今川氏真は、父義元の領国を失いながらも交渉と従軍を続け、和歌を残して徳川の世まで生きた、駿河今川氏の当主である。 「蹴鞠に夢中で国を滅ぼした」という評判だけでは、彼が出した政治の文書も、敗戦後の活動も説明しきれない。 一方、生き延びたという結果だけで、領国統治の失敗が消えるわけでもない。
桶狭間で父を失ったのが1560年、掛川を退去したのが1569年。 その間には、家臣への恩賞、市場への措置、越後への外交があった。 さらに1575年には京都で信長と対面し、同年の諏訪原城攻めには徳川方として参加している。 氏真の生涯は、敗北の一場面と、その後の長い時間を併せて見ると違った姿を見せる。
名門の家督と、三国を結ぶ婚姻

今川氏真は天文七年(1538年)、今川義元と武田信虎の娘との間に生まれた。 父は駿河を本拠に遠江と三河へ勢力を伸ばす大名であり、母の実家は甲斐の武田氏であった。 のちに駿河へ攻め込む武田信玄も、氏真にとっては母方の親族にあたる。 戦国の同盟と対立は、氏真の生涯では家族のつながりと重なっていた。
天文二十三年(1554年)、氏真は北条氏康の娘、早川殿を妻に迎える。 今川と武田に加え、相模の北条を婚姻で結ぶ甲相駿三国同盟の一環である。 妻の実家は、氏真が領国を追われたときに身を寄せる先にもなった。 十代で結んだこの縁は、大名であった時期を越えて氏真の人生に関わり続ける。
父義元は、存命中に氏真へ家督を譲った。 静岡市歴史博物館の年表は、その年を弘治三年(1557年)とする。 継承年には資料による違いがあるが、義元が戦死するまで氏真に何の役割もなかったと考えるのは正確ではない。 家督を担う子と、なお強い影響力を持つ父が、ともに今川の領国を支える時期があった。
駿府には公家や文化人が往来し、和歌や連歌、茶の湯の交流が行われていた。 氏真が身につけた教養も、こうした大名家の環境の中に位置づけられる。 後世にはその文化趣味が非難の材料になるが、当時の武家社会で教養を持つこと自体は特異ではなかった。 氏真が受け継いだのは、軍勢や土地だけでなく、京都とのつながりを持つ名門の当主という立場でもあった。
掛川開城後の氏真大名としての領国を失った後にも、氏真の交渉と従軍は続いた。
父の死と、揺らぐ三河と遠江

永禄三年(1560年)、尾張へ出陣した義元は桶狭間で織田信長に討たれた。 今川方は当主級の指導者だけでなく、松井宗信などの有力な家臣も失った。 氏真は、父の軍事的な後ろ盾が突然なくなった領国を引き受けることになる。 桶狭間で今川家が消滅したわけではないが、それまでの支配を保つ条件は大きく変わった。
三河では松平元康、のちの徳川家康が岡崎を拠点に自立へ動いた。 今川方に従っていた地域の領主たちも、新しい帰属先を選び始める。 氏真にとっては、家康の伸長を抑える戦いと、味方の離反を食い止める仕事が同時に進んだ。 遠江でも争いが相次ぎ、その騒乱は氏真の文書に「遠州忩劇」と記されている。
その渦中で、氏真が軍事に関わっていたことを示す文書が残る。 永禄六年(1563年)十二月、氏真は飯田口の合戦で働いた富士又八郎と小笠原与左衛門尉の功を褒めた。 永禄八年(1565年)には、見付の米屋弥九郎の働きを認め、恩給を与える書状も出している。 戦功を確かめ、働いた者に報いる行為は、離れかけた人々を今川につなぎとめるための政治であった。
ただし、文書を出したことと、領国を立て直せたことは同じではない。 同年、今川方の三河の拠点だった吉田城が失われ、家康の勢力はさらに東へ伸びた。 氏真は対応を続けたが、父の死後に始まった支配の縮小を止められなかった。 駿府に当主がいても、遠方の城や領主がその保護を期待できなくなれば、今川の命令が届く範囲は狭くなっていく。
大宮の市と、越後へ送った書状

