
佐久間信盛|織田家の古参重臣と十九ヶ条の折檻状
「織田家の宿老として大坂方面を任され、古参の重臣として重んじられた佐久間信盛は、天正八年(1580年)、十九ヶ条にわたる信長の折檻状を突きつけられて高野山へ追放された。「退き佐久間」と讃えられた撤退戦の巧者という後世の評価と、譴責状で示された「功が乏しい」とする信長側の論理——その落差にこそ、譜代の古参にも成果を問う信長政権の一面がうかがえる。」
佐久間信盛
佐久間信盛は、織田家の古参重臣として石山本願寺攻めの大坂方面を任され、後世に「退き佐久間」とも讃えられながら、十九ヶ条の折檻状で高野山へ追放され、流浪の末に失意のうちに没した宿老である。
尾張御器所の佐久間氏に連なる信盛は、桶狭間後の美濃・近江・畿内で信長軍の中核部将として働いた。三方ヶ原では徳川家康への援軍として武田信玄の精鋭に敗れ、石山本願寺攻めでは大坂方面の主担当として最前線に在陣した。栄達の頂点と追放の屈辱が、これほど近い距離で並ぶ武将は多くない。
死因を短く言えば、天正八年(1580年)の折檻状で追放された後、高野山へ向かい、紀伊熊野・十津川方面を流浪して、天正九年(1581年)に病没したと伝わる、という整理になる。なぜ追放されたのかと問えば、直接には信長が信盛・信栄父子へ突きつけた十九ヶ条の折檻状による処分である。
ただし、信盛を「有能か無能か」の一語で片づけると、織田家譜代の重臣としての実績も、後世の異名も、信長側の処分理由も混ざってしまう。佐久間信盛は、古参宿老の栄達と没落を通じて、譜代にも成果を問う信長政権の厳しさを体現した人物である。 その落差を、ここから確度ごとに分けて読む。
尾張御器所の佐久間氏——織田家譜代としての出発

享禄元年(1528年)頃、佐久間信盛は尾張国愛知郡の御器所周辺を本拠とする佐久間氏に生まれた。織田家に古くから仕えた被官の一族であり、信盛の前には、尾張の政権を内側から支える道が開いていた。
信盛は新参の出頭人ではない。信長がまだ尾張の覇権を固めていく時期から、織田家の傘下で働き、譜代の古参として家中の厚い層に入っていく。若い主君が勢力を伸ばすほど、古くからの家臣に求められる仕事は増えた。
御器所の佐久間氏という足場は、後の栄達にも、突然の転落にも影を落とす。信盛は信長政権の中心に近づき、やがて宿老級の重臣として扱われる。長く仕えたことは、名誉であると同時に、最後には厳しく成果を問われる重さにもなった。
ここから信盛の歩みは、尾張の一被官の家から、織田政権の中枢へ伸びていく。佐久間信盛の出発点は、尾張御器所に根を張る織田家譜代の古参という重い立場である。
撤退戦の巧者という像「退き佐久間」「殿軍の名手」は後世の評価語——同時代史料で確実に確認するのは難しい
信長軍の中核部将——美濃攻略と畿内支配

永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いを越えると、信長の軍は尾張から美濃へ、さらに近江と畿内へ伸びていく。信盛はその流れの中で、古参の部将として従軍を重ねた。
美濃攻略、近江の六角氏攻め、永禄十一年(1568年)の上洛戦。戦場が広がるたびに、信盛は先手、攻城、在地支配の現場へ立つ。信長軍の中核部将として、攻めるだけでなく、取った土地を織田の秩序へ組み込む仕事にも関わった。
畿内へ入った信長政権では、前線の武将に求められるものも変わる。城を落とし、道を開き、国衆を押さえ、主君の命を遠い土地へ届かせる。信盛の強みは、派手な一騎打ちではなく、拡大する織田軍の中で任務を受け続けた持続力にあった。
尾張の古参は、信長の支配が広がるほど重い場所へ置かれていく。桶狭間後の佐久間信盛は、美濃・近江・畿内を動く織田軍の実務を担った宿老である。
天正8年の譴責状十九ヶ条の折檻状は信長の「処分理由書」——一条ずつを客観的事実として鵜呑みにしない
三方ヶ原の戦い——援軍派遣と後の譴責

