武田義信は武田信玄の長男であり、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぐはずだった嫡男だ。永禄8年(1565)の義信事件で幽閉され、永禄10年(1567)に東光寺で死去した。死因は自害と説明されてきたが、黒田基樹の研究には病死とする見解がある。事件による失脚と、その後の死を一続きの処刑として描くことはできない。
妻は今川義元の娘で、武田勝頼は弟にあたる。将軍から名の一字を授かり、今川家との婚姻を担った義信は、父の権力を次代へ受け継ぐ位置にいた。家臣の処分、妻の帰郷、弟への継承をたどると、一人の嫡男が失われた影響が見えてくる。
信玄と三条夫人の間に生まれる

武田義信は初めから父の跡を継ぐことを期待された息子だった。天文7年(1538)、武田信玄と正室の三条夫人の間に誕生する。のちに武田家を率いる勝頼は弟にあたり、義信が生きた時代には兄が嫡男の地位にいた。
嫡男とは単に最初に生まれた男子という意味ではない。家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を受け継ぐ者として扱われ、家の内外からその将来を認められる立場である。義信の場合、元服と婚姻、さらに幕府からの待遇が、この期待を具体的な形にしていく。父が率いる武田家を、次の代につなぐ役を担っていた。
甲斐を本拠とする武田家にとって、義信の成長は一家の私事にとどまらない。誰が次の当主となるかは、家臣が仕える先にも、他家が婚姻を結ぶ相手にも関わる。義信自身の名が知られるより先に、武田家の嫡男という位置が周囲との関係を定めていた。
後年の事件から振り返ると、父子の対立だけが目につきやすい。だが、義信の生涯は反抗から始まったわけではなかった。まずは武田家の未来を託された後継者として、その歩みを見ておきたい。
将軍から授かった「義」の字

少年が名乗る「義信」の二文字には、父の家だけでは収まらない関係が刻まれていた。義信は13歳で元服し、室町将軍から「義」の一字を与えられた。元服は成人の節目であり、有力者から名の一字を受ける偏諱は、その人物との結びつきを示す。
父が晴信を名乗っていた時代に、息子は義信の名で世に出た。将軍からの一字を受けたこと自体が、嫡男としての立場を外に示していた。義信の名は武田家と幕府の関係の中で理解できる。
待遇も続いた。1558年頃の書状には、義信が三管領に準じる扱いを受けたことが記されている。三管領とは室町幕府の管領を出す有力な家々を指し、それに準じる格式は軽いものではなかった。義信が父のそばにいるだけの若者ではなかったことを、この記録は伝える。
ただし、この待遇を「幕府の管領に就任した」と言い換えることはできない。朝廷の位階とも別の話である。それでも、後継者の地位が家中の期待だけに支えられていたのではないとわかる。名と格式を備えた義信は、武田家の次代として歩みを進めていた。
妻を通じて結ばれた駿河との縁

義信の妻は今川義元の娘だった。1550年代前半に結ばれた婚姻によって、武田家の嫡男は駿河の有力大名の婿となる。今川氏真は妻の兄にあたり、義信から見れば義兄である。
この縁組には、武田家と今川家の関係を次の世代へつなぐ意味があった。信玄と義元が同じ時代に協力するだけでなく、その後継者同士も親族となる。義信にとって今川家は国境の向こうにある同盟相手であると同時に、妻の実家でもあった。
甲府市の武田氏館跡の解説は西曲輪を義信の婚姻に伴って整えられた場所として紹介している。曲輪とは堀や土塁などで区切られた城館の区画だ。嫡男が妻を迎えるための住まいを館の中に設ける。外交上の縁組は甲斐の生活の場にも形を残した。
ところが永禄3年(1560)、義元は桶狭間の戦いで命を落とす。今川家では氏真が父の跡を担うことになった。妻を介した縁は続いていても、同盟を取り巻く状況は変わり始める。この変化は後に義信事件の背景を考えるうえで欠かせない問題となる。
父とともに信濃の戦場へ

義信は館にとどまる後継者ではなかった。永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いには、武田方の一員として参戦したと伝えられる。相手は上杉謙信が率いる軍勢だった。
