かとう よしあき
加藤嘉明賤ヶ岳七本槍と松山城、会津40万石への生涯
- 生没年
- 1563–1631
- 出身
- 三河(現・愛知県)
- 家
- 豊臣
- 主な合戦
- 4

- 生年
- 永禄6年(1563年)三河出身/生年には1562年説もある
- 没年
- 寛永8年(1631年)旧暦9月12日、江戸桜田の屋敷で病没/数え69歳
- 主な領地
- 伊予20万石 → 会津40万石伊予入封は1595年/関ヶ原後に加増
- 主な事績
- 七本槍・水軍・松山築城松山城の築城開始は1602年
加藤嘉明の読み方は「かとう よしあき」。豊臣秀吉に仕えた賤ヶ岳七本槍の一人で、水軍を率い、伊予で松山城を築いた武将である。関ヶ原の戦いでは家康方の東軍に属し、伊予20万石、晩年には会津40万石の大名となった。
同じ七本槍の加藤清正とは別人で、兄弟ではない。銀色の富士山形兜でも知られ、松山には築城の足跡、水口には子孫の家に伝わった文書や武具が残る。 1631年、会津藩主だった嘉明は江戸の屋敷で病没した。戦いと築城だけでなく、手紙や伝来品からも、その生涯をたどっていこう。
人物画像と各場面は創作イメージであり、本人の容貌や当日の装束を復元した資料ではない。
孫六と呼ばれた若者――出自と仕官の伝承

加藤嘉明は、永禄6年(1563年)に三河国で生まれたとされる。通称は孫六で、のちに左馬助と呼ばれた。愛媛県歴史文化博物館の書状研究では、房次・茂勝・吉明を経て嘉明へと名を改めたことがわかっている。松山城の公式解説は、出生地を幡豆郡永良、現在の愛知県西尾市内としている。
父は教明と伝わる。『愛媛県史』は、父が松平家を離れ、嘉明も流浪の生活を送ったという経歴を紹介する。ただし、幼少期を詳しくたどる話には、後世の家伝や人物伝による部分が多い。父子がいつ、どのような経路で移動したのかまで、同時代の記録で連続して追えるわけではない。
馬を扱う才能を認められ、加藤景泰の推挙によって秀吉に仕えたという話もその一つだ。松山城の紹介では、馬との縁が仕官につながる逸話として語られている。仕官の細部を確定できる記録ではないが、馬を扱う若者として嘉明が記憶されたことを伝える。
その後の嘉明は、豊臣秀吉に近侍する武将として姿を現す。生涯の出発点には不明な部分が残るが、賤ヶ岳での軍功は、幼少期の物語とは異なる史料で確かめられる。まず押さえたいのは、三河出身の孫六が秀吉の配下に入り、近習の武将として戦ったという経歴である。
賤ヶ岳の戦い――七本槍に数えられた軍功

天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家が近江の賤ヶ岳周辺で戦った。嘉明は秀吉方として参戦し、軍功を挙げた若い武将の一人に数えられる。1563年生まれとすると、当時は数え21歳だった。
賤ヶ岳七本槍とは、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・片桐且元・平野長泰・糟屋武則の七人を指す呼び名である。ただし、当日の活躍を「この七人だけで勝った」と理解してはいけない。戦場には大勢の兵が動き、近習の功績を記す史料にも七人以外の名がある。
熊本市の解説『加藤清正の実像』は、合戦直後に成立した『柴田退治記』に注目している。そこには嘉明を含む九人の近習が記され、後に七本槍として知られる顔ぶれのほか、桜井左吉と石河一光も挙がる。七本槍という有名なまとまりと、史料に残る功績者の範囲には違いがある。
嘉明はこの戦功で3,000石を得たと伝えられる。若年の逸話よりも、秀吉のもとで評価を受けたことがはっきり見えてくる時期だ。一方、一騎討ちの相手や槍を振るった瞬間の様子まで、名前だけから補うことはできない。嘉明と勝家は戦役上の敵同士であり、本人同士が直接戦ったという意味ではない。
秀吉の近習だった嘉明は、やがて兵や船をまとめる立場へ進む。七本槍の肩書きは出世の入口だが、その後の仕事は賤ヶ岳の武勇だけでは説明できない。
秀吉の水軍を率い、伊予の領主になる

