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伏見城の戦い|1600年・鳥居元忠の籠城と血天井
伏見城の戦いは1600年、鳥居元忠ら徳川方の籠城衆を西軍が攻め落とした関ヶ原の前哨戦。場所と約2週間の攻防、石田三成・島津の動向、甲賀勢の寝返り伝承と穴太衆の違い、血天井とその後を史料からたどる。
この戦いの要点
家康が留守を託した伏見城
会津へ向かった家康に代わり、鳥居元忠・内藤家長らが城を守った。攻め手には宇喜多・島津・小早川の軍勢が加わる。
寝返りの伝承と甲賀の戦死者
甲賀勢の一部への内応工作が後世に語られる一方、徳川方で戦死した甲賀武士の供養も残る。築城に関わる穴太衆とは区別したい。
落城から血天井の供養へ
養源院などには、伏見城の床板を天井に用いて戦死者を弔ったという伝承がある。戦闘の記録と、寺院が伝える供養の歴史をたどる。
伏見城の戦いとは:誰と誰が戦い、どちらが勝ったのか
伏見城の戦いは、1600年(慶長5年)、鳥居元忠ら徳川方の籠城衆を西軍が攻め落とした、関ヶ原の前哨戦である。場所は現在の京都市伏見区。会津へ向かった徳川家康に代わって元忠らが城を守り、宇喜多秀家・島津義弘・小早川秀秋などの軍勢が攻め寄せた。旧暦8月1日に城は落ち、元忠も命を落とした。
| 知りたいこと | 答え |
|---|---|
| 誰と誰の戦いか | 鳥居元忠・内藤家長ら徳川方と、宇喜多・島津・小早川などの西軍 |
| いつ起きたか | 1600年旧暦7月19日に攻撃が始まり、8月1日に落城 |
| 何日続いたか | 十数日、約2週間の攻防 |
| 場所 | 山城国の木幡山伏見城。現在の京都市伏見区、伏見桃山陵付近 |
| 勝ったのは誰か | 伏見城では西軍。その後の関ヶ原本戦では東軍 |
家康と石田三成が、城の前で直接対決した戦いではない。家康は畿内を離れており、三成は西軍側の政治・軍事行動に関わる人物として登場する。誰が城を守り、どの軍勢が攻め、誰がその背後で政局を動かしたのか。この三つを分けると、参戦武将の関係が見えてくる。
なぜ伏見城が狙われたのか:徳川家康の留守と西軍の挙兵
伏見城は、もともと(「豊臣秀吉」)が築いた城だった。秀吉の死後は(「徳川家康」)がここを政務の拠点とし、大坂城とともに豊臣政権を動かすうえで重要な場所になっていた。 1600年、家康は会津の(「上杉景勝」)へ兵を向ける。その留守に、豊臣奉行衆らが反家康の行動を起こした。
林千寿の研究は、大坂・伏見の城を押さえることを、政権の主導権をめぐる争いとして捉えている。城を占める家康の命令に、大名たちは従うべきなのか。奉行衆にとって伏見城は、道を塞ぐ砦である以上に、家康の政治的な力が形になった場所だった。
大坂城西の丸にいた徳川方の兵も、伏見城へ退いた。城には家康が残した守備隊だけでなく、周辺から集まった人々がいたことになる。鳥居元忠の忠義だけで眺めると見えにくいが、この攻城戦は、豊臣政権の内部で命令を下す権限を奪い合う戦いでもあった。
戦いの場所:木幡山の伏見城と、いま見える天守
1600年に攻められたのは、木幡山に築かれた伏見城である。秀吉が最初に城を構えた指月の伏見城は、1596年の地震で被害を受けた。その後、北東の木幡山へ移して築き直された城が、この戦いの舞台になった。同じ「伏見城」でも、場所と時期に違いがある。
京都市考古資料館の発掘調査資料によれば、城の中心部は現在の伏見桃山陵付近にあたる。一方、現在よく写真に写る伏見桃山城の天守は、1964年に建てられた模擬天守である。 1600年の天守がそのまま残ったものでも、元の位置に再建されたものでもない。
伏見は宇治川の水運にもつながり、京都と大坂を結ぶ要地だった。

