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甲斐の高台から盆地を望む陣地の想像図(AI生成イメージ)
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合戦KASSEN

天正壬午の乱|1582年の結果・勢力図と真田昌幸

天正壬午の乱は1582年、本能寺の変後に徳川・北条・上杉が旧武田領を争った戦乱。読み方、いつ・どこで起きたか、結果と勢力図をわかりやすく整理し、真田昌幸の動向、黒駒合戦、和睦後に残った沼田問題をたどる。

1582年天正十年六月〜十月(旧暦)甲斐・信濃・上野勝 徳川家康(甲斐・信濃の大半を確保)戦国ジャーナル編集部戦いを読む
争乱の年
1582
天正十年・壬午
争乱の期間
六月〜十月
月日は旧暦
争われた地域
三国
甲斐・信濃・上野
黒駒合戦
八月十二日
徳川勢が北条勢を破る
徳川・北条の和睦
十月
領土分割と婚姻を合意

この戦いの要点

  1. 読み方は「てんしょうじんごのらん」

    1582年六月〜十月、本能寺の変後の旧武田領をめぐる一連の争い。ひとつの合戦名ではない。

  2. 徳川は甲斐・信濃の大半へ

    北信濃の川中島四郡は上杉の支配下に残る。北条との和睦で上野を北条側とするが、沼田の帰属問題は続いた。

  3. 黒駒合戦と真田昌幸の転属

    八月に徳川勢が黒駒で北条の別働隊を破り、九月には昌幸が北条から徳川へ移った。戦闘と国衆の動向を合わせて追う。

天正壬午の乱とは、いつ・どこで起きたのか

信長の死から、旧武田領の争奪が始まった。天正壬午の乱は「てんしょうじんごのらん」と読み、1582年の六月から十月にかけて、徳川・北条・上杉などが甲斐・信濃・上野を争った戦乱である。本能寺の変後に各地で起きた戦闘や領主の離反、和睦をまとめて指す。

結果を先に押さえると、徳川家康は甲斐と信濃の大半を確保した。北信濃の川中島四郡は上杉景勝の支配下に残り、北条は徳川との和睦で上野を自らの側とする合意を得た。ただし、真田氏が押さえる沼田はすぐには北条へ渡らない。和睦で決めた分け方と、現地で実際に城を持つ者は一致していなかった。

「壬午」は1582年、天正十年の干支である。黒田基樹の解説によれば、「天正壬午の乱」は平山優が提示した研究上の呼称で、当時の人々が一連の戦いをそう呼んでいたわけではない。

以下、月日は旧暦で記す。六月二日の本能寺の変を起点に、同年十月の徳川・北条の和睦までを追う。1585年の第一次上田合戦は、この乱の最中の出来事ではなく、和睦後に残った問題から生じた別の戦いである。

勢力図をわかりやすく整理する

まず、旧武田領へ入ってくる方向を思い浮かべたい。越後の上杉は北から信濃へ、関東の北条は東から上野・信濃へ、徳川は東海側から甲斐・信濃へ進む。その間には、真田氏のように自前の城や家臣を持つ地域領主がいた。こうした領主を国衆という。

勢力主な進出先・足場乱を経てどうなったか
徳川家康甲斐、信濃甲斐と信濃の大半を確保。旧武田領を新たな領国へ組み込む
北条氏政・氏直上野から信濃・甲斐へ甲信から退き、徳川との和睦で上野を北条側とする合意を得る
上杉景勝北信濃川中島四郡を支配。徳川・北条の和睦でこの地域まで徳川に渡ったわけではない
滝川一益織田方として上野などを担当神流川合戦で北条に敗れ、上野から撤退する
真田昌幸信濃の小県、上野の沼田方面北条から徳川へ移る。沼田を保つが、和睦後も帰属をめぐる争いが続く

この表は、半年弱の動きを並べた勢力図である。五者が同じ日に一つの戦場へ集まったわけではない。六月の神流川合戦、夏から秋の新府・若神子の対陣、八月の黒駒合戦を分けると、誰がどこで戦ったかを追いやすくなる。

場所を現在の地名に置き換えると、新府城跡は山梨県韮崎市、若神子は同県北杜市、黒駒は同県笛吹市御坂町にあたる。神流川合戦は埼玉県上里町周辺、真田の沼田城は群馬県沼田市に位置する。主戦場は一つの県には収まらない。

原因は武田滅亡後の支配と本能寺の変

1582年三月、武田氏が滅び、織田方は甲斐・信濃・上野の支配を組み直した。ところが三か月後の六月二日、本能寺の変で信長が死去する。新たな領主と、その下に置かれた旧武田方の関係は、まだ固まりきっていなかった。