領国が揺れていた永禄九年(1566年)、氏真は富士大宮の市に関する朱印状を出した。 四月三日付の文書で、月に六度開かれる市を楽市としたのである。 富士家文書として伝わるこの命令は、氏真が商業の場を整える仕事にも取り組んでいたことを示す。 苦しい軍事情勢の中でも、大名の政務は戦場だけで完結しなかった。
大宮は富士浅間社と関わる土地であり、そこで活動する富士氏との関係は以前から続いていた。 氏真は永禄四年(1561年)にも、大宮司分の代官を富士信忠へ替える命令を出している。 役職の任命と市場への措置をあわせて見ると、地域の有力者を通じて支配を維持しようとする当主の姿が見える。 楽市令の存在は確認できるが、それによって商業がどれほど伸びたかまでは、この文書だけでは分からない。
一方、頼みとしてきた武田との関係も不安定になっていた。 氏真は永禄十年(1567年)、信玄への不信を背景に、越後の上杉謙信とひそかに交渉を始める。 米沢市上杉博物館が紹介する氏真の書状には、その後も交渉を続けた跡が残されている。 親族であり同盟相手でもある信玄が、今川を守る相手でなくなりつつあった。
謙信への接近は、氏真が迫る危機に対して別の協力先を探したことを示している。 しかし、手紙を送り合っただけで、敵を抑える軍事力が得られるわけではない。 交渉相手にも、それぞれの領国と戦争があった。 市場を整え、家臣を賞し、遠国へ書状を送っても、駿河の周囲で進む勢力の変化を押し戻すには至らなかった。
駿府を離れ、掛川で持ちこたえる

永禄十一年(1568年)、武田信玄が駿河へ侵攻した。 氏真は本拠の駿府を離れ、遠江の掛川城へ退いた。 そこで氏真を支えたのが、城を守る今川家臣の朝比奈泰朝である。 駿河を武田に押される一方、遠江には徳川家康が兵を進めており、氏真は東西の侵攻に挟まれた。
家康は掛川城の周囲に砦を設け、包囲を固めていった。 今川方の抵抗は続き、攻防は翌永禄十二年(1569年)へ持ち越される。 掛川市の解説では、徳川方に本多忠勝の参戦が記され、包囲拠点の長谷砦には酒井忠次らが置かれたとされる。 氏真が向き合ったのは家康個人だけでなく、その指揮下で城を囲む徳川の軍勢であった。
守る側は朝比奈らとともに城を保ったが、包囲を受け続ける状況は変えられなかった。 攻める家康にとっても、遠江の支配がまだ固まらない中で長い籠城戦を続ける負担は大きい。 さらに武田との利害対立も生じ、今川を攻めた両勢力が、そのまま歩調をそろえ続けるわけではなかった。 こうして軍事的な圧力の中に、講和を探る余地が生まれた。
永禄十二年五月、氏真は和議によって掛川を退去し、北条氏の保護を求めた。 数か月にわたった抵抗は終わり、家康が城を手に入れる。 氏真は命をつないだが、駿河と遠江に独立した領国を持つ大名としての地位を失った。 駿府から掛川へ、掛川から北条領へと移る過程で、氏真が自分の判断だけで動かせる土地と軍勢は大きく減っていた。
領国を離れても続いた今川の名

掛川を出た氏真の行く先には、妻早川殿の実家である北条氏があった。 氏真は北条領に移り、その庇護下で過ごすことになる。 かつて対等な大名同士を結んだ婚姻は、領国を失った氏真を支える縁となった。 ただし、北条に頼ることは、北条当主の方針から自由ではいられないことでもあった。
永禄十二年(1569年)閏五月と推定される北条氏政の書状は、今川の名跡が氏政の子、のちの氏直へ渡ったことを伝えている。 北条側が今川の名を用いて駿河へ関わる動きが、ここに表れている。 氏真の実子たちへ続く家の歴史と、この時点の駿河支配をめぐる名跡の扱いは、別々に追う必要がある。 北条は婚姻による縁に加え、今川の名跡を通じても駿河に足場を持とうとした。
その後も氏真と旧臣の関係が、すべて直ちに消えたわけではなかった。 元亀二年(1571年)十月、氏真は富士信通の過去の戦功を認め、暇乞いを許す判物を出している。 駿河の支配を失ってからも、以前の奉公を認め、主従関係の終わりを文書にする立場が残っていたのである。 これは今川の領国が戻った証拠ではないが、氏真を当主とする関係がなお続いていたことを伝える。
