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上田の籠城を題材とする想像図。当時の城の正確な復元ではない(AI生成)(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

第二次上田合戦|1600年の結果と秀忠の軍令違反説

第二次上田合戦は1600年、真田昌幸・信繁が徳川秀忠軍から上田城を守った戦い。いつ起き、誰が勝ったのかを簡単に整理し、人数・参戦武将・布陣図、関ヶ原への遅参と軍令違反説を史料から解説する。

1600年慶長五年信濃国上田城勝 真田方(上田城防衛)敗 秀忠軍(攻略断念)戦国ジャーナル編集部戦いを読む
関ヶ原と同年
1600年
慶長五年九月(旧暦)
真田方の拠点
上田城
昌幸と信繁が籠城
上田での結果
攻略断念
秀忠軍は西へ進む
関ヶ原の結果
西軍敗北
城の防衛とは異なる帰結

この戦いの要点

  1. 上田での勝者は真田方

    1600年旧暦九月、昌幸と信繁は上田城を守り、秀忠軍は攻略を断念した。

  2. 城攻めと軍令違反を分ける

    秀忠は出陣前に小県進攻を通知していた。遅参の評価と、牧野康成の軍令違反の処分は別の論点となる。

  3. 城を守っても領地を失う

    秀忠は上田城を落とせず、関ヶ原本戦にも不参加。だが西軍の敗北で昌幸と信繁は配流となった。

第二次上田合戦を簡単にいうと

第二次上田合戦は、1600年(慶長5年)の旧暦9月、真田昌幸・信繁父子が上田城を守り、徳川秀忠軍の攻略を退けた戦いである。場所は信濃国の上田、現在の長野県上田市。上田での勝者は真田方だったが、父子の属する西軍は関ヶ原で敗れた。秀忠は城を落とせず、9月15日の関ヶ原本戦にも間に合わなかった。

知りたいこと答え
いつ起きたか1600年旧暦9月上旬を中心とする。撤兵の細かな日付には異説がある
誰と誰の戦いか真田昌幸・信繁と、徳川秀忠が率いる軍勢
結果・勝者真田方が上田城を防衛。秀忠軍は攻略を断念して西へ進んだ
人数の目安秀忠軍3万8千、真田方約2千〜2千5百とする解説がある
関ヶ原との関係同じ戦役で起きた別の戦い。秀忠軍は関ヶ原本戦に不参加

城を守った真田父子は、戦後に領地を失って紀州へ送られる。上田では負けなかったのに、上田の領主ではいられなくなった。城の攻防での勝敗と、関ヶ原の戦役全体の結果を分けると、この結末がわかりやすくなる。

いつからいつまでか:旧暦9月と日付の幅

第二次上田合戦の時期は、慶長5年9月上旬を中心に捉えるのが安全である。信州地域史料アーカイブの解説では、秀忠が小諸に着いたのは9月2日。その後、上田の真田方と交渉し、開城に至らないまま戦闘を経て西へ向かった。本記事の月日は旧暦であり、現在のカレンダーの9月とは一致しない。

撤兵日を一日まで絞ると、資料間の違いがある。

埼玉県立久喜図書館の調査事例

には、9月8日の撤兵を記す本と、9月10日を記す本が紹介されている。また、真田宝物館の学習冊子は、秀忠軍が上田で足止めされた期間を7日間、あるいは8日間とする。小諸への到着、交渉、実際の衝突、撤兵をひとまとめにすると、合戦の期間を取り違えやすい。

確かに押さえられる前後関係は、8月下旬の出発、小諸を拠点とする9月上旬の対峙、攻略断念、そして9月15日の関ヶ原本戦への不参加である。細かな撤兵日が定まらなくても、秀忠が上田城を落とせないまま西上した経過は変わらない。

参戦武将:真田家は敵味方に分かれた

守る側の中心は(「真田昌幸」)と次男の信繁。信繁は、後世に(「真田幸村」)の名で広く知られる武将である。攻める側は(「徳川秀忠」)であり、父の家康が上田で指揮を執ったわけではない。昌幸の長男・信幸も徳川方に属した。後の(「真田信之」)である。

陣営主な参戦武将この戦いでの立場
真田方・西軍真田昌幸上田城を拠点に秀忠軍へ抵抗した城主
真田方・西軍真田信繁(幸村)父とともに上田を守った次男
徳川方・東軍徳川秀忠中山道筋を西上する軍勢を率いた大将
徳川方・東軍真田信幸(信之)父・弟と異なる陣営に立った長男
徳川方・東軍本多正信、榊原康政秀忠軍に同行した徳川家の重臣

地域史料の解説は、このほか大久保忠隣、酒井家次、牧野康成らの同行も挙げる。(「本多正信」)と(「榊原康政」)もいた秀忠軍を、大将一人の思いつきだけで動く集団として描くのは適切ではない。ただし、重臣が同行した事実から、軍議での発言や個々の作戦の立案者まで決めることもできない。