元亀三年(1572年)十二月、武田信玄が西へ動き、徳川家康の領国へ圧力をかけた。信長は徳川方へ援軍を送り、信盛もその一員として三方ヶ原の戦場へ向かった。
相手は武田信玄の精鋭である。織田・徳川連合軍はこの戦いで大敗し、戦場は一気に崩れた。織田方では平手汎秀が討死し、信盛は敗戦の中から退却して生き延びた。援軍としての参戦は、信盛の経歴に深い影を落とすことになる。
退却は、戦国の戦場ではしばしば生死を分ける。押し返せない時、兵をまとめて引くこともまた、武将に課せられた重い仕事だった。三方ヶ原の信盛を、勝者の場面として飾ることはできない。だが、敗戦の中で生き延びた事実を、軽い断罪に変えることもできない。
この敗戦の記憶は、後年の処分で重くのしかかる。三方ヶ原は、佐久間信盛が徳川援軍として武田信玄の圧力にさらされ、敗北と生還を同時に背負った戦場である。
栄達からの転落譜代の古参であっても成果を問われた——信盛の失脚は信長政権の一面を示す
石山本願寺攻め——大坂方面の主担当として

信長と石山本願寺の対立は、織田政権にとって長く重い戦いだった。天正四年(1576年)の天王寺合戦で原田(塙)直政が討死すると、大坂方面の前線は佐久間信盛・信栄父子へ大きく傾く。
信盛は大坂方面の主担当として、石山本願寺をめぐる最前線に在陣した。天正八年(1580年)に本願寺が大坂を退去するまで、戦いは長く続く。兵を置き、道を押さえ、相手の動きを見続ける日々である。華やかな勝利よりも、持久と監視の重さがそこにあった。
大坂方面を任されることは、信長の信任の大きさを示す配置でもある。織田政権の敵対勢力の中でも、石山本願寺は容易に崩れない相手だった。信盛はこの時、古参宿老として到達しうる頂点の一つに立っていた。
だが頂点は、同時に危うい場所でもあった。長い在陣の成果は、戦いが終わった時に厳しく見返される。石山本願寺攻めの大坂方面は、佐久間信盛の栄達の頂点であり、後の転落へつながる最前線でもあった。
十九ヶ条の折檻状——栄達からの転落

天正八年(1580年)、本願寺が大坂を退去し、石山をめぐる長い戦いが一段落した。その直後、信長は信盛・信栄父子へ、十九ヶ条にわたる折檻状を突きつけた。
文面には、大坂方面での長い在陣、嫡子・信栄の振る舞い、家臣の召し抱え、蓄財、過去の不手際までが並んだ。長く中枢にいた宿老へ向けられた言葉として、その重さはあまりに大きい。信盛の栄達は、この一通で反転した。
父子は織田家から追放される。昨日まで大坂方面を任されていた古参が、突然、家中の外へ出されるのである。ここで描くべきなのは、勝者の裁きの派手さではなく、長年仕えた宿老が政権の中心から切り離される瞬間の重さである。
譜代の古参であっても、成果と統率を問われる。信盛の失脚は、信長政権の厳しい一面を静かに示した。十九ヶ条の折檻状は、佐久間信盛を栄達の頂点から追放へ落とした決定的な事件である。
高野山への追放と流浪の晩年——そして信栄

追放された信盛は、高野山へ身を寄せた。織田家の中枢で長く働いた宿老が、政権の中心から遠い霊場へ向かう。石山本願寺の前線にいた時間とは、まるで別の静けさがそこにある。
その後、信盛は紀伊熊野・十津川の方面を流浪し、天正九年(1581年)に世を去った。華やかな討死ではない。勝者の陣中で名を上げる最期でもない。追放後の孤独な晩年が、信盛の物語を閉じていく。
嫡子・信栄も父に連座して追放されたが、佐久間家の名はそこで途切れなかった。後の赦免と出仕の流れは、追放の重さと家の存続を同時に示している。信盛の死は、敗者を笑う場面ではなく、長く政権を支えた古参が静かに押し出された末のコーダである。
尾張御器所から織田家中枢へ、大坂方面の頂点から高野山へ。佐久間信盛の晩年は、信長政権の拡大を支えた宿老が、その厳しさを一身に受けて消えていく物語である。
史料の読み解き
佐久間信盛の死因と「なぜ追放されたのか」
