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戦国時代飯富氏・山県氏1575
武将列伝戦国時代武田

やまがた・まさかげ

山県昌景赤備えの名将と武田家の交渉役

? – 1575YAMAGATA MASAKAGE
山県昌景の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: AI生成による想像図
  • 武田家
  • 赤備え
  • 長篠の戦い
生年
不詳生年・享年は確定しない
没年
天正3年1575年・長篠の戦い
主君
信玄・勝頼武田家の重臣
拠点
江尻城駿河の城代を務める

山県昌景は、武田信玄・勝頼に仕えた重臣である。飯富昌景という名でも知られ、赤備えを率いた武将として語り継がれてきた。1575年、長篠の戦いで戦死したことが、生涯の大きな区切りになる。

だが、戦場の勇姿だけが残っているのではない。家臣の起請文を受け取り、酒井忠次へ書状を送り、駿河の江尻城代を務めた足跡がある。勇将としての名声と、文書に残った実務の両方を追うと、武田家が昌景に何を任せていたかが見えてくる。

本記事では、年齢や最期の言葉を無理に確定しない。同時代の文書、合戦を記した史料、後世に伝わる物語を読み分けながら、飯富から山県へと名を変えた一人の重臣をたどる。

01飯富の名ORIGINS

信玄の側近として現れる

甲斐の館へ向かう若い頃の昌景の想像図。容貌・衣装は史実の復元ではない(AI生成イメージ)
甲斐の館へ向かう若い頃の昌景の想像図。容貌・衣装は史実の復元ではない · AI生成イメージ

赤備えの名将として知られる山県昌景は、武田軍の戦場だけでなく、家臣たちの誓約と同盟相手への書状にも名を残した重臣である。初めの姓は飯富。飯富昌景と山県昌景は、別の武将ではない。

その出発点には空白がある。福井市立郷土歴史博物館の解説は生年を不詳とし、弘治2年(1556)8月以降、信玄の側近として史料に現れると述べる。幼少期からの立身物語を細かく描けるほど、確かな記録がそろっているわけではない。まず見えてくるのは、すでに主君の近くで働く成人の昌景だ。

飯富虎昌の弟とされ、源四郎を称した昌景は、やがて三郎兵衛尉の名でも知られるようになる。ただし、有名な兄の存在だけで後年の地位を説明することはできない。山県の名が残る起請文や書状には、命令を受ける側であると同時に、他の家臣や他家との間を取り持つ姿が現れる。

戦国大名の家中は、主君一人がすべての相手と直接やり取りできる組織ではない。昌景の足跡をたどると、信玄の意思を伝え、相手の返答を受け止める仕事が見えてくる。その役割を確かめる手がかりが、飯富の家を揺さぶる事件の後に残されている。

02義信事件と改姓OATHS

誓約を受け取る山県三郎兵衛

起請文を受け取る昌景を描いた想像図。特定の奉呈場面を再現したものではない(AI生成イメージ)
起請文を受け取る昌景を描いた想像図。特定の奉呈場面を再現したものではない · AI生成イメージ

永禄8年(1565)、信玄の嫡男・義信をめぐる事件で飯富虎昌が処罰された。昌景はその後も信玄に仕え、飯富から山県へ姓を変える。親族の失脚が、そのまま昌景の失脚につながったわけではなかった。

永禄10年(1567)の起請文には、山県三郎兵衛の名が見える。起請文とは、約束を破れば神仏の罰を受けると誓う文書だ。生島足島神社に伝わる文書群では、武田家の将士たちが謀反を企てないことなどを誓い、その受取人の一人に昌景がなっている。

上田市が紹介する室賀信俊・経秀の起請文も、山県三郎兵衛に宛てたものだ。主君に背かないという約束を、家臣たちは昌景へ差し出した。これは昌景が単に一隊を率いるだけでなく、家中の服従を文書で取りまとめる位置にいたことを示している。

しかも、受取人となった重臣たち自身も起請文を提出していた。誓いを集める役は、誓いから免除される役ではない。昌景も主君に従う家臣であり、その立場のまま他の家臣と信玄をつないでいた。義信事件後の武田家を支えた働きを、合戦とは異なる形で伝える史料である。

