
二俣城の戦い|1572年、信玄が断った城の水の手
遠江国・二俣城
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二俣城の戦いは1572年、武田信玄が徳川方の要衝を奪った攻城戦。水の手を断つ戦法と井戸櫓の逸話、開城日の旧説と近年の見解をたどり、三方ヶ原への進軍と1575年の家康による再攻略までを読む。
この戦いの要点
川に守られた交通の要所
二俣城は天竜川と旧二俣川に囲まれる丘陵にあり、遠江の平野と北の山間部を結ぶ位置を占めた。
給水を断つ攻城戦
城の防御力が高くても、水の供給が止まれば籠城を続けにくい。筏で井戸櫓を壊したという逸話は、給水遮断という戦いの筋と分けて読む。
三方ヶ原へ続く前哨戦
二俣城を得た武田軍は西へ進み、十二月二十二日に三方ヶ原で家康を破った。二俣の争奪はその後も続き、1575年に徳川方が取り戻した。
川の水を失った城
城のすぐ下には天竜川が流れていたが、そこから水を汲めなくなった二俣城の守備隊は、武田軍の包囲に抗し続けることができなかった。 元亀三年(1572年)、武田信玄は徳川方の二俣城を攻略した。 やがて三方ヶ原で家康を破る武田軍も、その前にこの城の抵抗を受けている。 二俣城の戦いは、籠城を支える水と、それを断つ攻城軍の争いであった。
城を守ったのは中根正照や青木貞治ら、徳川家康の家臣たちである。 攻める側には信玄と武田勝頼がおり、城が落ちると二俣は武田方の拠点になった。 勝敗の筋は明らかだが、筏を流して井戸櫓を壊したという有名な話には、構造や手順を確定できない部分が残る。 川が目前にありながら、城はなぜ水に窮したのか。
月日は当時の旧暦で記す。 開城日は十二月十九日と長く語られてきたが、近年の解説は十一月晦日、つまり十一月の末日を採る。 この違いによって、開城から三方ヶ原までの時間も変わってくる。 同じ二俣城で起きた1575年の徳川方による再攻略とは、攻め手と守り手を分けて追いたい。
遠江の平野と山間部を結ぶ二俣
二俣城の強さは、丘陵と川の組み合わせにあった。 天竜川と旧二俣川が城の三方を囲み、城内では丘陵に沿って平らに造成した曲輪が段をなしていた。 接近する敵にとって、川と斜面を越えた先に、さらに城の防御施設が待ち構える地形だったのである。
防御に適した場所と、長く生活を続けやすい場所は、必ずしも重ならない。 高い場所は敵の動きを見渡せる一方、川から水を運ぶには高低差を越えなければならない。 二俣城を見るときは、上から敵を防ぐ視線だけでなく、下から城へ物を届ける経路も考える必要がある。 丘の上の柵と川岸の間には、守備隊の日々を支えるつながりがあった。
二俣は遠江の平野部と北の山間部をつなぐ場所でもあった。 浜松市の文化財解説は、水上と陸上の交通が交わる要所として、その重要性を指摘する。 城を取るということは、周囲を行き来する人や物資に働きかける足場を得ることでもある。 家康方にとっては守りたい地点であり、遠江へ進出する武田方にとっては押さえておきたい地点だった(出典:浜松市文化財情報vol.94)。
ただし、今の城跡をそのまま信玄の眼前に置くことはできない。 現存する石垣や天守台は、1590年以降に城を領有した堀尾氏の時代のものと推定されている。 浜松市の発掘調査では、門の礎石や瓦も確認された。 目に見える遺構には、1572年の戦いが終わった後の改修が重なっているのである(出典:二俣城址の現地説明会資料)。

