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戦国時代〜江戸初期仙石氏15511614
武将列伝戦国時代〜江戸初期豊臣

せんごく・ひでひさ

仙石秀久戸次川の戦いと改易、復活の生涯・子孫

享年 64SENGOKU HIDEHISA
生没年
1551–1614
出身
美濃→淡路→讃岐→信濃小諸
家
豊臣
主な合戦
6
仙石秀久の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
  • 豊臣秀吉
  • 戸次川の戦い
  • 改易
生年
天文20年1551年説を採用・1552年説もある
没年
慶長19年1614年旧暦5月6日・鴻巣で没
通称
権兵衛読みは「ごんべえ」・官途は越前守
復帰後の領地
小諸5万石1590年に与えられ、翌年入城
家紋
永楽通宝

仙石秀久(せんごく・ひでひさ)は、戸次川の戦いで大敗して領地を失いながら、小田原征伐を経て小諸五万石の大名へ復帰した武将である。通称は権兵衛。豊臣秀吉の古参家臣として淡路・讃岐へ進出し、晩年は信濃の小諸を治めた。

長宗我部信親らが戦死した戸次川での責任は重い。その一方で、秀久は復帰後も城主として働き、子の忠政へ家をつないでいる。「無能だったのか」という疑問には、敗戦時の判断と、その後の仕事を分けて答える必要がある。

読み方と生涯に続き、改易の理由、長宗我部父子との関係、子孫、永楽通宝の家紋や兜、身長の確かな記録があるかを確かめる。本文の月日は原則として旧暦で、戸次川の合戦日には西暦への換算を併記する。人物や場面の画像はAIによる想像図である。

01出自MINO

仙石秀久の読み方と出自|美濃から秀吉の家臣へ

美濃を出る若い秀久の想像図(AI生成イメージ)
美濃を出る若い秀久の想像図 · AI生成イメージ

仙石秀久の読み方は「せんごく・ひでひさ」である。通称の権兵衛は「ごんべえ」と読む。仙石権兵衛と仙石秀久は同じ人物で、当時の文書には名字を「千石」と書く例もある。後に名を秀康、盛長と改め、再び秀久へ戻したことも確認できる。

生まれは美濃国で、父は仙石久盛とされる。生年には天文20年(1551年)と天文21年(1552年)の二説がある。『改撰仙石家譜』を引く年譜や『日本人名大辞典』は1551年、『日本大百科全書』や上田市の文化財解説は1552年を記す。ここでは1551年を基本とするが、年齢を厳密に論じるときは一年の違いが残る。

美濃の黒岩に生まれたという伝承もある。香川県立図書館が紹介する『戦国武将・合戦事典』では、加茂郡に加えて恵那郡とする説にも触れている。現在の特定の集落まで一意に決め、そこでの少年生活を細かく描けるほど、出自の記録はそろっていない。

若い秀久が仕えたのは、織田信長のもとで働いていた木下藤吉郎、後の豊臣秀吉だった。家譜の年譜は永禄7年(1564年)に信長へ謁見し、藤吉郎に付けられたとする。美濃平定後に仕官したという説明も見られるため、仕官年を一つに決めるより、秀吉の早い時期からの家臣だった点を押さえたい。

当時の秀吉は、天下人どころか信長の家臣の一人である。秀久の出世は、秀吉が任される仕事の拡大とともに進んだ。大名として完成した豊臣家へ途中から加わったのではなく、その家臣団が大きくなる過程に身を置いていたのである。

「秀吉子飼い」と呼ばれるのは、この長い主従関係による。ただし子飼いは役職名ではない。福島正則や加藤清正らとひとまとめにしても、仕え始めた時期や担当する仕事は異なる。秀久は、後に賤ヶ岳の七本槍として知られる世代に先んじて、領地と兵を任される立場へ進んでいった。

02奉公SERVICE

秀吉の古参武将として|戦場と奉行の仕事

秀吉配下で軍勢の移動を見守る秀久の想像図(AI生成イメージ)
秀吉配下で軍勢の移動を見守る秀久の想像図 · AI生成イメージ

秀久の若い日の武功として、よく挙げられるのが姉川の戦いである。元亀元年(1570年)、織田・徳川方と浅井・朝倉方が戦った合戦で、家譜は秀久が浅井方の武士を討ち取ったと伝える。ただし個人の戦いぶりの細部は家伝に依存し、現在の肖像から勇猛な姿を逆算できるわけではない。

