なべしま・なおしげ
鍋島直茂龍造寺を支え、佐賀藩の礎を築いた藩祖

- 生年
- 天文7年1538年/肥前本庄
- 没年
- 元和4年1618年/数え81歳
- 主な働き
- 龍造寺家の国政担当1590年、秀吉の命による
- 後世の呼称
- 佐賀藩の藩祖初代藩主は息子の勝茂
- 家紋
- 杏葉
鍋島直茂は、龍造寺隆信の重臣として戦い、主君の死後にはその領国を動かす責任を担った武将である。 佐賀藩の初代藩主は息子の勝茂であり、直茂はその基礎を築いた藩祖と呼ばれる。 今山の戦功だけでなく、秀吉との交渉、朝鮮出兵での統率、関ヶ原後の領地維持が、その歩みを形づくった。
主家を支えた人物の家が、やがて領主家になる。 この移り変わりは、忠臣か、主家を奪った人物かという問いを生んできた。 ただ、その答えを一つの性格に求める前に、龍造寺の家督を継いだ人と、実際に政務や軍勢を動かした人を分けて見たい。 二つの立場がいつ重なり、いつ離れたのかが、直茂の生涯を読み解く手がかりになる。
本庄から龍造寺家中へ

鍋島直茂は、主君の戦死によって揺らいだ領国を引き受け、戦国の龍造寺家から江戸時代の佐賀藩へと支配をつないだ武将である。 その出発点は、大名家の当主ではなく、肥前に根を張る鍋島家の一員だった。 天文7年(1538)、父の清房が住む本庄の館に生まれた。 現在の佐賀市本庄町に、その誕生地が伝わっている。
清房も直茂も、龍造寺氏のもとで働いた。 隆信が勢力を広げるなか、直茂はその家中で戦功を積み、やがて主力を率いる重臣へと進んでいく。 初めから鍋島氏の独立した領国を背負っていたのではない。 主家の軍勢を動かし、主家の敵と戦うことが、若い直茂の立場をつくった。
主従を結ぶのは、奉公だけでもなかった。 直茂と隆信は義兄弟の関係にあり、鍋島家は龍造寺家と近しい位置にあった。 ただし、近親者であることと、家の命令を出す権限を持つことは別である。 直茂が後年に領国を任されるまでには、戦場で人を率いた実績と、外部の権力との交渉が重なっていく。 家の縁だけで、その地位に届いたわけではない。
直茂には信昌、信生という名もある。 同じ人物が時期によって異なる名で史料に登場するため、ここでは生涯を通して直茂と呼ぶ。 若いころから一貫して、のちの藩祖として扱われていたわけではない。 龍造寺家の中でどのような仕事を担うか、その積み重ねがものをいう時代だった。
やがて、その力が家中だけでなく敵方にも示される機会が来る。 豊後の大友氏が佐賀へ軍勢を送り、隆信の本拠を圧迫したのである。 直茂が戦う場所は、生まれ育った肥前のすぐ近くだった。 ここで主家が敗れれば、鍋島家の足場も失われる。 元亀元年(1570)、直茂は数え33歳で今山の戦いを迎えた。
佐賀の危機と夜襲の伝承