やがて氏真は北条のもとを離れ、徳川家康を頼った。 掛川城で自分を包囲した相手の保護を受けるという、大きな立場の転換である。 かつての敵との関係は、氏真の後半生を支えるものへ変わっていった。 領国回復をどこまで願っていたかは断定できないが、氏真の活動は、この時点で歌と隠居生活だけに閉じたわけではなかった。
信長との対面、その年の諏訪原城攻め

天正三年(1575年)、宗誾と号した氏真は京都へ向かった。 その旅をたどる手がかりの一つが、自ら詠んだ歌と詞書を集めた『今川氏真詠草』である。 詞書には、歌を詠んだ場所や事情が記され、氏真が何を見聞きしたかを知る助けになる。 大名としての領国を失った人物が、旅と和歌の記録を残していた。
京都では相国寺で織田信長と対面し、公家たちと蹴鞠をしたことが記録されている。 信長は、十五年前の桶狭間で父義元を討った相手である。 この対面は氏真の生涯でも際立つ場面だが、本人がどのような感情で臨んだかを語る確かな言葉は残されていない。 記録からたどれるのは、かつての敵と会い、京都の人々との交際に加わる氏真の行動である。
同じ年、氏真は家康による諏訪原城攻めにも加わった。 武田方の城を攻める徳川の軍勢に、かつて駿河を治めた今川の当主がいたのである。 武田勝頼は援軍を集めようとしたが、間に合わず城は徳川方へ移った。 今川の領国を奪った武田に対し、氏真は家康の側から攻城戦に加わったのである。
城は牧野城と改称され、翌天正四年(1576年)三月、氏真が城主に就いた。 在城は約一年で、天正五年(1577年)三月には浜松へ召し出されている。 家康のもとでの役割であり、駿河一国の回復ではなかったが、氏真は再び城と軍事に関わる位置へ立った。 京都の蹴鞠と遠江の城攻めは、同じ人物の同じ年の活動である。 文化人としての顔だけを追うと、この後半生の軍事的な役割が見えなくなる。
江戸で迎えた最期と、子孫の役目

氏真は、戦国大名として駿府を取り戻すことはなかった。 その後も和歌を詠み、徳川の保護を受けながら生き、晩年には武蔵の品川に屋敷を与えられた。 父義元の時代から、信長、秀吉を経て家康が幕府を開くまで、世の支配者は入れ替わった。 氏真は、その移り変わりを生きて見届けたのである。
慶長十九年十二月二十八日、氏真は数え七十七歳で没した。 慶長十九年に対応する西暦年は1614年で、一般の略年表ではこの年を没年とする。 一方、その十二月末を新暦に換算すると1615年になる。 資料に現れる二つの没年は、異なる人物の死や、一年の生存期間の違いを意味するものではない。
氏真の死によって、今川の家名まで途絶えたわけではなかった。 子孫は江戸幕府のもとで存続し、孫の直房は朝廷との交渉を担う高家として活動する。 杉並区の観泉寺の解説によれば、直房は正保二年(1645年)の朝廷への使節の功で加増を受け、寺を菩提寺として整えた。 氏真の墓も万昌院から観泉寺へ移された。
直房の働きは、氏真が没してからの子孫自身の実績である。 それでも、戦国期の敗北で一族の歴史が終わらず、異なる役目を担う世代が続いたことは確かだ。 氏真の生涯には領国を守れなかった結末があると同時に、その後も残った文書と歌、家族の歴史がある。 掛川の開城だけで区切るには、氏真がその先に生きた時間は長い。
史料の読み解き
「何もしなかった当主」と発給文書
氏真の政治活動を調べるうえで、最初に手がかりになるのは、自分の名で出した文書である。 富士家文書には、役職の交替を命じる判物、戦功を褒める感状、市場の扱いを定める朱印状が残る。 磐田市が紹介する成瀬家文書では、遠江の混乱の中で働いた町の人物に報いている。 さらに上杉家の文書には、信玄との関係が悪化した時期の外交が見える。
