今川氏真は、桶狭間で討たれた今川義元の子である。 1569年に領国を失ったあとも生き続け、慶長十九年十二月二十八日、数え七十七歳で死去した。具体的な死因は、参照した辞典や市史では確認できない。妻は北条氏康の娘・早川殿で、晩年は徳川家康の保護を受けた。
氏真と家康は、初めから終わりまで「仲良し」だったわけではない。三河・遠江をめぐって戦い、のちに庇護する側とされる側になった。蹴鞠や和歌に優れた一方、領国を守れなかった大名でもある。ここでは、最期と家族、家康や北条氏との関係を押さえながら、「無能」と評されてきた氏真が実際には何をしていたのかをたどる。
義元の子に生まれ、早川殿を妻に迎える

天文七年(1538年)、今川氏真は今川義元と武田信虎の娘の間に生まれた。父の今川家は駿河を本拠とし、遠江から三河へ勢力を伸ばしていた。母の実家は甲斐の武田家である。のちに駿河を攻める武田信玄は、氏真にとって母方の親族でもあった。
今川家には、氏親の正室として文書を発給し、家を支えてきた寿桂尼もいた。義元の母として知られるが、実母とする従来説に対して養母説もあるため、氏真との血縁を考える際には区別が必要になる。
氏真の妻は早川殿である。武田勝頼の妻・北条夫人(桂林院殿)とは、父を同じくする別の女性である。天文二十三年(1554年)、相模の大名・北条氏康の娘を迎えた婚姻は、甲相駿三国同盟を結ぶ縁の一つとなった。甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川が、互いに姻戚となって争いを抑える。氏真は、その同盟の当事者となる家の跡継ぎだった。妹は武田義信に嫁いでおり、氏真と武田家の嫡男は義兄弟の関係でもあった。
この縁が続いた場合の外交を考える武田義信が生きていたらでは、氏真側の合意も必要になる点から、駿河侵攻をめぐる仮説を検討している。
駿府には、のちの徳川家康もいた。幼名は竹千代。静岡市歴史博物館の年表では、義元が駿府へ引き取ったのは天文十八年(1549年)である。竹千代は義元のもとで元服し、今川一門の関口氏の娘と結婚した。氏真と家康のつながりは、後年の敵対より前、今川家の支配の中に始まっていた。
義元は存命中に氏真へ家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を譲ったとされ、同博物館は弘治三年(1557年)をその年に挙げる。一方、父が桶狭間で戦死した1560年を継承の年と記す辞典もある。家督の譲渡と、父の後ろ盾を失って領国を担うことは、氏真の人生では別の局面だった。名門の当主となっても、なお義元の存在は大きかったのである。
今川氏真の後半生掛川開城は、戦国大名としての終わりだった。氏真本人は、その先を四十年以上生きた。
父の戦死後、家康の自立と遠江の混乱に向き合う

永禄三年(1560年)、織田信長が桶狭間で義元を討った。父は帰らず、松井宗信らの有力家臣も戦死した。ただし、この敗戦で今川の領国がすべて消えたわけではない。駿府には氏真が残り、三河・遠江の城や領主をつなぎとめる政治が続いた。
その結びつきを大きく変えたのが、松平元康、のちの徳川家康の動きである。元康は岡崎を拠点に自立を進め、織田信長と結んだ。今川に従っていた三河の領主たちも、帰属先を見直し始める。氏真と家康は、同じ今川方の人物から、三河と遠江を争う敵へと変わった。
遠江でも離反や争いが重なり、「遠州忩劇」と呼ばれる混乱が起きた。地域の領主には、自分の城や一族を誰が守ってくれるかという切実な問題があった。掛川市の解説は、今川の保護が十分に届かなくなる中で、武田・徳川への帰属をめぐる内紛も生じたとする。当主が命令を出せば、ただちに領国全体が従う状況ではなくなっていた。
