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戦国時代〜江戸初期北条氏・今川氏1613
武将列伝戦国時代〜江戸初期今川

はやかわどの

早川殿死因・糸という名前の謎、今川氏真の妻の生涯

HAYAKAWA-DONO
生没年
?–1613
出身
出生地は未確定(活動地:駿河・遠江・相模など)
家
今川
早川殿の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: AIによる想像復元。人物の顔・衣装・場面は創作を含む。
  • 早川殿
  • 今川氏真
  • 北条氏康
父
北条氏康小田原北条氏の3代当主
夫
今川氏真1554年に婚姻。今川義元の子
没年
1613年慶長18年旧暦2月15日
実名・死因
未詳「糸」はドラマでの呼び名

早川殿は、北条氏康の娘であり、今川氏真の正室である。1554年の婚姻は甲相駿三国同盟を支えたが、二人の関係は同盟が壊れ、今川家が領国を失った後も続いた。

死去は1613年とされ、具体的な死因や本名は確認できない。「糸」は大河ドラマ『どうする家康』で使われた呼び名だ。母を瑞渓院とする研究はあるものの、生年や出生順まで確定しているわけではない。

父の家と夫の家。早川殿はその二つの間に立ち、駿河での生活から、北条家、徳川家の保護を受ける暮らしへ移った。その足跡をたどると、城を失った後にも続く戦国の女性の生涯が見えてくる。

01父と母ORIGIN

父は北条氏康、母は瑞渓院とする研究――二つの家につながる娘

北条家出身の早川殿を表す成人姿の想像図。幼少期の再現ではない(AI生成イメージ)
北条家出身の早川殿を表す成人姿の想像図。幼少期の再現ではない · AI生成イメージ

早川殿は、相模の大名「北条氏康」の娘である。北条氏政とはきょうだいにあたる。父が治めたのは、小田原を本拠として伊豆・相模から関東へ勢力を広げた北条氏の領国だった。鎌倉幕府の執権として知られる北条氏と区別するときには、後北条氏、あるいは小田原北条氏と呼ぶ。

母については、氏康の正室・瑞渓院とする研究がある。瑞渓院は今川氏親の娘で、今川義元の姉にあたる。駿河台大学が紹介する黒田基樹の研究書も、瑞渓院の子供として早川殿を挙げている。この見方に立てば、早川殿は父を通じて北条家に、母を通じて今川家につながっていたことになる。駿河台大学の書籍紹介で、母娘の位置づけを確認できる。

ただし、生まれた年まで確定しているわけではない。天文16年(1547)生まれと推定する説はあるが、誕生を直接記録した確実な日付として扱うことはできない。長女とする従来の説明と、四女と位置づける研究の違いもあるため、父の子供たちを一列に並べて年齢を決めるのは慎重であるべきだ。

幼い日の暮らしを伝える材料も限られている。小田原のどの屋敷で育ち、誰から何を教わったのか。父の娘であるという系譜だけでは、そこまではわからない。確かにたどれるのは、成長の細部より、今川家へ嫁ぐことになった政治上の立場である。

父母の婚姻も、娘の婚姻も、北条と今川を結ぶ縁だった。しかし、家同士が親族になれば、争いが永久になくなるわけではない。早川殿は二つの家を結ぶ立場で駿河へ入り、のちには、その結びつきを揺るがす戦争の中で居場所を変えていく。

02氏真との婚姻MARRIAGE

1554年、今川氏真の妻となる――甲相駿三国同盟の婚姻

北条と今川の婚姻を象徴する成人姿の想像図。婚礼や婚姻時の年齢を再現していない(AI生成イメージ)
北条と今川の婚姻を象徴する成人姿の想像図。婚礼や婚姻時の年齢を再現していない · AI生成イメージ

天文23年(1554)、早川殿は「今川氏真」に嫁いだ。氏真は駿河を本拠とする「今川義元」の子である。この婚姻は、甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川を結ぶ甲相駿三国同盟の一環だった。夫の氏真と、父の氏康を取り違えないことが、家族関係を追う最初の足場となる。