佐久間信盛の死因は、追放後の流浪の末の病没伝承として押さえるのがよい。天正八年(1580年)、信盛・信栄父子は十九ヶ条の折檻状を受け、織田家から追放された。その後、信盛は高野山へ向かい、さらに紀伊熊野・十津川方面を流浪し、天正九年(1581年)に没したとされる。
ここで軸になるのは、追放と死を分けて読むことである。信盛は戦場で討死した武将ではない。折檻状によって政治的に排除され、その後に流浪先で病没したと伝わる人物である。追放が人生を決定的に変えたことは重いが、追放そのものを死因のように書くと順序が崩れる。
没年の天正九年、追放後に高野山へ向かった流れは比較的立てやすい。一方、紀伊熊野・十津川方面の流浪と病没の細部、死没地の比定、享年五十四の扱いは一段やわらかく見る必要がある。享年五十四は、天正九年没から数え年で逆算した理解として置くのが自然である。
では、なぜ追放されたのか。直接の答えは、天正八年の十九ヶ条の折檻状で信長から譴責されたためである。文面には、大坂方面での無功、嫡子・信栄への批判、優れた家臣を召し抱えず蓄財したこと、三方ヶ原を含む過去の不手際などが並ぶ。ただし、信長の内心を冷酷さや正当性の一語で決めることはできない。
折檻状は、信長が処分を説明するための文書である。そこに並ぶ非難は、信長側の論理を強く示すが、一条ごとに客観的事実として丸ごと受け取るものではない。本願寺講和後の家臣団再編、古参重臣の淘汰という文脈を合わせて読むと、信盛の追放は単なる感情的処罰ではなく、織田政権の人事整理の中に置ける。信盛の死は追放後の病没伝承、追放の直接理由は十九ヶ条の折檻状である。この二つを分けると、晩年の輪郭は崩れない。
「退き佐久間」は名誉の異名か
「退き佐久間」は、信盛を撤退戦の巧者、殿軍の名手として語る後世評価語である。退却時に部隊をまとめ、敵の追撃を受けながら味方を逃がす能力は、戦国の戦場で大きな意味を持つ。だから、この異名を名誉の呼び名として理解すること自体は不自然ではない。
だが、この語を同時代に広く使われた確実な異名として扱うのは強すぎる。現時点では、「退き佐久間」「殿軍の名手」を『信長公記』で裏づく同時代評価として固めるのは難しい。初出は近世の軍記・編纂物、とりわけ甫庵『信長記』系の叙述に求められるとされる。
つまり、信盛が織田家の有力部将として多くの戦場に関わったことと、後世が信盛を撤退戦の名手として記憶したことは分ける必要がある。異名は入口になるが、史実そのものではない。ここを混ぜると、三方ヶ原で退いた信盛を「逃げた武将」と見るか、「退却を任せられた名将」と見るかの両極端へ流れやすい。
信盛の全経歴も、撤退だけでは説明できない。桶狭間後の美濃・近江・畿内での攻勢、在陣、支配の実務、石山本願寺攻めの大坂方面担当まで含めて、彼は織田軍の広い任務を受けた宿老である。「退き佐久間」は格好のいい名札だが、その名札だけで信盛の一生を閉じると、かえって人物が小さくなる。「退き佐久間」は後世が信盛へ与えた撤退戦の名誉像として読み、同時代の確実な称号とは分けるべきである。
十九ヶ条の折檻状をどう読むか
十九ヶ条の折檻状は、信盛を読むうえで最も重い史料である。同時に、最も扱いを誤りやすい。『信長公記』に所収されるこの文書は、天正八年(1580年)、石山本願寺が大坂を退去して長い戦いが一段落した後、信長が信盛・信栄父子を処分する理由を示したものとして読める。
通称は「十九ヶ条」だが、条数は翻刻や数え方によって揺れる。重要なのは、条数をぴったり固定することではない。信長が何を理由として、長年仕えた宿老父子を家中から排除したと説明したかである。
柱になるのは、大坂方面での無功、子・信栄の不才や振る舞い、優れた家臣を新たに召し抱えず蓄財したこと、過去の不手際である。とくに石山本願寺をめぐる指摘は重い。天正四年(1576年)の天王寺合戦で原田(塙)直政が討死した後、大坂方面は信盛・信栄父子が主に担当し、天正八年の本願寺退去まで在陣した。