川中島は、武田家が進出した信濃と、謙信の本国である越後の間に位置する。父の戦争に加わることは、嫡男が武田家の軍事に関わる機会でもあった。長野市の人物紹介も義信の参戦を取り上げており、戦場で活動した武将としてその名を伝えている。
この戦いの義信には、奮戦や負傷の話がある。一方で、個々の働きを描く記述には後世の軍記や物語が重なる。父の危機を見て叫び、ただ一人で敵を退けたような場面を、同時代の記録と同じように読むことはできない。義信が軍事に関わったことと、物語の細部は分けて受け止める必要がある。
父の後を担う者には婚姻と格式だけでなく、家臣とともに行動する経験も求められた。川中島の義信は、そうした嫡男の姿を考える手がかりになる。ただし一度の合戦の伝承だけで、後年の勝頼より優れた指揮官だったと決めることはできない。
家臣の処分、そして嫡男の幽閉

永禄8年(1565)、義信を支えてきた立場が崩れる。義信に近い飯富虎昌が処分され、義信自身も甲府の東光寺に幽閉された。いわゆる義信事件である。
飯富虎昌は義信の守役として知られる武田家の重臣だった。守役とは若い後継者を育て、その活動を支える立場をいう。その虎昌の処分と嫡男の幽閉が重なったことは、義信だけの身柄の問題では済まない。義信を支える家臣との結びつきも、処分によって断たれた。
事件は、義信が父の信玄に謀反を企てたためと説明されてきた。また、妻の実家である今川家との関係を重んじ、父の方針と衝突したとも語られる。しかし、親子の間で何が決定的な争点になったのかは、なお検討を要する。ここで確かに追えるのは、家臣の処分と義信の幽閉という結果である。
義信はすぐに命を失ったわけではない。東光寺で過ごす時間はその後も続いた。館で家臣に囲まれていた嫡男が、政治の表舞台から退く。父の跡を継ぐはずだった歩みは、ここで大きく途切れた。
家督を継がず、数え三十歳で死去

永禄10年(1567)、義信は東光寺で生涯を終えた。一般に伝えられる没日は旧暦10月19日、享年は数え30歳である。父の信玄より先に亡くなり、武田家の当主となることはなかった。
自害したという説明は長く義信の最期を代表してきた。しかし近年の研究には、病死とする見解がある。死因の読み方によって、事件から最期までの意味も変わってくる。幽閉されたことを根拠に、そのまま自害を命じられたと結びつけることはできない。
義信が亡くなると、今川家から来ていた妻は駿河へ帰った。甲斐と駿河をつないでいた夫婦の暮らしも、ここで終わる。次の世代まで続くはずだった縁組を、夫の死と両家の政治関係が変えていった。
生まれた時からの地位、将軍から与えられた名、今川家との婚姻。そのどれも、義信が父の家を継ぐ未来につながっていた。だが実際には、父の存命中に幽閉され、若くして世を去る。義信の最期を考えるには、失われた後継者の立場と、死因そのものを分けて見なければならない。
義信の不在と武田勝頼

義信の死から後、武田家の当主となったのは弟の勝頼だった。信玄が亡くなるのは元亀4年(1573)であり、兄の死から直ちに弟へ家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。が移ったわけではない。義信の喪失と勝頼の継承の間には、父がなお家を率いた年月がある。
義信と勝頼を比べる時、この時間の差は大きい。義信は嫡男としての待遇を受けながら、当主として長く領国を治める機会を持たなかった。勝頼は実際に家を率い、その判断と結果を残した。兄の果たせなかった将来と、弟の現実の統治を、そのまま優劣の表に置くことはできない。
武田家は義信の死後、駿河へ進出する。今川家との婚姻を担った兄が去り、外交と後継のあり方は変わっていった。だが、その後のすべてを義信事件の必然的な結末とするのも早計だ。家を継ぐ者が変わったことと、個々の戦争の勝敗には、それぞれ検討すべき事情がある。
義信が生きていれば、武田家はどうなったか。その問いが生まれるのは、彼に何の実績もなかったからではない。家を継ぐ準備を重ねながら、当主として試される前に生涯を閉じたからだ。残された記録は勝頼とは異なる経路で育った、もう一人の武田家の後継者を伝えている。
史料の読み解き
義信の生涯では、事件の原因、死因、後継者としての評価が混ざりやすい。だが、父と対立した理由がわかれば死因も決まる、という関係ではない。何が記録に残り、何が研究上の解釈なのかを分けると、義信自身の立場を捉えやすくなる。
義信事件の原因と信玄への謀反