同盟は、家の跡継ぎと娘たちの婚姻によって支えられた。早川殿と氏真の縁組に加え、北条氏政と武田信玄の娘・黄梅院、武田義信と今川義元の娘の縁組が、三家を姻戚として結んだ。三国の名を並べた協定の背後には、それぞれの家を離れて暮らす女性たちがいたのである。

早川殿の婚姻を1554年とする点は、埼玉県立久喜図書館の調査回答や、静岡市が公開する歴史資料の年表でも確認できる。図書館の回答は、人名辞典や今川氏の年表、北条家の女性を扱う研究書などを案内している。家の婚姻政策の中で位置づけられる縁組だった。図書館の調査回答は、その根拠をたどる入口になる。

婚姻の年がわかっても、本人の年齢は別の問題だ。1547年生まれという推定を採れば数え8歳になるが、生年の前提が確定していない以上、「8歳で結婚した」とだけ言い切ることはできない。現代の満年齢をそのまま当てはめるのも避けたい。

また、この縁組から出会いの会話や互いの第一印象がわかるわけではない。政略結婚だったことと、その後に夫婦がどのような関係を築いたかは、分けて考える必要がある。婚姻は家の都合で成立した。それでも二人の生活は、同盟が壊れた後まで続いた。

03駿府での年月SUNPU

桶狭間の後も続いた今川家――1568年の朱印状に残る早川殿

駿府での年月を題材にした想像図。紙は現存する朱印状の複製ではない(AI生成イメージ)
駿府での年月を題材にした想像図。紙は現存する朱印状の複製ではない · AI生成イメージ

永禄3年(1560)、義父の今川義元が桶狭間の戦いで命を落とした。今川家にとって大きな打撃だったが、この年に氏真夫妻の生活も領国もすべて消えたわけではない。氏真はその後も駿河を本拠とし、領国を維持しようとした。

掛川城の歴史解説は、義元の死後、三河や遠江で今川氏の支配が揺らいだ経緯を紹介する。地域の武士たちの動向が変わり、家康も今川家から自立していった。早川殿が暮らした今川家は、婚姻のころと同じ政治環境にはなかったのである。

その時期の早川殿は、後世の夫婦物語の中にだけ残る人物ではない。島田市博物館の令和5年度活動報告には、永禄11年(1568)の「早川殿朱印状」が展示資料として載っている。岡埜谷家文書の一つで、個人所蔵・同館寄託、島田市指定文化財と記される。展示リスト12頁、資料9で確認できる。

朱印状は、朱色の印を据えた文書である。目録に本人の文書として載ることは、婚姻相手や父の系図とは別の角度から早川殿を知る手がかりになる。ただし、目録だけでは宛先や全文まで読めない。文書の存在を確認したことと、記された命令の内容を解読したことは同じではない。

このため、ここから氏真に代わって国政全体を動かしていたとまで評価を広げることはできない。それでも、彼女を常に夫の後ろにいるだけの人物として描く見方には、再考の余地がある。早川殿自身に結びつけて保存され、展示される文書が残っているからだ。

文書が作られた1568年の末、状況は急変する。かつて婚姻で結ばれた武田家が、今川領へ攻め込んだ。早川殿の暮らしは、駿府を中心とする年月から、移動を重ねる年月へ移っていく。

04駿河を追われるDISPLACEMENT

駿河侵攻と掛川開城――父の家を頼るまで

居所を離れる早川殿の想像図。道筋・天候・旅装は創作で、負傷を示すものではない(AI生成イメージ)
居所を離れる早川殿の想像図。道筋・天候・旅装は創作で、負傷を示すものではない · AI生成イメージ

永禄11年(1568)12月、武田信玄が駿河へ侵攻した。氏真は駿府を離れて遠江の掛川城へ逃れる。早川殿も戦乱によって居所を失った。嫁いだ今川家と、実家の北条家の関係が、その後の行き先を左右することになる。

『韮山城跡及び付城跡群総合調査報告書』は、早川殿が輿に乗れないまま徒歩で逃れたことを、北条氏康の怒りと結びつけて説明している。娘の窮状は、北条家にとっても看過できない出来事だった。ただし、歩いた距離、道中で交わした言葉、負傷の有無まで、この説明からわかるわけではない。