ただし、折檻状の「五年」を厳密な暦年として読むのは危うい。原田直政の討死後から本願寺退去までの担当期間は、約四年余と見る方が自然である。また、信盛を「石山合戦全期間の総大将」とまとめるのも不正確である。信盛は石山本願寺との戦争すべてを最初から最後まで統括した人物ではなく、原田直政没後の大坂方面主担当として位置づけるのがよい。
ここで信盛を弁護しすぎる必要はない。信長が本願寺講和後に信盛を重く処分した事実は動かしにくく、軍事成果や家中統率への不満も読み取れる。しかし、信長の不満があったことと、信盛が無能だったことは同じではない。処分理由書は、処分する側の目で失点を選び、責任を集中させる性格を持つ。
家臣を増やさず蓄財したという非難も、単なる倹約批判ではない。信長政権が重臣に求めた軍事動員、家中編成、方面担当としての将来性が問われていたと読める。折檻状を読むほど、信盛個人の人格断罪より、織田家臣団の再編が前面に出てくる。十九ヶ条の折檻状は、信盛の能力査定表ではなく、本願寺講和後に信長が宿老父子を排除する論理を示す文書である。
三方ヶ原の責任と佐久間一族の混同
三方ヶ原の戦いは、信盛の悪評が作られる大きな入口になった。元亀三年(1572年)十二月、武田信玄の西上に対し、信長は徳川家康へ援軍を送った。信盛もその一員として参戦し、織田・徳川連合軍は大敗した。織田方では平手汎秀が討死し、信盛は退却して生還した。
問題は、その退却をどう評価するかである。後の折檻状で信長は、三方ヶ原における信盛の退却や戦果の乏しさを責めた。そこから「信盛は戦わず逃げた」という像が広まったが、これは信長側の譴責をさらに強く言い換えたものである。敗戦時に退却して生き残ったことは事実として扱えても、それを臆病、卑怯、怠慢といった人格評価へ直結させるのは危うい。
三方ヶ原の責任を見る時には、織田から徳川への援軍という配置も外せない。信盛は単独で戦場を決定した総大将ではなく、徳川方とともに武田軍に敗れた連合軍の一部である。平手汎秀の討死と信盛の生還が対比されやすいが、討死した者が忠義で、生還した者が不忠という図式は後世の道徳化に寄りすぎる。敗戦と退却は重い事実だが、そこから信盛の内面や勇怯を復元することはできない。
佐久間姓の混同も、信盛像を曇らせる。この記事の信盛は、織田家の宿老であり、大坂方面主担当となった佐久間信盛である。嫡子の信栄は、正勝・甚九郎ともされ、父に連座して追放された後に赦免され、豊臣・徳川の政権下で出仕したと伝わる。したがって、折檻状追放をもって佐久間家が滅亡したと見るのは誤りである。
佐久間盛政は玄蕃允で、柴田勝家の縁者・配下として北陸方面に関わる別系統の人物である。佐久間盛重は大学と称し、桶狭間で丸根砦に拠って討死した人物で、これも信盛とは別人である。信盛の経歴に、盛重の丸根砦討死や盛政の北陸方面での活動を混ぜると、年代も立場も崩れる。
同時期に追放された林秀貞(通勝)も、信盛と同じ箱に入れすぎない方がよい。林秀貞の追放理由は、かつて信長の弟・信勝(信行)を擁立しようとした旧悪とされる。一方、信盛は大坂方面の無功や家中運営を中心に譴責された。どちらも古参重臣の排除という大きな文脈には置けるが、理由の中身は異なる。三方ヶ原の退却は人格断罪へ直結させず、佐久間姓の人物も信盛・信栄・盛政・盛重に分けて読む必要がある。
佐久間信盛像を確度で整理する
佐久間信盛を読む時に危ないのは、退き佐久間、三方ヶ原、十九ヶ条、追放のような強い言葉だけで人物を決めることである。どれも重要だが、同じ重さではない。
| 論点 | 読み方 | 確度 |
|---|---|---|
| 追放後に高野山へ向かったことと天正9年(1581年)没 | 追放後の晩年を読む軸として置ける | 中〜高 |
| 紀伊熊野・十津川方面の流浪と病没伝承 | 高野山後の流浪と病没として語られるが、細部は幅を残す | 中 |
