
片桐且元|豊臣と徳川に引き裂かれた秀頼の家老
「賤ヶ岳七本槍の武功を誇り、秀頼の傅役として豊臣家に尽くしながら、徳川との板挟みに引き裂かれた悲運の家老」
片桐且元
片桐且元は、賤ヶ岳七本槍に数えられた武功の将でありながら、晩年は豊臣秀頼の傅役・家老として、滅びゆく豊臣家を一人で支えようとした、悲運の調整役である。
弘治二年(一五五六年)、近江国浅井郡に生まれた且元は、浅井氏の旧臣の家系から、北近江を得た羽柴秀吉のもとへ仕えた。天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、後世に賤ヶ岳七本槍の一人として語り継がれる。だが且元の本領は、派手な槍働きよりも、検地や普請といった地味な実務にこそあった。
慶長三年(一五九八年)に秀吉が没すると、且元は幼い秀頼の傅役を託される。関ヶ原の戦いの後は、秀頼の立場を徳川家康に説き、豊臣と徳川を取り次ぐ役回りを一身に背負った。慶長六年(一六〇一年)には大和竜田に二万八千石を得るが、その実態は大坂城で秀頼を補佐する家老だった。
すべてが暗転したのが、慶長十九年(一六一四年)の方広寺鐘銘事件である。梵鐘の「国家安康」「君臣豊楽」を徳川側に難詰された且元は、駿府で交渉し、苦渋の三案を持ち帰る。だが、それが淀殿らの不信を招き、内通を疑われた且元は大坂城を退去した。豊臣家を守ろうとした調停者の退去は、皮肉にも大坂の陣開戦の引き金となってしまった。
大坂の陣で且元は徳川方に立ち、かつての主家と戦う。慶長二十年(一六一五年)五月、豊臣家は滅亡し、その直後の五月二十八日、且元もまた享年六十でこの世を去った。片桐且元は、武功の七本槍にして豊臣家最後の柱石でありながら、徳川との板挟みに引き裂かれて散った、戦国の調整役の悲劇を体現する武将である。 その毀誉褒貶の激しい生涯を、ここから読み解いていく。
近江浅井の子 — 秀吉に見出された助作

弘治二年(一五五六年)、近江国浅井郡須賀谷(現在の滋賀県長浜市)に、一人の男児が生まれた。幼名を助作、のちの片桐且元である。片桐家は、北近江に勢力を張った浅井氏に仕える家柄だった。
だが助作が十代の半ばを迎えるころ、主家の運命は暗転する。天正元年(一五七三年)、浅井氏は織田信長によって滅ぼされ、片桐家は寄る辺を失った。旧主を失った若い助作は、やがて北近江を与えられた羽柴秀吉のもとへ仕えることになる。
秀吉にとって、近江は自らの新たな根拠地だった。土地の事情に通じた地侍の子弟は、貴重な人材である。助作も弟の貞隆とともに、子飼いの近習として秀吉に近侍し、頭角を現していった。
主家の滅亡から、天下人の側近へ。運命の歯車は、この近江の地で大きく回り始めた。浅井氏の旧臣の子という出自は、且元を秀吉子飼いの武将へと導き、生涯を貫く豊臣家への深い縁の出発点となった。
刀を取る武辺の道と、算盤をはじく吏僚の道。片桐且元の物語は、滅びた主家から天下人のもとへと拾い上げられた、近江の若武者の出仕から始まる。
方広寺鐘銘事件。弁明に駿府へ赴いた且元が持ち帰った三案は、豊臣家を窮地へ追い込んだ「国家安康・君臣豊楽 — 鐘の銘文に、豊臣と徳川の運命が懸かった」
賤ヶ岳の槍働き — 七本槍に数えられた武功

天正十一年(一五八三年)、秀吉と柴田勝家が近江賤ヶ岳で激突した。織田信長亡き後の覇権を賭けた、天下分け目の合戦である。このとき且元は、秀吉麾下の若武者として最前線に身を投じた。
戦いは、大岩山砦をめぐる激しい攻防の末、秀吉方の勝利に終わる。乱戦のなかで槍を振るって武功を挙げた若者たちのうち、とりわけ働きの目立った者が、後世に賤ヶ岳の七本槍として顕彰された。且元も、加藤清正・福島正則・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則と並んで、その一人に数えられている。
この武功により、且元は知行を加増されたと伝わる。子飼いの近習が、武辺の将としても認められた瞬間だった。賤ヶ岳をともに駆けた清正や正則とは、生涯を通じて浅からぬ縁で結ばれていく。