何日持ちこたえたのか:鳥居元忠らの籠城
明治大学博物館の内藤家に関する解説は、攻撃の開始を旧暦7月19日、落城を8月1日とする。京都府観光連盟の解説も、この二つの日付を採る。およそ2週間の攻防だった。本記事の月日は旧暦であり、現在のカレンダーの7月・8月にそのまま置き換えることはできない。
城を守った中心人物は(「鳥居元忠」)。内藤家長と、その子の内藤元長も籠城し、ともに戦死した。明治大学博物館が紹介する『伏見戦記』では、松の丸が焼け、戦いが本丸へ及んでいく経過が語られる。一度の突撃で城全体が崩れたのではなく、守備側が城内で抵抗を続けた攻防として伝わっている。
兵数には注意が要る。石田三成が戦後に送った書状には、家康が鳥居ら1,800余を残したという記述がある。同じ書状は、大坂城西の丸の500〜600ほどの兵を伏見へ追い込んだとも述べる。そのため「籠城者は最初から最後まで正確に1,800人」と固定すると、城へ集まった兵の動きを取り落とす。
人数だけでは、守りの強さも測れない。石垣や曲輪を備えた城内で戦う籠城衆と、外から攻める軍勢では条件が違う。元忠らが退去に応じず抵抗したことは、攻め手の側が残した書状からも確かめられる。

石田三成の書状が伝える退去要求と落城
慶長5年8月10日、(「石田三成」)は真田昌幸・信繁父子へ、伏見城の戦況を書き送った。
林千寿の論文に収められた書状の翻刻
では、鳥居元忠らに関東へ退くよう求めたものの、応じなかったために攻め込んだと説明されている。 8月1日の攻略と城の焼失も、この報告に記される。
この書状からは、西軍が最初から交渉の余地を一切認めなかったわけではないことがわかる。城を明け渡させる要求があり、元忠らはそれを拒んだ。城を引き渡すか、留まって抵抗するかという選択の末に、攻防は落城へ至った。
ただし、これは勝った側から味方へ送った戦果報告である。敵をすべて討ち取ったとする表現を、そのまま厳密な死者名簿のように扱うことはできない。元忠の最期にも自刃を伝える寺院の説明と、首を取った人物を記す書状があり、最期の一瞬の動作や台詞まで復元するのは難しい。
三成がこの書状を書いた事実は、三成自身がすべての攻撃部隊を城外で直接指揮した証明でもない。攻城に加わった(「宇喜多秀家」)・(「島津義弘」)・(「小早川秀秋」)らの軍勢と、政治的な連絡を担う三成の役割を分けて読む必要がある。

寝返り・裏切りは誰の話か:甲賀勢と穴太衆
伏見城の落城をめぐって、寝返りが語られるのは城内の甲賀勢の一部である。甲賀市観光まちづくり協会の観光資料は、鵜飼藤助という甲賀の人物が城内の甲賀勢を説得した話を紹介する。出典として挙げられているのは、後世の『改正三河後風土記』である。
これは、戦いの当日に書かれた内応者の報告を直接示すものではない。妻子を人質に取られたため裏切った、放火が落城を決めた、といった細部まで一続きの確定事実にするには、さらに史料の検討が要る。内応の伝承はあるが、城内の甲賀武士が全員そろって西軍へ移った、と読むべきではない。
甲賀市は、伏見城で戦死した甲賀武士の子孫に関わる寺社群を、日本遺産の構成文化財として紹介している。子孫たちは江戸の甲賀百人組として徳川家に仕え、1849年には先祖の250回忌にあわせ、故郷の寺々に供養の痕跡を残した。甲賀には、裏切りの話とともに、徳川方で命を落とした人々の記憶も残っているのである。
では、穴太衆は誰か。穴太衆は近江の坂本・穴太を拠点とした石工の集団で、城郭などの石垣づくりで知られる。伏見観光協会は、秀吉が最初の指月伏見城を築いた際にも穴太の石工が関わったと説明する。穴太衆の築城技術と、甲賀勢の内応伝承は別の話である。石垣を築いた集団を、そのまま1600年の裏切りの当事者に置き換えることはできない。
島津はなぜ西軍にいたのか:入城拒否の逸話を考える
島津義弘は、伏見城を攻めた側にいた。しかし、はじめから家康と敵対する立場だったと考えると、戦前の動きが説明しにくい。旧暦4月27日付の義弘から兄・義久への書状には、家康から伏見城の留守番を命じられたことが記されている。
林千寿の論文が示すこの書状では、義弘は周囲にも相談していた。返ってきたのは、公儀の命令なのだから従うべきだ、という趣旨の答えだった。義弘にとって家康への対応は、その時点の政治秩序のなかで判断する問題だったのである。
一方、『鹿児島市史』は、義弘が元忠とともに伏見城を守ろうと申し入れて断られ、少ない手勢で三成に応じたと説明する。ただし、留守番を命じられた書状だけで、その後の入城拒否の場面まで裏づけることはできない。また、城へ入れなかったという説明と、西軍参加を決めた理由の全体が同じとも限らない。
確かめられるのは、家康から留守番を命じられた段階があり、その後、島津の軍勢が攻城側に加わったという変化である。関ヶ原本戦での島津の行動は、その後に続く別の局面となる。

