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戦国時代武田家(小山田氏)15391582
小山田信茂|勝頼を見捨て武田を滅ぼした郡内の譜代家老の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・小山田信茂像(想像復元)
武田二十四将譜代家老郡内領主
おやまだ・のぶしげ

小山田信茂|勝頼を見捨て武田を滅ぼした郡内の譜代家老

OYAMADA NOBUSHIGE · 1539 — 1582 · 享年 44

武田の譜代家老にして郡内の国衆でありながら、滅びゆく主家を前に勝頼を岩殿城へ誘いながら笹子峠を封じて離反し、武田滅亡を決定づけながらも、その背信ゆえに織田に許されず一族もろとも刑場に消えた、戦国の悲劇

武田
生年
天文8年
1539年・天文9年説とも
没年
天正10年
1582年・享年44/甲斐善光寺で処刑
出身
甲斐郡内・小山田氏
父は小山田出羽守信有
役職
武田譜代家老・郡内領主
岩殿城・谷村城を拠点
家紋
沢瀉(おもだか)
OMODAKA

小山田信茂

小山田信茂は、武田の譜代家老にして郡内の国衆でありながら、滅びゆく主家を前に勝頼を自領の岩殿城へ誘いながら笹子峠を封じて離反し、武田滅亡を決定づけた——だが、その背信ゆえに織田に許されず、一族もろとも刑場に消えた戦国の悲劇の人である。

信茂は天文八年(1539年)ごろ、甲斐東部・郡内の領主、小山田出羽守信有の子として生まれた。郡内は桂川が刻んだ甲斐東端の山がちな一帯で、岩殿城・谷村城を拠点に小山田氏が半ば独立して治めてきた地である。武田に従う譜代家老でありながら、自前の所領と家臣団を持つ国衆——その立場が、彼の生涯を最後に大きく揺らすことになる。

信玄のもとでの信茂は、確かな忠臣であった。元亀三年(1572年)の三方ヶ原では先陣を務めたと伝わり、天正三年(1575年)の長篠の大敗では、崩れる味方のなかを勝頼の身辺を固めてしんがりとして退いた。武田二十四将のひとりにも数えられ、その地位はゆるぎないものに見えた。

転機は天正十年(1582年)、甲州征伐のさなかに訪れる。新府城を焼き捨てて落ちる勝頼に、信茂は自領・郡内の岩殿城へ退くことを勧めた。勝頼は譜代家老の言葉を信じてその道を選ぶ。だが郡内の入り口・笹子峠で、信茂は峠を封じて主君を拒み、近づく一行へ鉄砲を撃ちかけたと伝わる。行き場を失った勝頼は天目山に追い詰められて自害し、武田氏はここに滅びた。

主家を見限った信茂は、織田信忠に降を願い出る。だが信忠は、頼ってきた主君を土壇場で見捨てた背信を許さなかった。同年三月二十四日、信茂は甲斐善光寺の刑場で、八歳の嫡男、老母、妻、三歳の女子とともに処刑された。享年四十四。より早く武田を見限った穴山梅雪が所領を安堵されたのとは、あまりに対照的な最期であった。

戦国の世には、滅びゆく主家に殉じた忠臣の物語が数多く語り継がれてきた。そのなかで信茂は、主君を招きながら裏切ったがゆえに、「武田で最も卑劣な裏切り者」という強烈な汚名を背負ってきた一人である。しかし、勝ち目のない戦に郡内もろとも巻き込まれることを避けようとした彼の決断を、ただの卑劣と切り捨ててよいのか。忠臣から裏切り者へ、そして一族の処刑へと転がり落ちたその生涯には、乱世を生きた国衆が背負った、忠義と存続のあいだの重い葛藤が映し出されている。

01郡内GUNNAI

桂川の国衆 — 譜代家老の家に生まれて

郡内の譜代家老の家に育った若き日の信茂(AI生成イメージ)
郡内の譜代家老の家に育った若き日の信茂 · AI生成イメージ

天文八年(1539年)ごろ、小山田信茂は甲斐東部・郡内の領主、小山田出羽守信有の子として生まれた。郡内とは、桂川(相模川の上流)が刻んだ甲斐東端の山がちな一帯をさす。大月の岩殿、都留の谷村を拠点に、この地を半ば独立して治めてきたのが小山田氏である。

小山田氏は、ただの武田家臣ではなかった。もとは郡内に根を張る国衆——つまり自前の所領と家臣団を持つ地侍の領袖であり、武田の傘下に入ったあとも譜代の家老衆として別格の扱いを受けた。相模の北条と境を接する東の要を任され、甲斐の玄関を守る役どころである。