義信事件とは、1565年に飯富虎昌らが処分され、義信も幽閉された武田家内の事件を指す。信玄の嫡男が後継の地位を失った点で、通常の家臣処分とは重みが違った。ただし、処分の事実が確認できることと、謀反計画の全容が解明されていることは別である。
よく知られる説明は今川家との関係をめぐる父子の対立だ。義信の妻は義元の娘であり、今川家を支える氏真は義兄だった。その義信が今川との同盟を重んじ、駿河へ進もうとする信玄に反対した、という筋書きである。
上田市の解説も、この外交関係の変化に沿って事件を説明している。
婚姻関係はこの見方を考える根拠になる。ただ、妻が今川出身であることから、義信のすべての政治判断まで導けるわけではない。武田家の後継者として父を支える立場と、妻の実家への配慮がどのように両立していたかは、個別の史料で確かめる必要がある。義信の判断を「妻への愛情」だけに置き換えるのも、本人の言葉を離れた想像になる。
年代も確認しておこう。事件が起きたのは1565年、義信が亡くなったのは1567年、信玄の駿河侵攻は1568年である。後に起きた侵攻を知る私たちには、父子の衝突がその準備だったように見える。しかし、結果から逆算した説明は当時の計画や意思を証明しない。
義信は独立した立場を持つ嫡男でもあった。将軍からの待遇を受け、守役や近臣に支えられる人物と当主との対立には、家の意思決定や後継の問題も関わりうる。外交対立だけを唯一の原因にせず、誰が義信を支え、処分によって誰の立場が変わったのかまで見ていく必要がある。黒田基樹による事件の再検討も、従来の筋書きを当然の前提にしないための手がかりとなる。
死因は自害か病死か
義信の死因は単に「父に命じられて切腹した」と断定できない。自害説が広く伝わる一方、黒田基樹は未利用史料をもとに病死と捉えている。この見解は2022年のNHK文化センターによる講座案内でも紹介されている。
自害説には、講談社の人名辞典や上田市の解説など、読者が接しやすい掲載先がある。だからこそ、辞典に書かれているという理由だけで、以後の研究を無視するわけにはいかない。一方、講座の紹介文は研究成果の要約であり、根拠史料の全文を掲載した論文ではない。ここでは、病死説がどの研究者から示されているかまでを明確にし、診断のような断言は避ける。
病死と考える場合でも、具体的な病名がわかったことにはならない。また、幽閉の環境が病気にどれほど影響したのかも、別に立証すべき問題だ。政治的に追い詰められたこと、自由を制限されたこと、病で亡くなった可能性を、一つの原因にまとめることはできない。
逆に、自害説を紹介する場合も、死に方の細部を付け足さない方がよい。切腹の場所や作法、最期の台詞、父から届けられた命令などは、それぞれに典拠が必要になる。自害という一語だけを根拠に、劇的な最期を復元することはできない。
確実に押さえられるのは、義信が幽閉後も生き、1567年に父より先に亡くなったことである。死因はその上で検討する問題だ。病死説を取り上げることは、事件の存在を否定することでも、父子の関係を良好だったと塗り替えることでもない。
義信の家臣・飯富虎昌の処分
義信に関わる家臣の中で、まず名を挙げるべき人物は飯富虎昌である。虎昌は義信の守役として知られ、事件の際に処分された。義信の失脚を理解するには、嫡男一人だけでなく、その周囲の人々を見る必要がある。
守役は現代の家庭教師のように学問だけを教える役ではない。武家の後継者を支え、家中で活動するうえでの後ろ盾となる立場だった。その人物を失えば、義信は身近な相談相手だけでなく、家臣とのつながりを支える一人も失う。虎昌の処分と義信の幽閉が、家の将来に及ぶ問題だった理由はここにある。
ただし、武田家の重臣をすべて義信の直属家臣として並べることはできない。当主である信玄に仕える関係と、嫡男の身辺を支える関係は同一ではないからだ。義信の家臣一覧を作る時は、同じ時代に武田家にいたという理由だけで名を加えず、義信との具体的な接点を確かめなければならない。
生島足島神社の起請文も、その区別が必要な史料である。
上田市の起請文解説が示すのは、多くの家臣が信玄への誓約を提出した事実だ。そこから家臣団の統制を考えることはできるが、署名者全員を謀反の加担者や義信派と認定することはできない。
事件後の政治は息子を寺に入れれば終わるものではなかった。信玄は義信を取り巻いていた関係を整理し、家臣が誰の指示で動くかを改めて確かめる必要があったと考えられる。この点は事件を家中の問題として読む際の解釈であり、個々の家臣の内心まで判明したという意味ではない。
