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戦国〜安土桃山時代佐久間氏15281581
佐久間信盛|織田家の古参重臣と十九ヶ条の折檻状の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
織田家宿老石山本願寺十九ヶ条の折檻状
さくま のぶもり

佐久間信盛|織田家の古参重臣と十九ヶ条の折檻状

SAKUMA NOBUMORI · 1528 — 1581 · 享年 54

織田家の宿老として大坂方面を任され、古参の重臣として重んじられた佐久間信盛は、天正八年(1580年)、十九ヶ条にわたる信長の折檻状を突きつけられて高野山へ追放された。「退き佐久間」と讃えられた撤退戦の巧者という後世の評価と、譴責状で示された「功が乏しい」とする信長側の論理——その落差にこそ、譜代の古参にも成果を問う信長政権の一面がうかがえる。

佐久間
生年
享禄元年頃
1528
没年
天正9年
1581
出身
尾張国
愛知郡御器所
拠点
永原城
近江・野洲方面
家紋
丸に三つ引両(伝)
MARU NI MITSU HIKIRYŌ

佐久間信盛

佐久間信盛は、織田家の古参重臣として石山本願寺攻めの大坂方面を任され、後世に「退き佐久間」とも讃えられながら、十九ヶ条の折檻状で高野山へ追放され、流浪の末に失意のうちに没した宿老である。

尾張御器所の佐久間氏に連なる信盛は、桶狭間後の美濃・近江・畿内で信長軍の中核部将として働いた。三方ヶ原では徳川家康への援軍として武田信玄の精鋭に敗れ、石山本願寺攻めでは大坂方面の主担当として最前線に在陣した。栄達の頂点と追放の屈辱が、これほど近い距離で並ぶ武将は多くない。

死因を短く言えば、天正八年(1580年)の折檻状で追放された後、高野山へ向かい、紀伊熊野・十津川方面を流浪して、天正九年(1581年)に病没したと伝わる、という整理になる。なぜ追放されたのかと問えば、直接には信長が信盛・信栄父子へ突きつけた十九ヶ条の折檻状による処分である。

ただし、信盛を「有能か無能か」の一語で片づけると、織田家譜代の重臣としての実績も、後世の異名も、信長側の処分理由も混ざってしまう。佐久間信盛は、古参宿老の栄達と没落を通じて、譜代にも成果を問う信長政権の厳しさを体現した人物である。 その落差を、ここから確度ごとに分けて読む。

01御器所佐久間氏と織田譜代ORIGIN

尾張御器所の佐久間氏——織田家譜代としての出発

御器所佐久間氏に生まれた信盛
御器所佐久間氏に生まれた信盛

享禄元年(1528年)頃、佐久間信盛は尾張国愛知郡の御器所周辺を本拠とする佐久間氏に生まれた。織田家に古くから仕えた被官の一族であり、信盛の前には、尾張の政権を内側から支える道が開いていた。

信盛は新参の出頭人ではない。信長がまだ尾張の覇権を固めていく時期から、織田家の傘下で働き、譜代の古参として家中の厚い層に入っていく。若い主君が勢力を伸ばすほど、古くからの家臣に求められる仕事は増えた。

御器所の佐久間氏という足場は、後の栄達にも、突然の転落にも影を落とす。信盛は信長政権の中心に近づき、やがて宿老級の重臣として扱われる。長く仕えたことは、名誉であると同時に、最後には厳しく成果を問われる重さにもなった。

ここから信盛の歩みは、尾張の一被官の家から、織田政権の中枢へ伸びていく。佐久間信盛の出発点は、尾張御器所に根を張る織田家譜代の古参という重い立場である。

撤退戦の巧者という像

「退き佐久間」「殿軍の名手」は後世の評価語——同時代史料で確実に確認するのは難しい

—— 異名の初出は近世の軍記・編纂物に求められ、『信長公記』に確たる根拠を見出すのは難しい
02桶狭間から美濃・上洛戦へODA

信長軍の中核部将——美濃攻略と畿内支配

美濃・畿内に転戦する織田の宿老
美濃・畿内に転戦する織田の宿老

永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いを越えると、信長の軍は尾張から美濃へ、さらに近江と畿内へ伸びていく。信盛はその流れの中で、古参の部将として従軍を重ねた。

美濃攻略、近江の六角氏攻め、永禄十一年(1568年)の上洛戦。戦場が広がるたびに、信盛は先手、攻城、在地支配の現場へ立つ。信長軍の中核部将として、攻めるだけでなく、取った土地を織田の秩序へ組み込む仕事にも関わった。

畿内へ入った信長政権では、前線の武将に求められるものも変わる。城を落とし、道を開き、国衆を押さえ、主君の命を遠い土地へ届かせる。信盛の強みは、派手な一騎打ちではなく、拡大する織田軍の中で任務を受け続けた持続力にあった。