03駿河の交渉DIPLOMACY

酒井忠次へ送った一通

書状を検討する昌景の想像図。致道博物館所蔵文書の外観を再現したものではない(AI生成イメージ)
書状を検討する昌景の想像図。致道博物館所蔵文書の外観を再現したものではない · AI生成イメージ

永禄12年(1569)に比定される昌景の書状は、意外な相手に送られている。徳川家の酒井忠次だ。後に長篠で敵同士となる両家は、この時点では今川氏に対して協力していた。

書状は掛川方面の状況から始まり、やがて駿河の人質交換をめぐる説明へ移る。忠次側に断りなく話が進んだとして、不信が生じていた。昌景は、関係者が信玄の指示を受けずに動いたこと、信玄がそれを怒っていることを伝え、自分たちがひそかに相手を裏切ったわけではないと説いている。

ここで昌景は、武田方の言い分を強く押し出すだけでは終わらない。なお疑いが残るなら誓約の文書を差し出すと申し出て、甲斐にいる忠次の娘を返す意向にも触れた。相手の不満に答え、信用を補う方法まで示している。

もちろん、この一通で交渉の結末まで分かるわけではない。それでも、昌景が実際に書状を出し、武田家の行動を徳川方へ説明したことは動かない。赤備えの勇将は、敵を討つ前に、同盟相手の疑いを解く仕事もしていた。後年の敵味方を固定して眺めると見落とす、昌景のもう一つの仕事である。

04三増の帰路MIMASE

峠を越える別働隊

峠道で部隊を率いる昌景の想像図。三増の具体的な隊形や進路を示す図ではない(AI生成イメージ)
峠道で部隊を率いる昌景の想像図。三増の具体的な隊形や進路を示す図ではない · AI生成イメージ

同じ永禄12年、武田軍は小田原へ進んだ。だが小田原城を落とせず、甲斐へ引き返す。その帰路で待ち受けたのが、三増峠をめぐる北条軍との戦いだった。

神奈川県の史跡解説は、北条氏照・氏邦の軍勢が武田軍の進路を遮り、昌景の別働隊が志田峠方面から高所を利用して攻撃したと伝える。この戦いで、昌景の名は本隊と別の道を進む部隊の指揮者として語られている。

帰還を目指す軍勢にとって、目の前の敵を押すだけでは足りない。進む道が塞がれれば、帰路そのものを確保する必要がある。別働隊の働きを伝える物語の焦点も、敵の大将との一騎打ちではなく、山道を通って別方向から戦況を動かすところにある。

武田軍はこの戦いで損害を出しながら、北条軍を退けて帰還した。昌景の動きを分刻みで再現したり、本人の一撃だけで勝敗が決したとしたりするのは行き過ぎだろう。それでも三増の伝承は、前線に突っ込む勇ましさとは別の資質、すなわち本隊を離れて一隊を動かす指揮者としての昌景像を、今に伝えている。

05江尻城代SURUGA

戦場と領国をつなぐ拠点

駿河の城と町を望む昌景の想像図。江尻城の建築復元ではない(AI生成イメージ)
駿河の城と町を望む昌景の想像図。江尻城の建築復元ではない · AI生成イメージ

昌景は駿河の江尻城代も務めた。戦場を移動する武将にとって、城を預かる立場はもう一つの顔である。主君の軍勢とともに進むだけでなく、獲得した地域に拠点を持つ重臣となった。

江尻は現在の静岡市清水区にあたる。甲斐から駿河へと活動の場を広げた武田家にとって、駿河の城を任せることは、新たな領国を維持する営みの一部だった。昌景を甲斐の合戦だけに閉じ込めてしまうと、この役目は見えにくくなる。

1569年の書状には、駿河の人々をめぐる問題がすでに細かく記されていた。昌景は安倍山の地域勢力との交渉、人質交換に動く武将たち、信玄の意向を一通の中で説明している。新たな支配地で起きることを、他家との関係から切り離して扱えなかったのである。

城代就任の正確な時期や、個別の町づくりをどこまで昌景自身に帰せるかは、別に検討する必要がある。ここで確かめられるのは、江尻城代という地位と、駿河をめぐる実務に携わった書状の存在だ。そこに立つ昌景は、出陣の時だけ姿を現す武将ではない。戦いで広がった領国と、その外側の相手をつなぐ位置にもいた。