氏真も手をこまねいていたわけではない。永禄六年(1563年)には飯田口の合戦で働いた富士又八郎らを褒め、永禄八年(1565年)には見付の米屋弥九郎へ恩給を与えた。後者の書状は、戦いの中で町の人物が果たした役割も伝えている。しかし同じ1565年、三河の要地・吉田城は家康に奪われた。働いた者に報い、支配を保とうとしても、領国の縮小を止めるには至らなかった。
富士大宮の楽市令と、武田信玄に備えた外交

永禄九年(1566年)四月三日、氏真は富士大宮の市に朱印状を出した。月に六度開かれる市を、楽市とする命令だった。その文書は富士家に伝わり、現在は静岡県立中央図書館の公開目録で内容を確かめられる。蹴鞠や和歌の話では見えにくい、氏真の領国統治の一端である。
氏真は五年前にも、大宮司分の代官を富士信忠に替える命令を出していた。富士浅間社に関わる土地で、誰に役目を任せ、市をどう扱うかを定める。戦国大名の仕事には、こうした地域ごとの行政も含まれていた。楽市令を出したから全国随一の商業政策家だったとはいえないが、政務を放棄していたという評判とは食い違う。
外交では、武田信玄との関係が難しくなっていた。氏真の母は武田家の出身で、今川と武田は婚姻同盟を結んでいた。それでも、親族であることが将来の安全を保証するわけではなかった。今川の勢力が後退するにつれ、信玄の動向は領国を守るうえで大きな懸念となる。
米沢市上杉博物館の解説によれば、氏真は永禄十年(1567年)、信玄への不信から上杉謙信とひそかに交渉を始めた。上杉家に残る書状は、その働きかけが1570年まで続いたことを示している。武田と対立する相手へ手を伸ばし、協力の道を探ったのである。だが、交渉の存在と、駿河を救う援軍が実際に来ることは別だった。翌年、氏真は信玄の侵攻に直面する。
信玄に駿府を追われ、家康と掛川城で戦う

永禄十一年(1568年)、武田信玄が駿河へ攻め込んだ。氏真は本拠の駿府を離れ、今川家臣・朝比奈泰朝が守る掛川城へ退いた。一方、遠江には徳川家康の軍勢が入る。東から武田、西から徳川。今川の領国は、二つの勢力によって切り崩されていった。
掛川へ逃れた氏真が、すぐに城を明け渡したわけではない。朝比奈らは抵抗を続け、攻防は翌永禄十二年(1569年)まで長引いた。家康は城の周囲に砦を設けて包囲する。掛川市の読本には、本多忠勝らの参戦や、長谷砦に酒井忠次らを配置したことが記されている。
籠城側は城を保ち続けたが、それだけで駿河を取り戻せるわけではなかった。他方、家康にも、遠江を確保する途中で掛川の攻撃に兵を縛られる負担があった。武田方の遠江への動きも警戒しなければならない。今川を攻めた信玄と家康の利害は、侵攻後もすべて一致していたわけではなく、その変化が和議を探る余地を生んだ。
永禄十二年五月、講和が成立し、氏真は掛川を退去した。城は徳川方へ移り、氏真は妻の実家である北条氏を頼った。これが戦国大名としての今川氏の終わりであり、氏真本人の死ではない。氏真は数え三十二歳。ここからさらに四十年以上を生きる。「今川家滅亡」という言葉でまとめられる場面の先に、本人と家族の長い後半生が続いていた。
北条氏康・氏政を頼り、やがて徳川のもとへ

氏真にとって、北条氏康は同盟相手であり、妻早川殿の父でもあった。掛川を出た氏真は、北条の支配下へ身を寄せる。婚姻によって結ばれた大名同士の縁は、領国を失ったあとにも避難先を支えるつながりとして残った。ただし、北条の保護を受ける立場は、自分で駿河を治めていたころとは違っていた。
北条氏政は、今川の名跡を駿河の政治に用いようとした。永禄十二年(1569年)閏五月と推定される書状には、今川の名跡が氏政の子、のちの北条氏直へ渡されたことが記されている。氏真を保護する一方で、北条家も今川の名を継ぐ立場を得ようとしていたのである。妻の実家への身の寄せ方にも、領国をめぐる交渉が重なっていた。
この名跡の扱いは、氏真の実子や孫がいなくなったという意味ではない。北条が駿河へ関わるための継承と、氏真の血縁に続く家の歴史は分けて見る必要がある。領国を失ったあとも、氏真は旧臣に文書を発給した。元亀二年(1571年)、富士信通の戦功を認めて暇乞いを許した判物は、その一例である。
