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1592年の朝鮮出兵に向けて港を出る日本の船団の想像図(AI生成)(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

文禄の役|1592年の朝鮮出兵・結果と慶長の役との違い

文禄の役は1592年に始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵。読み方、なぜ起きたか、李舜臣の水軍と明の参戦、戦った国と結果を日本・中国の資料でわかりやすく整理。慶長の役との違い、1598年の撤退までを比較表と年表でたどる。

1592–1593年1592〜1593年/講和交渉は1596年まで朝鮮半島勝 朝鮮・明(漢城を回復)敗 日本軍(南部へ後退)戦国ジャーナル編集部戦いを読む
開戦
1592年
天正20年、のち文禄元年
日本側の動員編成
約16万
実戦参加人数とは異なる
戦線の縮小
1593年
漢城を撤収し南部へ
講和の決裂
1596年
冊封使節来訪後

この戦いの要点

  1. 読みは「ぶんろくのえき」、開戦は1592年

    豊臣秀吉が明征服を目指して朝鮮へ侵攻した。日本軍は朝鮮軍と、その援軍である明軍と戦った。

  2. 首都占領から南部への撤退へ

    日本軍は漢城を占領したが、明の参戦と陸海での抵抗、補給難に直面した。1593年に漢城を撤収し、南部に兵を残した。

  3. 慶長の役は1597年の再侵攻

    講和交渉が1596年に決裂し、翌年に再び出兵した。両役を通じて征服は実現せず、秀吉の死後1598年に日本軍が撤収した。

文禄の役とは? 読み方・いつ起きたかをわかりやすく

1592年、日本軍は海を渡って朝鮮の首都・漢城を占領した。だが翌年、その都から退くことになる。明の征服を目指した遠征は、朝鮮半島で行き詰まった。

文禄の役の読み方は「ぶんろくのえき」。 1592年に豊臣秀吉が始めた、最初の朝鮮出兵を指す。日本軍が戦った相手は朝鮮王朝と、その援軍として参戦した中国の明である。主要な戦闘は1592〜1593年、その後の講和交渉は1596年まで続いた。

二度目の出兵は、1597〜1598年の慶長の役(けいちょうのえき)である。両方をまとめて「文禄・慶長の役」または「朝鮮出兵」と呼ぶ。最初の戦争で日本軍は南部へ退き、二度目の戦争では秀吉の死後に撤収した。明の征服も、朝鮮の領有も実現しなかった。

知りたいこと文禄の役の基本
読み方ぶんろくのえき
いつ1592年に開戦。主な戦闘は1593年まで、講和交渉は1596年まで
誰が始めたか豊臣秀吉。本人は日本国内から指揮した
戦った国朝鮮王朝と明。現在の国名とは区別する
なぜ起きたか秀吉が明征服を目指し、協力しない朝鮮へ侵攻した
結果日本軍は1593年に漢城を撤収。南部に兵を残し、講和も決裂した

1592年春の年号は、まだ天正20年だった。その年の改元後の名称が、戦争全体の呼び名に使われている。以下、月を示す場合は当時の旧暦による。

なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか

秀吉が目指したのは、朝鮮の先にある明の征服だった。そのため朝鮮に服属を求め、明への進出にも協力するよう要求した。しかし朝鮮は明と冊封・朝貢関係を結ぶ王国であり、明への侵攻に協力しなかった。秀吉は武力で朝鮮を従わせようとしたのである。

「国内を統一したから、余った武士を海外へ向かわせた」とだけ説明すると、当時の外交要求が抜け落ちる。出兵の動機を一つに絞るより、まず明への進出を要求し、それが実現しないまま軍を送った順序を押さえたい。肥前名護屋の軍役解説と『日本大百科全書』は、明征服を目標とするこの経緯を説明している。

1591年には肥前名護屋、現在の佐賀県唐津市で城の建設が始まった。名護屋城は、兵や物資を朝鮮へ送る国内の拠点となる。秀吉もここに在陣し、各地の大名に軍役を負わせた。朝鮮へ渡って現地で戦ったのは、命令を受けた諸将とその軍勢である。

