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戦国時代〜江戸初期井伊氏(遠江・井伊谷)15611602
武将列伝戦国時代〜江戸初期徳川

いい・なおまさ

井伊直政死因と赤備えの生涯、直虎・直弼との関係

享年 42II NAOMASA
生没年
1561–1602
出身
遠江→上野→近江
家
徳川
主な合戦
3
井伊直政の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: AI生成による人物イメージ(史実の容貌・装備の復元ではありません)
  • 徳川四天王
  • 赤備え
  • 関ヶ原の戦い
生年
永禄4年1561年・遠江井伊谷
没年
慶長7年1602年旧暦2月1日・数え42歳
主君
徳川家康1575年に小姓として出仕
最終領知
佐和山18万石関ヶ原後に移封・彦根藩井伊家の初代
家紋
橘・井桁

井伊直政(いい・なおまさ、1561〜1602年)は、徳川家康に仕え、赤い武具でそろえた「井伊の赤備え」を率いた武将である。徳川四天王の一人に数えられ、関ヶ原の戦いの後には佐和山18万石を領した。

直政の死因は、関ヶ原で受けた鉄砲傷の悪化と説明されることが多い。ただし、具体的な病名まで確定しているわけではない。死去したのは1602年旧暦2月1日、数え42歳。関ヶ原で戦死したのではなく、負傷後も交渉や領国の引き継ぎに関わっていた。

似た名前の井伊直虎は、一族を支えた後見人として伝わる人物で、生母ではない。井伊直弼は、幕末に大老となった子孫である。直政の正室は唐梅院で、長男の直継、のちの直勝を産んだ。この三人を区別すると、井伊家の長い歴史をたどりやすくなる。

直政を知る手掛かりは合戦だけではない。家康や秀吉から届いた書状、妻にゆかりの墓、橘紋を描いた肖像、所持した太刀の来国光がある。赤い鎧の武将が担った仕事と、彼を取り巻く人々の姿が、そこに残っている。

01井伊谷IINOYA

1561年、井伊谷に生まれる|父の死と直虎の後見

井伊谷の寺と幼い虎松を描いたイメージ(AI生成イメージ)
井伊谷の寺と幼い虎松を描いたイメージ · AI生成イメージ

井伊直政は永禄4年(1561年)、遠江国井伊谷、現在の静岡県浜松市の北部に生まれた。父は井伊直親。幼少期の名として虎松が知られる。井伊氏はこの土地に基盤を持つ一族だったが、周囲を自由に支配できる大大名ではなかった。今川氏との関係が、一族の存続を左右していた。

直政の生まれる前年、桶狭間の戦いで今川義元と井伊直盛が戦死した。さらに永禄5年(1562年)、直盛の跡を継いだ直親も、今川氏から離反を疑われて殺される。幼い直政は父を失った。のちに大名となる人物の出発点は、領地や軍勢をそのまま受け継げる境遇ではなかった。

ここで登場するのが井伊直虎である。井伊家の菩提寺・龍潭寺は、直盛の娘である次郎法師が、虎松の後見人として一族を支えたと伝える。ただし、幼い虎松を取り巻く出来事の細部には、後世にまとめられた家伝や寺伝が含まれる。逃避行の場面や交わした言葉まで、当時の記録で確かめられるわけではない。

直虎は、直政の生母ではない。龍潭寺の説明では、直親は奥山家の娘と結婚し、その間に虎松が生まれている。直虎を「育ての母」と表す場合も、実際に産んだ母と、一族を守る後見人という立場を区別したい。

父を失った子の背後には、親族と寺院のつながりが残っていた。直政はその中で育ち、浜松を拠点とする徳川家康のもとへ向かう。井伊谷で守られた家の名は、徳川家への奉公を通じて新しい領地と家臣団に結びついていく。