掛川では徳川家康の軍が氏真を攻めた。駿河を攻めたのが武田、遠江へ進んだのが徳川であり、氏真が向き合う相手は一つではなかった。北条家は今川方を支援したが、以前の三家の同盟をそのまま戻すことはできなかった。

翌永禄12年(1569)5月、氏真は掛川城を開いた。掛川城の解説と静岡市の年表は、この年を大名今川氏の支配が終わる節目としている。1568年の駿河侵攻と1569年の掛川開城は、連続した出来事だが年が違う。掛川城の歴史を追うと、二つの局面を分けて捉えられる。

氏真と早川殿は、その後、北条家の保護を受けた。夫は領国を失った当主であり、妻は受け入れる側の大名の娘だった。同じ移動でも、二人は異なる立場を持っていたのである。早川殿と北条家の縁は、婚姻のときに役目を終えた関係ではなかった。

ここで終わったのは、氏真が駿河の大名として領国を保つ時代である。夫妻の生涯までが終わったのではない。駿府から掛川、そして北条家のもとへ。地図上の移動は、その都度、誰の保護を受けて暮らすかが変わる過程でもあった。

05早川から徳川へREFUGE

早川の地に暮らし、やがて家康の保護へ――夫婦の新しい生活

新しい居所での暮らしを表す想像図。早川の屋敷や実在の河岸を復元したものではない(AI生成イメージ)
新しい居所での暮らしを表す想像図。早川の屋敷や実在の河岸を復元したものではない · AI生成イメージ

「早川殿」という呼び名は、相模国の早川に住んだことに由来すると説明される。現在の神奈川県小田原市の地名につながる呼称だ。鷹橋忍による解説は、黒田基樹の研究を参照し、元亀元年(1570)には早川殿がこの地に暮らしたと紹介している。

同じ解説では、この年に氏真との間に嫡子・今川範以が生まれたとする。領国を失った後も、夫妻のもとで次の世代が育っていた。今川家の歴史を桶狭間や掛川開城で閉じてしまうと、こうした家族の時間が見えなくなる。早川での生活を扱う解説は、呼び名と家族の動きをあわせて紹介している。

とはいえ、北条家の保護下で暮らす状態が、ずっと続いたわけではない。やがて早川殿は氏真とともに北条家を離れ、徳川家康を頼ることになる。黒田基樹による「戦国今川の女性たち」の講演報告も、この移動を早川殿の生涯の一場面として取り上げている。

家康は、かつて氏真が掛川城で戦った相手だった。今川の領国を攻めた人物が、その後には夫妻の生活を支える側へ回る。戦国期の関係は、敵か味方かという一度きりの分類では追えない。同じ二人の間でも、勢力と立場が変われば結びつき方が変わるのである。

氏真は徳川方で活動し、天正3年(1575)に徳川方が得た牧野城、もとの諏訪原城の城主にもなった。島田市の解説が伝える氏真の経歴である。ただし、夫が城主だったことから、妻がその城にどれほど滞在したかまで決めることはできない。早川殿の居所を、夫の行動先すべてに重ねないようにしたい。

北条家を離れる際の夫妻の会話は残されていない。だが、早川殿が夫とともに保護者を変え、その後も今川家の一員として生きたことは、生涯を考える軸になる。婚姻の背景となった三国同盟がなくなっても、氏真との関係は続いていた。

06京都と晩年LATER YEARS

大名家が滅びた後も――京都へ移った今川家と続く婚姻

年齢を重ねた早川殿の日常を表す想像図。京都の特定の屋敷や行動の再現ではない(AI生成イメージ)
年齢を重ねた早川殿の日常を表す想像図。京都の特定の屋敷や行動の再現ではない · AI生成イメージ

天正18年(1590)、小田原の北条家は豊臣秀吉に敗れた。早川殿の生家も、戦国大名としての支配を終えたのである。しかし、氏真夫妻の歩みを、小田原城での最後と同じものにすることはできない。二人はすでに、北条家の保護下だけで生きる段階を離れていた。

氏真の晩年を扱う『歴史街道』の解説は、小田原合戦の年に氏真一家が京都へ移ったと述べる。根拠の一つは、公家・山科言経の日記『言経卿記』に見える翌年の記録である。1590年の移住時点を直接見た描写と、後の記録からたどる家族の動向は、区別して読む必要がある。氏真の晩年の解説は、京都から江戸へ至る経過を紹介している。