大名の中には、国内の名護屋にとどまった者もいた。

堀秀治について、佐賀県立名護屋城博物館は、本人は渡海せず名護屋に滞在したと説明する。軍役への動員と、大名本人が海を渡ったかどうかは区別する必要がある。

海を渡った先でも、軍は毎日食べなければならない。明へ向かう構想には、朝鮮の領内を進み、占領地を保ち、食糧を届け続けるという条件が付いていた。首都を落とすまでの速さと、その先で軍を維持できるかどうかは、別の問題だった。

釜山から漢城・平壌へ進んだ日本軍

1592年4月、小西行長・宗義智らの先発軍が釜山方面へ渡った。続いて加藤清正・鍋島直茂らが渡り、日本軍は北へ進む。 5月には漢城、現在のソウルにあたる朝鮮の都を占領した。

朝鮮国王は都を離れ、日本軍はさらに戦線を広げた。小西勢は平壌へ進み、加藤勢は半島東北部へ向かう。しかし首都の占領で朝鮮の王権が消えたわけではない。朝鮮側は抵抗を続け、明へ救援を求めた。

遠征には宇喜多秀家、黒田長政、小早川隆景、立花宗茂らも加わった。軍の編成には島津義弘や長宗我部元親の名も見える。また、鳥羽市の九鬼嘉隆解説は、九鬼嘉隆が大型船の日本丸を中心とする船団を率いて参陣したことを伝える。渡海には、陸で戦う兵だけでなく船を動かす人々も必要だった。

能島村上氏の輸送も、今治市村上水軍博物館の企画展資料で紹介されている。村上元吉の生涯では、海賊禁止令後も続いた一族の活動と、本人の個別海戦を確定できる範囲を分けてたどっている。

日本側の動員編成は約16万人とされる。ただし、全員が一つの戦場に集まった戦闘員ではない。肥前名護屋の軍役解説が挙げる五島純玄の編成には、水夫や陣夫と考えられる人々も含まれる。各軍団は別々に行動し、占領した都市や輸送の拠点にも兵を置いた。動員数と、個々の合戦で戦った人数は分けて読む必要がある。

朝鮮半島の城郭都市へ進む日本軍と荷を運ぶ人々の想像図。特定の城や行軍経路の復元ではない(AI生成)

李舜臣の水軍は何を変えたのか

李舜臣(りしゅんしん、イ・スンシン)は、朝鮮側の水軍を率いた将である。明の援軍を率いた李如松とは別人だ。李舜臣らの水軍は朝鮮沿岸で日本側と戦い、全羅道方面の海上活動を妨げた。

ただし、「李舜臣が日本からの補給をすべて断った」とまでいうのは正確ではない。神戸大学が公開する1593年2月18日付の秀吉朱印状の解題は、補給の問題を二段階に分けている。日本から釜山までは兵糧米を運び、その先は各部隊の責任で陸送する仕組みだった。港に米が着くことと、内陸の前線へ届くことは同じではない。

海では水軍、陸では各地の義兵などの抵抗があった。日本軍は広がった戦線を支えきれず、補給方法の変更を迫られた。この解題が示すのは、水軍だけでなく陸送の難しさも重なった兵糧不足である。海上輸送が完全に途絶えたと説明すると、南部への輸送や駐屯が続いた事実と合わなくなる。

李舜臣は文禄の役だけでなく、慶長の役でも戦った。『明史』巻247の鄧子龍伝には、1598年の戦いで李舜臣も戦死したとある。その死は、1593年の漢城撤収から5年後のことだ。二つの戦争の出来事を、一度の海戦にまとめないようにしたい。

朝鮮沿岸で向き合う船団の想像図。李舜臣本人や特定の海戦の布陣を再現したものではない(AI生成)

明の参戦と平壌・碧蹄館の戦い

明にとっても、日本軍の北上は国境に近づく脅威だった。 1592年夏、明は祖承訓らの援軍を送ったが、平壌で敗れた。その後、宋応昌が戦争の運営を統括し、李如松らが軍を率いて朝鮮へ進んだ。『明史』巻320は、この増援の経緯を記している。

1593年正月、李如松らの明軍が平壌を攻撃した。小西行長らの日本軍は敗退し、南へ退いた。北へ伸びていた日本軍の戦線が、大きく押し戻されたのである。

しかし、明軍も勝ち続けたわけではない。漢城北方の碧蹄館の戦いでは、日本軍が明軍を撃退した。立花家史料館の秀吉朱印状は、宗茂の働きを称えている。中国側の『明史』巻322にも、李如松がここで敗退したことが記される。