軍団の形成

赤備えを率いた直政は、旧武田家臣を徳川の軍団へ組み込む役割を担った。

02万千代SERVICE

1575年、徳川家康に仕える|小姓から軍団の指揮者へ

家康に仕え始めたころの万千代を描いたイメージ(AI生成イメージ)
家康に仕え始めたころの万千代を描いたイメージ · AI生成イメージ

天正3年(1575年)、直政は浜松で徳川家康に仕えた。数え15歳である。万千代と名乗って小姓となり、主君の身近で奉公する道に入った。直政と家康の関係は、関ヶ原で突然始まったものではない。その四半世紀ほど前、家康が遠江を拠点としていた時期にさかのぼる。

小姓は、主君の近くにいる若い奉公人だった。身辺に仕える仕事を入口としても、その後に軍事や政務を任されるかどうかは別の問題である。直政の場合、天正10年(1582年)には一部隊を率いる立場になっていた。少年期の側近から、家康の軍勢を動かす指揮者へと役割が変わっている。

小姓として出仕してから七年後、直政は旧武田家臣を含む部隊を預かるまでになった。身近な奉公人に軍勢を託すという人事だった。家康の軍事力が拡大する時期に、直政もまた、若い奉公人たちの中から軍団の指揮者へと取り立てられたのである。

直政は三河出身の古参家臣ではなかった。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに徳川四天王に数えられるが、遠江の井伊氏から家康のもとへ加わった人物である。四人を同じ年に採用された集団や、同じ官職に就いた四人と考える必要はない。

奉公を始めた時点で、家康自身もまだ地域の争いの中にいた。関東への大移動も、関ヶ原も先のことである。直政の出世は、家康の勢力拡大と歩調を合わせて進んだ。そして昇進するたびに、率いる人々と治める土地が増えていった。

戦場から交渉へ

関ヶ原の負傷後も、直政は佐和山の領主となり、戦後の交渉に関わった。

03赤備えRED CORPS

1582年、武田旧臣を迎える|井伊の赤備えの成立

赤い具足の家臣を前にする若い直政のイメージ(AI生成イメージ)
赤い具足の家臣を前にする若い直政のイメージ · AI生成イメージ

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡した。同じ年には本能寺の変も起こり、甲斐や信濃をめぐる情勢が大きく変わった。家康は旧武田領への支配を広げる過程で、武田に仕えていた武士たちを取り込んでいく。直政に彼らの一部が付けられたことが、井伊軍団の形成につながった。

「赤備え」は、鎧や旗、武具などを赤色にそろえた部隊を指す。井伊の赤備えは武田の軍事的な伝統を引き継いだとされ、のちに直政を象徴する存在になった。ただし、山県昌景の軍勢が人数も組織も変えず、そのまま井伊隊へ移ったという単純な図式では捉えられない。

直政の軍団には武田旧臣だけでなく、家康に仕える武士も指揮者として加えられた。出自の異なる人々を、徳川の部隊としてまとめる編制だった。彦根城博物館は、武田の軍法が井伊家にも受け継がれたことを説明している。継承されたのは、目に見える赤い装備だけではない。

国立公文書館には、旧武田家臣が家康に提出した誓紙を写した資料がある。忠節や軍役に関する約束が記され、召し抱えが個人の気分だけで決まるものではなかったとわかる。ただし、そこに載る約800人を、すべて直政直属の人数と数えてはいけない。家康による旧臣の取り込みと、その中の井伊隊の編制は、範囲が異なる。

さらに天正11年(1583年)1月12日付の家康書状には、直政の部隊を高遠口へ出す指示が見える。翌年の小牧・長久手以前に、軍団は動いていた。赤備えの強さを考える手掛かりは、「戦国最強」という順位よりも、誰を集め、どの指揮系統で動かしたかにある。

04長久手NAGAKUTE

1584年、小牧・長久手の戦い|秀吉方との対決

長久手の野で赤備えを率いる直政のイメージ(AI生成イメージ)
長久手の野で赤備えを率いる直政のイメージ · AI生成イメージ

天正12年(1584年)、家康は織田信雄と結び、羽柴秀吉と戦った。小牧・長久手の戦いである。直政は徳川方の指揮者として赤備えを率い、長久手で軍功を挙げた。この時は数え24歳。若くして任された軍団を、家康の重要な戦いで動かしていたことになる。