天正14年(1586年)、嘉明は淡路の志知で1万5,000石を領するようになった。海に面する領地を持ち、秀吉の戦争で船手の役割を担っていく。陸上で槍を取った武将が、水軍を率いる大名へと仕事の幅を広げたのである。
文禄元年(1592年)に始まる朝鮮出兵では、嘉明は日本側の水軍を指揮した。朝鮮水軍の将だったのではない。藤堂高虎や脇坂安治らとともに海上の作戦に加わったが、日本側は李舜臣の水軍に苦戦する。海戦の経歴を、一方的な勝利の積み重ねとして描くことはできない。
文禄4年(1595年)には伊予の正木城へ移った。正木は松前とも書き、現在の松前町にあたる。松山市の年表によると、領地は6万石で、これとは別に豊臣家の蔵入地4万石を管理する代官にもなった。預かった土地を、自分の領地と同じように合算しないことが大切だ。
慶長2年(1597年)の再出兵でも水軍を率いた。漆川梁の海戦では日本側の勝利に加わる一方、軍功の報告をめぐって高虎との間に争いが生じた。早川長政から嘉明に宛てた書状は、そのやり取りを伝えている。戦場で共に働いた武将同士でも、恩賞につながる評価は切実な問題だった。
翌1598年、嘉明の所領は10万石となる。松山城を築く前から、すでに伊予に足場を持っていた。この順序を押さえると、関ヶ原の後に何が変わったのかも見通しやすい。
家康方で戦い、伊予20万石へ

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、豊臣政権の大名たちは新たな政治関係を結び直していく。嘉明は徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。石田三成とは、この戦役で敵対する立場になった。
決戦だけでなく、その前の動きも見ておきたい。松山市の歴史年表には、同年8月、嘉明が岐阜の稲葉城を攻めたことが載る。岐阜城を守っていたのは織田秀信だった。嘉明は美濃へ進む東軍の一員として働き、9月の関ヶ原にも加わったのである。
嘉明が遠征する間、伊予では別の戦いが起きていた。留守を任された佃十成らが、三津に上陸した西軍側の兵を迎え撃つ。三津・久米の戦いは、嘉明本人が関ヶ原から駆け戻って指揮したものではない。出陣した主君と、領国を守る家臣団が別々の場所で動いていた。
戦後、嘉明は伊予20万石へ加増された。1595年に6万石で正木へ入り、1598年に10万石、関ヶ原後に20万石という順になる。淡路から関ヶ原を経て初めて伊予へ来たわけではない。この加増によって、より広い領地を治めるための拠点整備が課題となった。
家康への接近を、三成個人への憎しみだけで説明するのも慎重でありたい。軍事行動と戦後の処遇は確認できるが、その時々の胸中まで書状が語っているわけではない。秀吉の旧臣だった嘉明は、家康の勝利後も領地と家臣団を維持し、徳川の政権下で大名として存続した。
1602年、勝山で築城が始まる

慶長7年(1602年)、嘉明は勝山で新しい城の建設を始めた。松山城の公式年表では、前年に築城の許可を得て、家臣の足立重信を普請奉行として工事に着手したとされる。翌1603年には正木から移り、この地を松山と呼ぶようになった。
嘉明の事業は、山頂に天守を建てることだけではない。家臣の屋敷や町人の生活の場を整え、城下町をつくる必要があった。川が流れる平野に市街地を広げるには、洪水への備えも欠かせない。松山の成り立ちは、城と町、川の関係をあわせて見ると理解しやすい。
足立重信は、築城や治水を担った家臣として地域で顕彰されている。ただし『愛媛県史』は、その業績を詳しくたどる確実な資料が乏しいことにも触れている。嘉明が工事を命じたことと、個々の設計をすべて嘉明自身が考えたことは同じではない。重信ら家臣や、工事に携わった人々の役割も分けて考える必要がある。
築城は長期にわたり、嘉明が会津へ移った後にも整備が続いた。さらに城は後代の改築や火災を経験する。現在の大天守は安政元年(1854年)に再建されたもので、嘉明が見た天守そのものではない。