戦場・段階結果その結果だけではいえないこと
漢城の占領(1592年)日本軍が朝鮮の首都を占領朝鮮王朝を滅ぼしたわけではない
平壌の戦い(1593年)日本軍が明軍の攻撃で敗退日本軍の全面撤収には至らない
碧蹄館の戦い(1593年)日本軍が明軍を撃退明の征服や北部支配の回復には結び付かない
漢城撤収後日本軍は南部に駐屯し、講和交渉へ和平が成立したわけではない

平壌での敗北と碧蹄館での勝利は、同じ遠征の中で起きた。一方の戦いだけを取り上げれば、戦争全体の姿を見誤る。明軍にも日本軍にも、兵を長く置き続ける負担がかかっていた。

1593年の朝鮮半島を進む明軍と荷駄の想像図。平壌戦の布陣を復元したものではない(AI生成)

文禄の役の結果と1593年の漢城撤収

1593年4月、日本軍は漢城を撤収し、釜山など南部へ戦線を縮めた。明へ進む構想は実現せず、戦争を終えるための交渉に移る。ただし南部には日本軍が残り、交渉中も晋州などで戦闘が続いた。

「文禄の役は1593年に終わった」と習う場合、この戦線縮小が区切りとなる。日本軍がすべて帰国した年ではない。明側は日本軍の撤兵を求め、日本側は南部の拠点を保持したまま条件を出した。朝鮮では、都が戻っても領内に外国軍が残り続けた。

長期戦の苦境は、日本側の文書にも残る。名護屋城博物館が紹介する1592年の増田長盛・大谷吉継・石田三成の連署状案は、戦地の窮状を伝えている。加藤清正の覚書には、下級家臣の妻子への手当も現れる。遠征の負担は、兵のいる戦場だけでなく、日本の留守宅にも及んだ。

国内から指揮する秀吉にとっては、報告が届くまでの時間も問題だった。金子拓が整理した清正宛ての秀吉朱印状には、6月1日付の書状を7月2日に受け取ったとする一例がある。天正20年に比定される文書で、同論文84頁の一覧14番に載る。すべての通信に一か月かかったとはいえないが、現地の変化が直ちに伝わる状況ではなかった。

朝鮮半島南部の港と日本軍の駐屯地で物資を運ぶ場面の想像図(AI生成)

講和はなぜ決裂したのか

交渉中も日本軍の南部駐屯は続き、1595年正月には島津忠恒も朝鮮へ渡った。忠恒は兄・久保の死後に後継者となった人物で、1592年の開戦時からの従軍とは区別する必要がある。

1593年、明側の使節が肥前名護屋を訪れた。日本側では小西行長ら、明側では沈惟敬らが交渉を担った。戦闘を止める必要はあっても、双方が望む条件には隔たりがあった。

秀吉側は朝鮮の領土の割譲や通商などを求めた。対して明側は撤兵と朝鮮への不侵攻を求め、日本の支配者を「日本国王」に冊封する形で決着させようとした。冊封とは、明皇帝が外国の王としての地位を授ける仕組みである。秀吉の大陸征服構想が認められるものではなかった。

『明史』巻320に記された明側の条件は、日本軍の撤兵、冊封しても朝貢は認めないこと、朝鮮を侵さないことの三点である。王の称号を得ても、求めていた領土や貿易がそのまま手に入るわけではない。何を譲り、何を得て軍を引くのかという合意が、できていなかった。

交渉の過程を伝える現物も残っている。宮内庁所蔵の「明神宗贈豊太閤書」は、1595年正月21日付の明皇帝の勅諭だ。大阪歴史博物館所蔵の冊封文とは別の文書であり、使節が日本へ来た1596年とも区別する必要がある。

1596年9月、冊封使節の来日後も講和は成立せず、秀吉は再侵攻の準備を命じた。「秀吉が国書を読んで怒ったから」という一場面だけでは、数年の交渉が失敗した理由を説明しきれない。撤兵、領土、通商、朝鮮の扱いをめぐる隔たりが残り、次の出兵へつながった。

講和交渉を題材にした書状と文箱の想像図。現存する勅諭や冊封文の複製ではない(AI生成)

