寿桂尼の読み方は「じゅけいに」。公家の中御門宣胤の娘で、今川氏親の正室となり、氏親の死後には朱印状を発給して今川家を支えた女性である。没年は1568年、墓は静岡市葵区沓谷の竜雲寺にある。
今川義元の母として知られるが、実母とする従来説に対し、近年は歴史学者の黒田基樹が養母とする説を示している。本名にあたる実名は、今回確認した史料では特定できない。寿桂尼という呼称、子供の数、武田信玄との関係を考える際には、確かな記録と研究上の推定を分けて見る必要がある。
その生涯を伝えるのは、勇ましい合戦譚だけではない。皮革職人への命令、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぐ当主との関係、家の運営に携わった記録が残る。この記事では7つの時期をたどり、その後の「読み解き」で、よく検索される人物関係と評価の根拠を整理する。
公家の娘から、駿河の今川家へ

寿桂尼は、京都の公家・中御門宣胤の娘として生まれた。後に駿河の大名今川氏親の正室となる女性である。ただし、出生時の実名や誕生日まで明らかになっているわけではない。よく知られた「寿桂尼」という名も、生まれたときからの名前として扱うことはできない。
生年をめぐっては資料の書き方が分かれる。『日本大百科全書』の項目は生年を不詳とし、歴史学者の黒田基樹は1486年頃と推定する。後者を採れば15世紀末の京都で育ったことになるが、「1486年生まれ」と確定した数字に置き換えるのは早い。本記事でも生年は不詳とし、推定には「頃」を添える。
婚姻した相手の氏親は、今川家の継承争いを経て当主となった人物だった。氏親の母は北川殿、その兄弟が北条早雲として知られる伊勢盛時である。静岡市の歴史解説は、早雲が氏親の家督継承を助けた経緯を紹介する。寿桂尼が嫁いだ家には、母方の親族によって継承を支えられた前史があった。
ここで人物を取り違えないようにしたい。早雲につながるのは、まず夫の氏親と、その母の北川殿である。寿桂尼の父を早雲とする関係ではない。中御門家に生まれた寿桂尼と伊勢氏出身の北川殿は、同じ今川家に関わった別の女性だった。
公家の娘が地方の大名家に入ったという出自は、その後の人生を考える手がかりになる。けれども、出自だけで政治の才覚を説明することはできない。寿桂尼が何を担ったのかは、婚姻後に残した文書や、当主が交代する時期の記録から追っていく必要がある。
氏親の正室となり、次の世代を迎える

寿桂尼と氏親の婚姻について、黒田基樹は1505年頃とする見通しを示している。生年を1486年頃と考える同研究では、婚姻時は20歳前後となる。ただし、二つの推定を組み合わせた年齢である。正確な婚礼の日や、その日に交わした言葉まで伝わっているわけではない。
子供としてまず押さえたいのが、氏親の跡を継いだ今川氏輝である。氏親が1526年に没すると、氏輝は若い当主として家を引き継いだ。その時期に寿桂尼の政治活動が文書から見えるようになる。母子の関係は、系図に名前が並ぶだけでなく、家の継承と実務の問題につながっていた。
一方、子供の人数と生母の認定は、慎重に読む必要がある。黒田は自著についての解説で、寿桂尼が氏親との間に二男三女をもうけたと述べる。ただし、一般向けの系図や従来の人物事典と、近年の研究による家族関係の整理は一致しないことがある。氏親の子を、そのまますべて寿桂尼の実子として数えてはいけない。
最もよく知られる今川義元についても、この違いがある。従来は寿桂尼が実母であると説明されてきた。これに対して黒田は、義元を養子として迎えた母とする説を提示している。義元が今川家を継ぐときの寿桂尼の立場を、血縁だけに限らず、家の継承を支える関係から考える見方である。
本記事では「義元の母」という広い表現を用いながら、実母という従来説と養母説を併記する。子供の一覧を一つに決めるために、資料の違いを消すことはしない。何人を産んだのかという問いと、誰を次の当主として支えたのかという問いは、分けて追う方が寿桂尼の役割を捉えやすい。
「帰」の朱印が示す、当主を代行した仕事