天正2年(1574年)には近江国野洲郡で千石を与えられたとされる。主君のそばで奉公する段階から、自分の知行を持つ家臣へ進んだ。後年の十万石と比べれば小さく見えるが、土地から収入を得て配下を抱えることは、独立した部隊を任される基礎になった。

秀久の仕事は槍働きだけではなかった。村石正行の文書研究が整理した年譜には、天正7年(1579年)に摂津の湯山で奉行に任じられた記録がある。軍勢を率いる武将が、土地や施設に関わる実務も担う。後の小諸統治を考えるうえでも、この時期の経歴は見落とせない。

秀吉は信長の命を受け、中国地方へ勢力を伸ばしていた。畿内から西へ軍を動かすには、敵の城を攻めるだけでなく、道や港を確保し、味方の諸勢力に指示を伝える必要がある。秀久の名は、こうした秀吉軍団の活動に関わる文書に現れるようになる。

天正10年(1582年)に信長が本能寺で死去すると、秀吉は織田家中の争いを勝ち抜いていった。翌年の賤ヶ岳の戦役では、秀久を配置する秀吉の指示が残る。敵方の中心は柴田勝家だった。秀久と勝家を対戦相手として挙げるのは、この戦役で敵味方に分かれたためであり、二人の一騎討ちを意味しない。

一方、秀久の活動には海を越える仕事が増えていた。秀吉が畿内の政治を掌握していく間、淡路や四国では別の勢力との交渉と戦闘が続く。長宗我部元親との関係も、戸次川で突然始まったものではない。両者は、まず四国の領地をめぐって争う敵として向き合った。

03四国SHIKOKU

淡路から讃岐へ|長宗我部元親と戦った時代

淡路を拠点に船と兵を動かした秀久の想像図(AI生成イメージ)
淡路を拠点に船と兵を動かした秀久の想像図 · AI生成イメージ

秀久は淡路の洲本を拠点とし、四国への進出に携わった。家譜や辞典には、天正8年(1580年)に淡路五万石を得たとする記述がある。所領の獲得過程には後世の編纂記録が含まれるが、天正10年代に淡路の兵を動かす役割を担っていたことは、秀吉の指示からも確かめられる。

淡路島は、大坂湾と瀬戸内海、四国の東側を結ぶ位置にある。秀久には、島内の支配だけでなく、船を集めて兵を渡し、四国側の味方と連絡する仕事があった。秀吉が天正10年に秀久へ出した指示には、淡路の兵を連れて阿波の勝瑞城へ入るよう求めるものがある。

その前に立ちはだかったのが、土佐から四国各地へ進出していた長宗我部元親である。天正11年(1583年)の引田での戦いも、この対立の中で起きた。秀吉の書状には引田で油断なく働くよう命じる内容があり、秀久が四国の前線で活動していたことを示す。

ここでは、秀久と元親が後に同じ軍に加わることを知っていると関係を誤りやすい。豊臣政権に服属する前の元親は、秀吉方の進出を阻む相手だった。翌々年の大規模な四国攻めまで、両者の立場は敵味方である。

天正13年(1585年)、秀吉は弟の秀長らを四国へ送り、元親を降伏させた。戦後、秀久には讃岐が与えられ、十万石の大名として知られるようになる。ただし「讃岐一国」を与えられたという表現は、全ての土地を秀久が直接支配したことと同じではない。秀吉の指示には、十河存保や安富氏を秀久の与力にするという内容がある。

秀久自身の文書にも、知行を与えることや寺社に寄進することが現れる。領主には戦闘の指揮とともに、配下への給与や地域の寺社との関係を整える仕事があった。讃岐を得た秀久は、複数の勢力をまとめながら領地を治める立場に立ったのである。

元親は土佐を保ち、秀吉に従う大名となった。秀久と元親は、かつての敵同士から同じ政権に属する者へ変わる。やがて九州へ派遣された両者は、豊後で同じ相手と戦うことになる。讃岐の領主になってから、秀久が戸次川で敗れるまでの期間は短かった。

