戦国時代武田氏15211573
武田信玄の肖像
甲斐の虎風林火山川中島
たけだ・しんげん

武田信玄

TAKEDA SHINGEN · 1521 — 1573 · 享年 53

風林火山

武田
生年
大永元年
1521
没年
天正元年
1573
出身
甲斐
山梨県
居城
躑躅ヶ崎館
甲斐
家紋
武田菱
TAKEDA-BISHI
CONTENTS · 七章
  1. 01父・信虎を追放——家督継承のクーデター
  2. 02信濃を制圧——村上義清との死闘
  3. 03川中島の戦い——謙信との宿命の対決
  4. 04孫子の兵法「風林火山」——信玄の戦略思想
  5. 05三方ヶ原の大勝——家康を叩きのめす
  6. 06上洛を目前に——伊那での病没
01
父の追放
FATHER

父・信虎を追放——家督継承のクーデター

躑躅ヶ崎館・家督継承の場
躑躅ヶ崎館・家督継承の場
大永元年(1521年)十一月三日、甲斐国守護・武田信虎の嫡男として生まれた晴信は、幼少より学問・武芸に秀でた神童として知られた。しかし父信虎は苛烈な性格で家臣たちから憎まれ、晴信自身も幾度か衝突を重ねたとされる。天文十年(1541年)六月、晴信は家中の重臣たちと謀り、駿河に向かった父・信虎を甲斐に帰国させないまま今川家のもとに事実上追放した。このクーデターは流血なく成功し、二十一歳の晴信は武田家の家督を継承する。後に出家して「信玄」と号したこの若き当主は、父が作りあげた強大な軍事力を土台に、さらなる領国拡大へと踏み出していくことになる。
信玄の人材観を示す名言

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。」

—— 甲陽軍鑑
02
信濃制圧
SHINANO

信濃を制圧——村上義清との死闘

信濃攻略・村上義清との激闘
信濃攻略・村上義清との激闘
家督を継いだ信玄が最初に照準を定めたのは隣国・信濃であった。天文十一年(1542年)に高遠頼継を滅ぼして諏訪を掌握すると、以後北信濃へと触手を伸ばす。しかし北信濃の雄・村上義清は手強かった。天文十七年(1548年)の上田原の戦いでは武田方が大敗を喫し、信玄自身も負傷したと伝わる。翌天文十九年(1550年)の砥石崩れでも村上軍に痛手を受けたが、信玄は諦めなかった。軍師・山本勘助を用い、調略と武力を組み合わせて義清の家臣団を切り崩していった。天文二十二年(1553年)、ついに村上義清は越後の上杉謙信のもとへ落ち延び、信濃はほぼ武田の手に帰した。この信濃制圧の過程で信玄は騎馬主体の武田軍団を鍛え上げ、戦略家としての名声を不動のものとした。
風林火山の旗印・孫子より

「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山。」

—— 孫子 軍争篇
03
川中島
KAWANAKAJIMA

川中島の戦い——謙信との宿命の対決

川中島・謙信との一騎討ち
川中島・謙信との一騎討ち
信濃に追われた村上義清の訴えを受けた越後の上杉謙信は、信玄と五度にわたって激突することになる。これが世に名高い「川中島の戦い」である。天文二十二年(1553年)の第一次から永禄七年(1564年)の第五次まで、信越国境の千曲川流域で繰り広げられた合戦は、どちらも決定的な勝敗を得ることなく終わった。最大の激戦は永禄四年(1561年)の第四次川中島の戦いである。謙信が「啄木鳥戦法」を見破り武田本陣へ突入、信玄が軍配で謙信の太刀を受けたとされる一騎討ちの逸話はあまりにも有名だ。この戦いで武田方は山本勘助ほか多くの将を失い、信玄自身も生涯最大の危機に立たされた。二人の英雄の戦いは後世まで語り継がれ、義を重んじる謙信と智略を尽くす信玄という対比は、日本人が愛する「宿命のライバル」像の原型を形作った。
臨終の遺言

「勝頼よ、三年は我が死を秘せよ。」

—— 甲陽軍鑑
04
風林火山
FURINKAZAN

孫子の兵法「風林火山」——信玄の戦略思想

風林火山の旗印をたなびかせる武田軍
風林火山の旗印をたなびかせる武田軍
信玄の旗印として名高い「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」(疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)は、中国の古典『孫子』の軍争篇に由来する。信玄はこの四句をそのまま旗に掲げ、武田軍の行動原理とした。戦場では状況に応じて電撃的な機動(風)・森のような陣容の静けさ(林)・猛烈な攻勢(火)・泰然たる守備(山)を使い分けることを将兵に徹底させた。また信玄は孫子の「廟算」概念に従い、開戦前の情報収集・兵站整備・調略工作を極めて重視した。戦わずして勝つことを理想とし、実際に多くの城を攻めるより先に内部崩壊を誘う調略を多用した。この合理的かつ徹底した兵法思想が、武田軍を当代最強の軍団へと育て上げた根幹にある。
05
三方ヶ原
MIKATAGAHARA

三方ヶ原の大勝——家康を叩きのめす

三方ヶ原の戦い・武田軍の大勝
三方ヶ原の戦い・武田軍の大勝
元亀三年(1572年)、信玄は二万五千の大軍を率いて「西上作戦」を開始した。遠江・三河を経て上洛を目指す壮大な作戦の途上、徳川家康は武田軍の挑発に乗って浜松城を出陣する。元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原台地で両軍は激突した。信玄は「魚鱗の陣」を敷き、騎馬隊を巧みに運用して徳川・織田連合軍を完膚なきまでに粉砕した。家康は這々の体で浜松城に逃げ帰り、その敗走姿を自戒のために描かせた「顰み(しかめっ面)の像」が後世まで伝わるほどの惨敗だった。武田軍はさらに野田城を攻略し、上洛への道を着実に切り拓いていった。もし信玄が健康であったなら、その後の戦国史は大きく異なっていたかもしれない。
06
西上作戦と病没
DEATH

上洛を目前に——伊那での病没

駒場・信玄最期の地
駒場・信玄最期の地
三方ヶ原の大勝後も西上作戦を継続した信玄だったが、三河野田城の攻囲中から体調の悪化が著しくなった。天正元年(1573年)四月、信玄は軍を引き返し甲斐への帰還途中、信濃国伊那郡駒場(現長野県下伊那郡阿智村)で五十三歳の生涯を閉じた。死因については肺結核・胃癌など諸説あり定かではない。信玄は死に際し「三年間は死を隠せ」と遺言したと伝わる。後継者・勝頼はこの遺言を守り、武田の威光を保とうとしたが、三年後の天正三年(1575年)に長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田家の実質的な衰退が始まった。信玄の死は、天下の趨勢を一変させるほどの衝撃を戦国の世に与えたのである。