やがて氏真は北条のもとを離れ、徳川家康の庇護を受けた。北条氏康の死後に氏政が武田との関係を改めたことは、氏真を取り巻く状況をさらに変えた。かつて掛川を囲んだ相手が、その後の生活と活動を支える相手になる。この転換を経ても、氏真が戦国大名として独立した領国を回復することはなかった。それでも、徳川のもとで再び城と軍事に関わる機会は残されていた。
信長の前で蹴鞠をし、家康のもとで牧野城主となる

天正三年(1575年)、宗誾と号した氏真は京都へ向かった。旅の足取りを伝えるのが『今川氏真詠草』である。和歌に添えられた詞書には、その歌を詠んだ場所や事情が記されている。氏真は領国を失ったあとも移動し、人と会い、その折々の歌を残していた。
京都では相国寺で織田信長と対面し、公家たちと蹴鞠をした。父義元を討った人物の前での蹴鞠である。東京大学史料編纂所は『信長記』をもとにこの出来事を紹介する一方、三月二十日という日付の比定には研究上の異論があると記す。その場で氏真が何を感じたかは伝わらないが、かつての敵と対面した行動は記録に残った。
同年、遠江では家康が武田方の諏訪原城を攻略した。氏真もこの攻略に加わったとされ、城は牧野城と改称された。翌天正四年(1576年)三月十七日、氏真はその城主となる。島田市の発掘調査報告は、家康が旧駿河守護の氏真を城主とし、駿河侵攻の旗印に据えたと説明している。
氏真の在城は長くは続かず、天正五年(1577年)三月一日に浜松へ召し出された。およそ一年の城主経験であり、今川領の復活ではない。それでも、敗戦後は蹴鞠だけをして暮らしたという像には収まらない経歴だ。家康にとって氏真は、保護する旧主家の人物であると同時に、武田との戦いで役割を持ちうる人物でもあった。
数え七十七歳で死去し、今川の家名は子孫へ続く

氏真の晩年は、徳川の保護と和歌の活動の中にあった。『日本大百科全書』は、家康のもとで武蔵の品川に屋敷を与えられたと記す。義元が戦死したときの今川当主は、信長、秀吉の時代を経て、徳川幕府が成立した後まで生きていた。領国を奪い合った家康が、今や天下を治める側に立っていた。
氏真が死去したのは、慶長十九年十二月二十八日。数え七十七歳だった。参照した辞典や市史には、具体的な病名や直接の死因は示されていない。そのため、老衰や特定の病気だったと決めつけることはできない。確認できる最期は、敗戦の城で討たれたという結末ではなく、徳川の保護下で長い後半生を送った末の死である。
没年には、1614年と1615年の二つの表記がある。慶長十九年を西暦年に対応させると1614年だが、その年の旧暦十二月末は新暦では1615年に入る。本記事の年表は慶長十九年に対応する1614年を用い、日付の説明では新暦との違いも併記する。数え年は当時の暦に基づく七十七歳であり、現在の満年齢とは数え方が異なる。
氏真の墓は、のちに万昌院から杉並の観泉寺へ移された。孫の今川直房は幕府に仕え、正保二年(1645年)、朝廷への使節の功によって加増を受けている。高家として朝廷との儀礼や交渉を担う、戦国大名とは違う役割だった。駿河の領国は戻らなくても、家名は子孫へ続いた。それは氏真の生存だけでなく、次の世代が徳川の世で働いた結果でもある。
史料の読み解き
今川氏真の最期と死因、死去年が二つある理由
氏真は戦場で討ち死にしたのでも、掛川開城の際に処刑されたのでもない。領国を失った後は北条氏や徳川氏を頼り、晩年には品川に屋敷を与えられた。『日本大百科全書』と『浜松市史』は、慶長十九年十二月二十八日、七十七歳で没したとする。氏真の「最後」を知るときは、戦国大名としての没落と、本人の死去を区別することが出発点になる。