04戸次川HETSUGIGAWA

戸次川の戦い|長宗我部信親・十河存保の戦死

冬の豊後で川を前にする秀久の想像図(布陣の復元ではない)(AI生成イメージ)
冬の豊後で川を前にする秀久の想像図(布陣の復元ではない) · AI生成イメージ

戸次川の戦いは、天正14年旧暦12月12日、西暦に換算すると1587年1月20日に起きた。戦場は豊後国、現在の大分市を流れる大野川の流域である。天正14年を西暦の年だけに置き換えて「1586年の戦い」とする説明もあるが、旧暦の年末は西暦では翌年に入っている。

九州では島津氏が勢力を拡大し、大友氏を圧迫していた。秀吉は大友氏を支援し、秀久や長宗我部元親ら四国の大名を豊後へ派遣する。元親の嫡男・信親、讃岐の十河存保も加わった。秀久は秀吉側の軍監として知られ、現地で他の大名と協議しながら軍を動かす立場にあった。

豊臣方が戦った相手は、島津義久を当主とする島津軍である。戸次川の現場で指揮を執ったのは、その弟・島津家久だった。義久は戦役を進める側の当主、家久はこの合戦の指揮者であり、両者の役割は分けて捉える必要がある。

豊臣方は鶴賀城を救援しようとして島津軍と戦い、大敗した。長宗我部信親と十河存保が討死し、元親は嫡男を失う。秀久は生き延び、讃岐へ退いた。多数の死者を出したうえに、派遣された軍のまとまりも失われたのである。

通説では、元親らが慎重な行動を求めたのに対し、秀久が渡河を主導したとされる。島津軍が退くように見せ、追ってきた敵を伏兵で攻撃したという説明もよく知られる。ただし、軍議のやり取りや戦場の一人ひとりの動きは、後世の軍記に依存する部分が大きい。発言をそのまま再現した会話文としては扱えない。

それでも、敗戦の責任が後世にだけ作られたわけではない。秀吉は秀久の命令違反を問題にしていた。合戦より前の旧暦11月にも、豊後の守りを固めず他国へ兵を動かしたことを叱責する書状がある。秀久への処分は、当日の勝敗だけを見て突然下されたものではなかった。

信親の死は長宗我部家にとって取り返しのつかない損失だった。大分の古戦場には、信親を弔う墓が残る。秀久の再起を語るときにも、この戦いで他家が負った損害を消すことはできない。後の成功と戸次川での責任は、どちらも秀久の生涯に属している。

05改易DISPOSSESSION

改易の理由|讃岐没収と浪人中の活動

浪人期に寺社を訪れる秀久の想像図(AI生成イメージ)
浪人期に寺社を訪れる秀久の想像図 · AI生成イメージ

秀久は、戸次川の敗戦前後に秀吉の命令へ従わなかった責任を問われ、讃岐の領地を失った。これが改易である。単に役職を外されるだけでなく、大名として収入を得て家臣を養う基盤を取り上げられる処分だった。

村石正行が整理した秀吉文書の年譜では、天正14年旧暦12月24日に秀久を欠所とする記録がある。さらに同月28日には、秀久が繰り返し「置目」を破ったため、讃岐を召し上げて他の者に与えるという内容が確認できる。置目とは、あらかじめ定められた決まりや指示のことである。

翌天正15年の書状でも、秀吉は秀久の不行届に言及している。一方で、息子を戦死させた長宗我部元親の忠節を評価する記録もある。秀吉は四国勢の敗戦を、全員が同じ程度の責任を負う出来事として処理しなかった。秀久の処分と元親への評価は、明確に分かれていた。

秀久は高野山へ追放されたと伝えられる。ここから、小田原征伐まで山中で閉じこもり続けた姿を想像しやすい。だが浪人中の足取りを日記で追うと、その理解だけでは足りないことが分かる。

『北野日記』を引く年譜には、天正16〜17年(1588〜1589年)に、秀久が京都や大坂で北野社の能閑と会い、参詣していた記録が並ぶ。伏見や淀への移動も見える。大名の領地を失った後も、人との往来や宗教活動は続いていたのである。