父・信有は、相模との国境で幾度も北条勢と槍を合わせた猛者であった。その小山田の家に生まれた信茂もまた、やがて家督を継ぎ、武田の軍に列して御小姓衆として二百五十騎を率いる将へと成長していく。

郡内をおさえる小山田氏は、武田の東を守る盾であった。 だがその「半ば独立した国衆」という立場こそ、のちに信茂の運命を大きく揺らすことになる。
勝頼を自領・岩殿城へ誘いながら、郡内の入り口・笹子峠を封じて離反し、行き場を失った武田勝頼を天目山の最期へと追いやった

「招いた主を、自ら拒む — 武田にとどめを刺した郡内の背信」

02武勇VALOR

三方ヶ原の先陣 — 武田二十四将のひとり

三方ヶ原で先陣を務めた壮年の信茂(AI生成イメージ)
三方ヶ原で先陣を務めた壮年の信茂 · AI生成イメージ

信玄のもとで、信茂はたびたび武功を重ねた。元亀三年(1572年)、信玄が西へ兵を進めた西上作戦では、遠江の三方ヶ原で徳川家康を相手に大勝する。『甲陽軍鑑』は、このとき小山田勢が先陣を務めたと伝えている。

郡内衆は山岳の地に鍛えられた強兵として知られた。とりわけ後世には、小山田勢が投石をもって敵を崩したという「印地打ち」の逸話が語り継がれる。もっとも、信茂自身が投石隊を率いたと記す確かな史料はなく、これは後の世に生まれた俗説の色合いが濃い。だが、そうした武勇伝が生まれるほど、郡内衆の戦ぶりが恐れられていたことは確かである。

武田家中において、信茂は譜代家老衆に名を連ね、のちに「武田二十四将」のひとりにも数えられた。血筋ではなく、戦場での働きと郡内をおさえる実力によって、彼は武田の中枢に位置を占めていたのである。

信茂は、信玄が誇る精強な家臣団の一翼を確かに担っていた。 その武名がもっとも輝いたのは、皮肉にも武田が天下に最も近づいた、この西上作戦のさなかであった。
頼ってきた主君を土壇場で見捨てた背信ゆえに織田信忠に許されず、一族もろとも甲斐善光寺で処刑された

「裏切った者は許されず — 信茂は死に、梅雪は生きた」

03退き口REARGUARD

長篠のしんがり — 崩れる武田を支えて

長篠の退き口で勝頼を守る信茂(AI生成イメージ)
長篠の退き口で勝頼を守る信茂 · AI生成イメージ

元亀四年(1573年)、西上の途上で信玄が病に斃れる。後を継いだのは四男の勝頼であった。だが勝頼は、もともと諏訪家を継ぐはずだった身であり、信玄の正統な後継としては立場が弱い。譜代の家老や一門衆との間には、はじめから微妙な隔たりがあった。

天正三年(1575年)、武田は三河の長篠で織田・徳川の連合軍と正面からぶつかり、大敗を喫する。山県昌景、馬場信春ら信玄以来の名将が次々と討たれ、武田の精強は大きく損なわれた。

この絶望的な戦場で、信茂は勝頼の身辺を固め、崩れる味方の中をしんがりとして退いたと伝わる。多くの宿将が討死するなか、主君を無事に甲斐へ帰したのは、譜代家老としての確かな働きであった。このときの信茂は、まぎれもなく勝頼を守り抜いた忠臣であった。

だが長篠の痛手は、兵だけでなく武田家中の結束そのものをむしばんでいく。勝頼が長坂釣閑斎や跡部勝資ら側近を重んじるにつれ、譜代衆はしだいに政の中枢から押しのけられていった。主君を守った男の胸にも、このころから主家の行く末への影が、静かに差し始めていた。

04落日TWILIGHT

新府炎上 — 崩れゆく武田の防衛線

焼け落ちる新府城を背に退く武田主従(AI生成イメージ)
焼け落ちる新府城を背に退く武田主従 · AI生成イメージ

天正十年(1582年)、ついに織田・徳川・北条が四方から甲斐・信濃へ攻め寄せる。世にいう甲州征伐である。木曾義昌の離反を皮切りに、武田の防衛線は驚くほどあっけなく崩れ落ちていった。長く保ってきた武田の威光は、もはや家臣たちをつなぎとめる力を失っていた。

三月、織田信忠の大軍が信濃を席巻し、高遠城が陥落する。勝頼は、わずか前年に築いたばかりの新府城を、戦わずして自ら焼き捨てねばならなかった。甲斐源氏以来の名門が、本拠を炎に包んで逃げ落ちる——それは武田の落日を、誰の目にも明らかにする光景であった。