小牧での対峙が続く中、秀吉方は家康の本拠である三河方面へ別動隊を進めた。家康はその動きを捉えて追撃し、旧暦4月9日に長久手で戦闘が起きた。秀吉方の池田恒興や森長可は、この戦いで戦死している。直政の対戦相手をたどる際には、戦役を主導した秀吉と、長久手の現場で戦った指揮者を分けて考える必要がある。

徳川方は追撃のために各隊を動かし、長久手で秀吉方の軍勢を迎え撃った。赤備えもその一翼を担う。部隊を任されて間もない直政が、大きな合戦で働きを示した。赤い武具の軍団と直政の名が結びつく、代表的な戦いとなった。

徳川方は長久手の戦闘に勝ったが、これで秀吉の勢力が崩れたわけではなかった。のちに秀吉と信雄の和睦が成立し、両勢力の関係は変わっていく。直政も、生涯を通じて秀吉と敵対し続けた人物ではない。家康が豊臣政権の秩序に入ると、直政もその中で地位を築いていった。

かつての敵方の指導者から、のちに直政へ領国経営の指示が届くことになる。「井伊の赤鬼」と呼ばれる武将は、秀吉の政権下でも地位を築いていった。長久手の戦いから六年後、直政は家康とともに、秀吉による小田原攻めへ加わる。

05高崎TAKASAKI

1590年、箕輪12万石へ|高崎の城と町を築く

高崎の町割りと普請を見渡す直政のイメージ(AI生成イメージ)
高崎の町割りと普請を見渡す直政のイメージ · AI生成イメージ

天正18年(1590年)、直政は小田原攻めに参加した。相手は北条氏政・氏直父子を中心とする北条氏である。秀吉の軍勢に家康も加わり、戦後、徳川家は関東へ移る。直政に与えられたのは上野国箕輪12万石だった。高崎市は、これを家康の家臣中で最大の領地と説明している。

大きな知行は、戦功への褒賞であると同時に、領地を維持する責任も伴う。城や家臣の配置、村々の負担、土地の把握など、領主として扱う仕事が増える。直政は、軍団の指揮だけをしていればよい立場ではなくなった。

箕輪拝領直後の天正18年8月7日、秀吉は直政へ朱印状を出した。彦根城博物館の解説によれば、箕輪に入ったことへの満足を示し、知行改めや普請を進めるよう命じている。さらに秀吉が家康へ直政のことを言い聞かせた旨も記される。直政の昇進には、主君家康だけでなく、豊臣政権との関係も働いていた。

慶長3年(1598年)、直政は本拠を箕輪から和田の地へ移し、高崎城と城下町の整備を始めた。高崎市の説明では、寺院や町を新たな拠点へ移し、町割りを進めている。地名の由来には僧侶の助言にまつわる伝承もあるが、確かな事業として注目したいのは、人と町を移す大きな再編だったことである。

直政は城下の整備を終える前に近江へ移り、高崎の事業は後の領主に引き継がれた。直政の町割りを出発点として、高崎の城と町は育っていった。いま残る高崎城の遺構にも、後の時代に造られた建物が含まれる。

06関ヶ原SEKIGAHARA

1600年、関ヶ原の戦い|諸将の統率と島津追撃

関ヶ原で退却する敵軍を追う直政と赤備えのイメージ(AI生成イメージ)
関ヶ原で退却する敵軍を追う直政と赤備えのイメージ · AI生成イメージ

慶長5年(1600年)、直政は関ヶ原の戦いで東軍に属した。ここでの役目は、自分の赤備えを率いることにとどまらない。本多忠勝とともに、東軍の諸将を統率する立場を担っていた。家康直属の家臣だけで構成された軍ではなかったからこそ、諸大名の間を結ぶ役割が必要だった。

その準備は開戦前から進んでいた。彦根城博物館は、直政が黒田長政と信頼関係を築き、石田三成と対立する大名たちを家康の側へ引き入れたと説明している。長政は豊臣政権下で活動してきた大名だった。直政は、家康とそうした大名たちをつなぐ位置にいたのである。