これらの記録は、改易の処分そのものを否定するものではない。土地を失ったことと、人との関係が全て絶たれたことは別である。秀久が復帰の機会を得た背景を考えるには、山中の孤独や決意を創作するより、残った交際を見た方が具体的だ。

もっとも、参詣や面会の一つひとつを、復帰のための計画だったと決めることもできない。秀久が何を考え、誰にどこまで働きかけたかには分からない点がある。確かなのは、浪人中も活動の記録が残り、天正18年に再び秀吉方の戦争へ参加したことである。

06再起ODAWARA

小田原征伐で復帰|家康の取りなしと小諸五万石

小田原征伐に加わる秀久の想像図(AI生成イメージ)
小田原征伐に加わる秀久の想像図 · AI生成イメージ

天正18年(1590年)、秀吉は北条氏を攻めるため関東へ大軍を進めた。秀久は徳川家康を頼り、この小田原征伐に参加した。北条方の当主は氏直で、その父・氏政も政治と軍事の中心にいた。秀久は両者の側と戦う豊臣軍の一員として、戦場に戻ったのである。

家譜を引く年譜には、旧暦3月に秀久が参陣を願い出て、家康に謁見したと記される。家康の取りなしがあったことと、戦後に秀久が領地を与えられたことは、文書研究と辞典の双方で確認できる。ただし、口添えの場で交わされた言葉や、秀吉の表情まで分かるわけではない。

この出陣と結び付けて伝わるのが「鈴鳴り武者」の姿である。金色の兜や鈴を付けた陣羽織で出陣したという伝承があり、こもろ観光局も、小田原城の早川口での働きとともに紹介する。目立つ装いの武将像は印象的だが、意匠の細部と個々の戦功は家伝を含むものとして扱いたい。

戦後、秀久は信濃国小諸五万石を与えられた。讃岐十万石とされる以前の所領より規模は小さい。それでも、領地を持たない状態から、大名として再び家臣団を養う立場へ戻ったことの意味は大きかった。

小諸に関して1590年と1591年という二つの年が出てくるのは、所領を与えられた時期と、実際に初めて入城した時期を区別できるためである。村石の研究は天正18年の領知授与と、翌天正19年正月19日の初入城を記す。二つの年を、同じ出来事について争う説として扱う必要はない。

小諸時代の初期文書には「秀康」の署名がある。研究では、秀吉の「秀」と、復帰に尽力した家康の「康」を受けた名と考えられている。名前の解釈には推定が含まれるが、秀康と名乗った文書そのものは残る。秀久はその後、盛長という名も使い、最後は秀久へ戻した。

復帰は戸次川の敗戦を取り消すものではなかった。秀吉が秀久を再び任用したという、新しい処遇である。秀久はかつての讃岐へ戻ったのではなく、信濃で領地と家臣団を立て直すことになった。今度の仕事は、城を守ることに加え、そこで続いていく町の暮らしに関わっていた。

07小諸KOMORO

小諸城の整備から最期へ|忠政へ続く仙石家

小諸で城の整備を見守る晩年の秀久の想像図(AI生成イメージ)
小諸で城の整備を見守る晩年の秀久の想像図 · AI生成イメージ

秀久は小諸で城を改修し、城下や街道、宿場の整備に関わった。こもろ観光局は、大手門・黒門・二の丸などの整備を秀久の治世の事績として紹介する。現在の小諸城跡を考えるうえで、秀久は欠かせない城主である。

小諸城は、城下町より低い位置に城の中心がある「穴城」として知られる。高い山頂から町を一望する城とは異なり、周囲の谷や崖を防御に使っていた。城の工事には地形への配慮が必要で、街道沿いの宿場の整備も領主の仕事だった。

ただし、城や町の整備をそのまま「領民に慕われた名君」の証拠にすることはできない。『世界大百科事典』の小諸藩の解説は、秀久の工事による領民負担と逃散にも触れている。領民が土地を離れて抗議・抵抗する逃散は、整備を進める側とは違う評価があったことを示す。残った城の美しさだけで統治を採点するのは難しい。

文禄元年(1592年)、秀久は従五位下・越前守に任じられた。越前守という官途を名乗っても、領地が越前に変わったわけではない。小諸を拠点とする大名として、秀吉のもとで働き続けたのである。