尾張の古参は、信長の支配が広がるほど重い場所へ置かれていく。桶狭間後の佐久間信盛は、美濃・近江・畿内を動く織田軍の実務を担った宿老である。

天正8年の譴責状

十九ヶ条の折檻状は信長の「処分理由書」——一条ずつを客観的事実として鵜呑みにしない

—— 『信長公記』所収。信長側の論理として読み解き、信盛無能論に短絡しない
03三方ヶ原の援軍と退却MIKATAGAHARA

三方ヶ原の戦い——援軍派遣と後の譴責

三方ヶ原から退く援軍の将
三方ヶ原から退く援軍の将

元亀三年(1572年)十二月、武田信玄が西へ動き、徳川家康の領国へ圧力をかけた。信長は徳川方へ援軍を送り、信盛もその一員として三方ヶ原の戦場へ向かった。

相手は武田信玄の精鋭である。織田・徳川連合軍はこの戦いで大敗し、戦場は一気に崩れた。織田方では平手汎秀が討死し、信盛は敗戦の中から退却して生き延びた。援軍としての参戦は、信盛の経歴に深い影を落とすことになる。

退却は、戦国の戦場ではしばしば生死を分ける。押し返せない時、兵をまとめて引くこともまた、武将に課せられた重い仕事だった。三方ヶ原の信盛を、勝者の場面として飾ることはできない。だが、敗戦の中で生き延びた事実を、軽い断罪に変えることもできない。

この敗戦の記憶は、後年の処分で重くのしかかる。三方ヶ原は、佐久間信盛が徳川援軍として武田信玄の圧力にさらされ、敗北と生還を同時に背負った戦場である。

栄達からの転落

譜代の古参であっても成果を問われた——信盛の失脚は信長政権の一面を示す

—— 本願寺講和後の家臣団再編・重臣淘汰という文脈のなかで理解する必要がある
04石山本願寺攻めの大坂方面ISHIYAMA

石山本願寺攻め——大坂方面の主担当として

大坂方面の最前線に在陣する信盛
大坂方面の最前線に在陣する信盛

信長と石山本願寺の対立は、織田政権にとって長く重い戦いだった。天正四年(1576年)の天王寺合戦で原田(塙)直政が討死すると、大坂方面の前線は佐久間信盛・信栄父子へ大きく傾く。

信盛は大坂方面の主担当として、石山本願寺をめぐる最前線に在陣した。天正八年(1580年)に本願寺が大坂を退去するまで、戦いは長く続く。兵を置き、道を押さえ、相手の動きを見続ける日々である。華やかな勝利よりも、持久と監視の重さがそこにあった。

大坂方面を任されることは、信長の信任の大きさを示す配置でもある。織田政権の敵対勢力の中でも、石山本願寺は容易に崩れない相手だった。信盛はこの時、古参宿老として到達しうる頂点の一つに立っていた。

だが頂点は、同時に危うい場所でもあった。長い在陣の成果は、戦いが終わった時に厳しく見返される。石山本願寺攻めの大坂方面は、佐久間信盛の栄達の頂点であり、後の転落へつながる最前線でもあった。

05十九ヶ条の折檻状と追放ORIGAMI

十九ヶ条の折檻状——栄達からの転落

折檻状を前にする信盛
折檻状を前にする信盛

天正八年(1580年)、本願寺が大坂を退去し、石山をめぐる長い戦いが一段落した。その直後、信長は信盛・信栄父子へ、十九ヶ条にわたる折檻状を突きつけた。

文面には、大坂方面での長い在陣、嫡子・信栄の振る舞い、家臣の召し抱え、蓄財、過去の不手際までが並んだ。長く中枢にいた宿老へ向けられた言葉として、その重さはあまりに大きい。信盛の栄達は、この一通で反転した。

父子は織田家から追放される。昨日まで大坂方面を任されていた古参が、突然、家中の外へ出されるのである。ここで描くべきなのは、勝者の裁きの派手さではなく、長年仕えた宿老が政権の中心から切り離される瞬間の重さである。

譜代の古参であっても、成果と統率を問われる。信盛の失脚は、信長政権の厳しい一面を静かに示した。十九ヶ条の折檻状は、佐久間信盛を栄達の頂点から追放へ落とした決定的な事件である。

06高野山追放と晩年LATE

高野山への追放と流浪の晩年——そして信栄

高野山に向かう晩年の信盛
高野山に向かう晩年の信盛

追放された信盛は、高野山へ身を寄せた。織田家の中枢で長く働いた宿老が、政権の中心から遠い霊場へ向かう。石山本願寺の前線にいた時間とは、まるで別の静けさがそこにある。

その後、信盛は紀伊熊野・十津川の方面を流浪し、天正九年(1581年)に世を去った。華やかな討死ではない。勝者の陣中で名を上げる最期でもない。追放後の孤独な晩年が、信盛の物語を閉じていく。

嫡子・信栄も父に連座して追放されたが、佐久間家の名はそこで途切れなかった。後の赦免と出仕の流れは、追放の重さと家の存続を同時に示している。信盛の死は、敗者を笑う場面ではなく、長く政権を支えた古参が静かに押し出された末のコーダである。

尾張御器所から織田家中枢へ、大坂方面の頂点から高野山へ。佐久間信盛の晩年は、信長政権の拡大を支えた宿老が、その厳しさを一身に受けて消えていく物語である。