織田方の指揮が揺らぐと、周辺の大名が動き、国衆も誰に従うかを選び直した。とはいえ、旧武田領が誰の土地でもなくなったのではない。城を守る者も、村々を支配する者も残っていた。大軍を入れるだけで、彼らの従属まで決まるわけではなかった。

甲斐の館を訪れた使者と門前の武士たち。国衆との交渉を描いた想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

家康の進出も、単なる無断の領土取りとは捉えにくい。黒田基樹の解説や丸島和洋の研究は、織田側の承認を受けた介入であったことを指摘している。信長を失っても、織田家との関係が直ちに無意味になったわけではない。

一方、現地で必要なのは、土地の安堵や働きに応じた恩賞であった。家康は旧武田方を取り込みながら戦う。誰にどの土地を認めるかという約束は、戦後の領国経営にも持ち越された。天正壬午の乱には、城の攻防と同時に、領主と家臣の関係を結び直す側面がある。

神流川合戦で滝川一益が敗れる

最初の大きな転換は上野で起きた。織田方の滝川一益と北条勢が、六月十八日から十九日にかけて神流川付近で戦ったのである。上里町の解説は、十八日は滝川方が勝ち、翌十九日の戦闘で北条方が勝利したと整理する。

二日間をまとめて「北条の圧勝」とだけ書くと、初日の経過が消えてしまう。勝敗が決まったのは十九日であり、敗れた一益は上野を離れ、伊勢へ退いた。これによって、北条が上野から信濃へ進むうえで大きな障害が取り除かれた。

上野からの撤退をイメージした滝川一益。馬を伴い山道に立つ姿(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

ここで北条が破った相手は徳川家康ではない。上野にいた織田方の一益である。甲斐で徳川と北条が向かい合う局面は、その先に来る。

一益の敗退は、上野全体が翌日から北条の統一支配に入ったことも意味しない。沼田をめぐる真田氏の動きのように、城ごとの支配はその後も変わる。一益が失った関東での足場と、その後の歩みは滝川一益の記事でたどれる。

上杉は北信濃へ、北条と徳川は甲斐へ

上杉景勝は北信濃へ進出した。乱後の結果を整理するうえで重要なのは、川中島四郡が上杉の支配下に残ったことである。徳川が「信濃を得た」とだけ説明すると、景勝の領域まで家康が支配したように見えてしまう。

その南では、北条氏直が信濃を経て甲斐へ進み、家康と対峙した。徳川方は新府城方面、北条方は若神子方面を拠点とする。現在の城跡の位置で見ると、若神子は新府の北西にある。ページ後半の布陣図は、この二つの拠点の関係に絞った模式図である。

両軍が甲斐に集まっても、争いの範囲は甲斐だけになったわけではない。信濃で国衆がどちらにつくかは、北条の連絡や物資の輸送にも関わった。城の前に並ぶ兵数だけでは、対陣の成り行きを説明できない。

三勢力は、それぞれ別の地域に足場を持っていた。上杉の北信濃支配、北条の上野進出、徳川の甲斐確保を区別して見れば、最後の和睦で何を譲り、何を残したのかが分かる。

黒駒合戦の場所・経過・結果

黒駒合戦は、八月十二日、甲斐の黒駒、現在の山梨県笛吹市御坂町周辺で起きた戦いである。鳥居元忠ら徳川勢が、北条の別働隊を破った。望月秀人の研究も、この日の元忠の勝利を記している。

新府・若神子の対陣から見ると、黒駒は甲府盆地の東側にあたる。津金学校の地域史解説によれば、北条方は御坂城方面から兵を出し、徳川方を側面から脅かそうとした。この別働隊の行動に対し、徳川勢が黒駒で勝利したのである。

黒駒周辺の山麓をイメージした道に立つ徳川方の兵。具体的な行軍路を復元したものではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

黒駒での勝利により、家康は別方向からの圧迫を退けた。ただし、北条軍の全軍がここで敗走したのではない。甲斐での対陣はなお続き、徳川・北条が和睦するのは十月である。黒駒合戦は重要な勝利だが、その一戦だけで天正壬午の乱が終わったわけではない。

その後、元忠は甲斐東部の郡内支配を担う。北条領との境に近いこの地域を任されたことからも、戦闘後に国境を守る仕事が残ったと分かる。黒駒の戦功を伏見城だけではない元忠の経歴の中で見るなら、鳥居元忠の記事がつながる。

