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上田の籠城戦をイメージした想像図(AI生成)(AI生成イメージ)
合戦・事件1600慶長五年

第二次上田合戦1600年、真田の籠城と秀忠の遅参

信濃国上田城

AI生成イメージ

第二次上田合戦は1600年、真田昌幸・信繁父子が徳川秀忠軍を迎え撃った籠城戦。真田家の東西分裂、出陣前の秀忠書状、関ヶ原本戦への遅参をたどり、城を守った父子が領地を失った理由を読み解く。

戦国ジャーナル編集部戦いを読む
関ヶ原と同年
1600年
慶長五年九月(旧暦)
真田方の拠点
上田城
昌幸と信繁が籠城
上田での結果
攻略断念
秀忠軍は西へ進む
関ヶ原の結果
西軍敗北
城の防衛とは異なる帰結

この戦いの要点

  1. 親子が東西に分かれる

    昌幸と信繁は西軍へ、信幸は徳川方へ進み、同じ真田家が敵味方となった。

  2. 出陣前からの小県攻撃

    八月二十三日付の秀忠書状は、翌日の出発と小県への進攻を信幸に知らせている。

  3. 城を守っても領地を失う

    秀忠は上田城を落とせず、関ヶ原本戦にも不参加。だが西軍の敗北で昌幸と信繁は配流となった。

守り抜いた城と失われた領地

徳川の大軍を迎え撃って上田城を守り抜いた真田父子は、それでも関ヶ原の戦後、守った城と領地を失うことになった。 慶長五年(1600年)の第二次上田合戦である。 信濃の上田城に籠もった真田昌幸と次男の信繁に対し、攻め手は徳川家康の子、秀忠だった。 合戦は旧暦九月、関ヶ原の戦いと同じ月に起きている。

秀忠軍は上田城を落とせず、関ヶ原の本戦にも参加できなかった。 城を守るという点では真田方の成功である。 ところが、父子が属した西軍は関ヶ原で敗れた。上田での防衛成功は、真田父子が領地を保つ保証にはならなかった。 城の周囲で決まった勝敗と、遠く美濃で決まった戦争の結果が食い違ったのである。

上田では、十五年前の天正十三年(1585年)にも昌幸が徳川軍を退けていた。 この第一次上田合戦と第二次の戦いは、同じ城をめぐっていても政治の背景が異なる。 第二次では、真田家の長男までが徳川側に立っていた。 父と弟を守る城へ、兄が攻め手として向かうことになったのである。

犬伏で分かれた真田家

秀吉の死後、徳川家康石田三成らの対立は、諸大名がどちらに従うかを迫る争いへ広がった。 真田家も当初は家康の会津方面への出兵に加わっていたが、上方での挙兵を受けて進路を変える。 昌幸と信繁は西軍に加わり、長男の信幸は徳川方に残った。 信幸は後の信之であり、合戦当時の名に合わせ、ここでは信幸と記す。

親子が去就を決めた場面は、下野の犬伏にちなみ「犬伏の別れ」として知られる。 真田宝物館の学習資料にも、昌幸と信繁が上田へ戻り、信幸が秀忠軍へ合流する流れが示されている。 ただし、家を二つに分ければどちらが勝っても存続できるという計算を、三人が最初から完全に共有していたとまでは断定しにくい。 後に家が存続したという結果から、話し合いの内容まで逆算することはできない。

信幸には、徳川家と結びつく具体的な関係があった。 妻は本多忠勝の娘で、家康の養女となった小松姫である。 一方、昌幸は豊臣政権のもとで上田領を保ってきた。 それぞれに積み重ねた関係があり、父子の選択を単純な仲違いや一つの妙案に縮めると、異なる立場が見えなくなる。 (「真田信之」)の生涯にとっても、この分裂は領国を継ぐまで続く大きな転機だった。

出陣前に届いた小県攻撃の命令

秀忠の上田攻めは、行軍中に目についた城へ突然寄り道しただけなのか。 出陣前の書状には、それとは異なる準備が残っている。 慶長五年八月二十三日、秀忠は信幸に、翌二十四日に出発して小県へ進攻するので、その方面へ出張するよう伝えた。 上田城のある小県への攻撃は、軍勢が現地へ着く前から知らせていた任務だった。

この書状は真田宝物館に伝わり、信州地域史料アーカイブで訓読と解説を読める。 後年の評判だけで秀忠を判断するより、出陣時の指示を確かめると行動の意味が変わる。 城攻めを始めた理由と、その後も時間を費やした判断は、分けて考える必要がある。

家康の軍は東海道を、秀忠の軍は中山道筋を西へ進んだ。 秀忠には本多正信榊原康政らの重臣が同行しており、若い大将が少人数を連れて勝手に動いていたわけではない。 また、上田城は中山道の本線上を塞ぐ城でもなかった。 城を落とさなければ物理的に西へ進めないという位置関係ではなく、敵対した真田の拠点をどう処置するかという軍事上の判断があった。

西へ軍令を運ぶ使者をイメージした騎馬と徒歩の一行の想像図(AI生成)