ただし、「七本槍」という括りそのものは、後世の軍記や顕彰のなかで整えられた面が強い。且元が賤ヶ岳で武功を挙げたことは確かだが、「七本槍」という華やかな枠組みは、後世が選び出して整理した英雄譚でもある。
武勇の誉れを背負って、且元は豊臣家中での歩みを進めていく。賤ヶ岳の槍働きは、吏僚肌の且元に「七本槍の武将」というもう一つの顔を与えた、若き日の輝きだった。
内通を疑われ退去。冬の陣を招き、落城の直後に世を去った悲運の家老「大坂城を去った日 — 忠臣は、はからずも開戦の引き金を引いた」
茨木城主への出世 — 茶の湯に親しむ実務家

賤ヶ岳の後、且元は秀吉の天下取りに従って各地を転戦し、着実に加増を重ねていった。だが武功だけではない。検地や普請、寺社との折衝といった地味な実務にこそ、彼の本領があった。算盤と帳簿に明るい吏僚として、且元は豊臣政権の屋台骨を支える一人となる。
やがて且元は、摂津茨木城に関わる身となった。茨木城主としての且元——これは広く知られた通説だが、実際には弟の貞隆が城主だったとする見方もあり、兄弟どちらの居城かには議論が残る。いずれにせよ、片桐兄弟が摂津に確かな地歩を築いたことは間違いない。
且元のもう一つの顔は、茶の湯への素養である。戦国武将の教養として茶に親しんだ且元の周辺からは、のちに弟貞隆、そして甥の片桐石州(貞昌)が出て、石州は一流の武家茶道「石州流」の祖となる。片桐の家は、武と算盤と茶の素養を兼ね備えた一族だった。
派手な武功よりも、地に足のついた実務。且元は槍働きの七本槍であると同時に、検地や普請をこなす実務家であり、茶の湯にも通じた、調整型の吏僚武将だった。
その実直な手腕を、秀吉は見逃さなかった。茨木城に拠ったこの時期、且元は「戦う武将」から「家を支える吏僚」へと、その重心を静かに移していった。
秀頼を託されて — 豊臣家の柱となる

慶長三年(一五九八年)、天下人・豊臣秀吉が世を去った。残されたのは、まだ幼い遺児・秀頼である。秀吉は死に臨んで、我が子の行く末を信頼する家臣たちに託した。且元もまた、秀頼の傅役——後見役として、豊臣家の中枢に据えられる。
二年後の慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の戦いが天下を二分した。且元の立場は、単純な東西いずれかの色分けでは語りにくい。戦いの渦中での去就には諸説あるが、確かなのは、戦後に且元が秀頼の立場を徳川家康に説き、豊臣家と徳川家を取り次ぐ役回りを得たことである。
慶長六年(一六〇一年)、且元は大和竜田に二万八千石を与えられた。とはいえ、その実態は一個の大名というより、大坂城にあって秀頼を補佐する豊臣家の家老だった。徳川との交渉ごとは、ほとんど且元の双肩にかかっていた。
豊臣家の柱でありながら、徳川への取次も担う。且元は秀頼の傅役として豊臣家に忠誠を尽くしつつ、同時に徳川との交渉窓口をも一身に背負う、危うい二重の立場に立っていた。
平時であれば、その均衡は保てたかもしれない。秀頼を託された且元は、豊臣と徳川という二つの巨大な力のあいだで、薄氷を踏むような均衡役を引き受けていた。
国家安康の波紋 — 駿府交渉と三つの案

慶長十九年(一六一四年)、豊臣秀頼は、かつて秀吉が建立し地震や火災で損なわれた京都・方広寺の大仏殿を再建した。だが、その梵鐘に刻まれた銘文が、思いもよらぬ大事件を引き起こす。「国家安康」「君臣豊楽」——この一節をめぐる、方広寺鐘銘事件である。
徳川方は、この銘文を難詰した。「国家安康」は家康の名を「家」と「康」に分断して呪うものであり、「君臣豊楽」は豊臣の繁栄を願うものだ、というのである。今日から見れば、多分に言いがかりめいた解釈だった。だが、豊臣と徳川の緊張が高まるなか、それは決定的な火種となった。
弁明のため、且元は駿府の家康のもとへ赴く。しかし家康には会えず、本多正純や金地院崇伝らとの交渉を強いられた。苦慮の末、且元が大坂へ持ち帰ったのが、いわゆる三案である。秀頼が江戸へ参勤するか、淀殿を人質として江戸へ送るか、あるいは秀頼が大坂城を出て国替えに応じるか。いずれも豊臣家の誇りを深く傷つける、苦渋の選択肢だった。