秀吉が没した後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦役では徳川方に属した。秀久は徳川秀忠の軍に従い、真田昌幸が守る上田城の攻略に加わる。これは第二次上田合戦であり、関ヶ原の本戦に秀久が立ったという意味ではない。秀忠軍は本戦に間に合わなかった。

晩年には子の忠政も小諸で領主としての実務を担うようになる。慶長19年(1614年)旧暦5月6日、秀久は江戸から小諸へ帰る途中、武蔵国の鴻巣で没した。1551年生まれの説に従えば数え64歳である。同年の大坂冬の陣を、秀久自身は経験していない。

家督は三男の忠政へ引き継がれた。忠政は大坂の陣に出陣し、元和8年(1622年)に小諸から上田へ移る。秀久が大名に戻ったことで存続した仙石家は、さらに後の世代で但馬の出石へ移り、幕末まで続いた。

生涯を振り返ると、戸次川の敗戦と小諸での再起が並ぶ。前半を消して名将と呼ぶことも、後半を無視して一度の敗将とだけ呼ぶことも、秀久が残した仕事や失策を取り落とす。領地を奪われた後に再び領主となったという事実が、その評価を単純にはさせないのである。

02
READING

史料の読み解き

仙石秀久は「無能」だったのか

戸次川で重大な失策を犯したことは、秀吉の処分と書状から確かめられる。ただし「無能」は、当時の役職や客観的な成績を示す言葉ではない。一度の敗戦から、生涯の全ての仕事に能力がなかったと結論付けるには、別の根拠が必要になる。

秀久への批判には、区別すべき二つの層がある。一つは、秀吉が命令違反を問題にして領地を没収したという、処分の記録である。もう一つは、軍議で何を言い、どのような性格から突撃を決めたのかという、人物像の説明だ。前者を確認できても、後者の会話や心理まで全て証明されたことにはならない。

逆に、後世の軍記には脚色があるからといって、秀久の責任を無くすこともできない。合戦前の叱責と、合戦後の讃岐没収は、軍記の劇的な場面がなくても残る。「本当は悪くなかった」と読み替えるには、この記録を説明しなければならない。

秀吉が再び秀久を大名にしたことも事実である。小田原での奉公を経て小諸を与え、秀久は城や領地を管理した。失策があったことと、再任用されるだけの働きや関係を持っていたことは両立する。復帰は、過去の指揮が正しかったことの証明ではないが、その後も使える家臣と評価された結果ではある。

小諸の整備にも、領民の負担という側面があった。戦場の評価を覆すために、今度は統治を無条件に美化してしまえば、結局は別の一面的な人物像になる。秀久を評価する際には、戦闘の指揮、命令への服従、領地の管理、他の大名との関係を、それぞれの記録に沿って見るのが妥当である。

改易はなぜ起きたのか|命令違反と敗戦後の撤退

秀久の改易は、敗戦前後の命令違反と行動が秀吉に問題視されたことによる。村石正行の研究が整理する秀吉書状では、天正14年旧暦11月13日に、豊後の防備を固めず他国へ兵を動かしたことへの叱責がある。戸次川の一日だけを切り取ると、この経緯が見えなくなる。

旧暦12月2日には、堅固に守ることを重視する指示が見える。12日の合戦で四国勢が敗れ、24日には秀久の所領を取り上げる記録、28日には繰り返し指示を破ったため讃岐を召し上げるという記録が続く。日付と内容を並べると、秀吉が継続して秀久の行動を問題にしていたことが分かる。

こもろ観光局の解説は、秀久が敗軍をまとめる責務を果たさず、讃岐まで退いた点も処分理由として説明する。ただし、撤退経路の細部や同行人数まで同時代の記録で一律に確認できるわけではない。讃岐への退却と所領没収の大筋を押さえ、軍記由来の細部には留保が必要だ。

「改易された年」を一つだけ書く場合にも注意したい。旧暦天正14年12月の出来事は、西暦では1587年に当たる。天正15年の書状に処分後の言及があることと、天正14年末に没収の指示が出たことは矛盾しない。和暦の年号と西暦への換算を混ぜなければ、前後関係を整理できる。

