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四国征伐|1585年、秀長が率いた秀吉の四国攻め
四国征伐とは、1585年に秀吉が長宗我部元親を降した戦い。読み方、総大将・秀長と参戦武将、三方面の兵力、一宮城の攻防、土佐一国を残した結果を解説。1582年の織田信長の四国攻めとの違いも、書状と研究から整理する。
この戦いの要点
総大将は秀長
秀吉の弟・羽柴秀長が現地の軍を率いた。秀吉も渡海を計画し、書状で作戦を指示している。
三方面から攻める
阿波へ秀長・秀次、讃岐へ宇喜多秀家ら、伊予へ小早川隆景・吉川元長らが進んだ。
元親には土佐を残す
元親は秀吉に服属し、土佐一国の領有を認められた。阿波・讃岐・伊予は他の大名らへ配分された。
四国征伐とは|読み方・いつ・結果
四国征伐の読み方は「しこくせいばつ」。天正13年(1585年)、豊臣秀吉が長宗我部元親を服属させるために行った軍事遠征で、「四国攻め」「四国平定」とも呼ばれる。当時の秀吉と弟・秀長は羽柴姓で、この記事でも戦役中の表記は羽柴を用いる。
現地の軍を率いたのは弟だった。総大将は羽柴秀長。結果は秀吉方の勝利で、元親には土佐一国の領有が認められた。阿波・讃岐・伊予は秀吉による領地配分の対象となり、蜂須賀家政、仙石秀久、小早川隆景らが入った。長宗我部家そのものが滅びた戦いではない。
戦闘の中心は旧暦6〜7月、講和と領地の再配分は8月にかけて進む。阿波の一宮城だけで完結する合戦ではなく、海を渡った複数の軍が各地の城を攻めた戦役である。以下の月日は旧暦で記す。
織田信長の四国攻めとの違い
「織田の四国征伐」と「秀吉の四国征伐」は、年と指揮官を分けるとわかりやすい。織田信長が軍を準備したのは1582年で、織田信孝らが渡海する予定だった。ところが6月2日の本能寺の変で信長が死去し、計画は中止される。1585年に四国を攻めた秀長の軍とは別の編成である。
信長と元親の関係も、初めから敵同士だったわけではない。林原美術館と岡山県立博物館が紹介する石谷家文書には、元親の嫡男・信親が信長から「信」の字を受けたことを伝える書状がある。両家の関係が悪化した後も、交渉は続いていた。
とくに1582年5月21日付の元親から斎藤利三への書状では、信長の命令に従う意向と、土佐への入口に当たる城は保持したいという希望が示されている。出兵の準備と、戦闘を避けようとする交渉が、同じ時期に進んでいた。元親が最後まで一切の譲歩を拒んだ、という筋書きではこの書状を説明できない。石谷家文書の調査発表が、両者の行き違いを考える手がかりになる。
三年後には相手が秀吉に変わる。元親は土佐から阿波・讃岐・伊予へ勢力を広げていたが、秀吉が認める領地の範囲とは折り合わなかった。『愛媛県史』は、元親が土佐と伊予の確保を望む一方、秀吉方は伊予を小早川隆景に与える方針だったと説明する。争点は「降るか、戦うか」だけではなく、降った後にどの土地を持てるかにあった。
1582年の計画が続いた場合を考えるなら、信長が生きていたら、四国攻めは進んだかも参照できる。出兵準備と元親の譲歩を材料に、軍事と交渉の両方から考察している。
総大将は秀長|秀吉は何をしていたのか
四国征伐で現地の軍をまとめたのは、豊臣秀長である。兄・秀吉の名代として渡海し、甥の秀次とともに阿波方面の主力を率いた。秀長が統率したのは自身の家臣だけでなく、他の大名の軍も参加する遠征軍だった。
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秀吉も、一度も渡海を考えなかったわけではない。小早川隆景宛ての6月24日付御内書には、翌月3日に出馬する予定が記されている。一方、東京大学史料編纂所の『大日本史料』編纂概要には、7月6日に秀長が兄の出陣延期を重ねて求めたことが見える。計画と実行を分ければ、秀吉が遠征を命じ、秀長が現地を率いたという関係がつかめる。京都国立博物館所蔵の御内書にも、秀吉自身の関与が残る。
渡海しなくても、秀吉は戦況を報告させ、城の攻め方を指示していた。現地の総大将を秀吉と答えるのは不正確だが、秀長だけの判断で戦争全体が動いたと考えるのも違う。二人の役割分担は、戦場と中央を往復した書状から見えてくる。
参戦武将と三方面の軍
秀吉方は、阿波・讃岐・伊予へ軍を分けた。現在の県名におおむね置き換えると、徳島・香川・愛媛の三方面になる。初めの上陸先が異なっていても、その軍が終始別々に戦ったわけではなく、讃岐へ入った部隊は阿波の作戦にも加わっていく。
| 方面・立場 | 主な武将 | 役割 |
|---|---|---|
| 遠征の命令と全体の指示 | 豊臣秀吉 | 畿内から諸将へ指示を送る |
| 阿波方面の主力 | 羽柴秀長・羽柴秀次 | 淡路を経て渡海し、一宮城などを攻める |