家を守るための妥協が、かえって家中の不信を呼ぶ。鐘銘への難詰は徳川側の強引な解釈だったが、且元が大坂に持ち帰ったこの三案は、豊臣家にとって到底のめない屈辱的な内容だった。
且元は、滅亡を避けるために最善を尽くしたつもりだった。方広寺の鐘の銘をめぐる難詰は、且元を豊臣と徳川の板挟みの最前線へと突き落とす、運命の引き金となった。
疑いの渦 — 大坂城を去る家老

且元が持ち帰った三案は、大坂城内に激しい動揺を引き起こした。とりわけ秀頼の生母・淀殿と、その側近である大蔵卿局らは、徳川への譲歩に強く反発する。豊臣家の誇りを守ろうとする者たちにとって、且元の案は降伏も同然に映った。
事態をさらにこじらせたのは、駿府での交渉の食い違いである。且元とは別に、大蔵卿局も駿府で家康に面会していた。彼女が穏やかな言葉をかけられて帰ったのに対し、且元は厳しい三案を突きつけられた。この落差が、「且元は徳川に内通しているのではないか」という疑念を、城内に呼び起こす。
やがて且元の暗殺を企てる噂までが流れた。命の危険を感じた且元は、慶長十九年(一六一四年)十月、ついに大坂城を退去し、自らの拠る茨木城へと引き上げる。豊臣家の家老が、その本拠を去ったのである。これは徳川方に大坂攻めの大義名分を与え、大坂冬の陣開戦の直接の引き金の一つとなった。
忠誠を尽くしたはずの家老が、内通を疑われて去る。且元の退去は、彼自身の裏切りというより、和平の道が断たれて豊臣家が滅亡へと突き進んでいく、悲劇の分岐点だった。
板挟みの果てに、且元は旧主の城を後にした。大坂城を去ったその日、調停者であろうとした且元は、はからずも開戦の引き金を引く者となってしまった。
旧主と戦う — 落城の直後に果てる

大坂の陣が始まると、且元は徳川方として参陣した。かつて主君と仰いだ豊臣家に、弓を引く立場である。長年その存続に心血を注いできた家老にとって、これほど痛ましい戦いはなかっただろう。彼は大坂城の構造や内情に通じる者として、徳川軍のなかで重んじられた。
慶長二十年(一六一五年)五月、大坂夏の陣は豊臣方の敗北に終わる。秀頼と淀殿は城とともに果て、栄華を誇った豊臣家は、ここに滅亡した。且元が守ろうとし続けた家は、彼の目の前で歴史から姿を消したのである。
そして、その直後だった。落城からわずか二十日ほど後の五月二十八日、片桐且元はこの世を去る。享年六十。死因は病死とするのが基本線だが、旧主の滅亡を見届けた直後の死であったことから、心労による病とも、自害とも噂された。元和への改元はこの年の七月であり、且元が没したのは、まだ「慶長二十年」の世だった。
主家とともに、その柱もまた倒れた。且元の死は豊臣家の滅亡とほとんど時を同じくしており、彼の生涯が豊臣家の運命と分かちがたく結ばれていたことを、何より象徴している。
なお片桐の家は絶えなかった。嫡男・孝利が大和竜田の所領を継ぎ、弟・貞隆の家系は小泉藩として存続した。豊臣と徳川に引き裂かれた家老は、旧主の落城を見届けるようにして、その波乱の生涯を静かに閉じた。
史料の読み解き
片桐且元を読むとき最も悩ましいのは、彼が「忠臣」なのか「裏切り者」なのか、評価が真っ二つに割れることである。豊臣家を守ろうとした調停者と見るか、徳川に通じて旧主を見限った変節漢と見るか。その両極のあいだで、且元の実像は揺れ続けてきた。骨格となる史実と、後世の評価や伝承とを腑分けしながら、この板挟みの家老を読み直してみたい。
且元は「忠臣」だったのか「裏切り者」だったのか
且元評価の対立は、煎じつめれば一点に集約される。彼が豊臣家を守ろうとしていたのか、それとも見限っていたのか、である。忠臣説に立てば、且元は滅亡を避けるために最後まで交渉に奔走し、屈辱的な三案すら、家を残すための苦肉の策として呑もうとした調停者だったことになる。