06西への進軍MIKATAGAHARA

東三河から二俣、三方ヶ原へ

冬の遠征で指揮を執る昌景の想像図。特定の号令や戦闘場面の再現ではない(AI生成イメージ)
冬の遠征で指揮を執る昌景の想像図。特定の号令や戦闘場面の再現ではない · AI生成イメージ

元亀3年(1572)、信玄の軍勢は徳川領へ進んだ。昌景の部隊は東三河方面を攻め、その後、二俣で本隊に合流する。かつて書状で協力関係を取り持った徳川家が、今度は武田軍の進路に立っていた。

三方ヶ原の戦いでは、徳川家康の軍に織田方の援軍も加わっていた。佐久間信盛らが参戦したものの、戦いは武田方の勝利となり、家康は浜松へ退いた。昌景の軍歴は、この武田軍の西進と大きな勝利に結びついている。

ただし、遠征の全体を眺めれば、一つの平原で突然勝負が始まったわけではない。東三河へ入る部隊があり、二俣での合流があり、その先に三方ヶ原がある。昌景の働きを理解するには、決戦の瞬間だけでなく、各地を進む部隊を率いた経過も追う必要がある。

戦いの日は元亀3年12月22日という旧暦の日付である。西暦年を添える通常の表記では1572年の戦いとなるが、日付までそのまま現代の暦へ置き換えることはできない。信玄はこの勝利によって浜松城そのものを奪ったわけでもなかった。大きな野戦の勝利と、敵の拠点を獲得することは同じではない。

やがて昌景は、信玄に続いて勝頼のもとで戦う。西へ進んだ軍勢の記憶は、次の主君の時代に、異なる結末を迎えることになる。

07長篠・設楽原NAGASHINO

記録に残った攻撃と戦死

設楽原方面を望む昌景と兵の想像図。最期の瞬間を描いたものではない(AI生成イメージ)
設楽原方面を望む昌景と兵の想像図。最期の瞬間を描いたものではない · AI生成イメージ

天正3年(1575)、武田勝頼の軍は長篠城を攻め、救援に来た織田信長・徳川家康の連合軍と対した。昌景もこの戦いに加わり、5月21日、旧暦の日付で記される決戦の日に命を落とした。

太田牛一の『信長公記』は、武田方の攻撃を記すくだりの最初に山県三郎兵衛を挙げる。太鼓を打って攻めかかった昌景の部隊が、鉄砲で撃ち立てられて退いたという叙述だ。同書は討ち取られた武田方の武将を列挙する箇所にも、昌景の名を記している。

ただし、この記録の短い一節から、昌景が何度突撃したか、最後に何を叫んだかまでは読み取れない。勝頼との軍議で交わしたという言葉や、死を覚悟した胸中を加えなくても、攻撃の記録と戦死者の名は残っている。ここではその二つを、動かしがたい骨格として受け止めたい。

武田方では昌景のほかにも多くの将士が失われた。各部隊を率いた重臣の死は、戦場での損害であると同時に、家中を支えてきた人材の喪失でもあった。起請文を受け、同盟相手に手紙を書き、城を預かった昌景の仕事も、この時に終わる。

その後に残ったのは、文書の名だけではない。赤備えの伝承、別れの水盃、戦場に立つ碑が、昌景を語り継いできた。生前の足跡と死後の記憶を読み分けることで、勇将という一言の中に隠れていた生涯の広がりが見えてくる。

02
READING

史料の読み解き

『甲越信戦録』巻の八は、昌景が義信を救援するため、小島弥太郎(貞興)との一騎討ちを中断する話を載せる。 敵の忠義を互いに認める物語であり、実際の対戦や会話を確かめられた記録とは区別する。

昌景を語るとき、赤い軍団がまず目に浮かぶ。ところが、本人の仕事を直接伝える書状には、赤い鎧も華々しい一騎打ちも出てこない。あるのは、相手の疑いに答える説明と、約束を文書にするという申し出だ。この距離は、昌景像を弱めるためではなく、その働きを広く捉えるための入口になる。