大永6年(1526)、夫の氏親が亡くなった。家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。は氏輝へ移る。しかし、家督を継いだという事実だけで、領国を治めるすべての仕事が一度に新当主へ移るわけではなかった。寿桂尼はこの交代期に文書を発給し、今川家の支配を支えた。
その働きを具体的に伝えるのが、享禄元年(1528)の朱印状である。静岡市歴史博物館の資料解説によれば、宛先は皮革職人の彦八。氏親の時代と同じように権利を認める一方、革製品を納めることを命じた文書だった。
何かを認め、何かを命じる。その文書に寿桂尼の印が据えられている。大名家を支えたという言葉を、ここでは具体的な行為として確かめられる。職人の権利と、家へ納める品物の扱いは、当主の交代後も続けなければならない仕事だった。
印には「帰」、旧字体では「歸」の字が使われた。国立歴史民俗博物館はこの字を「とつぐ」と説明し、文頭に朱印が据えられる点にも触れている。名高い武将の花押だけを追っていると見落としやすいが、女性の立場で発給された文書も、支配の仕組みを知る資料になる。
黒田の研究では、寿桂尼は1526年から1534年まで、断続的に当主の役割を代行したとされる。ずっと氏輝を押しのけていたという意味ではない。氏輝自身の文書と寿桂尼の文書を時期ごとに検討し、代行の期間を考えているのである。
また、寿桂尼の文書には、自身の所領の管理に関わるものもある。家全体を代表する仕事と、自分の権利に基づく仕事。この二つを区別すると、「女戦国大名」という印象的な呼び名の内側に、より具体的な権限と役割が見えてくる。
花蔵の乱と義元――書状が残した複雑な手がかり

天文5年(1536)、氏輝が没し、今川家は再び当主を失った。後継者をめぐって義元と玄広恵探が争ったのが、花蔵の乱、または花倉の乱と呼ばれる内乱である。争いに勝った義元が家を継いだが、その過程を単純な母子の物語だけで説明するのは難しい。
寿桂尼の関与を考える材料の一つに、岡部親綱に宛てた義元の感状がある。藤枝市郷土博物館の「岡部家古文書」解説は、天文5年11月3日の感状と、後から書き加えられた追而書を紹介する。そこには寿桂尼が持参した注書をめぐる経緯が記されているという。
この注書は花蔵方に関わるもので、一度奪われ、親綱によって取り返されたと解される。では寿桂尼はどちらを支持していたのか。博物館の解説は、恵探支持の可能性、調停案の提示、偽装工作とする複数の見方を紹介し、義元側の行動と解するのが主流だと説明している。文書は重要な手がかりだが、事情を一から十まで説明してくれるわけではない。
そのため、「寿桂尼が一人で策を練り、義元を勝たせた」とまで物語を完成させることはできない。誰の側に立ったかという問題と、どんな計画を立てたかという問題にも距離がある。後世の軍師のような姿を、そのまま本人の行動へ重ねない方がよい。
黒田の養母説は、この家督継承を考える際にも関わってくる。同説では、寿桂尼は義元を養子として受け入れ、家を継ぐ者の母となったと捉えられる。実母説と養母説では血縁の説明が変わるが、義元の継承と寿桂尼の存在を切り離して考えられない点は残る。
氏輝の時代に文書を発給した女性は、次の当主が立つ局面にも現れる。寿桂尼の活動は、当主の交代を越えて続いていた。家の継承をたどると、その長い関わりが見えてくる。
領国政治と、家の内側を動かす役割

義元の時代、今川家は武田家との婚姻を結び、北条家との対立や和睦を経て勢力を広げた。後に甲斐・相模・駿河の三家が結ぶ同盟も、この地域の政治を考える大きな節目となる。寿桂尼は、今川家が成長していく年月を生きた。
ただし、そのすべてを寿桂尼の政治的手腕へ帰すことはできない。当主の義元、外交や軍事を担う家臣、婚姻によって結ばれる相手の家が、それぞれの立場で動いている。寿桂尼本人の活動を知るには、今川家全体の成果と切り分け、本人に結びつく記録を読む必要がある。
黒田は、こうした時代の大名家の女性を考える言葉として「家妻」を用いる。家の内側の運営を担う立場を指す研究上の説明であり、単に当主の配偶者という意味だけではない。食事の用意に関わる差配や来客の接遇も、大勢が出入りする家を維持する仕事として捉えられる。