一方、裏切り者説から見れば、評価は反転する。徳川との交渉窓口を独占し、淀殿らの容れられない案を持ち帰り、ついには大坂城を出て徳川方に立った——その軌跡は、旧主を見限った変節と映る。退去そのものが開戦を招いた以上、結果責任は重いという見方もある。
だが、両者は本当に対立するのだろうか。且元は主観において忠臣たろうとし、客観においては豊臣を滅ぼす側に回った。この矛盾は、彼の人格の二面性ではなく、立場の構造から生まれている。且元は忠臣か裏切り者かのどちらか一方ではなく、忠臣であろうとして裏切り者の位置に立たされた、構造に引き裂かれた人物だった。且元を二者択一で裁くと、彼を縛っていた板挟みの構造そのものが見えなくなってしまう。
方広寺鐘銘事件は本当に「言いがかり」だったのか
且元の運命を決した方広寺鐘銘事件は、しばしば「家康が豊臣を滅ぼす口実をでっち上げた言いがかり」として語られる。たしかに「国家安康」を家康の諱の分断と読み、「君臣豊楽」を豊臣繁栄の祈念と断じる解釈は、今日の目には強引に映る。開戦の口実を探していた徳川方の政治的意図は、否定しがたい。
ただし、当時の文脈を踏まえると、話はもう少し込み入っている。諱を犯すことを重く見る当時の作法からすれば、銘文の選び方に配慮を欠いた面があったとの指摘もある。崇伝ら徳川方の知識人は、その形式的な瑕疵を突いた。言いがかりの政治性と、形式上の落ち度とが、ここでは重なっている。
要するに、鐘銘事件は「純然たるでっち上げ」と切り捨てるより、徳川の政治的意図が、銘文の形式的な隙を巧みに利用した事件と読むのが正確だろう。鐘銘への難詰は徳川による開戦口実づくりの色彩が濃いが、銘文の側にも形式的な隙があり、その双方が事件を成立させた。「言いがかり」の一語で片づけず、政治的意図と形式的瑕疵の重なりを見ると、事件の構図はより立体的になる。
三案は且元の独断だったのか
且元が大坂へ持ち帰った三案——秀頼の江戸参勤、淀殿の人質、大坂城退去——は、豊臣家中の不信を決定づけた。ここで問われるのは、この苛烈な案が、はたして且元自身の発案だったのか、それとも徳川方から引き出されたものだったのか、という点である。
史料の伝えるところには幅がある。徳川方が突きつけた要求を且元が持ち帰ったとも、交渉のなかで且元が落としどころとして示したものとも読める。いずれにせよ確かなのは、これらの案が豊臣家の存続そのものを揺るがす重い内容であり、且元が単独でその責めを負う立場に置かれた、という事実である。
加えて事態をこじらせたのが、大蔵卿局との交渉の食い違いだった。同じ駿府で、且元は厳しい案を、大蔵卿局は穏やかな言葉を得たとされる。この落差が、且元の内通という疑念を生んだ。三案の出所には史料上の幅があるが、その重い内容と大蔵卿局との対応の落差が、且元一人に疑いを集中させたことは確かである。三案をめぐる謎は、且元個人の忠奸よりも、豊臣家中の交渉が一本化されていなかった構造的な弱点を映している。
淀殿と大蔵卿局との対立をどう見るか
且元の悲劇を語るうえで欠かせないのが、淀殿とその側近・大蔵卿局ら、大坂城の主戦派との対立である。徳川への譲歩を説く且元と、豊臣の誇りを守ろうとする彼女たち。両者の溝は、豊臣家の運命を左右する深刻な亀裂となった。
これを「賢明な且元 対 愚かな淀殿」という単純な図式で描くのは、公平を欠く。淀殿らにとって、且元の三案は豊臣家の誇りと存立を投げ捨てる降伏に等しく、それを拒むのは当然の感情でもあった。和平派と主戦派、どちらにも言い分があり、どちらも豊臣家を思う一念では一致していた。悲劇は、その思いが正反対の方向を向いたことにある。
つまり、且元と大坂城の女性たちの対立は、忠と不忠の対立ではなく、家を守る方法をめぐる路線の対立だった。且元と淀殿らの対立は善悪の構図ではなく、豊臣家を守ろうとする者どうしが、和平か抗戦かで引き裂かれた悲劇だった。主戦派と和平派の双方に正当性を認めてこそ、豊臣家滅亡の悲劇の深さが見えてくる。
片桐且元像を確度で整理する