信玄の侵攻と城の抵抗
信玄が遠江に進出した元亀三年、家康は本拠の浜松城だけを守れば済む立場ではなかった。 周辺の城を失えば、敵はそこに兵を置き、さらに先へ進む拠点として使える。 二俣城の攻防も、遠江各地で進む武田方の軍事行動の中にあった。
包囲の始まりをどこに置くかは、解説によって幅がある。 小和田哲男は十月二十日を攻城開始日とする一方、浜松市の文化財情報は十月十日の調略命令を挙げ、十一月には城攻めが始まったと記す。 交渉や周辺への進出と、本格的な攻撃を同じ一日にまとめることは難しい。 ここでは十月頃から十一月にかけて包囲が進んだものとして扱う。
守将の名は、『角川日本地名大辞典』が『浜松御在城記』や『三河物語』などを引き、中根正照、松平康安、青木貞治を挙げている。 家康は徳川方の当主であり、この三人と一緒に二俣城内で籠城した人物として扱うわけではない。 城内の抵抗と、領国全体を守る家康の行動は区別しておく必要がある(出典:二俣郷(中世))。
城を攻める武田方も、短期間で片づけられたわけではなかった。 小和田は、勝頼を大将とする軍が攻めあぐね、山県昌景の別働隊も包囲中に合流したと説明する。 武田軍全体の動員数と、ある日に城へ攻めかかった人数は同じとは限らない。 兵数の差だけでこの戦いを説明すると、城の地形や給水をめぐる攻防が抜け落ちてしまう。
天竜川へ伸びた水の手
籠城には兵糧だけでなく水がいる。 飲み水や炊事用の水を毎日手に入れなければ、城壁を守る兵も生活を続けられない。 川が近いことは給水の利点になるが、川岸と城内の間を敵に押さえられると、その利点は失われる。
攻め手にとって、城門を破って兵を送り込むことだけが攻略の道ではない。 城内の兵が抵抗を続けるために必要なものを見極め、その供給を妨げる方法もある。 二俣城では、水を確保する働きが争点になった。 城の周囲を流れる水そのものをなくす必要はなく、城方がそれを使えなくなれば、籠城を支える条件は変わってしまう。
二俣城は天竜川から水を汲み上げていた。 武田軍が水の手を断ち、城が開いたという筋は、浜松市の説明と小和田の解説に共通する。 ここでいう攻撃は、城を水没させるために堤を築くようなものではない。城へ水を届ける働きを止め、籠城の継続を難しくする戦いだった。
攻撃側の動きを考える補助になるのが、山県昌景から奥平定能に宛てた十一月二十七日付の書状写である。 『愛知県史』所収文書の転載翻刻では、水の手を押さえた後も城方が天竜川の水を汲んでいたこと、船を岸に寄せ、汲み上げの綱を切ってそれも妨げたことが述べられている。 原本を直接確認したものではないが、給水をめぐる具体的な攻防を伝える記述として参照できる(出典:山県昌景書状写の転載翻刻)。

書状の差出人は、城が近く落ちるとの見通しも相手へ伝えている。 ただし、攻城側が「もうすぐ落ちる」と見込んだことと、実際にその日に開城したことは別である。 戦況報告は状況を知る手掛かりになる一方、相手を安心させたり、自軍の優位を示したりするための文書でもある。 給水遮断の記述を読めても、そこから城内の残水量や降伏までの時間を割り出すことはできない。
この記述で目を引くのは、一度水の手を押さえても、なお城方が別の形で水を得ていたという点である。 守備側が給水を続けようとし、攻め手がそれをさらに妨げる。 一つの妙計で即座に決着した話として読むよりも、互いの対応が重なる攻防として捉えると、川岸の重要性が見えてくる。 城を囲むだけでは終わらず、どこで水を汲めるのかまでが戦いの対象になっていた。

開城と武田方の城づくり
水の供給を断たれた二俣城は、ついに開いた。 中根正照や青木らは降伏し、城から退去したと小和田は記す。 これによって、徳川方が守っていた要衝が武田方の手に移った。 堅い城を得た側は、今度は自分たちがそこを維持する仕組みを整えなければならない。
『角川日本地名大辞典』は、信玄が城を修築したことを、十二月二十八日付の書状などに基づいて説明する。 同じ十二月の勝頼朱印状も挙げ、在番する家臣への指示を紹介している。 開城は城の役目の終わりではなく、城を使う側が交代する節目だった。 川沿いの要地を次の行動に使うには、守備と管理を引き継ぐ必要があったのである。
このため、二俣城の落城は、徳川方が一つの守備拠点を失った出来事であると同時に、武田方が城を維持する責任を負った出来事でもあった。 城を奪ったという戦果と、そこを継続して使える状態にする仕事は続いている。 軍記で目立つ攻撃の場面に加え、修築や在番への指示を伝える文書を見ることで、戦いの後に残された仕事にも目が届く。
一方、野外で戦う武田軍は、開城後に天竜川を越えて西へ進み、十二月二十二日の三方ヶ原で家康を破った。 二俣城の攻略と三方ヶ原の勝利は続けて語られるが、城を包囲して給水を断つ戦いと、野外で軍同士が衝突する戦いとでは局面が違う。 信玄は遠江の城を一つ手に入れたうえで、家康の軍との決戦へ進んだ(「三方ヶ原の戦い」)。