妻は今川義元の娘、婚姻はいつか
義信の妻は今川義元の娘、今川氏真の妹である。
山梨県立博物館の人物紹介は、義信が15歳で義元の娘と結婚したとする。彼女の立場は明らかだが、確実な実名をこの資料から知ることはできない。
戦国期の女性は、父や夫との関係で記されることが多い。そのため、「義元の娘」という呼び方に名前を補いたくなるが、後世の法名や物語上の呼称をそのまま実名にはできない。夫の義信と、娘に伝わる園光院という名も区別したい。
婚姻の年にも資料間の差がある。博物館の15歳という説明を数え年で読むと1552年になる。一方、甲府市の武田氏館跡整備基本計画は、『高白斎記』による説明として1551年の婚儀と西曲輪の整備を記す。婚姻を1550年代前半と捉えれば両方の説明を含められるが、正確な年を決めるには記録の再検討が必要になる。
日付の違いがあっても、縁組の政治的な意味まで失われるわけではない。義信の婚姻は武田家の後継者と今川家を結び、甲斐の館にも住まいを整える出来事だった。妻を迎えることは、後継者としての暮らしと外交が重なる節目だったのである。
義信の死後、妻は駿河へ戻ったとされる。この帰郷を、夫婦の不和や妻の裏切りの証拠にする理由はない。夫を失った後の身の置き方と、大名家同士の関係の変化として捉えるべき出来事だ。
子供と子孫に伝わる園光院・守随信義
義信には子供がいなかった、と断定するのは適切ではない。後世の系図には娘が記され、人名辞典には義信の子とされる守随信義が載っている。ただし、これらを同時代の出生記録と同じ確かさで扱うこともできない。
裾野市史に収録された「武田源氏一流系図」
の55頁では、太郎義信から女子へ線が伸びる。その脇には、母が今川氏真の妹であること、駿河へ帰ったこと、園光院と号したことが記されている。これは娘の系譜を知る手がかりになるが、その一頁から生没年やその後の家族まですべて判明するわけではない。
もう一人が守随信義である。
講談社の「守随信義」項目は、信義を武田義信の子とし、秤の製造・販売を担う秤座を継いだ人物として紹介する。武将の子孫を探していて、はかりを扱う家に行き着くのは意外かもしれない。だが、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぐ男子の系統だけが、子孫のたどり方ではない。
この系譜を扱う時は、義信から武田家の当主が続いたかという問いと、血縁を伝える家があるかという問いを分けたい。前者では勝頼への継承が問題になる。後者では娘や養子先を含む系譜資料を検討することになる。片方の答えだけで、もう片方を「存在しない」とすることはできない。
現代までの子孫を特定するには、その後の世代をつなぐ資料が必要になる。名字が武田であることや、武田家一般の末裔とされることだけでは、義信からの系統は確認できない。本稿では、園光院と守随信義という記録上の手がかりを紹介するところまでとし、現在の特定個人への血縁認定は行わない。
官位は何だったのか、准三管領の意味
義信の官位を調べる時は、通称、朝廷の位階、幕府からの待遇を区別する必要がある。「太郎」は通称であり、官職名ではない。また、義信について確認できる「准三管領」も、朝廷の従何位という位階そのものを示す語ではない。
手がかりとなるのは、畠山亮の論文に収められた今井昌良書状だ。
『龍谷法学』49巻4号の618頁・史料40
は、義信が三管領に準じる旨を伝える。 書状の年次は弘治4年と推定されており、西暦では1558年頃にあたる。
三管領は室町幕府で管領を出す畠山・細川・斯波の三家を指す。それに準じる待遇を受けたことは、義信の高い格式を示す。ただし、そのことから幕府の管領として政務を執ったと考えることはできない。「準じる」という位置づけと、実際の役職への就任には違いがある。
同様に、この書状だけをもとに具体的な朝廷の位階を埋めることもできない。官位一覧の空欄をなくすより、何が確かめられるかを示す方が、義信の立場を正確に伝えられる。本稿のプロフィールは官位・待遇の欄に准三管領を掲げ、その性質を明記した。
義信の格式は事件以前の書状から確かめられる。若い時から家督継承を期待されたこと、将軍との関係を備えていたこと、今川家の婿だったことが重なる。その地位の高さを知るほど、義信事件が武田家にとって大きな断絶だったとわかる。