文禄の役と慶長の役の違いをまとめて比較

慶長の役が起きた直接の経緯は、文禄の役後の講和交渉が1596年に決裂したことにある。翌1597年、秀吉は再び朝鮮へ軍を送った。同じ秀吉の出兵でも、最初の遠征と二度目の作戦は同じではない。

比較する点文禄の役慶長の役
いつ1592〜1593年が主な戦闘期。講和交渉は1596年まで1597〜1598年
開戦の経緯明征服への協力などを求めた秀吉が朝鮮へ侵攻講和決裂を受けた再侵攻
作戦の広がり漢城・平壌を占領し、半島北部まで進出南部を中心とする制圧・拠点の確保へ
李舜臣朝鮮水軍を率いて日本側と戦う引き続き戦い、1598年に戦死
結果漢城から撤退し、南部に兵を残す秀吉の死後、日本軍が撤収する

慶長の役の作戦を示す日本側の文書に、1597年8月26日付の宇喜多秀家らの連署状写がある。神戸大学の解題は、全州に集まった軍が四道内で作戦を進める計画を説明している。平壌や咸鏡道まで進んだ文禄の役に比べ、作戦地域は狭まった。再侵攻を、最初とまったく同じ北進のやり直しとみなすことはできない。

1598年8月に秀吉が死去すると、日本軍は撤収へ向かった。その過程でも戦闘はあり、ただちに全軍が帰国したわけではない。同年中に日本軍は朝鮮から引き揚げ、秀吉の明征服や朝鮮領有は実現しなかった。二度目の戦争の経過は慶長の役の記事、国内の出来事との前後関係は戦国年表の文禄の役でたどれる。

通説と俗説の射程と戦争全体の勝敗

文禄・慶長の役で日本が戦った国は、朝鮮と明である。しかし「日本が勝った国はどこか」という問いには、戦闘の勝敗と戦争の結果を分けて答える必要がある。

日本軍は漢城を占領し、碧蹄館では明軍を撃退した。一方で平壌では敗退し、最終的には朝鮮から撤収した。明も朝鮮も征服しておらず、「日本がどちらかの国を征服して勝った戦争」とはまとめられない。個々の合戦で勝利しても、遠征の目的を達成したことにはならないからだ。

逆に、朝鮮・明側が全戦闘に勝って日本軍を一挙に追い出した、と説明することもできない。碧蹄館の明軍敗退や、講和交渉中の日本軍の南部駐屯が、その単純化に反する。戦果の大きさだけでなく、その後にどの土地を保持でき、どの条件を実現できたかを見る必要がある。

史料の性格にも注意したい。ここでは日本の大学・博物館等が公開する文書や解説と、中国で編纂された『明史』を照合した。ただし『明史』は清代に完成した後世の編纂物であり、戦場や交渉の逐語記録ではない。巻が異なっても独立した複数の証言とは数えず、秀吉の発言や細かな戦死者数を無条件には採らない。日本側の戦功を称える書状も、戦争全体を中立に評価するための文書ではない。

首都の占領から、果たせなかった征服へ

文禄の役を押さえる三つの区切りは、1592年の侵攻、1593年の漢城撤収、1596年の講和決裂である。そこから1597年の慶長の役、1598年の日本軍撤収へ続く。この順序が分かれば、李舜臣の戦死や秀吉の死を、最初の遠征の出来事と混同せずに済む。

日本側の従軍者・安東統宣の記録は、名護屋城博物館の紹介によれば、戦地を「浮世の地獄」と表した。日本側の記憶にも、戦功だけでは語れない光景が残っていた。兵や物資を送る側の負担とともに、侵攻を受けた土地の住民が生活を失い、戦闘に巻き込まれたことも、この戦争の結果から外せない。

首都の占領は、国を支配し続けることには結び付かなかった。日本軍は明へ進めず、朝鮮南部で軍を維持しながら、決着しない交渉を続けた。その行き詰まりを解消できないまま、秀吉は二度目の侵攻を命じたのである。

両軍の対比

日本軍

豊臣秀吉(国内から指揮)