| 讃岐から阿波へ | 宇喜多秀家、蜂須賀正勝・家政、黒田官兵衛、仙石秀久ら | 讃岐へ進み、阿波方面の軍とも合流する |
| 伊予方面 | 小早川隆景・吉川元長ら | 毛利方の軍として伊予の諸勢力を攻める |
| 長宗我部方 | 長宗我部元親、谷忠澄ら | 元親を中心に各城で抵抗し、のち講和へ進む |
表は主な参戦武将の整理で、全軍の名簿ではない。たとえば神戸大学所蔵の秀吉朱印状の宛先には、中川秀政と古田重然、のちの古田織部が並ぶ。有名な大将たちの下でも、多くの武将が攻城や連絡を担っていた。
宇喜多秀家は1572年生まれで、このとき数え14歳に当たる。成年の大名と同じ年齢を想像しやすいが、まだ十代前半だった。若い当主の出陣を、家中の軍勢を率いる大名としての参加と捉える必要がある。生年は岡山市の人物解説で確認できる。
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兵力は何人だったのか
秀吉方の兵力は「10万余」と説明されることが多い。『日本大百科全書』の「四国征伐」は、阿波へ向かう秀長・秀次らを6万、讃岐方面を2万3000、伊予方面を3万余とする。合計すれば11万を超えるため、「10万余」は遠征全体の大きさを示す概数として読むのが適切である。同辞典の項目に、方面別の数字が載っている。
| 進攻方面 | 『日本大百科全書』が掲げる兵力 |
|---|---|
| 阿波 | 6万 |
| 讃岐 | 2万3000 |
| 伊予 | 3万余 |
ただし、この数字を、一宮城の城下に同時に並んだ兵の実数とは扱えない。三方面へ出た軍には別々の進路があり、合流や配置替えもある。遠征全体の動員規模と、一つの城を包囲した兵力は別の数字である。
長宗我部方の動員総数については、今回確認した書状の解題と公的機関の資料から、同じ条件で比較できる数値を確定できなかった。そのため「秀吉軍10万対元親軍4万」といった比率にはまとめない。兵力の差を見る際には、阿波で抵抗する間にも、讃岐と伊予に別の軍が入っていた配置に目を向けたい。
渡海から伊予の戦いへ
阿波方面の秀長・秀次軍は、淡路の福良から土佐泊へ渡った。土佐泊は名前に「土佐」とあるが、所在地は阿波、現在の徳島県鳴門市である。四国の南側へ直接上陸したと読み違えないようにしたい。讃岐へ入った軍と連携しながら、長宗我部方の城へ迫っていった。
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一方、伊予を攻めたのは小早川隆景・吉川元長らの毛利勢だった。『大日本史料』の編纂概要は、7月17日に高尾城を攻略し、金子元宅が戦死したことを記す。戦役を阿波の一宮城だけで追うと、西側でも戦闘が進んでいたことを見落としてしまう。同書の天正13年7月分の概要には、伊予と阿波の動きが並んでいる。
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三方面への進攻では、それぞれの軍が船で海を越え、現地の城を攻め、さらに他の軍と合流する。元親の側から見れば、一つの方面で敵を止めても、それだけで領国全体を守れる状況ではなくなっていた。
一宮城の攻防|秀吉の書状が伝える作戦
阿波の一宮城を囲んだ秀長らの軍は、容易に城を落とせなかった。神戸大学所蔵の7月10日付秀吉朱印状とその解題からは、城際へ包囲を狭める「仕寄」を進め、周辺の城にも兵を向けた様子がわかる。大軍が上陸した途端に、すべての城が降ったわけではない。
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この書状で秀吉は、今後の攻城でも負傷者を出さないよう求めている。同日付の別の朱印状には、水の手を断つ作戦も確認できるという。包囲を狭める。水を断つ。周辺の城を攻める。城兵を追い詰めるために、複数の手段が使われていた。秀吉朱印状と解題は、その具体策を知る史料となる。
書状の末尾では、元親の居所を確かめ、続けて報告するようにも求めている。現地からの情報を受けて指示を返す、その連絡も遠征を支えた。一宮城の攻防は、秀長の現地指揮と秀吉の関与を一緒に確かめられる場面である。
四国征伐の結果|元親の降伏と領地配分
講和の交渉では、秀長が一宮城の守将・谷忠澄を通じて元親へ働きかけた。『日本大百科全書』は7月25日の降伏を記し、神戸大学の解題は8月初旬の講和成立を説明する。降伏の決断、条件の調整、領地の処分を一つの日付に押し込めず、7月下旬から8月初旬に決着したと捉えると、経過を追いやすい。
元親には土佐一国が残った。阿波・讃岐・伊予の領有は認められず、秀吉が諸大名らへ配分した。四国征伐の結果として変わったのは、領地の広さと、その領有を誰が認めるかである。元親は秀吉に従う大名となり、長宗我部家は存続した。