死因については、今回参照した辞典や市史に病名の記載がない。高齢で没したという情報だけで、老衰だったと断定することはできない。また、最期の言葉として知られる辞世も、死の床で詠んだと確定できる記録とは分けて扱う必要がある。誰が看取ったか、どのような症状があったかといった臨終の細部は、本記事では補っていない。
没年の違いは暦による。略年表で慶長十九年に対応する西暦を置けば1614年となり、旧暦十二月二十八日を新暦の日付へ換算すると1615年になる。コトバンクでも『日本大百科全書』は1538〜1614年、講談社の人名辞典は1538〜1615年と表記している。二つの死去説が競合していると考える必要はない。本記事の人物データは和暦年対応を採用し、享年は当時の数え年で七十七歳としている。
家康とは仲良しだったのか、竹千代から始まる関係の変化
氏真と徳川家康の関係は、大きく三つの時期に分かれる。今川家の支配の中にいた時期、領国を奪い合った時期、氏真が家康の庇護を受けた時期である。晩年の穏やかな交際の印象を、幼少期からの関係全体へ当てはめることはできない。
竹千代は駿府で育ち、天文二十四年(1555年)に義元のもとで元服した。国立公文書館の解説によれば、義元の「元」の字を受けて元信を名乗り、主従関係を改めて結んだ。さらに関口氏の娘との婚姻によって、今川一門に準じる位置を得る。人質という一語だけでは表しきれない、今川の三河支配を担う立場にあった。
同じ駿府にいたことは、氏真と竹千代が幼いころから親友だった証拠にはならない。反対に、氏真が竹千代をいじめていたという話も、今回確認した資料からは裏付けられない。確実にたどれる関係は、家中での地位と、その後の政治・軍事行動である。家康の自立後、両者は三河と遠江で敵対し、掛川では家康の軍が氏真を包囲した。
その家康を、氏真はのちに頼る。家康も氏真を保護し、牧野城主という役割を与えた。島田市の報告が氏真を駿河侵攻の旗印と位置づけるように、この関係には政治的な意味もあった。私的な友情の強さを測ることは難しいが、かつての敵との間に生活と活動を支える関係ができたことは確かである。「仲良しだったか」という問いには、対立を経て協力と庇護へ変わった、と答えるのが史料に近い。
妻の早川殿と北条氏康・氏政、婚姻は何を支えたか
氏真の正室は、北条氏康の娘・早川殿である。 1554年、早川殿は氏真のもとへ嫁いだ。この結婚は、今川・武田・北条が結びつく三国同盟の一環だった。個人の縁と大名家の外交が重なる婚姻であり、のちに氏真が北条を頼る背景となる。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでは、埼玉県立久喜図書館が早川殿に関する辞典・系譜・研究書を案内している。そこでは氏康の娘という出自と婚姻年を確かめられる一方、夫婦の日々の会話まで分かるわけではない。氏真夫妻を仲むつまじい姿で描くことはできても、物語の場面を史実として加えるべきではない。早川殿の出自と婚姻は、没落後の氏真がどこを頼れたかを理解する手がかりになる。
氏康は氏真の岳父であり、氏政は早川殿と同じ氏康の子である。ただし、北条家は氏真の生活を支えるだけの存在ではなかった。今川の旧領である駿河には、北条自身の利害もあった。 1569年と推定される氏政の書状が、子の氏直への今川名跡の移転を伝えるのは、その政治的な関わりを示している。
氏康の死後、北条は武田との関係を組み替えていく。『浜松市史』には氏真と氏政の不和や退去にまつわる叙述もあるが、暗殺計画などの細部をそのまま確定した出来事としては採らない。親族であっても、戦争や同盟の方針は変わる。氏真が北条から徳川へ依拠先を変えた経歴は、婚姻だけでは領国も立場も守り切れない戦国の事情を伝えている。
「無能」といわれる理由と、文書に残る仕事
氏真への厳しい評価には、はっきりした理由がある。父の代に広がった領国を維持できず、三河を失い、最後には駿府と掛川を去ったからである。家臣や地域の領主に十分な保護を与えられず、今川から離れる動きを止められなかった。大名としての結果を問うなら、この敗北を小さく扱うことはできない。