血天井はどこにあるのか:養源院などに残る供養
「血天井」は、伏見城で自刃した兵士らの血が付いたと伝える床板を、寺院の天井に用いて弔ったものとされる。京都の養源院がよく知られ、京都府観光連盟は宝泉院や宇治の興聖寺も紹介している。城跡の天井を見上げる話ではなく、寺院へ移されたと伝わる板材の話である。
養源院の公式案内では、本堂の廊下の天井を血天井とし、鳥居元忠の自害の痕と伝わるものも供養していると説明する。同寺は1621年、徳川秀忠の正室・お江によって、伏見城の遺構を用いて再建された。戦いの記憶が、徳川家と縁の深い寺のなかで受け継がれてきた。
ただし、木の模様や痕跡から、誰がどの姿勢で亡くなったかを現代の鑑定のように決めることはできない。元忠の痕とされる説明も、寺が伝える由緒として受け止めたい。血天井が伝えるのは落城の凄惨さだけではない。床板を残し、亡くなった人々を弔い続けた、その後の歴史でもある。

関ヶ原の勝利を決めたのか:籠城の意味と限界
鳥居元忠の籠城は、西軍に時間と兵力を使わせた。攻め手が伏見城に軍勢を送り、落城後も後始末に兵を置いていたことは、三成の書状からも読み取れる。元忠らの抵抗が、反家康勢力にとって負担になったことは確かだろう。
それでも、伏見城の落城は旧暦8月1日、関ヶ原本戦は9月15日である。二つの戦いの間には、その後の進軍や交渉、各地の城攻めがあった。「この約2週間がなければ必ず家康は敗れていた」と、結果から逆算して証明することはできない。
伏見城での勝者は西軍であり、守備側は城を失った。一方で、家康の留守を守るために退去を拒んだ元忠らは、徳川家への忠節の記憶を残した。城を守り切れなかったという軍事的な結果と、その抵抗が後世に重く受け止められたことは、両立する。
その後:再建された伏見城と、戦死者の記憶
旧暦9月15日の(「関ヶ原の戦い」)では、家康ら東軍が西軍を破った。伏見城は家康のもとで再建され、1603年には家康がここで征夷大将軍の宣下を受ける。豊臣秀吉が築いた政治の拠点は、徳川の将軍が誕生する場所にもなった。
城はその後、1623年に廃城・解体を終える。攻防の舞台となった建物が、そのまま現在まで残ったわけではない。伏見桃山陵付近の城跡、寺院に伝わる血天井、甲賀に残る戦死者の供養は、それぞれ違う形でこの戦いにつながっている。
伏見城の戦いをたどると、城を奪うための戦争から、敗れた人々を弔う歴史へと視線が移る。元忠の生涯は鳥居元忠、戦役全体の結末は関ヶ原の戦いの記事で、前後の出来事は戦国年表で確認できる。
両軍の対比
鳥居元忠・内藤家長ら
宇喜多秀家・島津義弘ら
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 林千寿『慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出』第一部第二章第一節、11〜13頁(義弘・三成書状の翻刻)熊本大学学術リポジトリ参照日 2026-10-20
- 日比佳代子「譜代大名内藤家と戦」MUSEUM EYES 67、6〜7頁明治大学博物館参照日 2026-10-20
- 前田義明「伏見城の発掘調査」京都市考古資料館第214回文化財講座資料京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館参照日 2026-10-20
- 京都伏見の歴史伏見観光協会参照日 2026-10-20
- 穴太衆積み石垣大津市歴史博物館参照日 2026-10-20
- 近江の戦国史をめぐる観光資料「甲賀市・伏見城の戦いの勝敗を左右した忍びゆかりの地」7頁甲賀市観光まちづくり協会(びわ湖大津観光協会サイト掲載)参照日 2026-10-20
- 日本遺産「忍びの里 伊賀・甲賀」構成文化財の追加認定(甲賀百人組ゆかりの寺社群)甲賀市参照日 2026-10-20
- 養源院について・血天井養源院参照日 2026-10-20
- 家康の足跡を辿る 第3回「天下人」京都府観光連盟参照日 2026-10-20
- 徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―「関ヶ原の戦い」国立公文書館参照日 2026-10-20
- 鹿児島市史 第三編中世編「関ガ原の役」281〜282頁鹿児島市参照日 2026-10-20