合戦の冒頭では、直政が家康の四男・松平忠吉とともに進み、先陣の福島正則より先に攻撃したと伝わる。忠吉は直政の娘婿でもあった。ただし、この有名な先陣の話には、後世の軍記や合戦の叙述を通じて伝わる部分がある。誰がどの瞬間に撃ったのか、直政が何を狙っていたのかまで、すべて確定した事実として扱うことはできない。

よく知られる先陣争いの陰で、直政は東軍をまとめる仕事もしていた。武勇の場面だけを取り出すと、関ヶ原以前の働きかけや、合戦中の監軍としての役割が抜け落ちる。

戦いが東軍優勢となると、島津義弘の軍勢は退却を図った。直政はこれを追う中で銃弾を受け、負傷した。島津豊久が義弘を逃がすために戦ったと伝わる、いわゆる「島津の退き口」に関わる場面である。直政は関ヶ原で戦死したのではなく、負傷して生き残った。その後も領地を移し、戦後の交渉に関わったことが、最期を考えるうえで大切になる。

07佐和山SAWAYAMA

1602年、数え42歳で死去|佐和山から彦根への継承

佐和山で晩年を迎えた直政を描いたイメージ(AI生成イメージ)
佐和山で晩年を迎えた直政を描いたイメージ · AI生成イメージ

関ヶ原の戦いの後、直政は石田三成の旧領である近江佐和山を与えられ、18万石の大名となった。彦根市の説明では、慶長6年(1601年)正月に高崎から佐和山へ入っている。遠江から上野へ、そして近江へ。徳川家の勢力が広がるにつれ、井伊家が担う土地も変わった。

新たな領地を受け取っても、直政の仕事は終わらなかった。西軍側に立った毛利氏や島津氏との交渉に関わり、戦後の関係調整を担った。関ヶ原で島津勢を追って負傷した人物が、その後は島津との和睦に向けて働いていた。戦場での敵対と、戦後に相手を交渉の席へ迎えることは、同じ政治過程の中にあった。

しかし、直政が近江で過ごせた時間は長くなかった。慶長7年(1602年)旧暦2月1日、佐和山で死去する。数え42歳だった。関ヶ原の負傷からは約1年半である。彦根市は戦傷の悪化を死去の背景として説明し、彦根城博物館は、鉄砲傷が悪化したのかという留保を添えている。

直政は、家康が将軍となる前年に没した。徳川の勢力拡大を支えた重臣は、江戸幕府成立を見届けなかった。後には新しい領地と家臣団、そして関ヶ原の後始末が残された。

直政の跡は長男の直継、のちの直勝が継いだ。彦根城の築城は父の死後に進められ、やがて次男の直孝へと彦根の家が受け継がれる。佐和山で終わった直政の生涯は、子の代に彦根へとつながった。井伊家の新しい城は、直政自身の手ではなく、その後を担う人々によって築かれた。

02
READING

史料の読み解き

井伊直政の死因|関ヶ原の戦傷と、確定できない病名

直政の最期については、「関ヶ原で負傷した」「1602年に佐和山で没した」「戦傷が死につながったと説明される」という三段階を分けると理解しやすい。前の二つは生涯をたどる基本事項だが、傷と死を結ぶ具体的な病状には、同じ確かさで説明できない部分が残る。

彦根市は関ヶ原の鉄砲傷が悪化したと説明し、彦根城博物館は傷の悪化について留保を置く。両者を合わせると、戦傷との関連を無視する必要はないが、傷だけが唯一の原因だったと断言するのも行き過ぎになる。確認した資料では、破傷風など特定の病名を確定する診療記録は示されていない。

たとえば、「死因は破傷風」と言い切るには、その病状を示す根拠が要る。鉄砲で撃たれたことと、特定の感染症で死亡したことは同じ情報ではない。また、史料が示していない過労や別の病を、新たな死因として補うことも避けたい。

没年齢の42歳は数え年である。現代の満年齢と同じ数え方ではなく、生年の1561年と没年の1602年だけを引き算して矛盾だと考える必要はない。関ヶ原は1600年旧暦9月、死去は1602年旧暦2月なので、間隔はおよそ1年半になる。