飯富昌景と山県昌景、その間にあるもの

「飯富昌景」と「山県昌景」は同じ人物を指す。ただし、姓を変えたという事実と、その理由を余すところなく説明できることは別である。飯富虎昌が義信事件で処罰され、昌景が信玄への奉公を続けたという前後関係から、すぐに「兄を密告した褒美で名跡を与えられた」と結論することはできない。

講談社の人名辞典は虎昌を兄とし、福井市立郷土歴史博物館は弟とされる関係として紹介している。広く知られる系譜を示すには、この範囲で足りる。一方、親族の事件を知った昌景の心情、告発の場面、主君とのやり取りまでを細部豊かに描くには、それを伝える史料を別に示さなければならない。本記事が会話を置かなかったのは、そのためである。

改姓の時期を考える際には、1567年の起請文がよい足場になる。そこに山県三郎兵衛という受取人がいる以上、この段階で山県の名が使われていたことは押さえられる。しかし、その確認は「改姓したのはこの日だ」という証明ではない。ある名前が文書に初めて見える時点と、その名前を使い始めた日とは、必ずしも一致しない。

生年も同様だ。最期を1575年と記せても、生まれた年が確定しなければ、享年を一つに定めることはできない。肖像が若々しく見えることや、兄とされる人物の年齢から逆算することも根拠にはならない。昌景を理解するために必要なのは、空欄をなくすことより、どの時点で何をしていた人なのかを積み上げることである。

起請文は、信玄と家臣の間に誰がいたかを示す

生島足島神社の文書群では、信玄に対する服従を誓う将士と、それを受け取る重臣が、文書の差出人と宛先として現れる。昌景は後者の一人だった。室賀氏の文書もその具体例であり、受取人の名は、家中のつながりを考える足がかりになる。

この宛先を、現代の組織図の一部署にそのまま置き換えることはできない。昌景にすべての人事権があったとか、誓約した武将の所領を自由に処分できたとか、文書にない権限まで読み込むのは危険である。確認できるのは、特定の将士の誓いが昌景に向けられ、その文書が残っているという関係だ。

それでも、関係が見えることには意味がある。武田家臣団を信玄と無数の兵士だけで描けば、中間にいる人物の働きが消えてしまう。誓いを受け取る者がいて、その者も主君へ誓う。この重なりの中に、家老として働く昌景の位置を考える余地がある。彼は家中の外から監督する存在ではなく、自らも同じ奉公関係の内側にいた。

また、起請文は、書かれた内容が必ず守られたことまで保証しない。破らないという誓いが必要だった背景には、約束を確認する必要があったという事情がある。しかし、そこから直ちに提出者全員が反乱寸前だったとするのも逆向きの飛躍だ。誓約の存在、そこに書かれた約束、実際の行動を分けて追うことで、文書を家臣の内心そのものとして読まずに済む。

昌景の勇猛さを示す逸話と違い、この史料は派手ではない。だが、誰が誰に何を誓ったかという具体的な接点を残している。名将の評価を戦果だけで量らないとき、こうした文書は、生涯を組み立てる中心的な材料になる。

酒井宛書状で読む、疑いを解くための順序

致道博物館所蔵の昌景書状には、2月23日という日付がある。年は記されておらず、所蔵館の解説が永禄12年(1569)に位置づけている。原文に年号が書いてあるかのように紹介せず、年の比定と文面そのものを区別して読む必要がある。

書状の冒頭で昌景は、掛川をめぐる徳川方の動きを受け止め、武田方の陣の状況を知らせる。まず双方が同じ敵に向かっていることを確認する運びだ。その後で、人質交換に関する不満へ話を移す。相手の苦情だけを切り離して扱わず、協力して進めている戦争の中に置き直している、と読むことができる。

説明の中心には、駿河の武将たちの動きがある。昌景は、彼らが安倍山の地域勢力との交渉で長く滞在し、さらに人質交換に関わった経緯を述べる。信玄は無断の行動に腹を立て、関係者の出仕を止めたという。ここで昌景が伝えようとしたのは、その行動を信玄の正式な命令と同一視しないでほしい、という区別だった。

これは、書状の送り手が示した武田方の説明である。信玄が本当にどこまで知らなかったのか、関係者が何を狙っていたのかまで、この一通だけで裁定することはできない。外交の書状は、出来事を報告すると同時に、相手の受け止め方へ働きかける文章でもあるからだ。昌景がそう説明したという事実と、説明の全内容が他の当事者によっても裏づけられることは分けておきたい。