| 細かな死没地比定 | 地名の一点確定は強くしすぎない | 低〜中 |
| 享年54 | 天正9年没から数え年で逆算した理解として扱う | 中〜低 |
| 織田家譜代の有力部将だった | 御器所佐久間氏に連なる古参重臣として読む | 高 |
| 生年享禄元年(1528)頃と信秀期の位置 | 生年細部は幅を残し、信秀代からは家としての被官関係を軸に見る | 生年は中〜低/家として被官は穏当 |
| 桶狭間後の美濃・近江・畿内で中核部将 | 信長軍の拡大局面で重要任務を担った大筋 | 高 |
| 個々の戦闘で信盛を単独主役にする叙述 | 後世軍記の補強が混じりやすい | 低〜中 |
| 三方ヶ原で援軍として参戦し大敗・退却生還 | 徳川方への援軍として敗戦に巻き込まれ、生還した骨格 | 高 |
| 平手汎秀の討死 | 三方ヶ原で織田方の討死として押さえる | 高 |
| 信長が後に三方ヶ原の退却を責めたこと | 折檻状の論点として重い | 高 |
| 「信盛は戦わず逃げた」とする人格断罪 | 譴責を強く言い換えた像であり、戦場の細部までは復元しにくい | 低 |
| 退却を臆病・卑怯・怠慢へ直結する読み | 敗戦と退却から内面評価へ飛ぶため慎重に退ける | 低 |
| 「退き佐久間」「殿軍の名手」 | 後世評価語として信盛の記憶を形作った | 後世評価語は中〜高 |
| 同時代に広く用いられた異名 | 『信長公記』で確実に固めるのは難しく、近世軍記・甫庵『信長記』系の層で読む | 低 |
| 石山本願寺の大坂方面主担当 | 天正4年天王寺合戦で原田直政討死後から天正8年本願寺退去まで、信盛・信栄父子が担った | 高 |
| 担当期間と折檻状の「五年」 | 実際は約4年余と見て、「五年」は包括的表現として読む | 中〜高 |
| 「五年」を厳密な年数とする読み | 文書上の表現を暦年に固定しすぎる | 低〜中 |
| 石山合戦全期間の総大将とする読み | 石山本願寺戦全体を信盛一人へ広げるのは不正確 | 低〜中 |
| 十九ヶ条の折檻状が追放の直接理由 | 『信長公記』所収の処分理由書として読む | 高 |
| 条数「十九ヶ条」の固定 | 翻刻や数え方で揺れがあり、通称として扱う | 揺れあり |
| 各条の非難を客観的事実として鵜呑み | 信長側の論理を示す文書であり、そのまま能力査定表にはしない | 低 |
| 信長側の論理と本願寺講和後の家臣団再編 | 古参淘汰を含む政権再編の文脈で読む | 高 |
| 信盛個人の人格・内面評価 | 文書から怠慢・無能・冷遇理由を内面まで断じるのは難しい | 低 |
| 信盛・信栄・盛政・盛重の区別 | 信栄は嫡子、盛政は玄蕃允で柴田勝家の縁者・別系統、盛重は大学で丸根砦討死の別人 | 高 |
| 嫡子・信栄の連座追放後の赦免と出仕 | 正勝・甚九郎として、後に豊臣・徳川で出仕したと伝わる | 中 |
| 折檻状追放で佐久間家が滅亡したとする読み | 家は存続したため、滅亡とするのは誤り | 誤り/家の存続は中〜高 |
| 林秀貞も同時期に追放されたこと | 同時期処分は置けるが、理由は信勝擁立の旧悪で信盛とは異なる | 同時期処分は高/同理由は低 |
結論を短く言えば、信盛は無能な敗者でも、撤退だけの名人でもない。尾張御器所の譜代として織田家を支え、美濃・近江・畿内で働き、石山本願寺攻めの大坂方面を任され、最後に十九ヶ条の折檻状で追放された古参宿老である。
後世の異名、信長側の処分理由、三方ヶ原の敗戦、佐久間一族の混同を同じ箱へ入れると、人物像はすぐ崩れる。要するに、佐久間信盛は、有能か無能かの一語ではなく、織田政権の拡大を支え、その厳しい再編に押し出された宿老として読むべきである。
参戦合戦
佐久間信盛|織田家の古参重臣と十九ヶ条の折檻状の逸話
- 01
「退き佐久間」——異名の成立と史実の距離

