
第一次上田合戦|1585年沼田領を守った真田昌幸
信濃国・上田
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第一次上田合戦は1585年、沼田領の引き渡しを拒んだ真田昌幸が徳川軍を退けた戦い。閏8月2日の戦闘、信幸の戦果報告、上杉との連携と沼田の防衛をたどり、兵力差や神川の水攻め伝説を史料から読み分ける。
この戦いの要点
沼田の領地をめぐる決裂
徳川と北条の和睦が真田の沼田領に及び、昌幸は引き渡しを拒んで上杉景勝を頼った。
信幸の書状が伝える勝利
閏8月13日の書状は、2日に国分寺で徳川勢と戦ったと報告する。討取数は当事者の戦果報告として読む。
上田と沼田に続く警戒
上田で勝っても攻防は終わらず、沼田には北条の圧力がかかった。上杉方による築城支援も続いた。
沼田を渡さなかった昌幸
守るべき領地を味方同士の取引で手放すよう命じられた真田昌幸は、徳川家康に背き、築城を始めて間もない上田の城でその軍を迎え撃った。 天正十三年(1585)の第一次上田合戦である。 主戦闘は当時の暦で閏八月二日。 昌幸と長男の信幸、後の信之らは、鳥居元忠らが率いる徳川勢を退けた。
対立の発端は、城から遠く離れた上野国の沼田領にあった。 家康は北条との約束を果たすため、昌幸にその引き渡しを求める。 だが真田にとっては、武田に仕えた時代から築いてきた所領である。 大名同士の和睦を受け入れることが、真田には領地を失うことにつながった。
上田の戦いは、少ない兵で大軍を破った昌幸の知略として語られてきた。 しかし、勝利を伝える信幸の書状は、戦果の報告に続いて沼田の守りを固めるよう命じている。 敵を退けたその先にも、別の敵がいた。第一次上田合戦は、上田の城を守る戦いであると同時に、真田が信濃と上野にまたがる領地を保つための戦いだった。
徳川と北条が決めた領地の扱い
天正十年(1582)、武田氏が滅び、続いて織田信長が本能寺で倒れると、旧武田領を押さえる力は急に不安定になった。 昌幸は滝川一益に従ったのち北条へ、さらに徳川へと従属先を移していく。 信濃の真田が生き残るには、周囲の大勢力との関係を結び直す必要があった(「天正壬午の乱」)。
その年の十月、徳川と北条の和睦が成立する。 高岡市立博物館の解説によれば、甲斐や信濃の支配と引き換えに、上野北部の沼田領を北条へ渡すことが取り決められた。 ところが、そこを実際に押さえていた昌幸は応じなかった。
真田氏は武田方として吾妻に進出し、昌幸は天正八年(1580)に沼田城を攻略していた。 沼田は家康から新たにもらった恩賞地ではない。 家康が北条との関係を安定させようとするほど、昌幸との溝は深くなる。徳川と北条にとっての和平条件が、真田にとっては戦争の原因になった。

この対立は、和睦の直後に決着したわけではなかった。 その後も沼田の問題は残り、家康が秀吉と対抗するなかで北条との協調は重みを増す。 昌幸は所領の保持と徳川への服属を両立できなくなり、上杉景勝に近づいていった。
上田城と上杉の後ろ盾
昌幸が上田城の築城に取りかかったのは天正十一年(1583)である。 当初は徳川方の城として、北の上杉勢力に対抗する役割を持っていた。 その城が二年後には、徳川軍を迎え撃つ拠点になる。
上田城は南側の川と断崖を守りに利用できる場所にあった。 一方、東側には城下が広がる。 城へ近づく方向が地形によって限られることは、防御の利点になったと考えられる。 ただし、真田時代の建物や街路の全体像が分かっているわけではない。 現在見られる櫓を、そのまま第一次合戦の景色として思い浮かべるのは早計である。
昌幸は徳川から離れるにあたり、次男の信繁を上杉方へ人質として送った。 信繁は、後に幸村の名で知られる人物である。 上田市立博物館の人物解説と、特別展「真田丸」の現存書状の解説は、この時期の越後への人質入りを伝えている。 一方、信州地域史料アーカイブには、合戦直前に信繁が一時帰還したとみる解釈も示されている。 人質入りだけから不参戦と断定することも、帰還説から城内の指揮を執ったと決めることもできない。 信幸の書状で確認できる役割と、信繁の動向の推定は分けておきたい。