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| 国 | 戦後の主な領主 | 配分を読む際の注意 |
|---|---|---|
| 土佐 | 長宗我部元親 | 本領一国の領有を認められた |
| 阿波 | 蜂須賀家政 | 正勝ではなく子の家政。ほかに赤松則房の所領もあった |
| 讃岐 | 仙石秀久 | 十河存保にも所領が与えられた |
| 伊予 | 小早川隆景 | 安国寺恵瓊・来島通総らの所領もあった |
国ごとに代表者を一人ずつ覚えると見通しはよいが、実際の配分はそれより細かい。『愛媛県史』は小早川氏以外の伊予の領主も記し、東京大学史料編纂所の8月分の概要は、6日条に四国征討の完了と諸将への分封を収録している。国名と一人の大名を完全な一対一にする表では、こうした所領を落としてしまう。愛媛県史の領地配分の解説も併せて読みたい。
戦後の関係は、元親から蜂須賀正勝への書状にも表れる。徳島城博物館の解説によれば、元親は秀吉の赦免を得るための仲介に礼を述べ、引き続き力添えを求めている。敗者のその後を伝えるのは、劇的な降伏のせりふだけではない。長宗我部元親書状には、新しい政治関係を保とうとする具体的なやり取りが残る。
元親は四国を統一していたのか
元親を「四国を統一した大名」と紹介することは多い。ただし、それを四国全域で一様な支配が完成していた、という意味にまで広げることには注意が要る。高知県立歴史民俗資料館の四国侵攻に関する展示紹介も、文献史料の研究によって四国全域の支配には至っていなかったことが明らかになりつつある、と説明している。
土佐から勢力を拡大したことと、島内のすべての領主や城を同じ強さで統制したことは同義ではない。この記事では、元親が四国の大半に勢力を広げた段階で秀吉の遠征を受けた、と捉える。「統一した直後に、完成済みの四国王国を失った」という像を固定すると、各地に残った勢力の動きが見えにくくなる。高知県立歴史民俗資料館の紹介は、その問い直しを示している。
四国平定後|徳島築城と九州出兵
領地の配分は、その後の城と町を変えた。阿波に入る蜂須賀家政に対し、秀吉は猪山を居城とするよう命じている。徳島城博物館は8月4日付の秀吉朱印状写を紹介し、翌1586年の徳島城完成へ至る経緯を説明する。四国征伐の戦後処理は、徳島城と城下町の建設へ続いた。
長宗我部元親も、土佐に残って領国を治めるだけでは済まなかった。翌1586年には秀吉方として九州へ出陣し、旧暦12月の戸次川の戦いで嫡男・信親を失う。石谷家文書には、その戦死を伝える元親の書状が残されている。
この豊臣政権下の立場を前提に、後継者が残った場合の土佐の行方を考えたのが(「長宗我部信親が生きていたら」)である。
四国で秀吉方と争った元親が、今度はその側で兵を出す。土佐一国の存続と引き換えに、長宗我部家の戦争も秀吉の命令の下へ入った。四国征伐は、領地を削るだけでなく、その後に誰と戦うのかを変えた戦役だった。秀吉の統一事業全体の順序は、戦国年表の1585年の項目からもたどれる。
両軍の対比
羽柴秀長
長宗我部元親
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 四国征伐(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)小学館・平凡社ほか/コトバンク参照日 2026-10-09
- 羽柴秀吉朱印状(天正13年7月10日)と日本史研究室の解題神戸大学附属図書館参照日 2026-10-09
- 大日本史料 第十一編之十七(天正13年7月の編纂概要)東京大学史料編纂所参照日 2026-10-09
- 大日本史料 第十一編之十八(天正13年8月の編纂概要)東京大学史料編纂所参照日 2026-10-09
- 羽柴秀吉御内書 六月廿四日付 小早川左衛門尉宛文化遺産オンライン/京都国立博物館参照日 2026-10-09
- 愛媛県史 近世 上「一 小早川隆景の支配」愛媛県生涯学習センター参照日 2026-10-09
- 長宗我部元親書状徳島市立徳島城博物館参照日 2026-10-09
- 徳島城築城と城下町の建設徳島市立徳島城博物館参照日 2026-10-09
- 林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について(石谷家文書)林原美術館・岡山県立博物館/ナガセヴィータ参照日 2026-10-09
- 企画展「長宗我部元親の城づくり―四国制覇に向けて―」の紹介高知県立歴史民俗資料館参照日 2026-10-09
- 岡山歴史のまちしるべ「宇喜多直家・秀家」岡山市参照日 2026-10-09