この時間の長さにも意味がある。直政は負傷したその場で亡くなったわけではなく、近江へ移り、西軍側との交渉にも関わった。最期を知るには、銃弾を受けた一場面からすぐ死へ飛ぶのではなく、その間に残った仕事を見ておきたい。

井伊直政の妻と子ども|唐梅院・直勝・直孝

直政の正室は、徳川家臣の松平康親の娘で、唐梅院と呼ばれる女性である。安中市の文化財解説は、直政の死後に東梅院、のち唐梅院と号したことを伝える。したがって、唐梅院は結婚前からの実名としてそのまま読む名前ではない。

唐梅院の子が直継、のちの直勝である。父直政の死後、家を継ぎ、彦根城の築城が始まった時期の井伊家を担った。ところが、彦根藩井伊家の系譜を読むと、二代に直孝が挙がる。このため直勝と直孝を混同したり、長男が存在しなかったように受け取ったりしやすい。

直勝と直孝は別人で、母も異なる兄弟である。直孝は直政の次男で、唐梅院の子として一括りにしてはいけない。のちに彦根の家を継いだ直孝に対して、直勝は別の領地を与えられ、その系統も続いた。家督継承の途中と、後に整えられた藩主の代数が、必ずしも同じ見え方をしないのである。

直政の娘は、家康の四男・松平忠吉に嫁いだ。関ヶ原で直政と忠吉がともに行動した背景には、主君と家臣の関係に加え、この婚姻がある。ただし、婚姻関係が確認できることから、先陣争いの動機をすべて説明できるわけではない。家族関係と軍事上の役割は、重なりつつも分けて読む必要がある。

唐梅院の墓は、直勝ゆかりの安中の大泉寺に残る。直政の家族の歴史は、彦根へ続く直孝の系統だけでなく、安中に伝わる直勝の母の墓にもつながっている。

井伊直虎・井伊直政・井伊直弼の違い

三人は同じ井伊家に関わるが、生きた時期も役割も異なる。まず直虎は、戦国期に井伊谷の一族を支え、幼い直政の後見に当たったと伝わる人物。直政は、その後に家康へ仕えて大名となった人物である。そして直弼は、はるか後の幕末に活動した井伊家の子孫だ。

人物直政との関係時代と主な役割
井伊直虎一族の後見人として伝わる。生母ではない戦国期、井伊谷で井伊家を支えた
井伊直政本記事の人物1561〜1602年。赤備えを率いた家康の重臣
井伊直弼直政の子孫。父は井伊直中1815〜1860年。幕末の彦根藩主・大老

直弼は安政5年(1858年)に大老となり、万延元年(1860年)の桜田門外の変で亡くなった。直政とは生年が254年違う。直政の子や弟という関係ではなく、世代を重ねた後の人物である。「井伊直政と井伊直弼は同じ人か」という疑問には、名前の似た別人と答えられる。

直政から直弼までの歴史は、直政の死後に彦根城が築かれ、井伊家が江戸時代を通して続いたことと結びついている。ただし、直政の生涯をそのまま幕末の政治へ延ばして理解するのは無理がある。関ヶ原の戦後処理をした直政と、開国期に政務を担った直弼では、置かれた状況が違う。

直虎についても、直政を支えたという関係と、生母であるという関係を取り違えないようにしたい。母は奥山氏の娘と伝わり、直虎とは区別される。人物の名前だけでなく「いつ、誰に対し、どの立場にあったか」を確かめると、井伊家の話が整理できる。

井伊直政の家紋|橘紋と井桁紋、赤備えとの違い

井伊家に関わる代表的な紋には、植物をかたどった橘紋と、井戸の枠を思わせる井桁紋がある。直政の人物紹介では「井伊橘」「彦根橘」と呼ぶ表記も見られるが、名称を一つ覚えるだけでなく、どの品にどんな紋が使われているかを見ると理解が深まる。

彦根城博物館所蔵の直政画像には、衣服に橘紋が描かれる。一方、江戸東京博物館の「戦国!井伊直虎から直政へ」展では、彦根城博物館所蔵の「朱地井桁紋金箔押旗印」が紹介された。赤い地に金色の井桁を表した旗で、関ヶ原で用いたと伝わる品である。