元亀元年(1570)、大友氏の攻撃を受けた龍造寺家は、本拠を守る戦いを強いられた。 このとき今山で大友勢を破った戦功によって、直茂の名は強く記憶されることになる。 隆信を支える家臣として、直茂の存在感を決定づけた合戦だった。
後世に伝えられた合戦の物語では、城内に開城や退去を考える声が出るなか、直茂が夜襲を提案したとされる。 成松信勝らとともに今山へ向かい、大友親貞の陣へ攻め込んだという。 敵が態勢を整える前に指揮の中心を襲う作戦として、この夜襲は語り継がれてきた。 暗い中で進む少数の兵という場面が、直茂の機転を象徴することになったのである。
もっとも、その物語を支えているのは直茂一人ではない。 成松をはじめ、出撃を共にする武士や、途中から加わったと伝えられる諸将がいる。 軍勢は命令を出す者だけでは動かない。 直茂の判断を受けて行動する人々がいて、初めて攻撃は成り立つ。 今山の功を語る際にも、家中の協働を消してしまうと、後年の統率者としての姿が見えにくくなる。
戦いの結果、龍造寺方は大友勢を退けた。 佐賀を守った戦果は隆信の勢力拡大を支え、直茂は重臣としての地位を固めていく。 ここで築いた実績は、主君の威勢が衰えたあとにも、家中で人を動かす基盤となったと考えられる。 ただし、今山の勝利から将来の領国継承までが、あらかじめ決まっていたわけではなかった。
直茂はこののちも隆信の家臣である。 戦功を挙げたことで主家を離れたのではなく、その勢力を支える立場を強めた。 鍋島家が佐賀の領主家となるまでには、なお三十年以上がある。 その間に、九州の外から武将たちの地位を定める力が入り込んでくる。 直茂は戦場での働きに加え、遠方の有力者と手紙を交わす関係も築いていた。
隆信存命中に届いた秀吉の書状

天正10年(1582)、本能寺の変によって織田信長が倒れ、羽柴秀吉は明智光秀を討った。 その直後の旧暦7月11日、秀吉から直茂へ一通の書状が送られている。 隆信がまだ健在だった時期の、現物が残る手紙である。 直茂と秀吉の関係を、後世の人物評だけに頼らず確かめられる資料だ。
書状には、毛利氏との和睦や上方での軍事行動に関する報告がある。 さらに、直茂から贈られた南蛮帽子への礼が記されている。 肥前の重臣と上方の武将は、戦況の情報と贈答品が行き来する関係にあった。 この段階で秀吉が後年の天下人と同じ権力を握っていたわけではないが、直茂は九州の外にも接点を持っていたのである。
このころ、直茂はなお隆信の有力家臣だった。 肥前で主家のために兵を率いる一方、海や山を隔てた上方からの情報も受け取っていた。 九州の勢力争いと、信長亡きあとの中央の争いは、別々に進んでいたわけではない。 両方の動きに接する位置に、直茂は立っていた。
やがて隆信を失った龍造寺家は、豊臣政権との関係を通じて領国の存続を図ることになる。 1582年の手紙は、その交渉が何もないところから始まったのではないと教えてくれる。 直茂には以前から続く接点があった。 戦功によって家中に知られた人物が、遠方の権力者からも名を認識されていたのである。
隆信の勢力が強かった時代には、直茂の働きは主家の活動の一部として見える。 だが主君を失うと、誰が外と交渉し、誰が家中をまとめるかが切実な問題になる。 今山で積んだ軍事上の実績と、秀吉との交信という外交上の接点。 性質の違う二つの働きが、直茂の次の役割を支えることになった。
龍造寺の家督と鍋島の実権

天正12年(1584)、隆信は島原の沖田畷の戦いで戦死した。 主家の軍事と政治の中心が失われ、直茂はその後の領国経営を担っていく。 しかし、隆信が亡くなったその日に、龍造寺家が鍋島家へ置き換わったわけではない。 龍造寺氏の当主として政家が存在し、直茂はその家中で実権を強めた。
天正15年(1587)、秀吉が九州を平定すると、諸大名の領地が改めて定められた。 政家には肥前の七郡が認められ、直茂にも、それとは別に養父郡と基肆郡の一部が与えられた。 主家とその重臣の双方が、秀吉から直接位置づけられたのである。 直茂は龍造寺家中に属しながら、豊臣政権との間にも自分の地位を持つようになった。
同年の肥後国人一揆への対応でも、秀吉は直茂に命令を送っている。 領地を認めることと、軍事上の負担を命じることは結びついていた。 直茂に求められたのは、単に政家を補佐することだけではない。 豊臣政権の命令を受け、実際に兵を動かせる責任者として働くことだった。
天正18年(1590)には政家が隠居し、幼い高房が龍造寺家の家督を継いだ。 その国政を直茂が担当することが、秀吉の命によって認められる。 ここで家の後継者と、実際に領国を動かす者が分かれたのである。 高房の名があるから直茂に権力がなかったとも、直茂が政務を執ったから龍造寺家が消えたともいえない。
当時の知行配分を伝える朱印状写では、直茂には四万四千五百石が割り当てられている。 これは佐賀の領国全体の石高ではなく、直茂個人に配分された知行である。 家中の有力者たちにも、それぞれの土地と取り分があった。 直茂はそうした人々を率いながら、高房を当主とする領国を動かす立場に立った。 主家の名前を残したまま、指揮と実務が鍋島氏へ集まっていく段階だった。
海を渡る軍勢の統率者