これらは、一つの逸話を別の本が繰り返し紹介したものではない。 受け取った相手も、残された家も、文書の目的も異なる。 したがって、氏真が軍事、領内の行政、外交に継続して関わっていたという点は、複数の角度から確かめられる。 少なくとも「政務を一切行わずに遊んでいた」という人物像とは一致しない。
しかし、ここで評価を逆転させて「実は卓越した名君だった」と結論するのも早い。 命令を出した事実は、命令が現場で実行されたことや、期待した結果が得られたことまで保証しない。 戦功への恩賞も、褒められた側の働きを示す一方で、領国全体の戦況とは別の情報である。 大宮の楽市令が存在しても、それだけで財政の回復や商業人口の増大を説明することはできない。
政治活動があったことと、政治に成功したことは、分けて評価できる。 氏真は支配を維持しようと動いたが、三河を失い、最後には駿府と掛川から退いた。 その間に何を試み、どの局面で支えを失ったのかを追う方が、能力を一語で評するよりも敗北の過程を理解しやすい。
家督継承を桶狭間の後だけで考えない
氏真の略伝には、義元が桶狭間で戦死した後に家督を継いだという説明がある。 一方、静岡市歴史博物館の2024年の展示年表は、弘治三年(1557年)に義元が氏真へ当主の地位を譲ったとする。 同じ家督継承について、年表と略伝では異なる時点が示されている。
この違いには、家督を譲ることと、父の政治的な影響がなくなることを同じ出来事として扱えない問題がある。 家督が子へ移っても、父が軍を率い、大名家の方針に関わることはありうる。 氏真の場合も、義元の存命中の継承と、1560年の戦死によって父の支えを失った局面を分ければ、叙述の混乱を避けられる。 ただし、親子がどの仕事をどこまで分担したかは、個々の文書に戻って確かめる必要がある。
氏真を「父の死で突然何も知らずに当主へ押し出された若者」と描くと、存命中の継承が抜け落ちる。 逆に、すでに家督を継いでいたという理由で、義元の死の影響を小さく見ることもできない。 桶狭間では有力家臣も失われ、その後には地域の領主の離反が続いた。 家督という地位を持っていても、その地位を支える人と軍事力を失えば、同じように命令を通すことは難しくなる。
三国同盟が崩れたときの選択
氏真の婚姻関係を見ると、武田と北条は遠い国の他人ではなかった。 それでも1568年には信玄が駿河へ侵攻する。 婚姻があることは、相手の行動を将来にわたって固定する保証にはならなかった。 氏真は、親族関係を保つことと、自分の領国を守ることが一致しなくなる状況へ追い込まれた。
上杉博物館の展示解説は、氏真が1567年から謙信へ秘密裏に働きかけたとする。 その後の書状では、相手に対する宛名の書き方にも変化が見えるという。 交渉は武田の侵攻前から始まり、駿府や掛川を失った後にも続いていた。 侵攻を受けて初めて危機を知った、すべてを他人任せにした、という単純な筋書きには収まらない。
ただし、この外交から、上杉との強固な軍事同盟が成立していたとまではいえない。 交渉の存在、協力の合意、実際の出兵は、それぞれ確認すべき別の段階である。 謙信の名が手紙に現れるだけで援軍が来たことにはならず、氏真が頼った先をすべて同盟軍として数えることもできない。 氏真の外交努力を認めるほど、その成果がどこまで届いたかも慎重に見極める必要がある。
北条との関係にも同じ注意が要る。 妻の実家が氏真を保護したことと、北条が駿河に対して自家の利益を追ったことは両立する。 氏直への今川名跡の移転を伝える書状は、氏真個人の保護とは別に、今川の名が駿河の支配をめぐって用いられたことを示す。 大名同士の連携は、親族への好意だけでも、裏切りという感情の言葉だけでも説明しきれない。
掛川の抵抗と、降伏の評価
掛川での氏真は、城へ逃げ込んですぐに退去したわけではない。 朝比奈泰朝らの抵抗により攻防が長引き、家康は包囲拠点を増やしながら攻略を進めた。 本多忠勝の参戦や、酒井忠次らが置かれた砦の記述も、今川方が向き合った軍事的な圧力を伝えている。 籠城は氏真一人の働きではなく、城を守る家臣や兵を含む抵抗だった。