真田父子の分裂は「犬伏の別れ」として知られる。真田宝物館は、昌幸と信繁が西軍、信幸が東軍を選んだ経過を紹介している。信幸は本多忠勝の娘で、家康の養女となった小松姫を妻としていた。親子は同じ家に生まれても、徳川・豊臣との関係をそれぞれに築いていたのである。

父子がどちらの陣営を選んだかは、三人が交わした会話の内容とは別に確かめられる。どちらが勝っても家を残すため、最初から全員が合意して分かれたという説明には留保が要る。結果として真田家は存続したが、その結果だけでは話し合いの細部まで証明できない。

秀忠の上田攻めは軍令違反だったのか

秀忠が父の命令を無視し、腹を立てて突然上田城を攻め始めたという筋書きは、出陣前の書状と合わない。慶長5年8月23日、秀忠は信幸へ、翌24日の出発と小県方面への進攻を知らせていた。上田城のある小県への攻撃は、現地で思いついた寄り道ではなかったのである。

信州地域史料アーカイブにある秀忠書状の訓読

では、信幸にも小県方面へ出張するよう指示している。同アーカイブの解説は、上田城が中山道の本線を塞ぐ位置ではないことも指摘する。通り抜けるため必ず落とす城だった、と考えると位置関係も任務も見誤る。

ただし、この書状は秀忠が信幸へ伝えた指示であり、家康から秀忠への命令をすべて記録したものではない。出陣前から攻撃が予定されていたことと、その後の攻城継続や西上の判断が妥当だったかは、分けて検討する必要がある。上田攻めの開始をそのまま軍令違反と決めるより、出陣時の任務と、その後の遅参を区別して考えたい。

信濃の道で書状を運ぶ使者の一行を題材とした想像図(AI生成)

牧野康成の軍令違反と秀忠の遅参は別の問題

第二次上田合戦の「軍令違反」には、秀忠をめぐる評価のほかに、部下の処分という論点がある。平凡社『改訂新版 世界大百科事典』の牧野康成の項は、上田城攻めに従った康成が軍令違反を咎められ、その後は大胡で閑居したと記す。ここでいう康成は、大胡城主の牧野康成である。

これは牧野に関する辞典の記述であり、秀忠自身が上田攻めを始めたことへの処分ではない。誰の、どの段階の行動を指すのかを確認せずに「軍令違反」とまとめると、二つの問題が混ざってしまう。

牧野の配下がどの命令に背いたのか、前線でどのようなやり取りがあったのかという細部は、今回確認した辞典の短い記述だけでは確定できない。上田攻めに参加したこと、軍令違反を咎められたと記されていることまでを採り、具体的な命令や台詞を補わない。一方、秀忠について問われるのは、軍全体を率いる立場で上田攻略に時間を費やし、関ヶ原本戦に参加できなかった経過である。

布陣図で見る上田城と小諸城

秀忠は小諸を拠点として、上田の真田方に圧力をかけた。上田城は小諸城の北西に位置する。こもろ観光局の解説では、秀忠が陣を置いた場所は小諸城二の丸とされる。

下掲の布陣図は、旧暦9月2日の小諸到着時点を取り、両軍の主要拠点を示している。真田方は上田城、徳川方は小諸城という関係を読むための模式図である。城外での攻撃部隊、伏兵、信幸や信繁の細かな移動を一枚に重ねた復元図ではない。

実際の戦いでは部隊が動くため、拠点の所在地がわかっても、その城に属する全兵がいつも同じ場所にいたとは限らない。北を上にした二つの城の位置と、戦闘時の隊列を分けて見ておくと、大軍が上田城の門前に一斉に並んだような誤解を避けられる。当時の川筋や進撃路も、現代の地図だけから確定することはできない。

小諸からの開城交渉と真田の抵抗

秀忠軍は、はじめから力攻めだけで上田を落とそうとしたわけではなかった。小諸到着後、昌幸に開城を求めている。地域史料と真田宝物館の解説では、昌幸はいったん城を明け渡すような態度を示したものの、実際には開城せず、両軍は戦闘に至ったとされる。

この経過から、真田方が交渉も利用して抵抗したことは読み取れる。しかし、昌幸が相手を見て笑った、秀忠が挑発に激怒した、といった場面までが書状から確かめられるわけではない。会話を再現しなくても、交渉が終わらず城も手に入らない間、徳川方が時間を使ったことはわかる。

守る側には、昌幸が1583年に築き始めた上田城があった。十五年前の第一次上田合戦でも、この城で徳川軍に抵抗している。ただし、1585年の第一次と1600年の第二次は、別の政治状況で起きた戦いである。第一次の逸話や兵数を、そのまま秀忠との第二次の攻防へ移してはならない。