長宗我部元親・信親との関係

秀久と長宗我部元親は、四国では敵として争い、九州では同じ豊臣方として戦った。戸次川での関係だけを見て「昔からの盟友」あるいは「最初から最後まで敵」とするのは、どちらも正確ではない。天正13年の元親の降伏を境に、政治的な立場が変わっている。

長宗我部信親は元親の嫡男で、戸次川で戦死した。信親は秀久の家臣ではなく、長宗我部家の後継者として父とともに出陣した武将である。秀久が軍監と呼ばれていても、各大名の家中まで秀久の直属家臣になったわけではない。

軍議で元親が慎重論を述べ、秀久が退けたという筋は広く知られる。だが、後世の軍記は長宗我部家にとっての敗戦と信親の死を語る史料でもある。誰の立場から書かれたのかを確かめず、登場人物の発言をそのまま録音記録のようには読めない。

それに対し、秀吉が翌年の書状で元親の忠節に触れ、秀久の不届と区別したことは、処遇の違いを具体的に示している。元親の悲嘆や秀久への感情を創作しなくても、同じ敗戦の後で両者が異なる評価を受けたことは分かる。

信親の死が長宗我部家の継承に大きな影響を与えたのは確かだ。ただし、その後の家中対立や関ヶ原後の処分までを、全て秀久一人のせいとすることはできない。戸次川で失われた後継者の重みと、それ以後に各人物が選んだ行動は、分けて追う必要がある。

仙石秀久の子孫|忠政から上田・出石へ

秀久の家督を継いだのは三男の仙石忠政である。忠政は慶長19年(1614年)に小諸藩主となり、元和8年(1622年)には上田へ移った。『日本人名大辞典』は、大坂の陣での功を転封の背景として挙げ、石高を六万石とする。

上田では、忠政・政俊・政明の三代が藩主を務めた。これは藩主としての継承順であり、全てが単純な父子関係だったことを示す表現ではない。とくに政明を秀久の実子とする説明は、時代が合わない。政明が出石へ移るのは、秀久の没後九十年以上たった宝永3年(1706年)である。

時期人物・家の動き領地の要点
1590年秀久が大名へ復帰信濃小諸五万石
1614年忠政が家督を継ぐ小諸藩主仙石家の二代目
1622年忠政が上田へ移る約六万石
1706年政明が但馬出石へ移る五万八千石
1835年仙石騒動の処分三万石に減封
幕末・明治出石藩主家として存続維新後は子爵家

仙石騒動は、秀久の時代から二百年以上後に起きた御家騒動である。秀久自身の改易と、子孫の代に起きた出石藩の減封を混ぜてはいけない。家はこの処分で直ちに消えたわけではなく、規模を縮めながら幕末まで続いた。

「現在も子孫はいるのか」という問いでは、藩主家の家督、男系の本家、分家や女系を含む血縁を区別する必要がある。今回確認した自治体資料・辞典からは、現代の全ての血縁を網羅できない。本家の継承に関する一つの記述だけを根拠に、秀久の子孫が一人もいなくなったとは断定できない。

家紋は永楽通宝|「無」の馬印との違い

仙石家の家紋として確認できるのは永楽通宝紋である。上田市に伝わる秀久所用の具足では、収納箱である鎧櫃にこの紋が描かれている。抽象的な家紋一覧だけでなく、伝来品に残る具体的な意匠として確かめられる点が重要だ。

こもろ観光局は、永楽銭の定紋を信長から下賜されたという伝承も紹介する。ただし、下賜の伝承と、鎧櫃に紋が実際にあることは、確度の異なる情報である。信長がいつ、どのような理由で与えたかまで、その説明だけから確定はできない。

「無」は、秀久が掲げたと伝わる馬印の文字である。家紋の永楽通宝と入れ替えて「秀久の家紋は無」とするのは適切ではない。名字、家紋、旗や馬印、甲冑の飾りは、同じ人物を表していても用途が違う。

文書研究では、秀久が用いた「永楽国通宝」の印判も検討されている。銭の意匠を用いた家紋と、行政文書に押す印判を区別すると、秀久がその図柄をどのような場面で使ったかが見えやすくなる。印の存在だけで、全ての甲冑や旗に同じ紋があったと推定することはできない。