同解説は、京都での生活も家康の支援と結びついていたとする。氏真が領国を失ったことは、世の中とのつながりをすべて失ったことではなかった。かつての大名としての出自や、徳川家との関係が、その後の暮らしの条件になっていたのである。

一方、夫妻が京都でどんな日課を送り、どのような会話を交わしたかまではわからない。氏真の和歌や公家との交流を、そのまま妻の趣味や活動に置き換えることもできない。夫について残る記録が豊富な場面ほど、早川殿自身について確認できる範囲を見失わないようにしたい。

慶長17年(1612)には、氏真が駿府で家康に会い、その後、江戸へ移ったとされる。婚姻から数えると、すでに半世紀以上が過ぎていた。二人が暮らした政治の世界は、義元・氏康・信玄が同盟を結んだ時代から、徳川の政権が続く時代へ変わっていた。

早川殿の生涯を支えた家の名は、北条と今川である。その二家が大名としての領国を失った後にも、彼女の人生は続いた。城の落城年だけを終点にせずにたどると、戦国の女性が生きた長さと、家を移りながら続けた関係が見えてくる。

07死去と死因FINAL YEARS

1613年に死去――早川殿の死因はわかっているのか

晩年の早川殿を表す想像図。臨終の場面や死因を示す画像ではない(AI生成イメージ)
晩年の早川殿を表す想像図。臨終の場面や死因を示す画像ではない · AI生成イメージ

早川殿は慶長18年(1613)旧暦2月15日に亡くなったとされる。1554年の婚姻から59年を隔てた年であり、夫の氏真より先に世を去った。三国同盟の婚姻から始まった関係は、戦国大名としての今川家が終わった後も続いていた。

死因については、確認した資料から具体的な原因や病名を特定できない。1613年に死去したという情報と、何が原因で亡くなったかという情報は別である。年齢を重ねていたと考えられることだけを理由に、老衰と断定することもできない。

享年にも留保が必要だ。生年が確定していないためである。1547年生まれという推定を採るなら、1613年没は数え67歳にあたる。しかし、これは生年の仮定から計算した数字であり、「67歳で死亡した」と確定情報のように紹介するのは正確ではない。

「最期」を知ろうとすると、病床での会話や夫の嘆きを思い描きたくなる。だが、臨終に誰が立ち会い、何を語ったのかを、今回の資料から再現することはできない。結婚生活が長く続いたという事実だけでも、彼女の晩年を知る大切な手がかりになる。

現在、東京都杉並区の観泉寺には、今川氏真夫妻の墓がある。寺院の紹介や観泉寺幼稚園の墓参りの記事でも、夫妻の墓と今川家の供養が伝えられている。早川殿は法名にちなみ、蔵春院、蔵春院殿とも呼ばれる。

墓所が今ある場所と、亡くなった場所や当初の埋葬地は、必ずしも同じではない。観泉寺も、氏真夫妻の死後に今川家との関係を深めた経緯を持つ。晩年の居所と、子孫が整えた供養の場を分けて見ることで、早川殿が生きた時代と、後の人々が彼女を記憶した時代の両方をたどれる。

02
READING

史料の読み解き

名前と本名――早川殿・蔵春院・糸はどう違うのか

早川殿の実名はわかっていない。早川殿という呼び名は、相模の早川に住んだことに由来するとされる。早河殿という表記も用いられ、蔵春院・蔵春院殿は法名にちなむ呼称である。別々の女性が並んでいるのではなく、氏真の妻を異なる手がかりで呼んでいる。

ここで区別したいのは、人物を特定できることと、その人が日常に使った実名まで判明することだ。史料が「氏康の娘」「氏真の妻」と記せば、系譜上の人物は特定できる。しかし、それだけで幼名や本名が明らかになるわけではない。現代の姓と名を組み合わせる感覚で、北条早川という名を作ることもできない。

「糸」は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で、志田未来が演じた早川殿の役名として使われた。観泉寺幼稚園の当時の記事も、糸と早川殿を結びつけて紹介している。これは現代の作品での呼び方を確かめる材料であり、16世紀に本人が糸と名乗った証拠ではない。当時の紹介記事でも、ドラマの人物と墓所の人物が対応づけられている。