上杉の支援も、景勝が自ら上田の戦場へ駆けつけたという話とは分けて考える必要がある。 信州地域史料アーカイブの解説では、景勝自身の出馬は長沼までとされ、援軍が実際の戦闘に加わった様子はうかがえないという。 一方、合戦後の上田城普請には上杉方の将士が動員されていた。 昌幸は目の前の敵を防ぐとともに、徳川に代わる支援者との関係を固めていたのである。
閏八月二日、国分寺での戦闘
家康が送り込んだのは、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らの軍勢だった。 主戦闘で徳川方が敗れたことは、同時代の真田信幸の書状によっても確認できる。 閏八月十三日、信幸は沼田方面の家臣たちへ、二日に国分寺で遠州から来た軍勢と戦ったことを知らせた。
そこには「千三百余討捕り」とある。 これは勝利した側が伝えた戦果の数であり、第三者が確認した死者数ではない。 それでも、戦闘の場所と日付、信幸が勝利を報じた事実を同時に押さえられる点で、重みのある記録である。 国分寺や神川周辺を舞台とするため、この戦いは神川合戦とも呼ばれる。

城下へ敵を誘い込み、柵で動きを妨げ、退く敵に追い打ちをかけたという説明は、現在の歴史案内にも広く見られる。 上田の地形と防御施設を利用した戦いとして理解しやすい。 だが信幸の書状そのものは短く、兵がどの道から入り、どの時点で反撃に転じたかまでは書いていない。 勝利が確認できることと、その全過程を再現できることは別なのである。
昌幸を父に持つ信幸は、この時、後の松代藩主となる前の若い武将だった。 書状は彼が単に父の傍らにいたのではなく、戦果を伝え、離れた領地の家臣に守備を指示する立場にあったことも示す。 第一次合戦で父とともに徳川に対抗した長男が、十五年後には徳川方に立つ。 真田家の進路は、まだ定まっていなかった。
勝利の報せが向かった沼田
信幸の書状は、勝ったという報告だけでは終わらない。 北条勢が沼田方面へ動くことを見越し、備えを固めるよう家臣たちに求めている。 上田で徳川軍を退けても、真田の領地全体から脅威が消えたわけではなかった。
沼田の守備を担ったのは、昌幸の叔父にあたる矢沢頼綱である。 特別展「真田丸」の資料解説は、頼綱が北条軍を退けたことを伝える。 高岡市立博物館の解説では、沼田へ侵攻した北条方の将は氏邦とされる。 上田と沼田は離れた戦場だったが、どちらも沼田領を引き渡すか否かという同じ対立につながっていた。

このため、上田だけを見て勝敗を考えると、昌幸が抱えた難しさを取り落とす。 一方の城で勝っても、もう一方の領地を失えば、引き渡しを拒んだ目的は果たせない。 信幸が戦果の報告と守備の指示を一通に収めたのは、二つの戦線を切り離せなかったからだと読める。上田の勝利を領地の保持へつなぐには、沼田も持ちこたえる必要があった。
九月の普請と終わらない対立
徳川方は主戦闘の敗北後も、再び真田を攻める構えを保っていた。 信州地域史料アーカイブの解説では、九月に井伊直政、大須賀康高、鳥居元忠、平岩親吉が連署した禁制が紹介される。 軍勢の乱暴を禁じる文書であり、戦いの後にも徳川の軍事行動が続いていたことをうかがわせる。
真田方も、守りを固め直していた。 上杉方の島津忠直らが直江兼続に送った書状によれば、九月末にも伊勢崎、すなわち上田城の普請が進められていた。 天正十一年の着工から一度も完成していなかったのか、それとも増築だったのかは、この記述だけでは決められない。 確かなのは、合戦後も上杉の人員を使った工事が行われていたことである。