静岡商工会議所が掲載する黒田の講演記録では、その役割が義元の妻・定恵院に移り、定恵院の死後に寿桂尼が再び担ったという変化が説明されている。その後は氏真の妻である早川殿が役割を引き継ぐとされる。世代や家の事情に応じて、役割を担う女性が交代していくのである。
家の内側の仕事というと、政治とは遠い日常のようにも聞こえる。しかし、大名の家へ客を迎え、人を養い、儀礼や生活を続けるには、物資と人の手配が必要になる。どの行為を誰が担ったのかを確かめることは、戦国の権力を理解する一つの道筋になる。
寿桂尼が自ら料理をした、外交の席ですべての交渉を決めた、といった細部まではわからない。それでも、当主代行の時期だけに注目すると見えなくなる仕事がある。長い生涯の中で役割がどう変わったかを見ることで、彼女の活動をより広く捉えられる。
義元を失った今川家で、生涯の終わりを迎える

永禄3年(1560)、義元は桶狭間の戦いで命を落とした。今川家を代表して軍を率いた当主の死は、大きな打撃だった。寿桂尼は、夫の氏親、氏輝に続いて、義元にも先立たれたことになる。
ただし、桶狭間の敗戦によって今川家の領国がその日に消えたわけではない。今川氏真のもとで支配は続き、家は地域の変化に向き合った。義元の最期から寿桂尼の死までには8年の隔たりがある。生涯を描くうえでも、この時間を飛ばしてしまうと、晩年の寿桂尼がいた社会を見失う。
氏真は義元の子である。寿桂尼を義元の実母と考える従来の説明では、氏真は孫にあたる。一方、養母説に立つ場合、血のつながりを同じように言い切ることはできない。本記事では氏真を「義元の子」と記し、系譜上の説明と実際の血縁を混同しない。
寿桂尼についても、義元の死後に国政を全面的に引き受けたと一括して説明するより、役割の変化を踏まえた方がよい。黒田はすでに1558年頃の家内の役割交代を論じている。高齢の寿桂尼が生きていたことと、あらゆる政策の決定者であったことは、別の事柄だからだ。
その一方で、彼女の存在を家の外へ完全に切り離すこともできない。夫の時代から続く記憶、当主の継承に立ち会った経験、今川家の中での立場があった。そうした背景を踏まえながらも、本人の具体的な判断は文書で確かめられる範囲にとどめたい。
寿桂尼が没したのは1568年。駿河をめぐる情勢が大きく変わる年だった。晩年の彼女を知る際には、その死と、その後に起きた武田氏の侵攻を時系列に沿って分けて見ることが重要になる。
1568年の死去――竜雲寺に残る墓と印判の記憶

寿桂尼は永禄11年(1568)旧暦3月14日に没したとされる。生年を1486年頃とする推定からは80代という見通しが得られるが、生年が確定していない以上、享年も確定値として掲げない。具体的な死因についても、今回確認した資料からは特定できなかった。
墓があるのは、静岡市葵区沓谷の竜雲寺である。龍雲寺とも表記され、静岡市の案内では住所を沓谷3丁目10番1号としている。墓所は市の史跡に指定されている。市の「今川氏ゆかりの地を訪ねて」は、境内の奥に墓所があることを紹介している。
同じ案内には、本堂の前に「歸」の印判を刻んだ石碑があることも記される。寿桂尼を訪ねる場所には、死後の供養だけでなく、生前の活動を象徴する印も残されている。文書の中で見た一文字が、現地で人物を伝える印になっているのである。
墓所には、今川館の鬼門を守るためにこの地へ葬るよう望んだという伝承もある。地域団体のやつやま友の会は、龍雲寺の紹介にその話を載せている。ただし、遺言の同時代史料や伝承の初出を今回確かめられたわけではない。実際にその言葉を述べた場面として再現せず、地域で語り継がれる話として受け止めたい。
寿桂尼の死から約9か月後、武田信玄が駿河へ侵攻し、氏真は駿府を離れた。この順序は、後世の「彼女が今川を守っていた」という人物像とも結びつきやすい。しかし、死去と侵攻が同じ年であることは、信玄が彼女を恐れて待っていた証明にはならない。
墓を通して振り返るなら、寿桂尼が残したものは強い女性という印象だけではない。氏親の死後に出した命令、次の当主を迎える家との関係、長い年月の中で変わる役割がある。現地の記憶と文書の記録を行き来することで、その生涯は少しずつ具体的になる。