小諸から上田への圧力

秀忠は九月上旬に小諸へ入り、上田の昌幸に開城を求めた。 地域史料の解説では九月二日の小諸入りとされ、こもろ観光局は小諸城二の丸を秀忠の陣と紹介している。 徳川方は、いきなり城を力攻めする前に、交渉によって真田方を従わせようとしたのである。

昌幸は一度は降伏を受け入れるような態度を示したと、地域史料や真田宝物館の解説は伝える。 しかし、開城は実現せず、両軍の対峙は戦闘へ進んだ。 会見での台詞や昌幸が何を思ったかまでを補わなくても、交渉が終わらない間に時間が過ぎたという攻め手の不利はわかる。 秀忠には、上田で成果を得ることと、西方の戦局に応じて移動することの両方が求められた。

守る側の上田城は、昌幸が天正十一年(1583年)に築き始めた城である。 城そのものを根拠地に抵抗できる真田方に対し、攻め手は大軍を集めただけでは開城を実現できなかった。 籠城側が交渉に応じても、そのまま城を渡すとは限らない。 秀忠軍は、真田が降伏しない場合の攻撃と、その先の西上を見通して判断しなければならなかった。

城外の軍営で使者を迎える場面をイメージした想像図(AI生成)

二千余と三万八千のあいだ

上田市の解説では、徳川勢三万八千に対し、籠城する真田勢は二千五百とされる。 一方、真田宝物館の学習資料は真田方を二千人ほどとする。 圧倒的に大きな軍勢を真田方が迎えたという説明は共通するが、人数が完全に揃っているわけではない。 正確な兵力比や損害率を、この数字だけから算出するのは難しい。

三万八千という数字も、秀忠が率いた軍勢の規模を述べたものと、同じ瞬間に城へ攻め寄せた人数とは区別したい。 軍の全体と、ある場所で実際に戦った部隊を同じ数とすると、戦況は必要以上に巨大になる。 地域史料アーカイブの解説は、対峙の間に比較的大きな衝突が一度起きたという形で戦いを整理している。 毎日全軍が総攻撃を繰り返したという筋書きにはしていない。

真田方は城を維持し、秀忠軍は攻略を果たせなかった。 (「真田幸村」)として広く知られる信繁も、このときは父昌幸とともに籠城する側の一人である。 後の大坂の陣では信繁の働きが強く知られるが、上田の防衛は城主である(「真田昌幸」)と父子の軍勢が担った戦いだった。

土塁と木柵の内側で持ち場を守る足軽たちの想像図(AI生成)

西へ向かう秀忠と関ヶ原

上田で費やした時間は、一般に一週間ほどと説明される。 真田宝物館の学習資料では七日間、あるいは八日間とされており、停滞日数にも幅がある。 やがて秀忠は攻略を断念し、西へ進むことになった。 しかし、旧暦九月十五日の関ヶ原の本戦に、この軍勢の姿はなかった。

ここで「上田にいたため間に合わなかった」という経過だけを見れば、昌幸の時間稼ぎがすべてを決めたようにも見える。 だが、当初から真田への攻撃を予定していた軍が、いつまでに、どのような戦いへ合流するつもりだったのかも問わなければならない。 上田での交渉や戦闘に使った時間と、家康側の戦局の進み方は、別々に動いていた。

秀忠軍が関ヶ原に参加できなかったことは、城の前から離れさえすれば済む問題ではなかったことを示す。 離れた軍勢が同じ戦場で戦うには、指示が伝わり、各部隊が移動し、到着までの時間も確保されなければならない。 (「徳川秀忠」)の失敗を考えるとき、上田での判断だけでなく、二つの軍の任務と連絡も検討の対象になる。 一方、家康らの東軍は秀忠軍を欠いたまま(「関ヶ原の戦い」)で勝利した。

信濃から西へ進む軍勢と荷駄の行列を描いた想像図(AI生成)

通説と俗説の射程

秀忠が昌幸に翻弄されたという説明には、交渉がまとまらず城も落とせなかった経過がある。 ただし、「父の命令を無視して衝動的に城攻めを始めた」とまで言うと、出陣前の小県攻撃の指示が抜け落ちる。 真田方の抵抗が有効だったことと、秀忠の行動をすべて個人の短気で説明できることは同じではない。

遅参の原因として語られる川留めにも、評価の違いがある。

埼玉県立久喜図書館の調査事例

は、家康の使者が川留めで遅れたという説明と、その話を秀忠の遅参を弁護する潤色とみる研究の両方を紹介する。 同じ研究者でも著作によって論じ方が変わっており、「雨が降ったから仕方がなかった」と確定した原因に置き換えるのは早い。 この研究紹介は図書館の回答を通じて確認できる範囲であり、当時の書状そのものとは区別する必要がある。

論点確かめられること断定を控えること
出陣時の任務秀忠は信幸に小県への進攻を通知した城攻めが突然の独断だったという説明
兵力公的解説は徳川三万八千、真田約二千〜二千五百とする同時に戦った実数や正確な損害率
停滞と遅参上田攻略に至らず、本戦に参加できなかった遅参の全原因を一つの策に求めること
真田家の分裂信幸と昌幸父子は異なる側に属した三人の会話や合意内容の細部