武田勝頼より優れた後継者だったのか
義信の評価には嫡男としての地位の高さと、能力の実証を分ける視点が必要だ。元服、婚姻、幕府からの待遇は、後継者として重く扱われた証拠になる。しかし、それだけで領国経営や軍事指揮の能力が勝頼を上回ったとは言えない。
川中島での働きは義信の武勇を考える材料になる。一方、長野市の人物紹介には史実の説明と、小説『風林火山』での描写が分けて載る。この区別を外して読むと、小説の場面がそのまま義信の実績になってしまう。創作が描く魅力と、史料で評価できる範囲は同じではない。
勝頼は当主として戦争と外交を担い、その成功も失敗も記録された。対して義信は家を率いる前に失脚し、亡くなっている。義信の評価には「もし当主だったら」という期待が入りやすく、勝頼の評価には実際の結末が重くのしかかる。この条件の違いを無視した比較では、兄が理想化されやすい。
それでも、義信を何もわからない人物として片づける必要はない。家を継ぐための格式、他家との縁、家臣に支えられた立場、軍事への参加は確認できる。これらは、義信が次代の当主として育てられていたことを示す。
「有能か無能か」の二択より、どの役割を担い、どの段階でその道を失ったかを問う方が、記録に近づける。義信の生涯は、家督を継げなかった者にも政治的な重みがあったことを教えてくれる。武田家の後継問題は勝頼だけを見ていては捉えきれない。
生きていたらどうなったか
ここからは、史実ではなく条件付きの考察になる。義信が生きていたとしても、それだけで武田家の当主になれたとは限らない。 1565年の処分を受けたまま生存する場合と、父との関係が修復され、後継者へ戻る場合では、話が大きく違う。
生存していても幽閉が続いたなら、義信が外交や軍事を自由に決める立場にはない。勝頼をはじめとする他の一族が役割を担う流れも、止まるとは限らない。「長男が生きている」という一点だけでは、誰が家を継ぐかを決められないのである。
一方、義信が後継者へ復帰したという条件まで置くなら、今川家との婚姻は外交を考える材料になる。氏真の妹を妻とする当主が、駿河との関係を重く見る可能性は考えられる。ただし、婚姻があれば戦争を避けられるという法則はない。家臣の意向、領国の事情、相手側の判断も関わるため、駿河侵攻が必ず消えるとは言えない。
さらに、義信が継いでいれば長篠の敗北や武田家の滅亡を防げた、という結論には距離がある。戦う相手も、同盟関係も、戦場の条件も変わるからだ。兄弟を入れ替えたうえで、それ以外の歴史をすべて同じに保つ想定には無理がある。名将だったはずだという期待も、破滅を避けられたという証拠にはならない。
この問いの面白さは架空の勝利を決めることより、武田家のどこが変わりうるかを考える点にある。後継の正統性、今川との親族関係、義信を支える家臣。それらが残る条件を一つずつ置くと、実際に失われたものが見えてくる。義信が生きていたらという想像は、史実の義信が持っていた立場を確かめるところから始めたい。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と留意点 |
|---|---|---|
| 義信は信玄と三条夫人の子で、嫡男として扱われた | 高 | 博物館・人名辞典・自治体解説が一致 |
| 妻は今川義元の娘、氏真の妹 | 高 | 博物館の紹介と系図。婚姻の年次には資料間の差 |
| 1565年に処分・幽閉、1567年に死去 | 高 | 複数資料で確認できる生涯の骨格 |
| 義信が三管領に準じる待遇を受けた | 高 | 書状を翻刻した学術論文。年次は推定、官位や管領就任とは別 |
| 義信は病死した | 中 | 黒田基樹の研究として紹介。ここで参照した講座案内は根拠史料全文を掲載していない |
| 義信は自害した | 中 | 旧来の辞典・解説にある説明。病死説を踏まえ再検討が必要 |
| 子に娘・園光院、守随信義がいる | 中 | 系図・人名辞典に記載。各系譜の史料的性格に留意 |
| 今川との対立だけが事件の原因だった | 低 | 婚姻と後年の侵攻だけでは動機の全体を立証できない |
| 生きていれば勝頼より成功し、武田家を救えた | 低 | 検証できない反実仮想。生存と後継復帰も別条件 |
参戦合戦
武田義信の逸話
- 逸話 01
美和神社に伝わる、義信の寄進