それでも、嘉明が松山城と城下町の出発点をつくったことは変わらない。城を訪ねるときは、嘉明の築城開始、後の城主による整備、現在残る建物の年代という三つを分けると、一つの城に重なる歴史が見えてくる。
1627年、伊予から会津へ転封

寛永4年(1627年)、嘉明は伊予松山から陸奥会津へ移り、40万石を領した。城を築き始めてから約25年。領地は大きくなったが、長く整備してきた松山を離れ、新しい土地で大名家の運営を始めることになった。
嘉明が入ったのは会津若松城である。会津への移転は、家臣団や一族の配置も伴った。三男の明利は三春を経て二本松を領し、娘を通じてつながる松下家も近隣に配置された。三春町の歴史資料は、加藤家と松下家の支配が入れ替わった経緯を伝えている。
この転封に関してよく知られるのが、藤堂高虎が嘉明を推挙したという話だ。『愛媛県史』は『加藤嘉明公伝』などを引き、長く不仲だった二人がこれを機に関係を改めたと紹介する。転封そのものは確認できる事実だが、推挙の場の会話や和解の細部は、後世にまとめられた話として扱う必要がある。
会津では城や交通路の整備が進められ、事業は後継者にも引き継がれた。若松城の大きな修築を、すべて嘉明一代の仕事にまとめると、嫡男・明成の時代と混ざってしまう。嘉明が会津を領した期間は、1627年から1631年までの約4年だった。
松山を築いた武将と会津藩主は、別の人物ではない。秀吉の近習から水軍の将となり、徳川政権下の大名へと立場を変えてきた嘉明の晩年が、会津に続いている。
江戸桜田で病没――明成とその後の加藤家

寛永8年(1631年)旧暦9月12日、嘉明は江戸桜田の屋敷で病没した。『愛媛県史』がこの場所を記し、複数の人名辞典も江戸での死を伝える。会津藩主だったことと、会津で亡くなったことは別である。1563年生まれとする場合、享年69は数え年にあたる。
具体的な病名は、今回確認した資料では特定できない。嘉明が腹の病から回復したと伝える書状は残っているが、それを最後の病気に結びつけることはできない。病没という記述から、現代の病名を推測して断定するのも避けたい。
家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。は嫡男の明成が継いだ。その後、家臣の堀主水との対立などを経て、1643年に加藤家は会津の領地を失う。これは嘉明の死から12年後の出来事だ。会津騒動の細かな経緯には後世の記述も多く、嘉明自身の失政や処罰として説明するのは誤りである。
会津の領地を失っても、家そのものが断絶したわけではなかった。明成の子・明友に所領が与えられ、その家は1682年に近江水口へ移る。甲賀市に伝わる水口藩加藤家文書は、嘉明以来の家の歩みを調べる手掛かりとなっている。
賤ヶ岳、伊予松山、会津、近江水口。嘉明本人の生涯と、没後の子孫の歴史を区切って追うことで、この家がどのように土地を移りながら続いたのかがわかる。
史料の読み解き
加藤嘉明の読み方・別名と、加藤清正との関係
「嘉明」は「よしあき」と読む。人名辞典の項目でも、この読みが採られている。通称の孫六、官職名に由来する左馬助でも知られる。辞典では初名を茂勝とするものがあるが、愛媛県歴史文化博物館の解説は、新たな資料から房次という名も判明したとする。同館が示す改名の順序は、房次・茂勝・吉明・嘉明である。史料を探す際には、通称や官職名に加え、改名前の名にも目を向けたい。
加藤清正とは、同じ秀吉の配下で賤ヶ岳七本槍に数えられた関係にある。姓が同じでも兄弟というわけではなく、嘉明の家系図に清正を入れる根拠はない。また、今回確認した資料からは、二人の遠い血縁まで確定できない。
二人を見分ける手掛かりは、主に治めた土地だ。嘉明は伊予松山と会津、清正は肥後熊本に結びつく。朝鮮出兵ではともに秀吉に従ったが、嘉明は水軍の指揮に携わった。同じ出世のきっかけを持つ武将でも、その後の領地や役割まで同じではない。
「加藤清正と嘉明は不仲だった」という断定を裏づける具体的な記録は、今回の調査では確認できなかった。嘉明について書状で争いを確かめられる相手は、後述する藤堂高虎である。