しかし、「領国を失った」と「何もしなかった」は同じではない。富士家文書には代官の交替、戦功への賞、楽市の命令が残る。成瀬家文書には見付の町の人物への恩給があり、上杉家には謙信へ協力を求めた氏真の書状がある。受取人も目的も違う文書が、領国内外で動いていた当主の仕事を伝えている。
一方で、活動したことだけをもって有能だったと評価するのも難しい。命令を出しても現場で従われなければ支配は保てず、外交書状を送っても救援が実現しなければ目前の侵攻は止まらない。楽市令についても、市の扱いを定めた事実と、それが財政や人口にどれほど効果を及ぼしたかは別の問題である。政策の存在を、そのまま成功の証拠へ置き換えることはできない。
また、掛川の抵抗は氏真一人の実績ではない。朝比奈泰朝をはじめ、城を守った家臣と兵がいた。氏真の能力を評価するときも、父を失った状況、地域の領主の選択、家臣の働き、武田・徳川の伸長を合わせて見る必要がある。「無能だから滅んだ」という一文では、九年間に何が崩れ、何を試みたのかが見えなくなる。
氏真のどこが「すごい」のか、蹴鞠・和歌と敗戦後の役割
氏真の再評価でまず挙げられるのは、和歌と蹴鞠の教養である。信長の前で蹴鞠をした出来事には記録の裏付けがあり、『今川氏真詠草』は本人の旅や見聞を伝える。文化に通じていたという評判を、単なる後世の美化として退ける必要はない。その力は、領国喪失後も人々との交際や自身の記録に生かされた。
氏真の歌には、歴史を知るための具体的な価値もある。詞書を読めば、いつ、どこで、何に触れて詠んだかをたどれる。東京大学史料編纂所が1575年の上洛を検討する際にも、この詠草が手がかりとして用いられている。氏真は政治文書を残した当主であるとともに、自分の行動を別の形で記録した歌人でもあった。
さらに、家康のもとで城主を務めた経歴は見逃せない。かつての今川当主という立場は、武田が支配する駿河を目指す徳川にとって意味を持った。氏真は約一年で牧野城を離れ、領国の回復にも至らなかったが、敗戦後の役割が文化だけに限られていたわけではない。その生涯は、歌人と武将の二つにきれいに分かれるものではなかった。
長く生き、家名が続いたことも氏真の経歴を特徴づける。ただし、それを「最初から戦を避けて家を残す計画だった」と説明する根拠はない。掛川で退去を決めた氏真が、数十年後の高家今川家を見通していたとはいえないからだ。敗北ののちに依拠先を変え、文化と政治の両方に関わりながら生きた経過こそ、結果から作った成功物語よりも具体的である。
今川家の最後と、江戸時代に続いた子孫
今川氏の「滅亡」は、独立した戦国大名としての領国支配が終わったことを指す。氏真本人や血縁の一族が、1569年に皆死んだという意味ではない。氏真の死後も子孫は幕府に仕え、今川の名は江戸時代へ続いた。領国の歴史と、家の歴史では終わりの時期が違う。
孫の直房は、1645年に朝廷への使節を務め、その功で加増された。杉並区の観泉寺の解説は、直房が寺を菩提寺として整え、氏真の墓を移した経緯を伝える。戦国の軍事力を持つ大名から、幕府のもとで朝廷との儀礼や交渉に携わる家へ。同じ今川という名でも、社会の中で担う役割は変わっていた。
この存続をすべて氏真一人の功績にすることはできない。直房の使節としての働きは、氏真が亡くなった後のことである。それでも、氏真の後半生があったからこそ、敗戦した当主の家族と文化の記録が次の時代へ渡った。駿河を失った当主の墓が江戸の菩提寺にあることは、その長い道のりを今に伝えている。
史実と伝承の確度
| 論点 | 確度 | 根拠と判断 |
|---|---|---|
| 慶長十九年十二月二十八日に数え七十七歳で死去 | 高 | 辞典と『浜松市史』で一致。1614年・1615年は暦の表記差 |