同様に、ドラマやゲームでの表情、口調、身体の設定は、その作品の人物造形に属する。検索で見かける「足が悪い」という話を、史実の持病や障害として採用できる根拠は、今回確認した資料にはない。徒歩で逃れたとする説明があることと、平時の身体の状態がわかることも別である。

呼び方何を表すか読むときの注意
早川殿・早河殿早川の居所に由来するとされる呼称生まれたときの名前とは限らない
蔵春院・蔵春院殿法名にちなむ呼称同名の寺院などと区別する
北条氏康の娘・今川氏真の妻出自と婚姻関係による人物の特定実名が判明したことを意味しない
糸『どうする家康』での役名史実の本名としては扱わない

母は誰か――瑞渓院説と、生年・出生順の留保

父が氏康であることに比べ、母や生年の説明は資料によって揺れがある。埼玉県立久喜図書館の調査回答は、黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』の関連頁を挙げ、早川殿を四女として扱う研究を案内している。駿河台大学による同書の紹介も、瑞渓院が早川殿を産んだという説明を採る。

ただし、この二つは別々のサイトに載っていても、共通する研究書に依拠している。同じ説明を掲載するページの数を、そのまま独立した史料の数に置き換えることはできない。母を瑞渓院とする研究があることは示せるが、紹介記事が複数あるという理由だけで、すべての検討が終わったとはしない。

長女と四女の違いも、単なる表記の揺れとは限らない。氏康の娘たちをどの史料から整理し、出生順をどう推定するかという問題が含まれている。「長女だから氏政より年上」「1554年に嫁いだから成人していたはず」といった逆算は、生年を確定する根拠にはならない。

母を瑞渓院とする見方に立てば、早川殿は母方を通じても今川氏の血を引く。そのため、北条から今川へ嫁いだ婚姻は、初めて二家を結んだ縁ではなく、すでにあった親族関係を重ねるものとなる。この関係を説明する場合も、母の同定に関する留保を消さないことが大切だ。

性格は「気が強い」?――行動からわかること、わからないこと

早川殿の性格を、内助の功にすぐれた賢い妻、あるいは気の強い女性と紹介することがある。そうした印象は、氏真が領国を失っても婚姻が続き、北条家を離れた後も夫とともに生きたという経歴から生まれる。困難な時期にも続いた関係に目が向くのは自然なことだ。

しかし、夫と行動をともにした事実だけで、そのつど何を考えていたかまではわからない。本人の愛情、今川家の正室としての立場、生活を維持する必要など、考えられる事情は一つではない。残る行動を説明することと、心の中を一つの言葉で決めることは違う。

また、父の北条氏康が娘の窮状に怒ったという説明から、娘も父と同じ性格だったと推定することはできない。父の外交判断と、娘の日々の判断を混ぜないようにしたい。夫の文化的な活動についても、それをそのまま妻の趣味や才能の証拠にすることはできない。

早川殿自身を知る材料としては、本人に関わる朱印状の存在や、氏真とともに保護を受ける先を変えた経歴がある。前者は社会との関わりを、後者は生活の継続を伝える。詳しい性格を断言するには足りなくても、無名の妻として夫の物語の後ろに隠してしまう必要はない。

容貌についても同じである。本記事の人物画は、指定された参照画像に合わせて制作した想像図であり、歴史上の肖像を再現したものではない。画像の穏やかな表情を温厚さの証拠にしたり、凛とした姿を性格の裏づけにしたりすることはできない。

「北条夫人」は早川殿なのか――武田勝頼の妻と分ける

「北条夫人」という語だけでは、どの人物を指すかを確定できない。とくに武田家の終焉を扱う文脈では、武田勝頼の妻が北条夫人と呼ばれる。山梨県の文化財解説は、天正10年(1582)に勝頼らと最期を迎えた北条夫人と、その墓を紹介している。氏真の妻・早川殿とは別人である。

同じ北条家に由来する女性であっても、夫と没年を確かめれば取り違えを防げる。早川殿の夫は今川氏真で、死去は1613年とされる。勝頼の妻の最期を早川殿の死因として持ち込んではいけない。逆に、氏真夫妻の長い婚姻生活を、勝頼夫妻の経歴として語ることもできない。