その抵抗を「家康を撃退した大勝利」と表すことはできない。 結局、氏真は掛川を去り、城は徳川のものになったからである。 一方、最終的に退去したからといって、途中の抵抗がすべて無意味だったとも断定できない。 家康にも長期戦の負担があり、力攻めと和議のどちらで城を得るかを考える事情があった。
降伏によって氏真が生き延びたことは確かだが、それを初めから予定された「家を残すための最善策」と呼ぶ根拠は足りない。 当時の氏真が、後の高家今川氏まで見越して判断したと示す史料は確認できない。 その後に家名が続いたという結果を、過去のすべての決断の目的にしてしまうと、敗戦時の不確かな状況が消えてしまう。 氏真は、実際に残された条件の中で城を退き、その後の生活を続けたのである。
和歌が残した敗戦後の行動
氏真の和歌には、人物の心情を想像する材料にとどまらない史料としての価値がある。 『今川氏真詠草』の歌に添えられた詞書は、旅程や見聞をたどる手がかりになる。 東京大学史料編纂所の刊行紹介も、1575年の京都への旅を歌と詞書から追える点を指摘している。 氏真が各地で何を見たかを知る情報が、政治の命令とは違う形で残ったのである。
諏訪原城の落城日を考えるときにも、氏真の詠草が使われる。 島田市は、八月二十四日に城が降参したことを記す詞書を、その日付の根拠として紹介している。 歌を詠む人物と戦争に関わる人物が、氏真の中では切り離せない。 文化活動を政治の反対側に置くと、こうした記録の成り立ちを見落とす。
一方、氏真に結びつけられた作品を、すべて確実な本人の作とするわけにもいかない。 京都大学の公開資料には「今川氏真(ヵ)和歌短冊」という題が付いている。 この「ヵ」は作者の帰属が確定していないことを示すため、紹介するときにも落としてはならない。 同じように、辞世として伝わる歌と、詠作事情まで確かめられる歌は区別して読む必要がある。
氏真の文化的な力量が、人との交際を支えた可能性はある。 ただし、和歌や蹴鞠が生存の唯一の理由だったと断定できるわけではない。 北条との婚姻、徳川の庇護、今川という家の地位も、具体的な関係として残っている。 氏真を救ったのはただ一つの芸だった、という物語よりも、複数の関係の中で生きた人物として捉える方が、史料に無理がない。
今川の領国と今川の家
今川氏の滅亡という言葉は、何が終わったのかを明らかにして使いたい。 1568年の駿府からの退去、1569年の掛川開城によって、氏真は戦国大名としての領国を失った。 しかし、氏真自身は生存し、旧臣との文書のやり取りも、その後の軍事活動も残している。 人、家名、主従関係、領国のすべてが、一度の敗戦で同時に消えたわけではない。
江戸時代の今川家は、広い領国を自力で支配する大名として復活したのではなかった。 幕府のもとで家を存続させ、子孫が朝廷との交渉や儀礼に関わる高家として活動した。 孫直房の功績と観泉寺の由緒は、その変化を具体的に伝える。 氏真が残した家が新しい政治の中に位置を得たことと、氏真本人が領国を再建したことは同じではない。
氏真の評価を、祖先の領土を守れたかだけに限れば、結末は厳しい。 ただし、掛川の後の人生をすべて無意味な余生とするなら、京都への旅も、牧野城での役割も、残された歌も説明から抜け落ちる。 敗れた当主が長く生き、その子孫が別の職分を担った事実は、大名の敗北の後にも歴史が続くことを示している。 観泉寺に伝わる墓所は、その長い時間の先にある。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と注意点 |
|---|---|---|
| 1538年生まれ、義元と武田信虎の娘の子 | 高 | 辞典類の人物項目で確認 |
| 1554年に早川殿と婚姻 | 高 | 図書館の調査回答と辞典、今川の同盟史を照合 |