大将:豊臣秀吉(国内から指揮)
総兵力約16万の動員編成(実戦兵力ではない)
出陣肥前名護屋/朝鮮半島の各戦線
先発の軍団小西行長・宗義智/加藤清正・鍋島直茂
他の主要将黒田長政・小早川隆景・立花宗茂ら
1593年以後南部に兵を残して交渉
北部から撤収。明征服の構想は実現せず
朝鮮軍・明軍

朝鮮の諸将/明の李如松ら

大将:朝鮮の諸将/明の李如松ら
総兵力時期・戦場で変動するため総数を示さない
出陣平壌・漢城ほか/朝鮮沿岸
朝鮮側陸軍・水軍と各地の義兵
明の軍事指揮宋応昌・李如松
課題反攻と軍の維持、残留日本軍への対応
平壌を奪回。日本軍の南部駐屯は続く
vs

戦況の経過

渡海
1592年4月(旧暦)
小西行長・宗義智らの先発軍が釜山方面へ渡り、侵攻が始まる。
北進
1592年5月以後(旧暦)
日本軍が漢城を占領し、さらに平壌など北部へ進む。
明の参戦
1592年夏
明の先発援軍は平壌で敗退。明は宋応昌・李如松らによる軍事行動を進める。
平壌
1593年正月(旧暦)
李如松らの明軍が平壌を攻撃し、小西行長らの日本軍が退く。
碧蹄館
1593年正月(旧暦)
漢城北方で日本軍が明軍を撃退する。北部の再征服には結び付かなかった。
漢城撤収
1593年4月(旧暦)
日本軍が漢城を撤収し、戦線は南部へ縮小する。交渉中も晋州などで戦闘が続く。
名護屋の交渉
1593年
明側の使節が名護屋を訪れ、秀吉との講和交渉が本格化する。
明の勅諭
1595年
明皇帝が秀吉宛ての勅諭を発給。1596年の使節来訪とは年が異なる。
交渉決裂
1596年9月(旧暦)
明の冊封使節が来日するが、講和は成立せず、秀吉は再侵攻の準備を命じる。

その後の世界

1597
講和決裂を受け、二度目の侵攻である慶長の役が始まる。南部の支配を目指して作戦を展開する。
1598
8月(旧暦)に秀吉が死去。日本軍は朝鮮から撤収し、明征服や朝鮮領有を達成しないまま戦争が終わる。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 水軍の将 九鬼嘉隆
    鳥羽市参照日 2026-10-11
  2. 豊臣秀吉朱印状(文禄2年2月18日、中川家文書55)と補給に関する解題
    神戸大学附属図書館/神戸大学文学部日本史研究室参照日 2026-10-11
  3. 宇喜多秀家他二七名連署状写(慶長2年8月26日、中川家文書76)と解題
    神戸大学附属図書館/神戸大学文学部日本史研究室参照日 2026-10-11
  4. 『明史』巻247 鄧子龍伝(万暦26年条、李舜臣の戦死)
    張廷玉ほか撰/Wikisource公開本文参照日 2026-10-11
  5. 日本軍の合戦・進軍(「文禄の役」の軍役・陣立)
    肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会参照日 2026-10-11
  6. 名護屋城跡
    佐賀県立名護屋城博物館参照日 2026-10-11
  7. 金子拓「肥後加藤家旧蔵豊臣秀吉・秀次朱印状について(続)」表一
    東京大学史料編纂所研究紀要22(2012年)、82〜101頁参照日 2026-10-11
  8. 『明史』巻320 朝鮮伝(中国の清代編纂史料、万暦20〜24年の条)
    張廷玉ほか撰/Wikisource公開本文参照日 2026-10-11
  9. 『明史』巻322 日本伝(万暦年間の出兵記事)
    張廷玉ほか撰/Wikisource公開本文参照日 2026-10-11
  10. 明神宗贈豊太閤書(万暦23年正月21日付勅諭)
    宮内庁書陵部参照日 2026-10-11
  11. 新時代へのかけはし(明王贈豊太閤冊封文の解説)
    佐賀県立名護屋城博物館参照日 2026-10-11
  12. 豊臣秀吉朱印状(1593年、碧蹄館での宗茂の働きを称える書状)
    立花家史料館/Google Arts & Culture参照日 2026-10-11
  13. 日本大百科全書「文禄・慶長の役」(北島万次)
    小学館/コトバンク参照日 2026-10-11

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-11

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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