「赤備え」は色をそろえた部隊のあり方であり、家紋の名前ではない。旗の地色、そこに置かれる紋、武将本人の装備を区別すると、「赤い旗ならすべて同じ部隊」という読み違いを防げる。ほかの家が赤を用いる場合もあるため、赤色だけで所属が確定するわけではない。

また、伝世する旗を見て、すべての兵があらゆる時期に全く同じ旗を背負ったとまでは言えない。使用時期の伝承と、現物からわかる意匠は、それぞれ確認する必要がある。井伊家の資料に橘と井桁があることを、紋の統一ができていなかったという矛盾として扱う必要もない。

肖像の橘と、赤い旗の井桁。別々の資料に残る二つの意匠が、井伊家の姿を伝えている。

徳川家康が直政に任せたもの|軍事・外交・領国経営

直政の評価を武勇だけで測ると、家康との関係の半分が隠れてしまう。旧武田家臣を含む部隊を率いること、豊臣系の大名と連絡を取り合うこと、領地を治めること。直政に任された仕事は、その都度、家康の勢力が直面する課題と関わっていた。

1582年には、旧武田領を取り込む動きの中で軍団を編制した。1590年には関東への移転に伴い、箕輪12万石を得た。1600年には、黒田長政らとの関係を通じて東軍の結集に関わり、戦後は近江佐和山を受け取った。直政の転機を並べると、徳川家の領国と政治的な立場が変わる時期に重なる。

家康の信任を伝える証拠は、直政を褒める後世の言葉だけではない。1583年の出兵指示を記した書状や、領地の規模、関ヶ原での役割にも表れている。一方、1590年の秀吉朱印状は、直政の地位が家康との二者関係だけでは説明できないことを示す。豊臣政権のもとで働く徳川家臣という位置にも目を向けたい。

戦後交渉でも同じである。戦いに勝てば、それまで敵だった大名との関係をどう定めるかが次の問題になる。毛利や島津との調整に直政が関わったのは、武将の働きが戦闘の終了とともに終わるものではなかったからだ。

直政を「何でもできる天才」と言い換える必要はない。残る書状、担当した相手、与えられた領地を追うだけでも、家康が任せた仕事の広さはわかる。赤備えという印象的な姿と、文書に残った実務を合わせて読むことが、直政の生涯を理解する助けになる。

史料で確かめられること・伝承を含むこと

直政について残る情報は、すべて同じ性質ではない。本人や同時代の人物が出した文書、伝世する品、後世の家譜や軍記、それらを解説する現代の研究・博物館資料を区別して扱いたい。以下の確度は、人物の人気や評価ではなく、各記述の裏付けを整理したものである。

論点確度根拠と留保
1561年生、1602年旧暦2月1日没高辞典類・彦根城博物館の解説で確認。42歳は数え年
1575年に家康へ出仕高複数の人物事典・地域資料が伝える基本経歴
旧武田家臣を含む赤備えを率いた高博物館解説、家康による旧臣召し抱えの資料。個々の兵数は別問題
1583年に高遠口への出兵指示を受けた高日付のある家康自筆書状の所蔵館解説
直虎が幼い直政を後見した中家伝・寺伝を含む。具体的な養育場面の再現は避ける
関ヶ原で忠吉と先陣を切った中著名な伝承だが、最初の発砲や動機の細部は留保する
関ヶ原の戦傷が死につながった中自治体は戦傷悪化を説明。博物館は留保を置く
正室は唐梅院、直勝の母高墓の自治体解説・図書館の調査回答
来国光を所持した高彦根城博物館が直政の指料として紹介
現代的な意味で「イケメン」だった判定対象外美的評価と史実の容貌の同定は分ける

「人斬り兵部」のような強い異名から、直政が実際にどれほど家臣を処罰したか、兵が何を感じて従ったかまで決めつけることもできない。逆に、厳しさがあったとしても「自分にも厳しいから正しかった」と正当化する根拠にはならない。呼び名の印象と、確認できる行為を分ける必要がある。