史料の読み解き
寿桂尼の読み方と本名――法名・呼称を分ける
「寿桂尼」は「じゅけいに」と読む。「寿桂」は法名に由来し、「尼」は出家した女性を示す呼び方である。出生時の実名を答えるものではない。大方殿や尼御台も、本人を示す呼称として資料に見えるが、現在の戸籍名のような感覚で一つを本名と決めることはできない。
呼称と時期の問題もある。氏親の死後に家を支えた女性を、本記事では通して寿桂尼と呼んでいる。しかし、説明上の便宜と、各時点で実際に出家していたかどうかは別である。夫が没した1526年にただちに出家したと断定せず、若い頃から尼姿だったとも考えない。
本名が不明だからといって、その人物の活動まで不明になるわけではない。朱印状や日記に残る呼称を手がかりに、同じ人物に関わる記録を照合できる。名前の空白を創作で埋めるより、残された文書から役割を確かめる方が、寿桂尼を知る助けになる。
子供は誰か――今川義元の実母説と養母説
寿桂尼の子供を調べるとき、まず今川氏輝の母であったことと、義元の母についての議論を分ける必要がある。『日本大百科全書』などの従来の説明は義元を実子とする。一方、黒田基樹は氏親との子供を二男三女と整理し、義元との関係を養母子関係として捉える。
| 関係者 | 本記事での扱い | 読む際の注意 |
|---|---|---|
| 今川氏親 | 夫 | 子供の父が氏親であることだけで、生母を寿桂尼に決めない |
| 今川氏輝 | 実子 | 氏親の死後に家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぎ、寿桂尼の文書発給と関わる |
| 今川義元 | 母子関係。実母という従来説と養母説を併記 | 「義元の母」という表現だけでは実母・養母の区別がつかない |
| 今川氏真 | 義元の子 | 義元の生母の認定に関わるため、寿桂尼の実孫と一括して固定しない |
養母説は、研究者による史料の再検討から提示されている。ただし、紹介記事を一つ読んだだけで全研究者の見解が一致したとするのも適切ではない。2025年の黒田の講演をまとめた記事と、従来の辞典の説明を並べ、どの立場に基づく記述かを明らかにしておく。
また、二男三女という人数だけから、娘たちの名前や婚姻先をすべて確定することはできない。家系図には、別の研究に基づく情報が混ざりやすい。ここでは子供の一覧を無理に完成させず、本人の活動と家督継承に関わる人々を中心に紹介した。
武田信玄は寿桂尼を恐れていたのか
寿桂尼と武田信玄の関係は、今川・武田両家の外交と、1568年の出来事から整理するとわかりやすい。今川義元は武田家と婚姻を結び、後には北条家を含む三家の同盟が成立した。両家は初めから最後まで敵同士だったわけではない。
寿桂尼は1568年3月に没し、信玄の駿河侵攻は同年末に起きた。静岡市の史跡案内も、この約9か月の隔たりを示している。確認できるのは、彼女の死が侵攻に先立ったという順序である。
ここから「信玄は寿桂尼が生きている間は怖くて攻められなかった」と言い切るには、信玄の判断を示す書状など、別の根拠がいる。今回確認した資料では、その恐怖を直接裏付ける発言や文書を確認できなかった。死去の時期と侵攻の時期が近いことを、動機の証拠に置き換えないようにしたい。
三国間の外交を、寿桂尼と信玄の個人的な力比べだけにすると、当主や家臣、婚姻関係、地域の情勢が見えなくなる。寿桂尼の存在を評価することと、すべての戦争の抑止力を一人に求めることは分けられる。彼女の確かな活動は、侵攻を止めたという未確認の逸話がなくても、朱印状からたどれる。
北条早雲との関係――北川殿と寿桂尼の混同を避ける
北条早雲は寿桂尼の父ではない。寿桂尼の夫である氏親の母・北川殿と、早雲がきょうだいの関係にあたる。氏親から見れば、早雲は母方のおじとなる。寿桂尼とのつながりは、まず婚姻によって入った今川家を通じたものである。
静岡市の徳願寺の紹介は、北川殿が息子の家督争いで兄弟の早雲の助けを得たことを伝える。北川殿が氏親を支えた時期と、寿桂尼が氏輝の時代に文書を出した時期は異なる。「当主の母が家を支えた」という共通点があっても、二人の事績を一人分にまとめてはいけない。