確認する点早川殿武田勝頼の妻・北条夫人
夫今川氏真武田勝頼
死去の年1613年とされる1582年
最期の扱い具体的な死因は確認できない勝頼らと自害したと山梨県の解説が伝える
墓所の紹介杉並区の観泉寺に夫妻の墓甲州市の景徳院に墓

武田家の経過は「武田勝頼」の記事でたどれる。早川殿については、北条という出自の語だけで人物を結びつけず、氏真の妻という関係から確かめるのが確実である。山梨県の墓所解説も、勝頼と北条夫人を一緒に扱っている。

生涯の節目と史料の確かさ

早川殿の人生には、年を絞れる出来事と、推定の残る事項がある。婚姻や大名家の戦争は年表に並べやすい一方、誕生日、本名、死因、日常の心情は同じ精度ではわからない。すべてを一つの確かさで語るより、項目ごとに根拠を分けた方が、人物の輪郭は崩れにくい。

事項確認できる内容根拠と留保
出自北条氏康の娘、氏政のきょうだい図書館調査・研究紹介などが一致
母瑞渓院とする研究がある大学の書籍紹介が採用。独立した出生記録の確認とは区別
婚姻1554年に今川氏真へ嫁ぐ年表・研究・婚礼輸送文書の紹介が一致
本人の文書1568年の早川殿朱印状が伝わる島田市博物館の目録で確認。本文全体の翻刻は未確認
戦乱後北条家、のち徳川家の保護を受ける研究者の講演報告と氏真の生涯の解説
死去1613年旧暦2月15日とされる晩年の解説に基づく。具体的な死因は未確認
本名・性格実名や内面の詳細は確定できない現代の役名・人物像と分ける

北条の娘として嫁いだこと、今川の正室として生きたこと、夫とともに領国を失った後を過ごしたこと。早川殿を捉える手がかりは、その間にある。婚礼の荷を運ぶ船への命令、本人に関わる朱印状、夫妻を弔う墓は、それぞれ違う時期から、同じ一人の女性につながっている。

04
EPISODES

早川殿の逸話

  1. 逸話 01

    婚礼を支えた船――1554年の北条家朱印状

    婚姻に伴う海上輸送を題材にした想像図。本人の乗船を示すものではない(AI生成イメージ)
    婚姻に伴う海上輸送を題材にした想像図。本人の乗船を示すものではない · AI生成イメージ

    早川殿の婚姻には、家系図だけでは見えない準備の跡がある。『韮山城跡及び付城跡群総合調査報告書』は、天文23年7月16日付の北条家朱印状を紹介している。伊豆の西浦から清水まで、婚礼に必要な費用や物資を船で運ぶよう命じた文書だ。報告書の114頁で、氏康の娘と氏真の婚姻に関わる輸送として説明されている。

    これは、早川殿本人がどの船に乗ったかを記した旅日記ではない。わかるのは、婚礼のために北条領内の船が動員されたことだ。同盟を支える縁組は、当主たちの取り決めだけで成立したのではなく、港や船方の仕事にも結びついていた。

    花嫁の姿や祝言の席順は、想像だけで細かく描けない。一方で、どこからどこへ荷を運ばせたかという指示は、婚姻の準備を具体的に伝える。伊豆西浦から駿河の清水へという海路に目を向けると、北条と今川の関係が、海を渡る人や物によっても支えられていたことがわかる。

    この文書の発給元は北条家であり、1568年の「早川殿朱印状」とは別の資料である。同じ朱印状という呼び方でも、誰が発給し、何を命じたかは違う。婚姻を準備した家の文書と、本人に関わる文書を分けると、二つの史料がそれぞれ何を伝えるかが明瞭になる。

  2. 逸話 02

    娘の窮状と父の外交――氏康はなぜ上杉と結ぼうとしたのか

    実家とのつながりを象徴する早川殿の想像図。外交交渉への出席や実在の手紙を描いていない(AI生成イメージ)
    実家とのつながりを象徴する早川殿の想像図。外交交渉への出席や実在の手紙を描いていない · AI生成イメージ