さらに注目したいのは、疑いが残る場合の申し出である。昌景は誓約の文書を出す用意を示す。受け手が「了解した」とすぐに返してくれるとは限らないことを、文面は織り込んでいる。説明をしたから終わりではなく、その説明を信用してもらう手段を追加しているのだ。

最後には、甲斐にいる忠次の娘を返す意向が述べられる。人質は抽象的な外交用語である前に、相手の家族でもあった。文面にその娘が現れると、協力関係の確認が、人の身柄をめぐる具体的な問題と結びついていたことが分かる。ただし「返す」という約束から、実際の返還日や方法までは導けない。その後の経過は、別の史料で追うべき事柄だ。

一通の書状をこのように読むと、昌景の仕事は単なる伝言ではなかったと考えられる。戦況の共有、苦情への応答、行動の責任の切り分け、信用を補う誓約、家族の身柄という問題を、一つの文面で扱っている。これは能力を数値で評価する材料ではないが、どのような問題を任された人物だったかを示す、具体的な証拠である。

協力相手が対戦相手になるまで

1569年の書状と1575年の長篠を並べると、徳川家を昌景の「生涯の宿敵」とだけ呼ぶことの難しさが分かる。徳川家康の家臣である酒井忠次に対し、昌景は協力を保つための説明を送っていた。その後、武田と徳川は戦う関係となり、昌景は家康に対する遠征に参加した。

ここで、仲が良かった個人同士が突然憎み合ったと物語を作る必要はない。書状から確認できるのは、ある時点の両家の協力と、昌景・忠次がそのやり取りの当事者だったことだ。個人的な友情や憎悪は別の問題である。武将の関係は、主君の方針や戦争の相手が変われば、同じ一組でも違う意味を持つ。

対戦相手を見る際も、戦場にいた大将と、その軍を支えた各部隊の指揮者を区別したい。三方ヶ原では家康だけでなく、織田方の援軍として佐久間信盛らが加わった。長篠では信長と家康が連合軍を指揮し、酒井忠次は鳶が巣山砦方面への攻撃を担った。酒井を関係人物に挙げることは、昌景と忠次が一騎打ちしたという意味ではない。

『信長公記』には、長篠での織田方の鉄砲運用に関わる人物として佐々成政や前田利家らの名がある。滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀は武田方に向かって陣を構える武将として現れ、織田信忠も新御堂山に陣を置いている。これらは同じ戦役で敵方にいた指揮者たちだが、一人一人が昌景の隊と直接交戦したとまで書かれているわけではない。

三増で昌景の別働隊と対置される北条氏照・氏邦にも、それぞれ現場の役割がある。一方、小田原市の年表は、先立つ小田原での防衛を北条氏政の事跡として記す。氏政は同じ1569年の戦役における敵方当主、氏照・氏邦は三増で進路を遮った指揮者という違いがある。家の名が同じだからと、全員を同じ場所に並べることはできない。

『信長公記』は、昌景の最期をどこまで語るか

『信長公記』巻八は、長篠での昌景の攻撃を武田方の一番目として記す。これを読むとき、文章に並べられた順番と、戦場全体の出来事を秒単位で再現した記録とは区別したい。同書は信長側から戦いを述べた史料であり、武田側の各部隊の命令系統や、昌景の視界をそのまま示すものではない。

それでも、鉄砲で撃ち立てられたという記述は重い。昌景の部隊の攻撃に対して、織田・徳川方の射撃が働いたことを伝えるからだ。ただし、その一節だけで鉄砲の数、各列の交替手順、発射の間隔をすべて決められるわけではない。「鉄砲が用いられた」と「よく知られた三段撃ちの図の通りだった」は、同じ主張ではない。

さらに、部隊が退いたという記述と、昌景本人がその瞬間に戦死したという説明も同一ではない。同書の戦死者一覧にも昌景の名があるため、攻撃への参加と戦死は押さえられる。しかし、その間に何があったかを埋めるため、何度も突撃した、家臣へ特定の遺言をした、という場面を足してよいわけではない。

