い。
城兵の正確な人数や、食料が何日分残っていたかは確定できない。 勝頼の軍勢についても、後世の説明に見える大きな兵数を、そのまま実戦参加者の集計とは扱えない。 何倍もの敵を相手に何日耐えたという数字の物語にすると、根拠よりも計算結果のほうが詳しくなってしまう。
それでも、城が押されていたことは分かる。 曲輪が失われれば、兵が退く場所も狭まる。 救援軍が到着するまで守り続けるという選択は、時間がたつほど難しくなっていったと考えられる。
岐阜を発った信長父子
城外では、家康が信長の援軍を求めていた。 『信長公記』は六月五日、勝頼が高天神城を囲んだという知らせが入ったと記す。 ここでの五日は、信長側への注進の日付である。 五月十二日からの攻撃と矛盾するものではない。
同書によると、六月十四日に信長と嫡男信忠は岐阜を出発した。 十七日には三河の吉田城へ到着する。 援軍は確かに動いていた。 しかし、出陣したことと、包囲された城を救える位置に達したことの間には隔たりがあった。

六月十九日の記事では、信長父子が今切の渡りを渡ろうとする途上で、氏助が武田方を引き入れるという報せを受けたと続く。 父子は吉田へ引き返し、家康も浜松から吉田へ赴いた。 したがって、信長と家康が高天神城の麓で勝頼と決戦したわけではない。 援軍の進出は、城を救う戦闘に結びつかなかった。
この場面を『信長公記』は、氏助の「逆心」として語る。 だが、それは信長側から見た離反の評価である。 その言葉だけを氏助の人格の説明に置き換えると、城内の圧迫や交渉の経過が見えなくなる。 援軍側が伝える失敗の理由と、城主が降伏へ至った条件を分けて読む必要がある。
六月の開城と吉田での対面
掛川市の歴史年表は、氏助が城を開いた日を六月十七日とする。 本記事もこの日を採るが、すべての史料が同じ日付を直接記しているわけではない。 『日本歴史地名大系』は六月二十一日付の織田信忠書状を根拠に、それ以前には武田方が占領していたと整理する。 信長が吉田へ着いた日と、独立した文書で開城が確認できる期限は、区別しておきたい。
氏助の降伏によって、高天神城は武田方の城となった。 勝頼は攻撃を続けて守備側を圧迫し、最終的には城主の帰属変更によって城を得た。 1581年の攻防で多くの城兵が討死する結末を、この年の開城に重ねてはいけない。

城を救えなかった後の信長と家康について、『信長公記』はもう一つの場面を残す。 信長は兵糧代として、黄金を入れた皮袋二つを家康へ贈った。 吉田で袋を開かせると、その量に人々が驚いたという。 牛一は信長の威光を描きつつ、家康の心中は推し量りがたいとも記している。
黄金の贈与が、失った城を取り戻すわけではない。 それでも、援軍の不成功をもって両者の関係が終わったわけでもなかった。 翌年の長篠では、信長と家康は再び武田軍に対して共同で戦う。 高天神城の失陥と同盟の継続は、同時に起きていたことである。
通説と俗説の射程
高天神城攻略は、「信玄も落とせなかった城を勝頼が落とした」とよく語られる。 たしかに1571年の武田軍来攻について、『日本歴史地名大系』は徳川方が撃退したとする。 ただし、それだけで信玄存命中のすべての攻防が決まるわけではない。
平山優は1572年十月の信玄書状を検討し、氏助がこの時には信玄へ降っていたと解釈する。 さらに、信玄の死後に徳川方へ戻ったと推定する。 この見方に立てば、勝頼の1574年の攻略には、いったん武田へ従った城を再び得る意味があった。 一度目の撃退と、その後の従属を同じ出来事に縮めることはできない。
もう一つ、勝頼の成功を後の敗北の原因へ直結させる語りにも注意したい。 『甲陽軍鑑』品第五十一は、東美濃と高天神での戦果により、勝頼が信玄以上だと評判になったと描く。 続いて、宿老の意見が通らなくなり、織田と徳川を相手に無理な戦いへ進むことを危ぶむ物語を置く。 勝利の直後に破局の予兆を配した構成である。
同書は小笠原氏への所領一万貫の約束も伝えるが、開城時期を七月とする点では、六月の文書に基づく年代整理と合わない。 軍記の生き生きした描写を、そのまま毎日の戦況や当事者の心理の記録にはできない。 「勝ったために慢心した」という説明も、勝頼本人の心を直接確かめたものではない。
| 論点 | 確認できること | 留保すること |
|---|---|---|
| 攻撃の開始 | 勝頼書状写は五月十二日と記す | 六月五日の注進を開戦日にしない |
| 開城日 | 市年表は六月十七日、信忠書状からは二十一日以前 | 日まで独立した複数史料で確定したとはしない |
| 信玄との比較 | 1571年には撃退、1572年の従属を説く研究がある | 信玄期を一貫した攻略失敗とまとめない |
| 勝頼の評判 | 軍記は父を超えた戦果という評判を描く | 評判を最大版図の測定や慢心の証明にしない |
勝頼が1574年に高天神城を得たという戦果は揺らがない。 書状が示すのは攻撃の進展であり、援軍が間に合わず城主が降ったという経過が、勝頼の成功を具体的に裏付けている。
奪った城を守る歳月
高天神城を失った家康は、その年の八月に馬伏塚城を整備し、大須賀康高を置いた。 一つの城を奪われても、遠江での抵抗は続く。 勝頼にとっても、城を得ることと、その城を維持することは別の仕事だった。
1575年の長篠の戦いで勝頼が敗れても、高天神城はすぐには徳川方へ戻らない。 家康は1578年に横須賀城を築き、攻略の拠点を整える。 1581年三月になって、ようやく高天神城は徳川方の手に戻った。

1574年には、家康が城を救えなかった。 1581年には、勝頼が城を救えなくなる。 同じ山城をめぐり、攻める側と守る側が入れ替わったのである。 最初の開城から七年後まで続く争奪は、高天神城の獲得が遠江の戦いの終わりではなかったことを示している。
両軍の対比
武田勝頼
小笠原氏助(長忠・信興とも)
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 高天神城に関する歴史について掛川市参照日 2026-09-22
- 平山優「徳川家康と武田信玄・勝頼―高天神城をめぐる抗争史―」(1〜3頁)掛川市参照日 2026-09-22
- 日本歴史地名大系「高天神城跡」(公開部分)平凡社/コトバンク参照日 2026-09-22
- 太田牛一『信長公記』巻七「高天神城小笠原与八郎謀叛之事」「黄金家康公へ被進候事」Wikisource(公開翻刻)参照日 2026-09-22
- 大日本史料第十編之二十三(所報第35号の紹介)東京大学史料編纂所参照日 2026-09-22
- しずおか文化財ナビ 高天神城跡静岡県参照日 2026-09-22
- 『甲陽軍鑑』品第五十一(高天神開城と勝頼評の段)Wikisource(公開翻刻)参照日 2026-09-22
- 高天神城の歴史掛川市「今、よみがえる高天神城」参照日 2026-09-22
- 徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―「長篠の戦い」国立公文書館参照日 2026-09-22