片桐且元を読むとき危ういのは、「忠臣か裏切り者か」という後世の評価の枠に引きずられて、史実の骨格と解釈・伝承を混ぜてしまうことである。どこまでが動かしにくい骨格で、どこからが評価や諸説の領域なのかを表に分けると、人物像はかなり落ち着く。
| 論点 | 読み方 | 確度 |
|---|---|---|
| 生年(弘治2年・1556年) | 通説。近江国浅井郡の生まれとされる | 中〜高 |
| 近江浅井氏旧臣からの出自 | 浅井氏滅亡後に秀吉へ仕えた子飼いの家系 | 高 |
| 通称・助作/諱・且元 | 通称助作、諱且元は確実。初名を直盛とする説もある | 中〜高 |
| 官位・東市正(市正) | 東市正(市正)を称したことは確実 | 高 |
| 賤ヶ岳七本槍の武功 | 賤ヶ岳での武功は確実、「七本槍」の括りは後世の顕彰 | 中〜高 |
| 茨木城主 | 通説だが弟・貞隆を城主とする見方もある | 中 |
| 秀頼の傅役・家老 | 秀吉死後に秀頼の後見役・家老となった骨格は確実 | 高 |
| 関ヶ原での去就 | 東西いずれかへの単純な色分けは難しく諸説ある | 諸説 |
| 戦後の徳川取次役 | 戦後に秀頼の立場を家康に説き取次役を得た | 中〜高 |
| 大和竜田2.8万石(慶長6年) | 1601年に大和竜田で2万8千石を与えられた | 高 |
| のちの加増・4万石 | 後年4万石を称される段階があり「終生2.8万石」は不正確 | 中〜高 |
| 鐘銘「国家安康・君臣豊楽」 | 銘文と徳川方の難詰は確実 | 高 |
| 鐘銘難詰の「言いがかり」性 | 開戦口実の政治性が濃いが形式的瑕疵の指摘もある | 中〜高 |
| 駿府交渉と三案 | 三案を持ち帰った骨格は確実、案の出所には史料上の幅 | 中〜高 |
| 大蔵卿局との交渉の食い違い | 対応の落差が内通疑念を生んだとされる | 中 |
| 暗殺の噂・大坂城退去(1614年10月) | 退去は確実、暗殺計画の実否ははっきりしない | 中 |
| 退去が冬の陣開戦の引き金 | 徳川方に大義名分を与えたとされる | 中〜高 |
| 大坂の陣で徳川方に参陣 | 旧主と戦う徳川方として参陣したことは確実 | 高 |
| 没日(慶長20年5月28日) | 大坂落城の直後、5月28日没が基本線 | 高 |
| 死因(病死か自害か) | 病死が基本線、心労や自害とする異説も流布 | 中 |
| 享年60 | 享年60が通説、数えに諸説もある | 中〜高 |
| 甥・片桐石州と石州流 | 弟貞隆の子・石州が武家茶道石州流の祖、確実 | 高 |
| 弟・貞隆系の小泉藩存続 | 片桐家は小泉藩として存続した | 高 |
結論を短く言えば、片桐且元を「豊臣家を見限った変節漢」と切り捨てるのは粗い。彼はむしろ、滅亡を避けようと最後まで奔走した調停者だったと見るほうが、史料の骨格には合う。だが、豊臣家の家老でありながら徳川の取次をも担うという二重の立場は、両家の対立が決定的になった瞬間に、構造として破綻するほかなかった。三案は屈辱的であっても、且元にとっては家を残すための、最後の現実的な選択だったのだろう。
且元の実像へ近づくには、賤ヶ岳の武功、吏僚としての実務、秀頼の傅役という重責、方広寺事件での苦闘、そして旧主と戦う痛苦までを、「板挟み」という一本の軸で貫いて見る必要がある。要するに、片桐且元は、忠臣か裏切り者かという二者択一では捉えきれない、豊臣と徳川のはざまで引き裂かれた調停者として、戦国の終わりに立っている。
参戦合戦
片桐且元|豊臣と徳川に引き裂かれた秀頼の家老の逸話
- 01
七本槍という栄誉 — 顕彰がつくった英雄像

片桐且元の武名を今に伝えるのが、「賤ヶ岳の七本槍」の一人という栄誉である。天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いで、加藤清正や福島正則らとともに目覚ましい槍働きを見せた若武者として、且元の名は語り継がれてきた。