開城交渉の使者を迎える軍営を題材とした想像図。特定の会見の再現ではない(AI生成)

人数は3万8千対2千余:兵力差の読み方

上田市の解説では、秀忠軍3万8千に対して、真田方は2千5百とされる。真田宝物館の学習冊子は真田方を2千人ほどと記している。少数の真田勢が大軍に抵抗したという説明は共通しているが、人数は一つの数字に揃っていない。

3万8千という数字は、秀忠が率いた軍勢の規模として読む必要がある。同じ瞬間に上田城へ突撃した兵の人数が3万8千だった、という意味ではない。軍全体の人数と、前線で実際に戦った部隊の人数を分けなければ、城の周りで起きた戦闘を必要以上に大きく描いてしまう。

信州地域史料アーカイブは、対峙の間に比較的大きな衝突が一度あった、という形で戦いを整理している。毎日、全軍が一斉攻撃を繰り返したという記述ではない。兵力差から直ちに徳川軍の壊滅や、正確な戦死者数を導くこともできない。

真田方の戦果として確かめたいのは、兵を何人倒したかより、秀忠が求めた開城を実現させなかったことである。上田城を守った父子にとって、城を渡さずに攻め手を去らせたことは成果だった。城の防衛に成功しながら、関ヶ原後には領地を失った。この二つが、真田父子の迎えた結果である。

土塁と木柵の内側で装備を整える守備兵を題材とした想像図(AI生成)

関ヶ原の戦いに徳川秀忠が間に合わなかった理由

秀忠は上田城の攻略を断念して西へ進んだが、旧暦9月15日の(「関ヶ原の戦い」)には間に合わなかった。家康ら東軍は、秀忠軍を欠いたまま本戦で勝利する。秀忠が関ヶ原の戦役に参加したことと、関ヶ原の戦場で戦ったことは同じではない。

上田で交渉や戦闘に時間を使ったのは、遅参を考えるうえで外せない経過である。それでも、「昌幸の一つの策だけで遅参が決まった」とまでは言えない。家康の本隊と秀忠軍は別の道を進んでおり、それぞれの任務、合流を求める指示、その伝達と行軍に要する時間も関わってくる。

よく語られる川留めの説明にも、研究上の評価の違いがある。埼玉県立久喜図書館の調査回答は、家康の使者が川留めで遅れたという説明を載せる一方、その話を秀忠の遅参を弁護するための潤色とみる研究も紹介する。同じ研究者の著作でも論じ方が異なるため、川の増水を唯一の確定原因にすることはできない。

この比較は、図書館が紹介した研究の内容に基づくもので、当時の使者の記録を直接読んだものではない。確実な結果と、原因をめぐる研究上の説明には差がある。秀忠軍が本戦に加われなかった事実を押さえたうえで、上田の抵抗、当初の作戦、連絡と移動の問題を検討するのが妥当だろう。

信濃の山道を西へ進む兵と荷駄を題材とした想像図。実際の行軍路の復元ではない(AI生成)

史実と物語を分けて読む

第二次上田合戦は、少数の真田勢が大軍を止めた戦いとして記憶されてきた。その骨格に、具体的な奇策や大将の性格を説明する物語が重なっている。何を根拠に、どこまで言えるのかを分けると、真田方の成果を過大にも過小にもせずに読める。

論点今回確認できた根拠断定しないこと
上田攻めの開始出陣前の秀忠書状に小県進攻の指示がある現地で思いついた無断の寄り道だったという説明
軍令違反辞典に牧野康成への処分の記述があるその処分を秀忠本人のものとして語ること
真田の勝利城を維持し、秀忠軍が攻略を断念した徳川軍全体が壊滅したという説明
人数と損害公的解説に兵数の概数がある実戦参加数、損害率、討ち取った人数の確定
遅参の原因上田での対峙と本戦不参加は確認できる放水や一つの策、川留めだけですべてを説明すること

史実への留保は、真田の防衛成功を取り消すものではない。大軍に開城を求められながら上田城を保ち、秀忠を攻略断念に至らせたこと自体に、昌幸と信繁の成果がある。そこへ確認できない台詞や仕掛けを足さなくても、両軍の目的と結果の違いは見えてくる。

戦いの結果:城を守った父子は九度山へ

関ヶ原で西軍が敗れると、昌幸と信繁は領地を失った。真田宝物館や九度山・真田ミュージアムは、東軍にいた信幸の助命嘆願によって父子が命を助けられた経過を伝えている。父子は高野山へ送られ、やがて麓の九度山で暮らすことになった。上田領を受け継いだのは、徳川方に残った信幸である。