寄進を題材にした想像図。美和神社への本人の参拝を示す史料ではない(AI生成) · AI生成イメージ 事件とは別のところにも、義信の名は残っている。山梨県神社庁の美和神社紹介は、宝物として義信が寄進した鞍を挙げる。鞍は馬に乗るための道具であり、武将と神社の関係を伝える品でもある。
こうした寄進に目を向けると、義信の活動を父との対立だけで捉えずに済む。領国の神社に名を残す行為は、武田家の嫡男が地域と接点を持っていたことを考える手がかりになる。ただし、寄進品が伝わることと、義信本人がその場へ足を運んだことは同じではない。
奉納の日に何を願ったのか、誰を伴って参拝したのか。そこまでわかる記録をここで示すことはできない。勇ましい台詞を補うより、名の残る品から義信のもう一つの顔を知る。神社への寄進はそのように読むことのできる事跡だ。
- 逸話 02
家臣の誓約は、義信の死より前にもあった

家臣と向き合う義信の想像図。起請文提出の現場や特定の家臣を再現していない(AI生成) · AI生成イメージ 生島足島神社に伝わる武田家臣の起請文は家臣団と信玄の関係を考える重要な史料だ。上田市の解説によれば、83通に237名の名があり、永禄9年(1566)と翌10年に提出された。多くは永禄10年8月のものである。
起請文は神仏への誓いを伴う文書だ。義信事件の後に家臣が誓約を差し出した事実は、信玄が家中の結束を求めた動きとして読める。ただし、署名した全員が義信に加担した者だったという意味にはならない。
月の順序にも注意したい。義信の没日とされるのは同年10月であり、8月の起請文はその前にあたる。すべてを「義信が死んだ後の忠誠確認」と説明すれば、順序が逆になる。父子の事件から家臣団の動きへ視野を広げる時も、日付が話の骨組みを支えている。
- 逸話 03
幽閉から死去までの二年間をどう読むか

寺の窓辺に座る義信の想像図。幽閉中の内面や生活を確定するものではない(AI生成) · AI生成イメージ 義信事件は1565年、義信の死は1567年。この間隔を落とすと、父に叛いた息子が即座に死を命じられた、という一場面に話が縮んでしまう。実際には、政治的な処分の後にも義信の生は続いていた。
この時間の存在だけで、父子が和解へ向かっていたとも、死が初めから決まっていたとも言えない。わかるのは、処分と死去が別の出来事だということである。病死説を検討する時にも、幽閉という立場と身体の状態を分けて考える必要がある。
寺での義信は何を思ったのか。心情を直接語る言葉が確認できない以上、無念や怒りを本人の発言にしてはいけない。残された年月の長さは感じ取れても、その内面までは埋められない。その心情を語りすぎずに読むと、後継者が政治の場から遠ざけられた年月の重さが残る。
関連人物
- 武田信玄
- 三条夫人
- 娘・園光院(系図の記載)
- 守随信義(子とされる)
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 武田義信の人物紹介(信玄の長男)山梨県立博物館参照日 2026-10-31
- 信玄と長男義信の反目上田市立博物館参照日 2026-10-31
- 起請文の提出上田市立博物館参照日 2026-10-31
- 黒田基樹講座「武田信玄の新研究・義信事件を考える」案内(2022年4月22日)NHK文化センター参照日 2026-10-31
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus「武田義信」講談社/コトバンク参照日 2026-10-31
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus「守随信義」講談社/コトバンク参照日 2026-10-31
- 畠山亮「戦国大名武田氏における暴力の規制について(4)」『龍谷法学』49巻4号、618頁・史料40龍谷大学参照日 2026-10-31
- 史跡武田氏館跡 第3次整備基本計画(2020年)第1章・西曲輪甲府市教育委員会参照日 2026-10-31
- 裾野市史 資料編 古代・中世「武田源氏一流系図(抄出)」55頁裾野市参照日 2026-10-31
- 美和神社・由緒と宝物山梨県神社庁参照日 2026-10-31
- 川中島の戦い・武田太郎義信長野市参照日 2026-10-31