ただし、この「七本槍」という括りは、慎重に読みたい。実際に活躍した者はもっと多かったとも、人数や顔ぶれは記録によって揺れるともいわれ、「七本」という座りのよい数字に整えられたのは、後世の顕彰や軍記物のなかでのことだった可能性が高い。秀吉自身による若武者たちの売り出しという、政治的な演出も指摘される。
とはいえ、且元が賤ヶ岳で確かな武功を挙げ、相応の恩賞を得たという骨格は揺るがない。演出された英雄譚という側面を割り引いてもなお、若き日の且元が武辺の将であったことは確かである。「七本槍」は後世が整えた英雄の枠組みだが、且元自身が賤ヶ岳で武功を立てた事実そのものは、確かな土台の上に立っている。華やかな七本槍の誉れは、のちに吏僚として家を支える且元の、もう一つの原点を映している。
- 02
茶を継ぐ家 — 甥・片桐石州と石州流

片桐且元は、武辺と算盤の人であると同時に、茶の湯に親しむ教養人でもあった。戦国武将にとって茶の湯は単なる趣味ではなく、人と人を結ぶ社交であり、ときに政治の場でもある。且元もまた、その素養を身につけた一人だった。
そして片桐の家からは、茶の歴史に名を刻む人物が出る。且元の弟・貞隆の子、すなわち且元の甥にあたる片桐石州(貞昌)である。石州は、のちに将軍家の茶道指南役を務め、武家茶道の一大流派「石州流」の祖と仰がれることになった。大和小泉の地に建てた慈光院は、その茶の精神を今に伝えている。
且元自身を偉大な茶人として立てすぎるのは、史実を超える。だが、彼を含む片桐一族のあいだに、茶を尊ぶ気風が流れていたことは間違いない。且元は茶の湯に通じた武将であり、その一族からは武家茶道の祖・片桐石州が出て、片桐の名を茶の歴史にも刻んだ。槍と算盤の家に流れた茶の素養は、甥・石州の代に至って、ひとつの大きな流派へと結実した。
- 03
五月二十八日の死 — 病か、心労か、それとも

慶長二十年(一六一五年)五月、大坂城が落ち、豊臣家が滅んだ。そのわずか二十日ほど後の五月二十八日、片桐且元は六十年の生涯を閉じる。あまりに象徴的なこの死は、後世さまざまに取り沙汰されてきた。
最も穏当な見方は、病死である。長年の心労に加え、旧主・豊臣家の滅亡を目の当たりにした衝撃が、すでに老境にあった且元の身体を蝕んだ、と考えれば自然だろう。一方で、守り抜けなかった豊臣家への自責から自害したのだ、とする異説も古くから語られてきた。死の場所についても諸説があり、確かなことははっきりしない。
確実なのは、その死が豊臣滅亡と時をほとんど同じくしていたという、動かしがたい事実だけである。且元の死因は病死とみるのが基本線だが、旧主の滅亡直後という時期ゆえに、自害説まで含めてさまざまに語られ、確たることは定めにくい。豊臣家の最期を見届けるようにして果てた且元の死は、彼の生涯が旧主の運命と一体だったことを、静かに物語っている。
関連人物
所縁の地
- 茨木城跡大阪府茨木市片桐町
片桐且元が城主を務めたと伝わる摂津の平城の跡。市街化により遺構の多くは失われたが、城門を模した楼門が茨木小学校に設けられ、城跡の記憶を今に伝える。城のあった一帯は片桐町の名を残し、且元ゆかりの地として親しまれている。
- 方広寺京都府京都市東山区
豊臣秀吉が大仏を安置するために建立し、子の秀頼が再建した寺。その梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が方広寺鐘銘事件を引き起こした。問題の梵鐘は今も境内に現存し、且元が奔走した交渉の発端を静かに伝えている。
- 大坂城大阪府大阪市中央区
豊臣家の本拠であり、片桐且元が秀頼の傅役・家老として支えた巨城。鐘銘事件のあと内通を疑われた且元はこの城を退去し、それが大坂の陣開戦の引き金となった。現在の天守は後年の再建だが、豊臣家と且元の運命が交錯した舞台である。
- 竜田(片桐氏ゆかりの地)奈良県生駒郡斑鳩町
慶長六年(一六〇一年)に片桐且元が二万八千石を与えられた大和竜田の地。且元の没後は嫡男・孝利が竜田藩を継いだ。法隆寺にほど近いこの地には、且元が治水や社寺の修復に関わったとの伝承も残り、片桐家ゆかりの土地として知られる。