通説と俗説の射程
二俣城の戦いで印象に残るのは、上流から筏を流し、井戸櫓を壊したという話だろう。 小和田の解説もこの逸話を紹介している。 城の下を流れる川が、守備側の給水源であると同時に、攻める側が利用する場所にもなったという点で分かりやすい。 ただし、この説明から櫓の大きさや位置まで確定することはできない。
静岡県立中央図書館の城址講座の案内は、井戸櫓の写真を模擬再現とし、原位置は不明と明記している。 現地に形ある建物があっても、その場所で同じ構造の櫓が1572年に使われた証明にはならない。 給水を断たれたという戦況と、目に見える復元物の形は、別々に確かめる必要がある。 筏が衝突した瞬間の様子や、信玄が策を思いついた場面を史実として描くことも避けたい(出典:県立中央図書館の講座案内)。
開城日にも注意がいる。 小和田は十二月十九日を従来の説とし、近年の研究では十一月晦日と紹介する。 田家康の日経BOOKプラスの解説も、北条氏政の書状に基づく十一月末の開城を挙げている。 この日付を採るなら、二俣城が開いた直後、わずか三日で三方ヶ原へ至ったという説明にはならない(出典:小和田哲男の解説、田家康の解説)。
一方、開城後に日数が空くことだけで、信玄の病状や作戦のすべてを説明するのも難しい。 城の修築や守備の整備が進められたことは確認できるが、それぞれに何日を費やしたかまでは分からない。 城攻めの経過、軍の移動、当主の体調を、一つの鮮やかな物語に収めすぎない方が、この戦いの実像に近づける。
家康が取り戻すまで
信玄が元亀四年(1573年)に亡くなっても、二俣城がただちに徳川方へ戻ったわけではない。 家康は反攻を進めたが、武田方も城を守り続けた。 1572年の敗戦の後、家康にとって二俣は、奪われたまま残る拠点であった。
攻守が大きく動くのは天正三年(1575年)である。 長篠で武田勝頼を破った徳川方は、鳥羽山など周囲の拠点を使って二俣城を包囲した。 このとき城を守るのは武田方の依田信蕃らであり、攻めるのは家康方だった。 同じ城でも、1572年とは立場が逆転している(「長篠の戦い」)。
二つの攻城戦を続けて読むと、二俣城の価値が一度の勝敗では失われなかったことが分かる。 武田方には保持する理由があり、徳川方には取り戻す理由があった。 ただし、同じ城を争ったからといって、包囲の仕方や決着までを同じにすることはできない。 1572年の給水遮断と、1575年の付城を用いた包囲は、それぞれの時期の記録に沿って見るべきである。
鳥羽山城は、城を包囲するための拠点である付城として働いた。 浜松市の発掘解説は、二俣城の周囲に築かれた付城の一つとして鳥羽山を挙げ、家康が本陣を置いたと伝える。 この1575年の包囲網を、信玄が攻めた1572年の武田軍の布陣として描いてしまうと、二つの戦いを取り違えることになる(出典:鳥羽山城跡の発掘調査)。

同年、依田信蕃は二俣城を開き、その後は徳川方の大久保忠世が入った。 武田方に奪われてから三年を経て、家康はこの要地を取り戻したのである。 さらに1590年以降には堀尾氏が改修し、今日の城跡に残る石垣や天守台の姿へつながっていった(出典:二俣城跡及び鳥羽山城跡)。
二俣城は、川に囲まれた立地によって守りを固め、その川からの水を断たれることで開城した。 川岸を誰が押さえ、城で暮らす兵へ何を届けられるか。 三方ヶ原に先立つこの攻防は、城の強さが城壁の内側だけでは決まらなかったことを伝えている。
両軍の対比
武田信玄・武田勝頼
中根正照・青木貞治ら
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 浜松市文化財情報vol.94「武田の遠州攻め4」浜松市参照日 2026-09-22
- 小和田哲男「戦国10大合戦と城 第5回 三方ヶ原の戦い」城びと参照日 2026-09-22
- 二俣城跡及び鳥羽山城跡浜松市参照日 2026-09-22
- 二俣城址(2010年現地説明会配布資料)浜松市参照日 2026-09-22
- 令和4年 戦国時代の城址講座「徳川家康最大の危機」(案内チラシ)静岡県立中央図書館参照日 2026-09-22
- 角川日本地名大辞典(旧地名編)「二俣郷(中世)」KADOKAWA/JLogos参照日 2026-09-22
- 田家康「三方ヶ原の戦い 武田信玄はシベリア大寒波の襲来で命を縮めた」(開城日の記述を参照)日経BOOKプラス参照日 2026-09-22
- 浜松市文化財情報vol.69「鳥羽山城跡の発掘調査を行いました」浜松市参照日 2026-09-22
- 佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察(山県昌景書状写の転載翻刻を参照)徒然なるままに/note参照日 2026-09-22