昌幸の防衛を評価するうえでは、秀忠が求めた上田城の開城を実現させず、軍勢を一定期間とどめたという成果が中心になる。 そこから先の全国規模の勝敗までを、一つの籠城戦だけが決めたとは言えない。 秀忠軍の不参加によって、西軍の勝利が確実になったわけでもなかった。

高野山への配流と上田城のその後

関ヶ原で西軍が敗れると、昌幸と信繁は領地を没収され、高野山への配流となった。 東軍に残った信幸の助命嘆願が父と弟を救ったと、真田宝物館や九度山の展示解説は伝えている。 父子はやがて高野山の麓の九度山で暮らし、信幸には父の上田領が与えられた。 戦場では敵味方となった親子の関係が、戦後には助命と領地の継承に関わってくる。

城も、戦闘中に落ちなかった姿のまま残されたわけではない。 上田市の年表は、慶長六年(1601年)に徳川方が上田城を破却したとする。 信之が松代へ移った後、仙石忠政が上田へ入り、寛永三年(1626年)に復興工事を始めた。 現在見られる櫓や石垣を、第二次上田合戦当時の姿としてそのまま思い描くことはできない。

紀州での蟄居生活をイメージした山麓の屋敷と庭の想像図(AI生成)

昌幸は慶長十六年(1611年)、九度山で没した。 信繁はその後、大坂城に入り、豊臣方として冬の陣と夏の陣を戦う。 上田で父とともに守った経験と、大坂で知られる働きは、一人の生涯のうちに続いている。 九度山で過ごした歳月の後、信繁は(「大坂冬の陣」)で再び徳川方と向き合うことになる。

第二次上田合戦で真田父子が守ったのは、目の前の城だった。 その城を手放すことになったのは、遠くの関ヶ原で所属する陣営が敗れたためである。 残った真田家の領地を継いだのは徳川方の信幸であり、昌幸と信繁の暮らしは紀州へ移った。 一つの城の防衛が成功しても、領主として生き残る道は閉ざされる。その隔たりが、第二次上田合戦の結末に刻まれている。

両軍の対比

徳川方

徳川秀忠

大将:徳川秀忠
総兵力3万8千とする公的解説がある(実際の攻城参加数は未確定)
出陣小諸を拠点に上田へ
同行の重臣本多正信、榊原康政ら
真田家からの参加真田信幸
上田城の攻略を断念し西上。関ヶ原本戦には間に合わず
vs
真田方

真田昌幸、真田信繁

大将:真田昌幸、真田信繁
総兵力約2千〜2千5百とする解説がある(資料により異なる)
出陣上田城
所属西軍
戦い方城を拠点とする抵抗
城を守るが、西軍敗北後に昌幸と信繁は領地を失う

戦況の経過

真田家が東西に分かれる
慶長五年、上田での戦いに先立つ分裂
昌幸と信繁は西軍に加わり、信幸は徳川方に残る。
小県への進攻を通知
八月二十三日(旧暦)
秀忠が信幸に書状を送り、翌二十四日の出発と小県方面への出張を指示する。
小諸から開城を求める
九月上旬(旧暦)
小諸を拠点とする秀忠軍が上田の真田方と対峙。開城交渉はまとまらず、戦闘に至る。
上田城の攻略を断念
九月上旬〜中旬(旧暦)
真田方は城を維持。秀忠軍は西へ進むが、撤兵の細かな日程には資料間の違いがある。
関ヶ原で東軍が勝利
九月十五日(旧暦)
家康らの東軍が勝つ。秀忠軍はこの本戦に参加できなかった。

その後の世界

1600年の戦後
昌幸と信繁は助命され、高野山へ配流。その後、九度山で暮らす。上田領は信幸(信之)へ与えられる。
1601年
上田城が徳川方によって破却される。城を守り抜いた真田父子は、上田の領主へ戻れなかった。
1611年
昌幸が九度山で死去する。
1614〜1615年
信繁が大坂城へ入り、豊臣方として冬の陣と夏の陣を戦う。夏の陣で戦死する。
1622〜1626年
信之が松代へ移り、仙石忠政が上田に入封。忠政は1626年に上田城の復興工事に着手する。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 徳川軍の西上と上田合戦(真田信幸宛徳川秀忠書状ほかの訓読)
    信州地域史料アーカイブ参照日 2026-09-21
  2. 上田城の歴史
    上田市参照日 2026-09-21
  3. 真田家とは(昌幸・信繁・信之)
    真田宝物館参照日 2026-09-21
  4. 徳川秀忠の進軍経路と遅参理由に関する調査事例
    埼玉県立久喜図書館/レファレンス協同データベース参照日 2026-09-21
  5. 徳川秀忠
    こもろ観光局参照日 2026-09-21
  6. 館内案内(九度山時代)
    九度山・真田ミュージアム参照日 2026-09-21

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-09-21

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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