| 具体的な死因や病名 | 不詳 | 参照した辞典・市史に記載がなく、老衰とも断定しない |
| 早川殿が氏康の娘で、1554年に婚姻したこと | 高 | 辞典・系譜を案内する図書館の回答と、三国同盟の年表で確認 |
| 1557年の家督譲渡 | 中〜高 | 静岡市歴史博物館の年表に採用。1560年継承とする辞典もある |
| 楽市令、戦功の賞、上杉への交渉 | 高 | 富士家・成瀬家・上杉家の文書にそれぞれ根拠がある |
| 家康と幼少期から親友だった、竹千代をいじめた | 未確認 | 同じ駿府にいたことだけでは、私的な関係は決められない |
| 相国寺で信長の前で蹴鞠をしたこと | 高 | 『信長記』を用いた史料編纂所の解説。正確な日付には異論 |
| 蹴鞠で命乞いをして助かったこと | 低 | 参照した記録から、その因果関係は確認できない |
| 1576〜1577年の牧野城主在任 | 高 | 島田市の発掘調査報告が入城・召還の日付を示す |
| 「中々に…」を臨終で詠んだこと | 留保 | 辞世として伝わるが、詠作の日時と臨終の場面は未確認 |
| 子孫が高家として続いたこと | 高 | 辞典と杉並区の文化財解説で確認。孫直房の功績と区別する |
今川氏真の逸話
- 逸話 01
蹴鞠は「命乞い」だったのか

庭で鞠を蹴り上げる氏真の想像図 · AI生成イメージ 天正三年(1575年)の相国寺での蹴鞠は、氏真を語るうえで欠かせない場面である。桶狭間から十五年後、義元の子が信長の前に姿を現した。『信長記』を史料として用いた東京大学史料編纂所の刊行紹介でも、公家たちと蹴鞠をしたことが確認できる。
しかし、そこから「蹴鞠を見せて処刑を免れた」という話は導けない。氏真はその場で捕らえられた敗将として紹介されているわけではない。京都を訪れ、信長や公家との交際に加わっていた人物である。父の仇に会ったという事実の重さと、命乞いの筋書きは分けておきたい。
蹴鞠の腕前だけで領国は守れなかった。一方、政治的な地位を失っても、氏真が公家のいる場に参加できる教養を備えていたことは分かる。天下人との対面、公家との交際、自らの旅を残す和歌。文化の力は氏真を再び大大名にしたわけではないが、その後半生を戦いとは別の面から支えていた。相国寺の一場面は、「遊び人」と片付けるには足りない氏真の活動を伝えている。
- 逸話 02
最後の言葉として伝わる「中々に」の歌

歌の料紙を手に思案する老年の氏真の想像図 · AI生成イメージ 「中々に世をも人をも恨むまじ時にあはぬを身の科にして」。講談社『デジタル版 日本人名大辞典』は、この歌を氏真の辞世として紹介している。世や人を恨むまい、時に合わなかったことを自分の責めとして受け止めよう、という大意である。領国を失ってなお長く生きた人物の歌として、強く印象に残る。
ただし、辞世として伝わることと、死の床でこの歌を詠んだと確定できることは同じではない。詠んだ日時や臨終の様子は、ここで確認した辞典からは分からない。歌を根拠に最期の会話を作ったり、氏真が生涯一度も人を恨まなかったと性格を決めたりすることはできない。
氏真の活動をたどるには、辞世のほかに『今川氏真詠草』がある。そこには気持ちを詠んだ歌だけでなく、旅先や見聞を記す詞書も含まれる。歌人として残した記録が、領国喪失後の行動を知る手がかりになっているのである。辞世は伝承として味わい、具体的な経歴は日付や場所を伴う記録と照らして読むと、氏真の人生を一首だけに閉じ込めずに済む。
- 逸話 03
領国を失ったあと、旧臣の暇乞いを認める

旧臣に渡す文書を前に静かに座る氏真の想像図 · AI生成イメージ 元亀二年(1571年)十月二十六日、氏真は富士信通へ判物を出した。静岡県立中央図書館の富士家文書目録によれば、大宮城での戦功を認め、暇乞いを許す内容である。掛川開城から二年が過ぎても、氏真と旧臣の間には、奉公の終わりを文書にする関係が残っていた。