家系図と子孫――会津を失った後も続いた加藤家
嘉明の父は教明と伝わり、嫡男の明成が会津の家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継いだ。ここでは主な親子関係を抜粋する。すべての子女や婚姻を網羅した系図ではない。
| 嘉明との関係 | 人物 | 確認できるつながり |
|---|---|---|
| 父 | 加藤教明 | 嘉明の父として家伝・自治体史に記される |
| 長男 | 加藤明成 | 嘉明没後の会津藩主 |
| 三男 | 加藤明利 | 三春を経て二本松を領した |
| 娘 | 星覚院 | 松下長綱の母。三春町の資料に記載 |
| 孫 | 加藤明友 | 明成の子。後に近江水口へ移る家の当主 |
系譜の中心を短く示すと、嘉明―明成―明友という流れになる。明成は1643年に会津領を失ったが、明友には別の所領が与えられた。その後、1682年に水口へ移り、加藤家は江戸時代を通じて存続した。「会津加藤家が改易された」と「嘉明の子孫が絶えた」は、同じ意味ではない。
甲賀市の水口藩加藤家文書の解説は、その存続を物から確かめる手掛かりになる。この文書群には秀吉の朱印状や、徳川将軍家の御内書が伝わっている。土地が変わっても家に保管された記録が受け継がれ、藩政や近代への移行をたどれるのである。
娘を通じた系譜は、三春町の「加藤松下旧臣」でも確認できる。同資料は、嘉明の娘・星覚院と松下長綱の関係、加藤家・松下家の旧臣たちを紹介する。家の歴史は、当主を継いだ男子の一本の線だけで尽くせるものではない。
現在の子孫については、名字が加藤であることや、嘉明ゆかりの土地に住んでいることだけでは血縁の証明にならない。本稿でたどるのは、公的に紹介されている家の系譜と伝来資料までである。現代の個人を推測で系図へ付け加えることはしない。
死因と最期――会津藩主は江戸で亡くなった
嘉明は1631年、江戸桜田の屋敷で病没した。日付は寛永8年9月12日で、これは旧暦の表記である。「享年69」は1563年生まれを前提とした数え年であり、満年齢の69歳とそのまま置き換えられない。
具体的に何の病気だったのかは、確認できた資料からは特定できない。『愛媛県史』は江戸の屋敷での病没を記す。一方、文化遺産オンラインの病気見舞いへの礼状には、腹の病から回復したことが記される。両者を合わせても、それが最期の病気だったとは結論できない。
なお、生年には1562年とする辞典もある。基本情報は、松山城の解説や複数の人名辞典が採る1563年を基準とした。異なる数字に出会ったときは、単に誤記と決めつけず、生年の説と年齢の数え方を確かめたい。
兜・甲冑・イカ――富士山形をした変わり兜
嘉明の兜として知られるのが、左右に大きく張り出した富士山形の兜である。サントリー美術館の2008年展覧会作品リストでは、No.115に「銀箔押富士山形兜」が載る。所蔵先は靖国神社遊就館で、嘉明所用という伝来を持つ品として記されている。
形を見てイカを連想する人もいるが、「イカ」はこの作品リストの名称ではない。史料や展示情報を探す場合は、富士山形兜という名称を手掛かりにする方が確かである。形から生まれた現代の連想と、所蔵品としての名称を分けておこう。
もう一つ注意したいのは「伝加藤嘉明所用」の「伝」である。これは嘉明が用いたという伝来を示す。嘉明がどの合戦で着用したか、いつ手に入れたかまで、この名称だけから決めることはできない。賤ヶ岳の場面に同じ兜を描いた作品があっても、その絵が当年の着用を証明するわけではない。
甲冑を見る際も、兜と胴、袖、籠手が同じ由来を持つ一具なのかを確かめる必要がある。本稿の人物画は、銀色の富士山形兜と黒い甲冑をまとった姿で統一している。場面を伝えるための創作であり、現存品の復元図とは区別している。
刀と十字形洋剣――秀吉から授かったという伝承
嘉明ゆかりの武器には、一般的な日本刀とは形の異なる十字形洋剣がある。滋賀県甲賀市の藤栄神社に伝わり、秀吉から嘉明に与えられた品とされる。東京文化財研究所の研究会報告は、その伝来と構造を検討している。