また同じ長篠の記事では、小幡の一党について赤武者という表現が使われている。昌景の攻撃の一節に、武田軍の赤い兵士の描写をすべて集めてしまうと、史料の中で区別されている部隊が混ざってしまう。昌景と赤備えを結びつける伝承を紹介することと、長篠の赤武者をすべて昌景隊と断定することは別だ。

昌景は勇敢だったから勝頼に反対したはずだ、名将だったから敗北を予見していたはずだ、といった逆算も慎重でありたい。人物の評価から軍議の発言を作ることはできない。本人の言葉が確かめられない場所に、後世の理想的な忠臣の台詞を置かないこと。その方が、戦死した一人の武将と、後から作られた名将像の両方を丁寧に扱える。

赤備えの記憶と、残された仕事

赤備えの継承という話には、昌景の死後も武田の軍事的な名声が生き続けたという見方が込められている。井伊直政との関係を考える際には、その記憶のつながりと、昌景と直政が直接主従関係を結んだかどうかを混同しないようにしたい。武田から井伊へという伝承の筋道は、それだけで二人が主従だったことを示すものではない。

伝来品も、用途と来歴を一つずつ確かめる必要がある。昌景所用とされる指物があることは重要だが、その一点が部隊全員の鎧の色を証明するわけではない。後世の絵画に昌景が描かれていても、画家が生前の本人を見たとは限らない。名将の姿が繰り返し描かれたこと自体が、後世の受け止め方を調べる材料になる。

一方、起請文と酒井宛書状は、赤備えの完成したイメージを知らなくても読むことができる。そこには、誰かから誓いを受け取り、誰かに説明を送る具体的な仕事がある。合戦で何人を討ったかを誇張しなくても、昌景が武田家の中と外を結ぶ重臣だったことを考える材料は残っている。

戦場の昌景を知りたければ、進軍の経路と合戦の記事へ戻る。交渉役の昌景を知りたければ、一通の書状の宛先と文面へ戻る。赤い鎧の印象を入口にしながら、最後はそれぞれの史料が残した仕事へ目を向ける。その往復によって、山県昌景という名は、長篠で散った勇将という一場面を越えて見えてくる。

確度のまとめ

主張確度根拠と留保
飯富昌景と山県昌景は同一人物高人名辞典・博物館解説で確認できる。改姓の正確な日付は別問題
1567年に山県三郎兵衛が起請文の受取人となった高生島足島神社文書と室賀氏の起請文。山形という表記もある
昌景が酒井忠次へ協力関係を説明した高本人の書状が現存。1569年は所蔵館による年の比定
書状で説明された人質交換の経緯が全面的に正しい未確定武田方の説明を伝える史料であり、全当事者の事情を独立に証明するものではない
江尻城代を務めた高人名辞典に記載。就任年月や個別の施策は本記事では確定しない
三増で昌景の別働隊が働いた中地域の合戦叙述に伝わる。正確な兵数・進路・勝敗への寄与の量は保留
1575年の長篠で戦死した高『信長公記』の戦死者記載、人名辞典、地域の合戦解説が整合する
赤備えの昌景隊で全員の装備が同じ赤だった未確定赤備えの伝承から全装備の統一を導くことはできない
出陣前に四人で水盃を交わした伝承盃井戸に伝わる物語。会話や心情まで確認できる同時代記録としては扱わない
昌景の生年・享年、最期の言葉未確定本記事で確認した史料から一つに確定せず、創作で補わない
03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

山県昌景の逸話

  1. 逸話 01

    赤備えは、どこまで「真っ赤」だったのか

    参考画像の赤い鎧兜をもとにした昌景の想像図。伝来品の復元ではない(AI生成イメージ)
    参考画像の赤い鎧兜をもとにした昌景の想像図。伝来品の復元ではない · AI生成イメージ

    昌景の名と切り離せないのが赤備えである。飯富虎昌から昌景へ、さらに井伊直政へと語り継がれるこの系譜は、現在の自治体・博物館の紹介にも見える。だが「赤備え」という呼び名から、兵士全員の兜、鎧、旗、武器を同じ赤で塗りつぶしてしまうと、史料の示す範囲を越えてしまう。

