
武田信玄
「風林火山」
- 01父・信虎を追放——家督継承のクーデター
- 02信濃を制圧——村上義清との死闘
- 03川中島の戦い——謙信との宿命の対決
- 04孫子の兵法「風林火山」——信玄の戦略思想
- 05三方ヶ原の大勝——家康を叩きのめす
- 06上洛を目前に——伊那での病没
父・信虎を追放——家督継承のクーデター

信玄の人材観を示す名言「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。」
信濃を制圧——村上義清との死闘

風林火山の旗印・孫子より「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山。」
川中島の戦い——謙信との宿命の対決

臨終の遺言「勝頼よ、三年は我が死を秘せよ。」
孫子の兵法「風林火山」——信玄の戦略思想

三方ヶ原の大勝——家康を叩きのめす

上洛を目前に——伊那での病没

- 01
甲陽軍鑑と信玄の戦略

武田信玄の言動・戦法を後世に伝える最重要史料が『甲陽軍鑑』である。春日虎綱(高坂昌信)が口述し、小幡景憲が筆録したとされるこの書は、信玄の作戦指導・組織論・人材論を詳細に記録している。近代以降は内容の真偽について論争があるが、信玄の戦略思想の骨格を知るうえでいまも欠かせない第一級の資料として、歴史家・武道家の双方から参照され続けている。
- 02
諏訪御料人——政略と悲劇の女性

信玄が諏訪頼重を滅ぼした際、頼重の娘(後に「諏訪御料人」と呼ばれる)を側室として迎えた。彼女は後に武田家四男・勝頼の母となる。敵将の娘を側室とするのは政略的意味合いが強い一方、諏訪の遺民を取り込む意図もあった。諏訪御料人は若くして世を去ったが、勝頼は母方の諏訪家を継ぎ、のちに武田家の後継者となった。その出自は武田家内での勝頼の立場に影を落とし、重臣たちの求心力低下の遠因ともなったと言われる。
- 03
信玄堤——名将は治水の名手でもあった

信玄は戦に強いだけでなく、甲斐の国土経営にも卓越した手腕を発揮した。その代表例が釜無川・御勅使川の氾濫を制御するために築いた「信玄堤」である。蛇籠・聖牛・霞堤などの工法を組み合わせた当時最先端の治水技術は、甲斐の農業生産力を飛躍的に高めた。この堤は江戸時代以降も機能し続け、現代でも山梨県内に遺構が残る。戦国大名としての強さは軍事力だけでなく、領国を豊かにする民政力にも根ざしていたのである。
- 躑躅ヶ崎館跡(武田神社)山梨県甲府市
信玄が居城とした館跡。現在は武田神社として整備され、武田氏ゆかりの宝物館もある。
- 信玄堤山梨県韮崎市〜南アルプス市
釜無川・御勅使川の合流点付近に築かれた治水遺構。信玄の民政力を今に伝える。
- 恵林寺山梨県甲州市塩山
武田信玄の菩提寺。快川紹喜和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉で名高い。
- 駒場(信玄終焉の地)長野県下伊那郡阿智村
西上作戦の帰路、信玄が五十三歳で病没した地。石碑が建てられ往時を偲ぶことができる。