この剣は、刀身だけでなく柄や鞘のつくりにも研究上の関心が向けられてきた。甲賀市の文化財審議資料では、全長104.5センチとされ、外国製の刀身と日本の金工・漆工を組み合わせた構成が論じられる。また、柄の内部が空洞であることなどから、実用品より儀礼用の性格が考えられている。
したがって「嘉明が関ヶ原で振るった愛刀」と紹介するのは行き過ぎになる。秀吉下賜という伝承、現在残る実物、材質や構造の調査結果は、それぞれ異なる種類の情報だ。一つの武器について語る場合でも、その区別を保つ必要がある。
甲賀市の資料は、現存する品が江戸時代初期に儀礼用として整えられた可能性を示している。秀吉から授かったという伝承だけでは、刀身と拵のすべてが同時期につくられたとは限らない。外国の刀身に日本の工芸を組み合わせたこの品は、加藤家の伝来と東西の交流を考える手掛かりになる。
家紋は蛇の目紋――兜の形とは別の印
松山城の歴史解説では、加藤家の家紋として蛇の目が示されている。読み方は「じゃのめ」。円の中央を抜いたような輪の形で、蛇の目に見立てた名称である。
家紋は家を示す印であり、兜の形とは別のものだ。富士山形の兜を着けているから、家紋も富士山になるわけではない。また、蛇の目紋だけを見て、あらゆる品を嘉明本人の持ち物と判断することもできない。所蔵先の説明や、いつ誰から伝わったのかという来歴をあわせて確かめたい。
城に残る紋を見る場合も同様である。松山城には加藤家の後にも別の大名家が入った。建物や瓦にある印を読む際は、それがどの時期の城主と結びつくのかを見分けると、城主の交代が具体的にわかる。
藤堂高虎との関係――軍功争いと会津転封の話
嘉明と藤堂高虎は、朝鮮出兵でともに水軍を率い、関ヶ原では東軍に属した。同じ側で戦っていても、常に親しかったわけではない。愛媛県歴史文化博物館の史料解説は、慶長の役での軍功評価をめぐる対立を、1597年の早川長政書状から説明している。
二人は漆川梁の海戦で勝利に貢献したが、現地での評価に差が生まれた。嘉明は、高虎が秀吉へ直接報告したことを問題にしたという。嘉明自身も、戦功がどのように報告されるかに強い関心を持っていた。この史料からは、ただ黙って働く人物という一面的な像に収まらない姿が見える。
会津転封に際して高虎が嘉明を推したという話は、これとは別に伝わる。不仲だった相手の力量を認めた逸話として知られるが、その場の会話を再現したものではない。同時代の手紙で確認できる争いと、後世の人物伝で語られる和解を、一続きの記録と見なさないことが大切だ。
秀吉・家康・石田三成――主従と敵対を分ける
嘉明の出世を支えた主君は秀吉だった。賤ヶ岳での軍功、船手としての働き、淡路や伊予の領地は、豊臣政権下での経歴である。水口に伝わる加藤家文書にも、秀吉の朱印状が残る。嘉明を初めから徳川だけに仕えた武将とするのは、その前半生を落としてしまう。
家康との関係が生涯の転機となるのは、秀吉没後である。関ヶ原で東軍に属し、戦後に加増されると、嘉明は徳川政権下で大名としての地位を保った。秀忠・家光の時代にも生き、会津への転封を経験する。 1629年の朝倉宣親宛書状には、家光の御成に関する祝いのやり取りも見える。
石田三成とは、関ヶ原の戦役で対立した。ただし、嘉明の判断を「武断派だから」「三成が嫌いだったから」という一言で片づけると、領地や家臣団を抱える大名としての立場が見えなくなる。陣営の選択は確認できても、それを説明する心理まで同じ確かさで語れるわけではない。
本稿の関連人物にある対戦相手は、戦役上の敵側を含む。柴田勝家は賤ヶ岳、織田秀信は岐阜城攻め、三成は関ヶ原での関係である。三人すべてと嘉明が一騎討ちをした、という意味ではない。
家臣たち――松山の築城と留守を支えた人々
嘉明の仕事を本人一人の力量だけで語ると、家臣団の役割が抜け落ちる。とりわけ松山では、築城・治水に関わる足立重信と、留守の軍事を担った佃十成が重要になる。『愛媛県史』の家臣解説は、ほかに堀主水や塙直之も取り上げている。
| 家臣 | 主な関わり | 読む際の注意 |