天正20年(1592)、秀吉の命令による朝鮮への侵攻が始まった。 直茂も軍勢を率いて渡海し、加藤清正らとともに北へ進んだ。 龍造寺家中をまとめて出陣する直茂の立場が、領内にとどまらず、豊臣軍の編成の中でも示されることになった。
佐賀県立名護屋城博物館は、直茂が一万二千人の軍勢を率いて渡ったと紹介している。 人と物を海の向こうへ送り、遠く離れた土地で軍勢を保つ必要があった。 直茂の国政担当としての権限は、こうした動員を実行する力とも結びついていく。
直茂の軍は朝鮮北東部の咸鏡道にまで進出した。 故郷の佐賀で城を守る戦いとは異なり、外国の領土へ攻め込み、そこに住む人々を戦争へ巻き込む側にあった。 遠征軍を率いた直茂と勝茂のもとへ、龍造寺家の家臣団が統合されていった。 領国では高房を当主とする形が続いていても、海の向こうで兵を動かす中心は鍋島父子だった。
秀吉から直茂へ出された命令の中には、戦闘以外の要求もあった。 虎を求める秀吉に対して、直茂がその送付を手配したことが、朱印状の解説から分かる。 天下人の要望は、遠征中の諸将へ届き、それを受けた側が人を使って実行した。 武将個人の豪勇を描く話へ変えると、こうした命令と実務の関係が見えなくなる。
文禄と慶長の二度にわたる戦争は、佐賀と朝鮮の間に人の移動も生んだ。 ただし、のちの肥前の窯業発展を知っているからといって、その移動をすべて歓迎された交流として描くことはできない。 朝鮮に出陣した直茂と、佐賀藩の基礎を築いた直茂は同じ人物である。 藩祖としての功績は、侵攻に加わったという事実とともに残った。
柳川攻めと領国の存続

秀吉の死後、鍋島家は再び、天下の権力が移る局面に立たされた。 慶長5年(1600)の関ヶ原をめぐる戦争では、息子の勝茂が当初、西軍に加わっている。 家康の勝利が決まると、佐賀の領国も安泰ではいられなかった。 新しい勝者との関係を、具体的な行動によって築き直す必要があったのである。
直茂は領地を守るため、僧の閑室元佶らを通じて家康側との関係を求めた。 その過程で鍋島勢は、筑後柳川の立花宗茂を攻める側に回る。 宗茂も豊臣政権のもとで領地を与えられた大名だったが、関ヶ原後には徳川方の攻撃を受ける立場になっていた。 九州の領主同士の関係が、中央の勝敗によって変えられていく。
この柳川への軍事行動などを通じて、鍋島側は領地の没収を免れた。 直茂の働きを、単に勝ちそうな相手へ乗り換えただけと片づけると、戦後に何を実行したかが抜けてしまう。 交渉には仲介者が必要であり、徳川方から評価される行動も必要だった。 今度は秀吉の権威ではなく、家康のもとで領国を維持する道を探ったのである。
西軍側にあった勝茂の行動は、家全体の処遇に関わっていた。 父が長年にわたって築いてきた領国の基盤も、天下の勝敗から切り離して守ることはできない。 直茂はそれまでの地位にとどまらず、新たな権力の求めに応じて軍を動かした。 その働きによって、鍋島家は次の時代へ土地と家臣団を持ち越すことができた。
美濃で決まった勝敗は、遠く離れた九州でも領主たちの運命を分けた。 柳川の宗茂は領地を失い、佐賀の鍋島家は領国を維持する。 主家を失いかけた1584年とは形が違っても、領国の存続を外部の権力に認めさせる仕事が、ここでも必要となった。
勝茂の継承と多布施の晩年