井伊直政が遺したものは、赤備えの軍団と、次の世代へ続く家の基盤だった。本人は彦根城の完成を見ていない。それでも、その城の博物館には、家康が直政に部隊を動かすよう命じた書状と、直政が帯びた来国光が残る。軍勢を率い、領地を治めた一人の武将を、いまも具体的な品からたどることができる。

本多忠勝と関ヶ原の追撃

直政と本多忠勝は、ともに家康に仕えた重臣である。岐阜関ケ原古戦場記念館は、関ヶ原の終盤に忠勝が松平・井伊隊とともに島津義弘を追撃したと紹介する。徳川四天王という呼び方だけでなく、同じ作戦行動に加わった関係もたどれる。

03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

井伊直政の逸話

  1. 逸話 01

    井伊直政は「イケメン」だった?|肖像が伝える姿

    若い直政の容貌を想像して描いた人物イメージ(AI生成イメージ)
    若い直政の容貌を想像して描いた人物イメージ · AI生成イメージ

    直政を「イケメン」「美少年」とする紹介を見かける。だが、これは現代の美的な評価を含む言葉であり、年号や石高と同じようには確かめられない。映像作品の配役やゲームの人物像も、史実の顔そのものではない。

    手掛かりの一つは、彦根城博物館に伝わる井伊直政画像である。衣冠を着けて座り、扇を持つ姿が描かれる。所蔵館は、直政の没後さほど時を隔てず制作された肖像と考えている。後世の人物像をすべて空想として退ける必要はない一方、肖像画には身分や威厳を表す約束事もある。写真のような容貌の記録として読むことはできない。

    容姿への関心と、出世の理由は分けて考えたい。家康が直政を取り立てた経緯を美貌だけに結びつけると、軍団編制、外交、領国経営という仕事が抜け落ちる。人物像を楽しみつつ、評価の根拠は実際の役割にも求める。その両方があってよい。

    なお、本記事の人物画像はAIで制作したイメージである。顔や装備を当時の姿として復元したものではなく、「本当にこの顔だった」という証拠には用いていない。

  2. 逸話 02

    井伊直政の刀|彦根に伝わる太刀「来国光」

    戦国武将の刀を描いたイメージ(来国光の現物写真ではない)(AI生成イメージ)
    戦国武将の刀を描いたイメージ(来国光の現物写真ではない) · AI生成イメージ

    直政が用いた刀として、彦根城博物館には「太刀 銘来国光」が伝わる。同館が直政の指料、つまり身に帯びた刀と説明する品である。作者の来国光は、鎌倉時代に山城で活動した来派の刀工。直政と同じ時代に打たれた新しい刀ではなく、すでに歴史を重ねた刀を所持していたことになる。

    所蔵館の記載では、刃長は78.2センチ、反りは2.6センチ。磨上によって元の長さから短くされているが、来国光の銘が残る。作者名だけでなく、長さや伝来まで確かめると、どの一振りの話かがわかる。同じ刀工の作はほかにもあり、別の所蔵先にある来国光と混同しないことが大切だ。

    刀の紹介から、直政が関ヶ原で必ずこの一振りを抜いていたとまでは言えない。指料であることと、特定の合戦での使用が確認できることは別だからである。それでも、軍記の勇ましい場面とは違い、寸法と姿を持つ品が残っていることは、直政を身近に感じる確かな入口になる。

    本節の挿絵は戦国期の刀を想起させる創作であり、来国光の現物写真ではない。実物の姿や細部は、末尾の所蔵館資料を参照してほしい。

  3. 逸話 03

    秀吉から届いた朱印状|赤鬼に任された領国経営

    領国経営の文書を確かめる直政を描いたイメージ(AI生成イメージ)
    領国経営の文書を確かめる直政を描いたイメージ · AI生成イメージ

    赤い鎧の直政とは別の姿を伝えるのが、天正18年(1590年)8月7日付の豊臣秀吉朱印状である。小田原攻めを経て直政が箕輪へ入った直後の文書で、彦根城博物館に所蔵されている。秀吉は新しい領地での知行改めや普請を進めるよう求めた。