|---|---|---|
| 足立重信 | 松山築城・城下町整備・治水 | 個々の業績の年代や伝承は、確実な史料の有無を分ける |
| 佃十成 | 朝鮮出兵、関ヶ原期の伊予の防衛 | 嘉明本人の関ヶ原での行動と混同しない |
| 堀主水 | 嘉明・明成の家老 | 明成との対立は嘉明没後の経緯を含む |
| 塙直之(団右衛門) | 嘉明に仕えた後、大坂方で戦う | 嘉明との口論などの細部は逸話として扱う |
武功や築城の記録だけでは、領国の暮らし全体はわからない。県史には、1626年に久万山の庄屋たちが佃十成の支配について訴えた話も載る。年貢や労役への不満があり、嘉明の側で処置が取られたという記述である。家臣に優しいという逸話だけを取り上げると、こうした領民との関係が見えなくなる。
松山の築城をたどるときは、建物を残した領主とともに、工事を進めた家臣や労役を担った人々にも目を向けたい。
史実・伝承の確かさを整理する
| 事項 | 本稿での扱い | 根拠と限界 |
|---|---|---|
| 読み方は「かとう よしあき」 | 確認できる | 人名辞典・松山城公式解説 |
| 賤ヶ岳で秀吉方として軍功を挙げた | 確認できる | 『柴田退治記』を紹介する熊本市の解説など |
| 七本槍だけが近習の功績者だった | 採らない | 同史料には九人の名がある |
| 伊予入封1595年、関ヶ原後20万石 | 確認できる | 松山市の年表・県史・辞典 |
| 高虎と軍功報告をめぐって争った | 書状から確認できる | 1597年早川長政書状の専門機関解説 |
| 高虎の推挙で和解した | 伝承として紹介 | 後世の人物伝を引く県史 |
| 清正と兄弟、不仲だった | 採らない | 兄弟の系譜ではなく、不仲の具体的根拠も未確認 |
| 1631年に江戸で病没した | 確認できる | 県史と複数の人名辞典 |
| 腹の病がそのまま死因だった | 判断できない | 礼状は回復を伝え、年も幅がある |
| 富士山形兜を嘉明が用いた | 所用の伝承がある | 美術館リストの「伝」の表記を尊重 |
| 十字形洋剣を関ヶ原で使用した | 判断できない | 伝来と実戦使用を区別 |
| 皿を割って家臣をかばった | 逸話として紹介 | 後世の再話からの紹介 |
| 会津改易で子孫が断絶した | 採らない | 水口藩加藤家と伝来文書が続く |
参戦合戦
加藤嘉明の逸話
- 逸話 01
残りの皿も割ったという逸話

割れた皿を前にする嘉明の創作イメージ。後世の逸話を題材としている · AI生成イメージ 嘉明には、家臣が十枚組の皿を一枚割ってしまったとき、残りの九枚も自分で割ったという話が伝わる。皿が残れば、取り出すたびに失敗した家臣の名が挙がる。それを避けるためだった、という筋立てである。器より家臣を大切にする人物像を伝える逸話だ。
ただし、ここで参照した小学館『和樂web』の記事は、現代の逸話集をもとにした再話である。出来事の年月や、実際に交わされた言葉を確定できる記録としては使えない。場面の細かな会話を嘉明の名言として引用せず、後世に語られてきた話として紹介しておきたい。
領主としての嘉明を知るには、美談だけでなく家臣の統制や年貢をめぐる記録も必要になる。皿の話は人柄を考える入口にはなるが、生涯の統治が常に温厚だったと証明するものではない。
- 逸話 02
高虎との争いは、手紙にも残る

書状を読む嘉明の創作イメージ。高虎本人や実物の書状は描いていない · AI生成イメージ 嘉明と藤堂高虎の不仲は、すべてが後世の作り話というわけではない。愛媛県歴史文化博物館が紹介する1597年10月26日付の早川長政書状には、朝鮮での軍功評価をめぐる嘉明への返答が残る。高虎の報告の仕方を問題にした嘉明に対し、長政は、見たままを報告するという趣旨で答えている。
一方、同じ問題に対する竹中重利らの反応は異なっていたと、同館の解説は指摘する。複数の返書を照らすことで、戦功を報告される側と評価する側の関係が見えてくる。