真田昌幸はなぜ北条から徳川へ移ったのか

真田昌幸の動きは、信濃と上野をまたぐ所領から考えたい。昌幸は信濃の小県を本拠とし、上野の沼田にも足場を持っていた。大名同士が国単位で領土を分けようとすれば、自分の領地がその境目で割れるおそれがあった。

上田市立博物館の「真田家略年表」では、七月に北条氏直が信濃へ入ると昌幸も北条方につき、九月には徳川家康に従ったとされる。1582年の中心となる変化は、この北条から徳川への転属である。

平服で座る真田昌幸。1582年の外交判断をイメージした人物像(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

時期真田昌幸の動向区別しておきたい点
1582年春武田滅亡後、織田方の支配に入る沼田も一度は織田方の支配下となる
同年七月北条方につく北条の信濃進出と結びつく
同年九月徳川方へ移る天正壬午の乱の最中の転属
1583年徳川の力を借りて上田城の築城に着手する家康との協力が続いていた
1585年上杉景勝に従い、徳川と戦う第一次上田合戦の年。1582年と混同しない

昌幸が何を考えたかを一語で決めつけることはできない。だが、小県と沼田を保つには、隣接する大名との関係を調整する必要があった。相手を替えるたびに、家臣や城を守れる条件を得なければならない立場だったのである。

ここで注意したいのは、家康を最初から一貫した敵と見ないことだ。翌年の上田築城では、真田は徳川の力を借りている。のちの上田合戦を知っているからといって、1582年の協力まで見せかけだったと断定はできない。真田昌幸の記事では、この前後の主従関係も追える。

十月の和睦と、領土分割の条件

十月、徳川と北条は和睦した。大筋では、甲斐・信濃を徳川側、上野を北条側とし、家康の娘・督姫と氏直の婚姻を結ぶ合意である。この取り決めは両家の争いを収めるもので、上杉が保つ北信濃まで徳川領に変えるものではなかった。

和睦には織田信雄・信孝の働きかけもあった。丸島和洋は、中央で羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まる情勢と、徳川・北条間の交渉を合わせて検討している。甲斐での戦況に加えて、織田家の後継争いも両者の判断に関わっていたのである。

平服の徳川家康が座って相手に向き合う姿。和睦交渉の時期をイメージした場面(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

同論文が掲載する十月二十八日付の徳川家康覚書には、誓詞や使者の通行などの案件が現れる。領土の分け方を決めた後も、約束を誰が保証するか、双方の使者をどう扱うかを詰める必要があった。北条氏規らが間を取り持った外交は、単に一度会って握手をするようなものではない。

婚姻の合意と実際の輿入れも別の時点である。督姫が氏直に嫁いだのは翌1583年。1582年の和睦によって徳川・北条同盟が結ばれ、翌年の婚姻でその関係が固められた、と順序を分けて理解したい。

通説と俗説の射程

天正壬午の乱は「大軍の北条を少数の徳川が退けた戦い」と語られることがある。兵力差に注目すれば対陣の厳しさは伝わるが、神流川、甲斐での対陣、黒駒では、戦う部隊も時期も異なる。別々の局面の人数を一つの棒グラフにまとめれば、かえって戦況を誤らせる。

上里町の神流川合戦の解説は、軍記が伝える戦闘の物語と、書状から分かる動きを取り上げている。後世の軍記の数字を、そのまま全軍の確定人数とみなすことはできない。本記事は根拠の異なる兵数を合算せず、拠点と戦闘の結果を軸に整理した。

真田の動きを確かめる際も、年表の欄を読み分ける必要がある。上田市立博物館の「上田軍記暦」には、真田家の略年表と、軍記の中に記された出来事が並ぶ。同じページに載っているからといって、両方の日付を無条件につなげることはできない。本記事の七月・九月の転属は「真田家略年表」の欄に基づく。

「誰が勝ったか」にも、地域ごとの答えがある。広い領域を得た家康の利益は大きい。一方で、上杉は北信濃に勢力を残し、北条も神流川で勝って上野方面に足場を広げた。北条が甲斐から退いたことと、全ての戦場で敗れたことは同じではない。

真田昌幸を「裏切りの名人」としてだけ読むのも、この乱の条件を見えにくくする。真田の領地は、大名が約束した国境をまたいでいた。昌幸の転属を考えるには、評判や人物像より先に、いつ、どの城と領地を守ろうとしたのかを確かめる必要がある。

結果とその後、沼田問題から上田合戦へ

乱を経て、家康は甲斐と信濃の大半を得た。従来の三河・遠江・駿河に加え、五か国にまたがる勢力を持つことになる。ただし、新領地を得ることと、そこを一様に直接支配することは違う。旧武田方に認めた所領や、新たに与えた恩賞を整理する仕事が残った。