十一月には、徳川の重臣である石川数正が秀吉のもとへ去った。 同月二十八日付とされる家康の書状は、北条氏規に対し、数正の出奔後の備えや加勢への謝意を伝えている。 傷みのある文書だが、上方の情勢と北条への連絡をともに気にかける家康の立場を読み取れる。 上田での敗戦だけで、徳川を取り巻く動きのすべてが決まったわけではない。
やがて昌幸は秀吉との関係を深め、天正十五年(1587)には秀吉の命により再び家康に従属する。 城を守り抜いたあとも、強大な相手との関係を組み直す必要は残った。 戦場で家康の軍を破ることと、徳川から永続的に離れて生きることは、同じではなかったのである。
通説と俗説の射程
「徳川七千に真田二千」という兵力差は、第一次上田合戦を印象づける数字である。 上田市の城郭解説は徳川勢を七千余、真田勢を二千人に足らないほどとし、信州地域史料アーカイブもほぼ同じ規模を示す。 ただし、これらを別々の兵員名簿による独立した集計と見なすことはできない。 兵力差を伝える目安としては使えても、正確な比率や損害率を算出する土台にはしにくい。
神川の堰を切って敵を押し流したという話も、昌幸の知略を鮮やかに見せる。 高岡市立博物館の合戦解説にも採られているが、そこで紹介される家康書状に水攻めの記述があるわけではない。 信幸の勝利報告にも、堰を切ったとは書かれていない。 この話を史実として確定させるには、具体的な策を記した史料の成立と内容を、さらに確かめる必要がある。
後世の『上田軍記』も、そのまま戦場の実況として読むことはできない。 堀内泰の解説は、成立を享保十八年(1733)とする見方や、それ以前の十八世紀初めまで遡る可能性を示す。 真田家の家記として史実を残そうとした面はあっても、合戦から百年以上後の記述である。同時代の書状が伝える勝利と、後世に詳しく描かれた勝ち方を、同じ確かさで並べることはできない。
また、二度の上田合戦を混ぜると、参加者まで入れ替わってしまう。
| 比較する点 | 第一次上田合戦 | 第二次上田合戦 |
|---|---|---|
| 年 | 1585年 | 1600年 |
| 対立の背景 | 沼田領と徳川への服属 | 関ヶ原へ向かう東西の対立 |
| 上田の真田方 | 昌幸と信幸ら | 昌幸と信繁 |
| 徳川方 | 鳥居元忠らの派遣軍 | 徳川秀忠軍 |
| 信幸の立場 | 父とともに徳川に対抗 | 徳川方 |
第一次を信繁の武勇譚として語りすぎると、信幸の書状と上杉への人質という二つの手掛かりが見えなくなる。 名高い弟の後年の活躍を、この戦いにさかのぼって重ねないことが必要である。
二度目の戦いへ残された上田
第一次上田合戦で、昌幸は徳川軍の攻撃を退けた。 だが、そこで北条との沼田問題も、徳川との関係も、すべてが片づいたわけではない。 上杉の援助を受け、秀吉に接近し、後には家康に出仕する。 城の守りと外交を並行して続けたところに、この勝利の先があった。
慶長五年(1600)、上田は再び徳川軍と向き合う。 今度は昌幸と信繁が城を守り、長男の信幸は徳川方に立った。 第一次の勝利報告を書いた息子が、次の戦いでは父と同じ側にいない。 沼田を守るために結び替えた大名同士の関係は、やがて真田家の内部にも選択を迫ることになる。
関ヶ原の戦いの後、昌幸の城は破却された。 現存する上田城の櫓は、仙石氏が寛永三年(1626)から進めた再建の時期に属する。 いま残る建物だけから、第一次合戦の一日をそのまま取り戻すことはできない。 それでも、信幸が沼田へ送った書状には、勝利を喜ぶ報告と、次の攻撃に備える指示が並んで残っている。 昌幸が守り抜いた上田の先には、まだ守らなければならない領地があった。
両軍の対比
真田昌幸・真田信幸
鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 恩田等宛真田信幸書状(天正十三年閏八月十三日)訓読と上田合戦の解説信州地域史料アーカイブ/NPO長野県図書館等協働機構参照日 2026-09-21
- 学芸ノート第7回 天正13年11月28日付徳川家康書状(北条氏規宛)高岡市立博物館参照日 2026-09-21
- 真田氏築城と慶長の破却上田市市民ICT推進センター参照日 2026-09-21
- 上田城と歴代上田城主上田市立博物館参照日 2026-09-21
- 2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」見どころ・資料上田市立美術館/サントミューゼ参照日 2026-09-21
- 信州上田軍記 解説(堀内泰)上田市市民ICT推進センター参照日 2026-09-21
- 上田城の歴史上田市立博物館参照日 2026-09-21
- 上田軍記暦上田市市民ICT推進センター参照日 2026-09-21
- 上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸)信州地域史料アーカイブ/NPO長野県図書館等協働機構参照日 2026-09-21