    福井市立郷土歴史博物館が2007年の展覧会で紹介した出品目録には、昌景所用とされる猩々緋の指物と、井伊家臣の具足が別々の品として載っている。指物は背中などに差す旗のことだ。赤い旗の伝来と、ある家臣が身につけた具足は、それぞれ違う来歴を持つ。両者を並べることで赤備えを考える手がかりにはなるが、昌景隊の全装備が一度に復元できるわけではない。

    赤は後世の昌景像を形づくる強い印になった。その印の強さと、当時の一人一人の装備について分かる量は、分けて考えたい。本記事の赤い鎧兜も、指定された参考画像をもとにした想像図であり、昌景の実用品を証明するものではない。

  2. 逸話 02

    盃井戸に伝わる、出陣前の別れ

    水盃の伝承を象徴する四つの器の想像図。実際の遺物ではない(AI生成イメージ)
    水盃の伝承を象徴する四つの器の想像図。実際の遺物ではない · AI生成イメージ

    新城市の長篠城址史跡保存館は、大通寺の「盃井戸」を紹介している。長篠の戦いを前に、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋正次が井戸の水で別れの盃を交わしたという伝承だ。

    酒ではなく水を分け合う短い場面は、戦いに向かう者たちの別れを印象深く伝える。土地に井戸があり、その名と物語が残っているからこそ、訪れた人は戦死者を単なる人数としてではなく、別れを持つ人間として思い浮かべることができる。

    ただし、現在の史跡案内は、四人の会話をその場で記した記録ではない。具体的な台詞や、互いの死を予感していたという心理まで補うべきではないだろう。ここで紹介するのは、土地に伝わる水盃の物語である。史実と断言するためではなく、長篠の敗戦がどのように記憶されてきたかを知る手がかりとして受け止めたい。

  3. 逸話 03

    戦場に残る名と、越前へ続く家

    設楽原周辺をイメージした無人の田園風景。現在の碑や史跡の実景ではない(AI生成イメージ)
    設楽原周辺をイメージした無人の田園風景。現在の碑や史跡の実景ではない · AI生成イメージ

    愛知県新城市の竹広には「山県三郎兵衛昌景之碑」がある。地域の紹介には、家臣が昌景の首を甲斐へ持ち帰り、遺骸を戦場に埋めたという話も記されている。最期の言葉をそのまま事実とすることはできないが、碑は昌景がこの土地で追悼されてきたことを示している。

    一方、家の記憶は別の土地にも続いた。福井市立郷土歴史博物館は、昌景の孫・昌時が結城秀康に仕え、のちに越前の福井藩士となった系譜を紹介する。昌時は笹治へ改姓し、子孫の家には武田家や信玄をしのぶ資料が伝えられた。

    戦死した土地の碑と、子孫の家に残る文書や絵画。その二つは、昌景を異なる場所から語っている。前者は戦場で終わった命を、後者はその後も続いた家の記憶を伝える。長篠で生涯が閉じても、昌景について語る営みまで終わったわけではなかった。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 山県昌景(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
    講談社・コトバンク参照日 2026-09-28
  2. 展示解説シートNo.28「越前山縣家と武田信玄」(2007年、全2頁)
    福井市立郷土歴史博物館参照日 2026-09-28
  3. 山縣昌景書状(2月23日付、酒井左衛門尉宛)
    致道博物館・文化遺産オンライン参照日 2026-09-28
  4. 生島足島神社文書(内永禄九、十年起請文八十三通)
    文化庁・文化遺産データベース参照日 2026-09-28
  5. 紙本墨書生島足島神社文書
    上田市文化財マップ参照日 2026-09-28
  6. 三増合戦場(Site of Mimase Battle Field)
    神奈川県参照日 2026-09-28
  7. 三方原の戦(笹本正治、世界大百科事典)
    平凡社・コトバンク参照日 2026-09-28
  8. 長篠・設楽原の戦い
    新城市参照日 2026-09-28
  9. 長篠城址周辺マップ・パンフレット(大通寺と盃井戸)
    新城市長篠城址史跡保存館参照日 2026-09-28
  10. 山県三郎兵衛昌景之碑
    愛知県東三河総局参照日 2026-09-28
  11. 信玄公祭りを楽しむ豆知識(武田軍団「赤備え」)
    やまなし観光推進機構参照日 2026-09-28

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-09-28

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