以前の働きに報い、主君のもとを離れることを認める。領国を取り戻す命令ではないが、戦いが終わったあとの人間関係を整理する文書だった。今川の城が他家のものになった日と、旧臣が氏真との関係を終える日は、必ずしも一致していない。この一通は、地図上の勢力図だけでは見えない敗戦後の時間を伝えている。
文書の要約から、二人が涙ながらに別れたとも、氏真が旧臣を責めたともいえない。それでも、過去の戦功を認めたうえで退去を許したという行為は残る。氏真の後半生を歌と蹴鞠だけで描けば、こうした当主としての仕事は抜け落ちる。復権を果たせなくても、以前の主従関係に区切りをつける役割は続いていた。
関連人物
- 今川義元
- 武田信虎の娘
所縁の地
- 掛川城静岡県掛川市
1568〜1569年、氏真が朝比奈泰朝とともに籠城し、家康との和議で退去した城。現在の天守は後世の城郭を復元したもので、氏真の籠城時の姿そのものではない。掛川古城や周辺の砦の位置からも攻防をたどれる。
- 諏訪原城跡(牧野城跡)静岡県島田市
武田の城を家康が攻略し、牧野城と改称した場所。氏真は1576年から約一年、城主を務めた。現在見られる大きな堀や馬出の多くは、その後の徳川方の改修によるもので、武田時代や氏真入城時の姿と分けて見る必要がある。
- 観泉寺東京都杉並区今川
氏真夫妻の墓がある今川家ゆかりの寺。孫直房の代に菩提寺として整えられ、氏真の墓が万昌院から移された。駿河の戦国大名としての終わりと、江戸で続いた一族の歴史を結び付けて考えられる場所である。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- Sing2025年3月号②・黒田基樹講演「戦国今川の女性たち」静岡商工会議所参照日 2026-10-24
- 今川氏真(日本大百科全書・デジタル版 日本人名大辞典ほか)小学館・講談社ほか/コトバンク参照日 2026-10-18
- 今川義元~偉大なる駿河の太守~(義元の一生)静岡市歴史博物館参照日 2026-10-18
- 元服と婚姻(徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―)国立公文書館参照日 2026-10-18
- 今川氏真の正室の早川殿の生涯について知りたい埼玉県立久喜図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-18
- 富士山関係資料デジタルライブラリー(富士家文書)静岡県立中央図書館参照日 2026-10-18
- いわた文化財だより 第152号1〜2頁(合冊版151〜200号への案内)磐田市教育委員会参照日 2026-10-18
- 家康が遠江に侵攻、今川家は滅亡(1568から1569)掛川市参照日 2026-10-18
- 徳川家康による掛川城攻めについて掛川市観光交流課参照日 2026-10-18
- 謙信・景勝に手紙を書く①「上杉殿」と「上杉弾正少弼殿」米沢市上杉博物館参照日 2026-10-18
- 大日本史料 第十編之二十九 刊行紹介東京大学史料編纂所参照日 2026-10-18
- 諏訪原城跡発掘調査(平成21年~平成27年)島田市参照日 2026-10-18
- 牧野城に在城した徳川の武将たち(牧野城御城印の解説)島田市博物館参照日 2026-10-18
- 観泉寺杉並区参照日 2026-10-18
- 観泉寺(氏真夫妻の墓・寺院提供資料による解説)すぎなみ学倶楽部/杉並区産業振興センター参照日 2026-10-18
- 浜松市史 二「氏政信玄と結ぶ」浜松市立中央図書館/ADEAC参照日 2026-10-18
- 山縣昌景書状(1569年比定、酒井忠次宛)致道博物館・文化遺産オンライン参照日 2026-10-18






