上田城も、戦闘中に守られた姿のまま残ったわけではない。上田市の年表では1601年に徳川方が城を破却したとされる。信之が松代へ移ったのは1622年。その後に上田へ入った仙石忠政が、1626年に城の復興工事を始めた。現在の櫓や石垣を、1600年の攻防をそのまま伝える建物として思い描くことはできない。

紀州での蟄居生活を題材とした山麓の住まいの想像図。特定の屋敷の復元ではない(AI生成)

昌幸は1611年に九度山で亡くなった。信繁は後に大坂城へ入り、1614年の(「大坂冬の陣」)と翌年の夏の陣を豊臣方で戦う。上田から紀州へ移った父子と、徳川政権のもとで領地を継いだ信幸の歩みは、ここから別々に続いていく。

第二次上田合戦の勝者を問うなら、上田城の防衛に成功した真田方と答えられる。けれども、戦後に上田の領地を保ったのは、城を守った父子ではなかった。関ヶ原で所属する西軍が敗れたためである。局地戦で勝つことと、領主として生き残ることの隔たりが、この合戦の結末に表れている。

両軍の対比

徳川方

徳川秀忠

大将:徳川秀忠
総兵力3万8千とする公的解説がある(実際の攻城参加数は未確定)
出陣小諸を拠点に上田へ
同行の重臣本多正信、榊原康政ら
真田家からの参加真田信幸
上田城の攻略を断念し西上。関ヶ原本戦には間に合わず
真田方

真田昌幸、真田信繁

大将:真田昌幸、真田信繁
総兵力約2千〜2千5百とする解説がある(資料により異なる)
出陣上田城
所属西軍
戦い方城を拠点とする抵抗
城を守るが、西軍敗北後に昌幸と信繁は領地を失う
vs

布陣図

戦場の配置

1600年旧暦9月2日、小諸到着時点の両軍の主要拠点

模式図 / 縮尺不同
100%
第二次上田合戦|1600年の結果と秀忠の軍令違反説 布陣図第二次上田合戦|1600年の結果と秀忠の軍令違反説の主要部隊と拠点。位置と距離は概略。番号は部隊一覧に対応。小諸城・徳川秀忠上田城・真田父子0102

北が上、東が右。上田城と小諸城の位置関係を示す布陣の概略図。城を拠点として示しており、攻撃時の各部隊の配置や将の立ち位置を復元したものではない。距離の計測には使えない。前線の移動経路・伏兵・当時の川筋は描いていない。

布陣の根拠
布陣図

戦況の経過

真田家が東西に分かれる
慶長五年、上田での戦いに先立つ分裂
昌幸と信繁は西軍に加わり、信幸は徳川方に残る。
小県への進攻を通知
八月二十三日(旧暦)
秀忠が信幸に書状を送り、翌二十四日の出発と小県方面への出張を指示する。
小諸から開城を求める
九月二日、小諸到着(旧暦)
小諸を拠点とする秀忠軍が上田の真田方と対峙。開城交渉はまとまらず、戦闘に至る。
上田城の攻略を断念
九月上旬〜中旬(旧暦)
真田方は城を維持。秀忠軍は西へ進むが、撤兵の細かな日程には資料間の違いがある。
関ヶ原で東軍が勝利
九月十五日(旧暦)
家康らの東軍が勝つ。秀忠軍はこの本戦に参加できなかった。

その後の世界

1600年の戦後
昌幸と信繁は助命され、高野山へ配流。その後、九度山で暮らす。上田領は信幸(信之)へ与えられる。
1601年
上田城が徳川方によって破却される。城を守り抜いた真田父子は、上田の領主へ戻れなかった。
1611年
昌幸が九度山で死去する。
1614〜1615年
信繁が大坂城へ入り、豊臣方として冬の陣と夏の陣を戦う。夏の陣で戦死する。
1622〜1626年
信之が松代へ移り、仙石忠政が上田に入封。忠政は1626年に上田城の復興工事に着手する。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 徳川軍の西上と上田合戦(真田信幸宛徳川秀忠書状ほかの訓読)
    信州地域史料アーカイブ参照日 2026-10-10
  2. 上田城の歴史
    上田市参照日 2026-10-10
  3. 真田家とは(昌幸・信繁・信之)
    真田宝物館参照日 2026-10-10
  4. 徳川秀忠の進軍経路と遅参理由に関する調査事例
    埼玉県立久喜図書館/レファレンス協同データベース参照日 2026-10-10
  5. 徳川秀忠
    こもろ観光局参照日 2026-10-10
  6. 館内案内(九度山時代)
    九度山・真田ミュージアム参照日 2026-10-10
  7. 牧野康成(1555〜1609年)の項
    所理喜夫/平凡社『改訂新版 世界大百科事典』、コトバンク参照日 2026-10-10
  8. 地理院地図(上田城と小諸城の位置関係)
    国土地理院参照日 2026-10-10

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-10

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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