従う者は日ごとに減っていく。新府を出たとき、勝頼に付き従う将兵はもはや数百にすぎなかったともいう。この最後の局面で、勝頼の行く末を左右する重い進言が、二人の家臣からなされる。一人は信濃の真田昌幸、もう一人が郡内の小山田信茂であった。

武田はいま、どこへ逃れ、どこで起死回生を期すか——その一点に命運を懸けていた。 そして勝頼が選んだのは、信茂の差し出した一つの道であった。
05岩殿へINVITATION

岩殿城へ — 主君を郡内へ誘う

郡内の岩殿城へ勝頼を誘う信茂(AI生成イメージ)
郡内の岩殿城へ勝頼を誘う信茂 · AI生成イメージ

新府を捨てた勝頼に、真田昌幸は自領の上野・岩櫃城へ迎え入れたいと申し出た。堅固な山城に拠って、上杉を頼みに再起を期すという策である。だが昌幸の本領は遠く、たどり着くには敵中を長く抜けねばならない。

これに対し、信茂は自領・郡内の岩殿城へ退くことを勧めた。岩殿城は、桂川の断崖にそびえる天嶮の要害である。郡内は信茂の本国であり、兵糧も人手もそろう。なにより距離が近い。勝頼は、譜代家老である信茂の言葉を信じ、その差し出す道を選んだ。

勝頼一行は、新府から東へ、郡内をめざして落ちていく。雪のなお残る山道を、女子供を含むわずかな主従が、信茂の城を頼みに歩を進めた。譜代家老の本領に入りさえすれば、ひとまずの安息が得られる——勝頼の胸には、そのかすかな望みがあったにちがいない。

主君を自らの城へ招くという信茂の進言は、武田再起の最後の希望に見えた。 だが郡内の入り口・笹子峠で、その望みは凍りつくことになる。
06笹子BETRAYAL

笹子峠の離反 — 閉ざされた郡内の門

笹子峠を封じ勝頼を拒む信茂(AI生成イメージ)
笹子峠を封じ勝頼を拒む信茂 · AI生成イメージ

勝頼一行が郡内の入り口・笹子峠にさしかかったとき、信茂の姿はそこになかった。一足先に郡内へ戻った信茂は、峠を封じ、主君を迎え入れることを拒んだのである。『甲乱記』は、このとき信茂が勝頼に離反し、近づく一行へ鉄砲を撃ちかけたと伝えている。

なぜ、自ら招いておきながら、最後の最後で背いたのか。落ちゆく主従の供がみるみる減っていくのを見て、もはや武田に望みなしと断じたのか。あるいは、勝頼を匿えば郡内もろとも織田に滅ぼされると恐れたのか。理由は判然としない。確かなのは、頼みの城の門が、目の前で固く閉ざされたという事実だけである。

行き場を失った勝頼は、郡内に入ることも、もとへ戻ることもかなわず、天目山のふもと・田野へと追い詰められていく。天正十年三月十一日、勝頼は妻子とともに自害し、甲斐源氏以来の名門・武田氏はここに滅び去った。

信茂の離反は、武田にとどめを刺す最後の一撃となった。 主君を招きながら裏切ったこの一事こそ、のちに信茂へ「武田で最も卑劣な裏切り者」という汚名を着せることになる。
07善光寺RECKONING

甲斐善光寺の刑場 — 許されざる背信

甲斐善光寺の刑場へ引かれる信茂(AI生成イメージ)
甲斐善光寺の刑場へ引かれる信茂 · AI生成イメージ

武田を見限った信茂は、甲府に陣を置く織田信忠のもとへ出頭し、降を願い出た。郡内の安堵を期しての参上であったろう。だが、その思惑はまったく外れる。

信忠は、信茂を許さなかった。主君を売って身の安全を図る——その背信は、降将を受け入れるに足る信義を欠くと見なされたのである。最後まで主家を裏切らなかった者ならばまだしも、頼ってきた主君を土壇場で見捨てた男を、織田は信じるに値しないと断じた。皮肉にも、より早く武田を見限った穴山梅雪が所領を安堵されたのとは、あまりに対照的な裁きであった。

天正十年三月二十四日、信茂は甲斐善光寺の刑場に引き出される。連座したのは、八歳の嫡男、年老いた母、妻、そして三歳の女子であった。郡内をおさえた譜代家老は、自らの一族もろとも、ここで処刑されて生涯を終える。享年四十四。

勝頼を見捨ててまで守ろうとした身と家は、わずか半月のうちに、根こそぎ絶たれた。 武田を裏切った代償は、武田の滅亡からまたたく間に、信茂自身へと跳ね返ってきたのである。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-15

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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