兜はどんな形だったのか|伝来具足と金色の兜

上田市立博物館には、仙石秀久が用いたものとして伝わる「紺糸縅金剛力士頭当世具足」がある。兜は、端を折って縄で束ねた編笠をかたどり、左右に歯朶の形の脇立を備える。胴や草摺には黒漆塗りの小札を用い、それを紺色の糸でつないでいる。

小札は、甲冑を構成する小さな板である。糸でつなぐ「縅」の色まで含めて品名に表されており、上田市は「紺糸威二枚胴具足」とも呼ぶと説明している。秀久の兜を知りたい場合、まずこのように所蔵先と形状が明らかな品を確認できる。

一方、小田原出陣の伝承では、白い房を付けた金塗りの兜が語られる。現存する編笠形の兜と、伝承上の装いは同一の説明ではない。複数の装備が語られること自体は不自然ではないが、どの合戦でどれを使ったかは、それぞれの由来を確かめる必要がある。

この記事に掲載した金色の兜の人物画は、AIによる想像図である。上田市の伝来具足を復元したものではなく、実際の秀久の顔や、各合戦で用いた装備を示す史料にはならない。

身長は何センチだったのか

仙石秀久の身長について、確かな数値を示せる根拠は今回の調査では確認できなかった。閲覧した文書研究、人物辞典、自治体の具足解説には、実測値や遺骨の計測に基づく身長の説明は見当たらない。そのため、人物紹介では「未詳」とする。

大柄な武将として描かれることと、何センチだったかが分かることは別である。漫画やゲームの設定値を、実在した秀久の身体測定の結果として転載することはできない。勇猛だったという評価から身長を推定するのも難しい。

具足が残っていれば、着用者の身長も分かりそうに見える。だが、兜や胴の大きさだけで全身の長さが決まるわけではない。着用時の重なり方や調整、伝来中の組み合わせも関わるため、専門的な調査を伴わないセンチメートル換算は避けたい。

数値を置かないことは、秀久が小柄だったという意味でも、大男だったという意味でもない。現在確認できる資料で答えられる範囲を示している。新たな測定研究があれば、その対象と方法を確認して評価すべき事柄である。

史料ごとに、どこまで言えるか

秀久の生涯には、本人や秀吉の書状、同時代の日記、後に編まれた家譜や軍記が関わる。これらは、書かれた時期も目的も異なる。処分を伝える書状から確認できることと、軍議を描いた軍記から読み取ることを、同じ強さで言い切るわけにはいかない。

主張確認の度合い根拠と留保
秀吉の古参家臣として四国へ進出した高い秀吉書状を整理した研究と辞典を照合
戸次川で敗れ、信親・存保が戦死した高い合戦解説・地域資料で一致
命令違反を問われ讃岐を失った高い秀吉書状の叱責・没収指示がある
軍議での会話、渡河を決めた心理留保が必要後世の軍記による叙述と解釈を含む
1590年に小諸を与えられ、1591年に初入城した高い文書研究が所領授与と入城を区別
改易後も京都・大坂などで活動した高い『北野日記』を引く年譜で確認
生年は1551年である異説あり1552年を採る辞典・自治体解説もある
鈴付き陣羽織・「無」の馬印を用いた伝承として扱う地域解説で紹介。使用場面の細部は未確定
身長を正確な数値で示せる未確認信頼できる計測根拠を確認できない
子孫の家は上田・出石へ続いた高い市誌と人物・氏族辞典を照合

戸次川で失った讃岐と、復帰後に得た小諸は、秀久の生涯の両端を示している。失策を曖昧にせず、それでも大名に戻った経緯を追う。そのうえで忠政へ続いた家や伝来する具足を見ると、敗戦の評判だけでは分からなかった仙石秀久の仕事と後世への影響が具体的に見えてくる。

03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

仙石秀久の逸話

  1. 逸話 01

    鈴鳴り武者と「無」の馬印

    金色の兜と鈴の想像図(現存品の写真ではない)(AI生成イメージ)
    金色の兜と鈴の想像図(現存品の写真ではない) · AI生成イメージ

    小田原征伐に出た秀久は、鈴を付けた陣羽織をまとい、「無」の馬印を掲げたと伝わる。こもろ観光局は白い房を付けた金色の兜も紹介している。秀久の再起を語るとき、この華やかな装いがしばしば登場する。