| 家督は義元存命中に移った | 中〜高 | 博物館は1557年とする。継承年の表記は資料で異なる |
| 軍事や領国政治に関わる文書を出した | 高 | 富士家文書と成瀬家文書に具体的な事例 |
| 1566年に富士大宮の市を楽市とした | 高 | 四月三日付氏真朱印状の目録要文 |
| 楽市政策で今川の経済が大きく回復した | 未確認 | 命令の存在だけでは成果を数量的に判断できない |
| 1567年から謙信と交渉した | 高 | 上杉博物館の文書展示と解説 |
| 謙信との交渉が実際の来援に結びついた | 未確認 | 交渉と軍事行動を区別する必要がある |
| 1568年に駿府を離れ、1569年に掛川を退去 | 高 | 自治体の解説と人物辞典を照合 |
| 氏直へ今川の名跡を渡す動きがあった | 高 | 北条氏政書状の図書館要文。氏真子孫の家とは区別 |
| 1575年に信長と会い、相国寺で蹴鞠をした | 高 | 『信長記』などを用いた史料編纂所の解説 |
| 蹴鞠は三月二十日に行われた | 中 | 史料編纂所が日付への研究上の疑義を紹介 |
| 諏訪原城攻めに参加し、牧野城主を務めた | 高 | 島田市の歴史解説と詠草の紹介 |
| 「中々に」の歌を死の直前に詠んだ | 低 | 辞世とする辞典はあるが、詠作事情は未確認 |
| 慶長19年12月28日に数え77歳で没した | 高 | 辞典と浜松市史。1614/1615の表記は暦法を区別 |
| 子孫が高家として家名を継いだ | 高 | 杉並区の観泉寺解説と辞典類 |
| 和歌や蹴鞠だけで生き残った | 低 | 婚姻、庇護、家の地位を除外する根拠がない |
今川氏真の逸話
- 逸話 01
相国寺の蹴鞠で何が分かるのか

公家たちとの蹴鞠に加わる氏真 · AI生成イメージ 氏真が信長の前で蹴鞠をした話は、後世の創作だけから生まれたものではない。 東京大学史料編纂所は、『大日本史料』の編纂で『信長記』をもとにこの出来事を収めたと説明する。 京都の相国寺で信長と会い、公家たちと蹴鞠に加わった氏真の姿には、記録上の裏付けがある。
ただし、出来事の日付については研究上の疑問が出されている。 編纂所は三月二十日条に収めながらも、その日付をそのまま確定扱いしないよう注意を添えている。 「何月何日、氏真は父の仇の前でこう決意した」という細かな場面へ膨らませると、確認できる範囲を越えてしまう。 蹴鞠で命を救われた、信長に侮辱された、という筋書きも、この記録からは導けない。
蹴鞠は公家だけでなく武家にも伝えられた教養だった。 氏真がその場に参加できたことは、領国喪失後も上層の文化的な交際に関わる機会があったことを示す。 一方、それをもって政治的な力まで取り戻したとはいえない。 相国寺での氏真の姿は、どちらか一方に誇張しなくても、敗戦後の生き方を伝えてくれる。
- 逸話 02
辞世として伝わる「中々に」の歌

和歌を記すための筆と料紙 · AI生成イメージ 講談社『デジタル版 日本人名大辞典』は、氏真の辞世として「中々に世をも人をも恨むまじ時にあはぬを身の科にして」という歌を紹介している。 現代語で大意を取れば、世間や他人を恨むまい、時に合わなかったことを自分の責めとして受け止めよう、という内容になる。 敗れた大名の生涯に重ねて読まれてきた歌である。
しかし、辞典が辞世と紹介することと、臨終の場で詠んだと確定できることは分けておきたい。 最初に記された資料や詠作の事情を十分に確認できなければ、死の間際の言葉として再現することはできない。 この歌だけで、氏真が一生他人を恨まなかった、領国への執着がなかった、と性格を断定するのも難しい。
氏真の歌を読む魅力は、敗戦の評価を一つの答えにまとめることだけにあるのではない。 領国を失った人物にどのような感情を重ねてきたかを、読む側が考え直す手がかりにもなる。 確実な行動を知りたいときには、詠草の詞書や発給文書を併せて読む必要がある。 歌が伝える印象と、文書が示す政治活動には、それぞれ違う情報が含まれている。