    この文書からは、領地を得ることが仕事の終わりではなかったとわかる。土地の状況を調べ、城や拠点を整える作業が続く。家康の家臣である直政に秀吉から直接指示が届いている点も、豊臣政権下での立場を考える材料になる。

    高崎市に残る慶長元年(1596年)の直政黒印状は、さらに村々へ視線を移す。中大類・下大類の肝煎や百姓を宛先とし、検地領地の田畑を測量し、収穫高(石高)を確定する土地調査。豊臣秀吉による太閤検地が代表例で、近世社会の土台となった。や諸役に関わる取り扱いを伝えた文書である。領主としての意思が、地域の人々に文書で示されていた。

    直政の仕事は、赤備えを戦場へ出すことだけではなかった。領地を把握し、工事を進め、村へ方針を伝える。勇猛さを語る逸話と、こうした行政文書を並べてみると、同じ人物の役割をより具体的に捉えられる。

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RELATED PEOPLE

関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 父:井伊直親
  • 母:奥山氏の娘
本人井伊直政
配偶者正室:唐梅院(直勝の母)/ほか側室
子
  • 直継(のち直勝)
  • 直孝(直勝の異母弟)
  • 娘(松平忠吉の妻)ほか
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PLACES

所縁の地

  • 井伊谷・龍潭寺
    静岡県浜松市浜名区引佐町

    直政の出身地であり、井伊氏と深く関わる土地。龍潭寺には井伊家の墓所があり、直虎や直親に関する伝承も残る。家康への出仕以前、井伊家がどのような土地と人々に支えられていたかを考える場所である。

  • 箕輪城跡・高崎城址
    群馬県高崎市

    1590年に直政が入った箕輪と、1598年から新たな拠点とした高崎。両者をたどると、山城を拠点とする時期から城下町を整える時期への変化がわかる。現在の遺構すべてが直政の時代のものとは限らない。

  • 佐和山城跡
    滋賀県彦根市

    関ヶ原後に直政が入った石田三成の旧城。1601年の入城から翌年の死去まで、晩年の拠点となった。彦根城とは別の城であり、両者の位置と築城時期を区別すると、井伊家の近江入部を理解しやすい。

  • 彦根城・彦根城博物館
    滋賀県彦根市

    彦根城の築城は直政の死後、子の代に進められた。博物館には直政の肖像や来国光、家康・秀吉の書状などが伝わる。伝来品は常時すべてが展示されるわけではないため、実物の見学時には展示内容を確認したい。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 彦根藩主井伊家
    彦根城博物館参照日 2026-10-06
  2. 島津義弘コース・松平忠吉・井伊直政陣跡と本多忠勝陣跡
    岐阜関ケ原古戦場記念館参照日 2026-10-06
  3. 井伊直虎(次郎法師)
    龍潭寺参照日 2026-10-06
  4. 徳川家康自筆書状 井伊直政宛
    彦根城博物館参照日 2026-10-06
  5. 甲信両国信玄衆被召抱時指上誓紙写
    国立公文書館参照日 2026-10-06
  6. 長久手古戦場物語
    長久手市参照日 2026-10-06
  7. 小田原城の歴史・北条五代
    小田原城公式サイト参照日 2026-10-06
  8. 箕輪城跡
    高崎市参照日 2026-10-06
  9. 高崎城址
    高崎市参照日 2026-10-06
  10. 豊臣秀吉朱印状 井伊直政宛
    彦根城博物館参照日 2026-10-06
  11. 井伊直政黒印状
    高崎市参照日 2026-10-06
  12. 彦根城表御殿発掘調査
    彦根市参照日 2026-10-06
  13. 井伊直政正室の墓・直好生母の墓
    安中市参照日 2026-10-06
  14. 井伊直政正室の家系・家族等に関するレファレンス回答
    高崎市立中央図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-06
  15. 松平忠吉
    コトバンク参照日 2026-10-06
  16. 戦国!井伊直虎から直政へ
    東京都江戸東京博物館参照日 2026-10-06
  17. 井伊直政画像
    彦根城博物館参照日 2026-10-06
  18. 太刀 銘来国光
    彦根城博物館参照日 2026-10-06

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-06

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