    馬印は、戦場で大将の所在を示すための目印である。家を表す家紋とは用途が違い、頭に巻く鉢巻とも別の装具だ。「無」の馬印の伝承があることから、同じ文字を描いた鉢巻まで実際に着用したと推定することはできない。

    鈴を付けた理由を、敗戦への悔恨や死を恐れない覚悟と結び付ける説明もある。ただし、それは装いから心情を読む解釈である。本人の言葉として確認できるものではない。再起を象徴する姿として味わいつつ、実際の発言や装具の使用記録とは分けて捉えたい。

    記事の人物画像も、金色の兜や鈴を描いた想像図である。実際に伝わる具足の形を知るには、上田市の文化財解説で編笠形の兜とその構造を確かめられる。

  2. 逸話 02

    権兵衛坂に残る城主の名

    小諸の坂道と城下町をイメージした想像図(AI生成イメージ)
    小諸の坂道と城下町をイメージした想像図 · AI生成イメージ

    小諸には、秀久の通称に由来するとされる「権兵衛坂」がある。こもろ観光局によると、秀久が城下を見回る際に祇園の宮へ参詣し、そこへ通った坂がこの名で呼ばれるようになったという。

    こうした地名の伝承からは、地域が城主をどのように記憶してきたかが分かる。一方で、秀久が通った日や道順の全てを記録したものではない。城の整備という政治史と、坂に名前が残るという地域の記憶を、同じ種類の証拠として数えることはできない。

    小諸の町は北国街道の宿場として発展した。中山道との分岐は追分であり、小諸の市街を両街道の交差点とする説明は正確ではない。城と町を歩くときには、秀久の名前だけでなく、人や荷物がどの道を通ったかにも目を向けると位置関係が分かりやすくなる。

  3. 逸話 03

    秀康・盛長・秀久を結ぶ署名

    筆・紙・印の静物イメージ(史料の複製ではない)(AI生成イメージ)
    筆・紙・印の静物イメージ(史料の複製ではない) · AI生成イメージ

    古文書に「秀康」や「盛長」とあっても、直ちに秀久とは別人だとは言えない。仙石秀久は名を変えており、書状の末尾に書く署名や花押も時期によって変化している。村石正行の研究は、それらを整理して文書の年代を検討した。

    花押は、自分の名を図案化した署名である。日付に年がない書状でも、どの形の花押を用いたかを、宛先や本文の出来事と合わせて調べれば、書かれた時期を絞り込めることがある。改名は人物紹介の小話にとどまらず、秀久の活動を追う手がかりでもある。

    秀久は「永楽国通宝」と読める印判も用いた。鎧櫃に描かれた永楽通宝の家紋と、書状に押した印判は、同じ銭の意匠に関わるが別の品である。似た文字や図柄があっても、何に使われ、いつの記録に残るのかまで確かめる必要がある。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 父:仙石久盛
本人仙石秀久
配偶者野々村氏の娘
子
  • 忠政(三男・小諸藩の後継者)ほか

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 北国街道(追分宿の分去れ)
    軽井沢町参照日 2026-10-06
  2. 仙石秀久(日本人名大辞典・日本大百科全書ほか)
    コトバンク/講談社・小学館ほか参照日 2026-10-06
  3. 戦国時代の四国統一における仙石秀久の活躍に関する資料はあるか。
    香川県立図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-06
  4. 仙石秀久(小諸藩初代藩主)
    こもろ観光局参照日 2026-10-06
  5. 紺糸縅金剛力士頭当世具足(仙石秀久着用具足)
    上田市の文化財参照日 2026-10-06
  6. 仙石忠政(日本人名大辞典)
    コトバンク/講談社参照日 2026-10-06
  7. 仙石氏(改訂新版 世界大百科事典)
    コトバンク/平凡社参照日 2026-10-06
  8. 戸次川の戦い~長宗我部元親・信親の無念
    PHP研究所・WEB歴史街道参照日 2026-10-06
  9. 戸次川古戦場跡
    大分市観光協会参照日 2026-10-06

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-06

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