- 逸話 03
旧臣の暇乞いを認めた一通

旧臣への文書を扱う氏真 · AI生成イメージ 領国を失った後の氏真をたどると、文化人としての話だけでなく、旧臣に向けた文書に出会う。 元亀二年(1571年)十月二十六日付の氏真の判物である。 静岡県立中央図書館の富士家文書目録によれば、氏真は富士信通が大宮城で立てた戦功を認め、暇乞いを許している。
過去に働いた者が去る際に、主君の側がその功を認める。 文書が伝えるのは、こうした具体的な関係の処理である。 氏真が駿河を取り戻せていなくても、旧臣の奉公を認める立場や、旧臣がその承認を求める関係は残っていた。 戦国大名の領国の終わりと、主従関係の終わりが、必ず同じ日になるとは限らなかった。
もっとも、ここから悲しい別れの会話や、互いの胸の内まで再現することはできない。 氏真が快く送り出したのか、断念の末に認めたのかは、この目録の要文だけでは分からない。 それでも、掛川開城の二年後に交わされた一通は、今川の敗北の後始末が続いていたことを具体的に示している。 勝敗が決まった後にも、奉公や権利を整理する時間が必要だった。
関連人物
- 今川義元
- 武田信虎の娘
所縁の地
- 掛川城静岡県掛川市
氏真が朝比奈泰朝とともに籠城し、1569年に家康と和議を結んで退去した場所。現在の天守を、そのまま氏真が守った城の姿と考えることはできない。当時の攻防をたどるには、周辺の砦や掛川古城との位置関係も手がかりになる。
- 諏訪原城跡(牧野城跡)静岡県島田市
1575年の徳川方による攻略に氏真も参加し、牧野城と改称されたのち城主を務めた。発掘調査では武田時代と徳川時代の改修が区別されており、現在見える大きな堀をすべて武田時代の姿とみなさない注意が必要である。
- 観泉寺東京都杉並区今川
氏真と子孫の墓が伝わる今川家の菩提寺。孫直房の代に寺が整えられ、氏真は万昌院から改葬された。駿河を離れた一族が江戸幕府のもとで存続した歴史を、墓所と寺の由緒からたどることができる。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 今川氏真(日本大百科全書ほか)小学館・講談社ほか/コトバンク参照日 2026-09-23
- 今川義元~偉大なる駿河の太守~静岡市歴史博物館参照日 2026-09-23
- 今川氏~駿河に君臨した名家~静岡市参照日 2026-09-23
- 富士山関係資料デジタルライブラリー(富士家文書)静岡県立中央図書館参照日 2026-09-23
- いわた文化財だより 第152号磐田市教育委員会参照日 2026-09-23
- 家康が遠江に侵攻、今川家は滅亡(1568から1569)掛川市参照日 2026-09-23
- 徳川家康による掛川城攻めについて掛川市観光交流課参照日 2026-09-23
- 謙信・景勝に手紙を書く①「上杉殿」と「上杉弾正少弼殿」米沢市上杉博物館参照日 2026-09-23
- 大日本史料 第十編之二十九 刊行紹介東京大学史料編纂所参照日 2026-09-23
- 牧野城に在城した徳川の武将たち島田市博物館参照日 2026-09-23
- 諏訪原城跡発掘調査(平成21年~平成27年)島田市参照日 2026-09-23
- 観泉寺杉並区参照日 2026-09-23
- 浜松市史 二「氏政信玄と結ぶ」浜松市立中央図書館/ADEAC参照日 2026-09-23
- 今川氏真の正室の早川殿の生涯について知りたい埼玉県立久喜図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-09-23
- 難波家蹴鞠関係資料文化遺産データベース参照日 2026-09-23
- 今川氏真(ヵ)和歌短冊京都大学総合博物館参照日 2026-09-23