    駿河侵攻で娘の早川殿も逃れることになり、北条氏康は武田信玄との対決へ向かった。ただし、父親としての怒りだけで軍事と外交のすべてが決まったと考えると、当時の勢力関係を見落とす。今川領に武田勢が入ることは、北条家の領国の西側が脅かされることでもあった。

    小田原デジタルミュージアムは、永禄12年(1569)3月13日付の氏康書状を公開している。宛先は上杉家の家臣・小中大蔵少輔。氏康が、かつて敵対していた上杉謙信との和睦・同盟に協力を求めた文書である。解説は、武田の駿河侵攻を受け、北条が今川を支援しつつ上杉との交渉を進めたと説明する。

    ここに早川殿本人の発言が書かれているわけではない。しかし、彼女が父の家を頼った時期に、その父がどのような政治状況に置かれていたかを知ることができる。娘を保護する家は、同時に、領国を守るために新たな相手と結び直す家でもあった。

    なお、この3月13日付書状を、娘が徒歩で逃れたことへの怒りを記す文書と同じものとして引用してはいけない。宛先も用件も確かめたうえで、それぞれを読む必要がある。家族の出来事と大名の外交が接していたことは確かでも、一通の手紙にすべての情報が載っているわけではない。

  3. 逸話 03

    観泉寺に残る夫妻の墓――生前の居所とは異なる記憶の場

    後世の供養を表す無人の想像図。観泉寺の建物・墓石の写真や復元ではない(AI生成イメージ)
    後世の供養を表す無人の想像図。観泉寺の建物・墓石の写真や復元ではない · AI生成イメージ

    杉並区の観泉寺には、今川氏真夫妻の墓と、今川一族の供養の跡が残る。杉並区の地域紹介は、夫妻の墓と一族の供養塔を写真付きで紹介している。観泉寺幼稚園も、園児たちの墓参りを通じて、氏真と早川殿の名を伝えている。

    杉並区の寺院解説によれば、寺の前身は慶長2年(1597)に開かれた観音寺である。今川直房が徳川家光から領地を与えられた後、正保2年(1645)に現在の地へ移り、観泉寺と改めた。氏真の墓も萬昌院から移されたと説明される。早川殿が亡くなった1613年より後の整備なのだ。

    したがって、今の境内を見て、夫妻がこの場所で晩年を暮らしたと考えることはできない。寺と今川家の関係には、夫妻の死後に子孫が築いた部分がある。墓は生涯の終点を示すとともに、後の世代がどこで先祖を弔ったかを示すものでもある。

    また、墓と供養塔は、どれも同じ意味の石塔とは限らない。誰の遺骨に関わる墓なのか、後世の追善のための塔なのかは、個々の説明に即して読む必要がある。夫妻の名だけに目を向けるより、一族の供養が続いた場所として捉えると、大名としての領国を失った後の今川家の歴史も見えてくる。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 北条氏康
  • 瑞渓院とする研究あり
本人早川殿(蔵春院)
配偶者今川氏真
子
  • 今川範以など

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 早川殿(今川氏真の正室)に関する図書館の調査回答
    埼玉県立久喜図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-24
  2. 韮山城跡及び付城跡群総合調査報告書 第Ⅳ章(114・118頁など)
    伊豆の国市教育委員会/全国遺跡報告総覧参照日 2026-10-24
  3. 同解説2頁――北条家の保護、早川の呼称と今川範以
    主婦の友社・ゆうゆうtime参照日 2026-10-24
  4. 黒田基樹講演『戦国今川の女性たち』の報告
    徳川みらい学会参照日 2026-10-24
  5. 北条氏康書状(永禄12年3月13日、小中大蔵少輔宛)
    小田原デジタルミュージアム参照日 2026-10-24
  6. 観泉寺(寺院)
    杉並区参照日 2026-10-24
  7. 観泉寺――今川氏真夫妻の墓と今川一族の供養塔
    すぎなみ学倶楽部参照日 2026-10-24
  8. 遺跡トピックスNo.0322――武田勝頼の墓・経石
    山梨県埋蔵文化財センター参照日 2026-10-24

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-24

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

本記事の内容に誤りや改善点がある場合は、 お問い合わせページ よりご連絡ください。確認のうえ、必要に応じて修正します。