早雲と寿桂尼がどんな会話を交わしたか、直接政治を教えたかといった話は、今回の確認資料からは導けない。親族のつながりを示すことと、本人同士の交流を証明することにも違いがある。
寿桂尼の評価――「女戦国大名」を文書から考える
寿桂尼が高く評価される理由の一つは、自らの名義と印を持つ文書を発給した点にある。静岡市の解説が用いる「女戦国大名」は、その政治的な存在感を伝える表現だ。ただし、当時その名の官職へ就いたという意味ではない。
評価の根拠は、少なくとも三つに分けて考えられる。第一に、当主が交代する時期に支配の仕事を続けたこと。第二に、自分の所領や権利に関わる文書があること。第三に、家の内側の運営を担う女性の役割を考える材料が残ることだ。
これらは同じ権力を言い換えたものではない。当主の代理として出す命令と、自身の権利に基づく命令では、行為の根拠が違う。また、家の運営を担うことを、軍事や外交の最終決定をすべて下すことと同一視することもできない。
黒田が文書を分類して役割の変化を論じるのは、こうした違いを確かめるためである。長寿だったことから、氏親・氏輝・義元・氏真の時代を一続きに「すべて支配した」とまとめると、本人の仕事が変化したことを取りこぼす。
寿桂尼の評価は、誰より強かったかという順位で表すより、どの時期に、誰に対して、どんな行為ができたのかを考える方が具体的になる。皮革職人への一通の文書は、その問いへ答える確かな出発点である。
寿桂尼の墓はどこにあるか
墓所は静岡市葵区沓谷3丁目10番1号の竜雲寺にある。市の公式案内で寺名を探す場合は「竜雲寺」、地域の案内では「龍雲寺」という表記も見られる。同じ墓所の案内であることを、所在地と合わせて確かめるとよい。
| 確認項目 | 内容 |
|---|---|
| 寺院 | 竜雲寺(龍雲寺) |
| 所在地 | 静岡県静岡市葵区沓谷3丁目10番1号 |
| 墓所 | 境内の奥。静岡市指定史跡 |
| 関連する記念物 | 本堂前の「歸」の印判を刻んだ石碑 |
| 案内の根拠 | 静岡市「今川氏ゆかりの地を訪ねて」第7項 |
ここでは墓の所在地を示すにとどめ、未確認の拝観時間や駐車条件は掲載しない。また、本記事の寺院を背景にした人物画は想像図であり、現地の建物や墓石を示す写真ではない。
「鬼門を守るための遺言」は、地域に残る寿桂尼像を知る話として読める。一方、墓が現在そこにあることは、市の文化財案内で確認できる事実である。伝承の内容と、所在地や指定の情報は、別々の確かさを持っている。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・留保 |
|---|---|---|
| 中御門宣胤の娘で氏親の正室 | 高 | 人物辞典・研究者の解説・市の歴史解説で照合 |
| 1528年に皮革職人へ朱印状を発給 | 高 | 静岡市歴史博物館・国立歴史民俗博物館が同じ文書を解説 |
| 生年は1486年頃、婚姻は1505年頃 | 中 | 黒田基樹による推定。確定年として表示しない |
| 義元の養母だった | 中 | 黒田の研究による説。従来の実母説と併記 |
| 花蔵の乱での行動の詳しい意図 | 留保 | 注書に関する複数の解釈があり、動機を断定しない |
| 信玄が寿桂尼を恐れて侵攻を控えた | 未確認 | 死去と侵攻の順序だけでは因果関係を証明できない |
| 1568年没、竜雲寺に墓所 | 高 | 辞典と静岡市の公式案内。日付は旧暦 |
| 鬼門を守るために葬るよう遺言した | 伝承 | 地域の紹介にあるが、同時代の遺言史料と初出は未確認 |
寿桂尼の逸話
- 逸話 01
小さな印が伝える、皮革職人との関係

印を手にする寿桂尼の想像図。印面・形状・紙は歴史資料の再現ではない · AI生成イメージ 寿桂尼の活動を知る入口には、合戦の大きな物語より、一通の朱印状が向いている。1528年の彦八宛文書には、職人の権利を認め、革製品を納めさせるという具体的な関係が残る。品物を作り納める側の人も、寿桂尼の命令を受け取っていた。