後年の会津転封には、高虎の推挙で二人が和解したという話もある。ただし、それはこの1597年の書状が直接証明する出来事ではない。不仲の発端を伝える同時代の手紙と、後世の和解物語を分けて読むことが、二人の関係を理解する手掛かりになる。
- 逸話 03
病気見舞いへの礼状から見える日常

薬碗を手にする晩年の嘉明の創作イメージ。病名や死因を示すものではない · AI生成イメージ 文化遺産オンラインに掲載された嘉明の書状には、腹の病を見舞われたことへの礼と、贈られた鰹についての記述がある。医師の曲直瀬玄朔に相談し、薬を服用して快方に向かったことも伝える。体調を気遣い、礼を述べる大名の日常がうかがえる資料だ。
この書状は、慶長16年から寛永8年、すなわち1611〜1631年の範囲に位置づけられている。年を一点に決められないうえ、内容は回復を伝えるものなので、嘉明の死因を特定する証拠にはならない。
史料に病気が出てくると、最期の謎が解けたように感じるかもしれない。しかし、書かれた時期と、その後の経過を分けて考える必要がある。わかることは、嘉明が一時腹の病を患い、治療と見舞いのやり取りをしたという範囲までである。
関連人物
- 加藤教明
- 加藤明成(会津藩主)
- 加藤明利(二本松藩主)
- 星覚院(松下長綱の母)
所縁の地
- 松山城
嘉明が1602年に築城を始めた城。城下町の形成とあわせて足跡をたどれる。現在の大天守は1854年の再建であり、嘉明の時代の建物がそのまま残るわけではない。城の位置と後代の建築を分けて見るとよい。
- 会津若松城(鶴ヶ城)
嘉明が1627年に会津へ移った際の居城。加藤家の時代には城の整備が進められ、後継の明成にも引き継がれた。嘉明が会津を領した約4年間と、明成の時代の工事を区別してたどりたい。
- 藤栄神社
嘉明を祭る神社で、水口へ移った加藤家とのつながりを伝える。秀吉から嘉明に与えられたとされる十字形洋剣が伝来する。所蔵品が常時公開されているという意味ではないため、見学情報とは分けて読む必要がある。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 加藤嘉明(大辞泉・世界大百科事典・日本史小辞典ほか)小学館・平凡社・山川出版社ほか/コトバンク参照日 2026-10-18
- 愛媛県史 近世 上「1 加藤嘉明時代」愛媛県/愛媛県生涯学習センター参照日 2026-10-18
- 愛媛県史 近世 上「2 加藤の家臣たち」愛媛県/愛媛県生涯学習センター参照日 2026-10-18
- 松山の歴史「室町・安土桃山時代」松山市参照日 2026-10-18
- 松山の歴史「江戸時代(1600年代)」松山市参照日 2026-10-18
- 松山城の歴史松山城公式サイト参照日 2026-10-18
- 加藤清正の実像(賤ヶ岳の戦いと柴田退治記)熊本市参照日 2026-10-18
- 嘉明と高虎 不仲の発端――早川長政書状(加藤嘉明宛)愛媛県歴史文化博物館/山内治朋参照日 2026-10-18
- 宛先で筆跡を変える?――加藤嘉明の自筆書状愛媛県歴史文化博物館/山内治朋参照日 2026-10-18
- 水口藩加藤家文書甲賀市参照日 2026-10-18
- 春陽の士9 加藤松下旧臣三春町歴史民俗資料館参照日 2026-10-18
- 加藤嘉明書状(病気見舞いへの礼状)文化遺産オンライン参照日 2026-10-18
- 加藤嘉明書状(寛永6年、朝倉宣親宛)文化遺産オンライン参照日 2026-10-18
- KAZARI 日本美の情熱 展示作品リスト(No.115 銀箔押富士山形兜)サントリー美術館参照日 2026-10-18
- 藤栄神社所蔵の十字形洋剣に関する研究会東京文化財研究所参照日 2026-10-18
- 令和6年3月教育委員会定例会資料(十字形洋剣、PDF53頁)甲賀市教育委員会参照日 2026-10-18
- 毛利元就と加藤嘉明、家臣を胸キュンさせた仰天秘話小学館 和樂web参照日 2026-10-18






