「退き佐久間」という響きには、戦場の最後尾を引き受ける武将の影がある。味方を逃がし、追撃を受け止め、崩れそうな隊を保つ。撤退戦は、勝利の場面ほど華やかではないが、軍勢の生死を左右する重い仕事である。
信盛の名にこの異名が重なると、三方ヶ原の退却や長い従軍歴も、ただの敗走ではなく、兵を引く力として読まれやすくなる。後世が信盛に与えた像は、敗北の中にも武将の技量を見ようとするまなざしを含んでいた。
ただし、この呼び名をそのまま同時代の肩書として置くと、人物像は急に固くなりすぎる。異名は、史実の名札というより、後の人々が信盛をどう記憶したかを映す鏡である。
だから「退き佐久間」は、信盛を読む入口としては魅力がある。だが、そこで足を止めない方がよい。撤退戦の名手という像は、信盛の生涯に重なった後世の記憶として味わうべきである。
- 02
十九ヶ条の折檻状を読む——何が問われたのか

天正八年(1580年)の折檻状は、信盛の名を後世へ強く刻み込んだ。大坂方面での長い在陣、嫡子・信栄のこと、家臣の召し抱え、蓄財、過去の不手際。そこには、長年の働きではなく、問われた失点が並ぶ。
宿老に向けられた言葉として、これは重い。しかも、ただ叱責されたのではない。父子はその後、織田家から追放された。文書の厳しさが、そのまま人生の転落へつながる場面である。
ここで信盛を笑う必要はない。大坂方面を任された古参が、戦いの終わった後に責任を問われる。その事実だけで十分に重い。折檻状は、信長政権の冷たさを面白おかしく語る道具ではなく、古参宿老の運命を変えた政治の刃である。
条々の読み分けは本文の考察に譲るとして、逸話としてはこの一点が残る。十九ヶ条の折檻状は、信盛の評価を決定づけた文書であり、追放という現実へ直結した事件である。
- 03
佐久間一族の整理——信盛・信栄・盛政・盛重

佐久間という姓は、織田家中で何度も現れる。だから信盛を追う時、名前の近さが物語を絡ませてしまう。大坂方面を任された信盛、父に連座した信栄、北陸方面で語られる盛政、桶狭間で名が出る盛重。似た姓が並ぶほど、人物の輪郭はぼやける。
この記事の中心にいるのは、織田家の宿老として大坂方面を任され、折檻状で追放された佐久間信盛である。嫡子・信栄は、その転落に巻き込まれた近い存在として読むべき人物である。信盛と信栄の父子を軸に置くと、追放の衝撃がはっきり見える。
一方、同じ佐久間姓の別人物を重ねすぎると、戦場も時期もずれていく。同姓の名を一つの家の物語へ乱暴にまとめると、信盛の栄達と追放の筋までゆがむ。
だから一族整理は、ただの系譜メモではない。信盛の人生を正確に読むための土台である。佐久間信盛を読む時は、大坂方面の宿老である信盛と、連座した嫡子・信栄を中心に据える必要がある。
関連人物
所縁の地
- 御器所愛知県名古屋市昭和区
佐久間信盛の出自と伝わる尾張の地で、現在の名古屋市昭和区一帯にあたる。御器所佐久間氏は織田家に古くから仕えた被官の一族であり、信盛が新参ではなく譜代の古参として信長政権の中枢に位置した出発点を象徴する土地である。
- 石山本願寺跡(大坂本願寺)大阪府大阪市中央区(大阪城周辺)
信長と本願寺が長く対峙した拠点で、後に豊臣秀吉が大坂城を築く地となった。信盛は天正4年の天王寺合戦後から天正8年の本願寺退去まで、この大坂方面の主将として最前線に在陣し、その在陣をめぐる評価が後の折檻状の核心となった。
- 永原城跡滋賀県野洲市永原
信盛の近江における拠点と結びつけて語られる城で、近江南部・野洲方面に位置する。織田政権下で畿内・近江の支配に関与した信盛の地位を物語る場であるが、知行の郡名や支配範囲を単純に断定することは史料上慎重を要する。
- 高野山和歌山県伊都郡高野町
天正8年に折檻状を受けて織田家を追放された信盛が身を寄せた霊場である。信盛はここからさらに紀伊熊野・十津川方面へ流浪し、天正9年に失意のうちに没したと伝わる。栄達した宿老が最期に向かった、追放の象徴的な地である。