国立歴史民俗博物館の展示解説は、この文書を享禄元年10月18日付とし、文頭に「帰」の朱印が据えられることを紹介している。静岡市歴史博物館の解説と合わせると、日付と形式だけでなく、誰に何を命じたのかも確かめられる。
ただし、印が寿桂尼のものであることと、本文をすべて本人が筆で書いたことは同じではない。発給者として責任を負う人と、実際に文字を書く人が異なる場合がある。朱印状を「寿桂尼の直筆の手紙」と紹介するには、筆跡について別の検証が必要になる。
紙の上に残るのは、命令が相手へ届くための形式でもある。印の図案だけを珍しがるより、権利を保証することと納入を求めることが対になっている点を見ると、寿桂尼が担った仕事を身近に捉えられる。
- 逸話 02
「大方殿」は本名ではない

書物に向き合う寿桂尼の想像図。『言継卿記』を本人が読む場面ではない · AI生成イメージ 寿桂尼を調べると、「大方殿」や「尼御台」という別の呼び方にも出会う。ここから別の人物を想像したり、どれかを出生時の本名と考えたりすると、記録を読み違えやすい。家の中での立場を表す呼称と、実名や法名は区別しておきたい。
『日本大百科全書』の寿桂尼の項目は、弘治2年(1556)の『言継卿記』に「大方」と見えることを紹介する。本記事では日記の原本を直接読んだという扱いにはせず、辞典の説明に基づく情報として示す。
大方という呼称は寿桂尼だけが使う固有名ではない。そのため、史料にその二文字があるだけで、どの時代のどの家でも同じ女性だと判断することはできない。書かれた日付、訪ねた家、周囲の人名と合わせて人物を確かめる必要がある。
後世の私たちは寿桂尼という一つの名前で生涯をたどる。しかし、同時代の人々が常に同じ名で呼んだとは限らない。呼び名の違いを知ることは、彼女が妻、母、家の年長者としてどう認識されていたかを考える入口にもなる。
- 逸話 03
怖い母、名軍師という印象をどう読むか

考えに沈む寿桂尼の想像図。実際の性格・感情・発言を示す肖像ではない · AI生成イメージ 長く生き、当主の交代にも関わった寿桂尼は、物語では厳しい母や、家中を見通す知恵者として描きやすい人物である。だが、威厳のある肖像や芝居の台詞から、本人の性格をそのまま確定することはできない。本記事の人物画像も、史料に残された容貌ではなく想像図である。
判断の根拠にできるのは、文書を出したこと、どんな権利や義務を扱ったか、継承の局面にどのような記録があるか、といった行動である。そこから実務に関わった人物だと評価することはできても、日常の口調や家族への感情まで再現できるわけではない。
また、家督争いの結果を知っている読者には、勝った側が初めからすべてを計画していたように見えることがある。花蔵の乱に関する注書の解釈が分かれるのは、残った史料から見える範囲に限りがあるためでもある。
伝承や創作を楽しむことと、それを史実の証明に使うことは別である。寿桂尼を評価するときは、迫力ある人物像に加え、地道な支配や家の運営に関わった足跡へ目を向けたい。
関連人物
- 中御門宣胤
- 今川氏輝など
- 今川義元(実母という従来説・養母説あり)
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 駿府の今川氏静岡市参照日 2026-10-24
- 寿桂尼(日本大百科全書ほか)小学館ほか/コトバンク参照日 2026-10-24
- 黒田基樹:戦国時代における大名家の女性の在り方を探る、新たな試み好書好日・じんぶん堂/平凡社参照日 2026-10-24
- Sing2025年3月号②・黒田基樹講演「戦国今川の女性たち」静岡商工会議所参照日 2026-10-24
- 寿桂尼朱印状(享禄元年・駿府皮革職人関係文書)静岡市歴史博物館参照日 2026-10-24
- 企画展示「性差(ジェンダー)の日本史」開催のご案内国立歴史民俗博物館参照日 2026-10-24
- 岡部家古文書藤枝市郷土博物館参照日 2026-10-24
- 今川氏ゆかりの地を訪ねて静岡市参照日 2026-10-24
- 中世〜鎌倉・南北朝・室町・戦国〜静岡市参照日 2026-10-24
- 谷津山の史跡・洞谷山龍雲寺やつやま友の会参照日 2026-10-24