望月秀人は、戦時中に家康が武田遺臣や国衆へ与えた土地の約束を、乱後に整理した経緯を述べている。十一月から十二月、さらに翌年にも知行を認める文書が出された。戦いの最中に味方を増やす約束と、平時に土地を支配させる手続きは、一度で済んだわけではなかった。

沼田では、その難しさが表面に出る。徳川・北条は上野を北条側とする合意を結んだが、真田氏は沼田を手放さなかった。沼田市の年表では、1582年に真田の支配へ戻った沼田城が、北条に渡るのは秀吉の裁定を受けた1589年である。

その間の1585年、昌幸は上杉に従い、徳川軍と第一次上田合戦を戦う。1582年の乱と1585年の合戦は別の出来事だが、和睦で決めた領土分割が現地の領主に受け入れられなかった点でつながっている。

さらに1589年の沼田裁定と名胡桃城をめぐる事件を経て、翌年には小田原征伐に至る。関連する出来事の順序は戦国時代の年表でも確認できる。

天正壬午の乱の結末は、家康が領土を増やしたという一行だけでは終わらない。徳川と北条が戦いをやめても、真田が守る城は残り、上杉は北信濃を押さえていた。新しく引かれた境目を、そこにいる領主が受け入れるか。その問題が、次の争いへ持ち越されたのである。

両軍の対比

TOKUGAWA

徳川家康

大将:徳川家康
総兵力甲斐で北条と対陣
出陣新府城方面
比較する局面夏〜秋の甲斐での対陣
戦況黒駒で北条の別働隊を破る
甲斐・信濃の大半を確保
HOJO

北条氏直

大将:北条氏直
総兵力上野から甲斐へ進出
出陣若神子方面
比較する局面夏〜秋の甲斐での対陣
戦況徳川との講和で甲信から退く
上野を北条側とする合意
vs

布陣図

戦場の配置

1582年夏〜秋、甲斐の新府・若神子における徳川・北条の対陣

模式図 / 縮尺不同
100%
天正壬午の乱|1582年の結果・勢力図と真田昌幸 布陣図天正壬午の乱|1582年の結果・勢力図と真田昌幸の主要部隊と拠点。位置と距離は概略。番号は部隊一覧に対応。新府・徳川家康若神子・北条氏直0102

北が上、東が右。新府と若神子の位置関係を示す模式図。点は拠点の地域を表し、本陣の敷地や部隊の広がりを確定するものではない。神流川・黒駒の戦闘や北信濃の上杉勢は別の場所・局面のため含めない。

布陣の根拠
布陣図

戦況の経過

本能寺の変
六月二日(旧暦)
織田信長が死去し、旧武田領の織田方支配が揺らぐ
神流川合戦
六月十八〜十九日
北条勢が滝川一益を破り、一益は上野から撤退する
三勢力が進出
六月〜七月
徳川は甲斐・信濃へ、上杉は北信濃へ、北条は上野から信濃へ進む
真田が北条方に
七月
北条氏直が信濃へ入り、真田昌幸も北条方につく
甲斐での対陣
夏〜秋
家康が新府城方面、氏直が若神子方面に拠り、甲斐で対峙する
黒駒合戦
八月十二日
鳥居元忠ら徳川勢が北条の別働隊を破る
真田が徳川方に
九月
昌幸が北条から徳川へ移り、家康に従う
徳川・北条が和睦
十月
甲斐・信濃を徳川側、上野を北条側とする分割と婚姻に合意する

その後の世界

1583
督姫が北条氏直に嫁ぐ。真田昌幸は徳川の力を借りて上田城の築城に着手する
1585
沼田問題などを背景に真田と徳川が対立。昌幸が上杉に従い、第一次上田合戦が起きる
1589
豊臣秀吉の裁定により、沼田城が真田から北条へ渡る
1590
小田原征伐で北条氏が敗れ、沼田城は真田信幸の城となる

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 上里町の中世(神流川合戦)
    上里町参照日 2026-10-10
  2. 上田軍記暦(真田家略年表欄)
    上田市立博物館参照日 2026-10-10
  3. 沼田城真田氏関係年表
    沼田市参照日 2026-10-10
  4. 上田城の歴史
    上田市参照日 2026-10-10
  5. 史跡新府城跡
    韮崎市参照日 2026-10-10
  6. 須玉ふるさと公園(若神子城址)
    北杜市参照日 2026-10-10
  7. 遺跡トピックスNo.0234御坂中丸遺跡(黒駒の現代地名)
    山梨県埋蔵文化財センター参照日 2026-10-10

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-10

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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