慶長12年(1607)、勝茂は家康の命によって龍造寺高房の跡を継ぎ、佐賀藩の初代藩主となった。 徴古館の歴代紹介は、この継承によって鍋島氏の佐賀藩が名実ともに成立したと位置づけている。 直茂が担ってきた政治と軍事の基盤が、息子の領主としての地位へ結びついたのである。
このため、直茂には藩祖、勝茂には初代藩主という呼び方が用いられる。 前者は家の支配の基礎を築いた人物を示し、後者は藩主としての代数を示す。 父の仕事を小さく扱っているのではない。 家中を動かしてきた年月と、領主の家として継承を認められた時点が、別の呼称に刻まれている。
佐賀の町も、父子の時代に整えられていった。 城だけでなく、武士や町人の居住地、水路や堀を含めて領国の中心をつくる仕事である。 慶長16年(1611)は佐賀城の築城の節目として知られ、直茂と勝茂の時代を紹介する展示でも取り上げられている。 こうした町の形成を、どちらか一人の功績にまとめることはできない。 戦場で軍勢を動かす仕組みは、平時に人と土地を治める仕組みへと受け継がれていった。
晩年の直茂は、城下の北にある多布施で暮らした。 城下を守ることと自分の墓所を結びつけた遺言も伝えられ、後世の佐賀では、死後まで領国を守ろうとした人物として語られる。 その言葉の細部は伝承として読む必要があるが、直茂が藩祖として記憶される理由をよく示している。
元和4年(1618)、直茂は没した。 1538年生まれなので、享年81は数え年である。 勝茂は多布施に宗智寺を建立して父を弔い、墓所はのちに高伝寺へ改葬された。 主家に仕えた若い武将の生涯は、息子が受け継ぐ領国と、城下に残る記憶へつながった。 鍋島氏の佐賀支配は直茂一人の勝利で完成したものではないが、その成立を説明するとき、直茂が担った長い移行期を外すことはできない。
史料の読み解き
家督と国政を分けて読む
龍造寺から鍋島への移行には、異なる時点の出来事が重なっている。 隆信の戦死は1584年、政家の隠居と高房の継承は1590年、勝茂の初代藩主としての継承は1607年である。 この三つを一度の交代へ縮めると、直茂がどの立場で領国を動かしたかが分からなくなる。
1590年の知行割を伝える朱印状写の宛先は、龍造寺高房である。 一方、その配分の中には直茂や勝茂の知行も示される。 さらに所蔵館の解説は、後代の『直茂公譜』を引き、家督を高房へ、国政の担当を直茂へとする区別を説明している。 同時代文書の写しと、後代の編纂史料を引用した説明とでは、根拠の性質も違う。 それでも、家の名義と領国の運営が同じ人物に集中していなかったことは、略歴の一行で済ませるべきではない。
ここからは二つの読み方が生まれる。 幼い当主を支えて領国を維持した側面を重く見れば、直茂は主家を存続させた功労者となる。 実際の指揮権と知行が鍋島側に集まり、その息子が領主家を継いだ結果を重く見れば、旧主から権力を移した人物となる。 どちらか一方を採るだけでは、同じ制度の中で両方が進んだことを捉えにくい。
直茂が国政を担うことは、龍造寺家が存続するための支えになり得た。 同時に、その仕事を長く担うほど、兵や役人を動かす実績は鍋島側へ蓄積する。 主家を守る仕事と、臣下の力が大きくなる過程は、同時に起こり得るのである。 ただし、この仕組みの説明を、直茂が最初から家の継承を狙っていたという内心の断定に変えてはならない。 確認できる制度と行動の範囲で、その権力を評価する必要がある。
秀吉の書状が示す関係の変化
1582年の書状では、贈り物と戦況報告を通じた直茂と秀吉の交信が見える。 1587年の朱印状では、九州平定後に領地を認められた直茂が、肥後の一揆への対応を命じられる。 二つの文書の間には、秀吉の立場そのものの変化がある。 武将同士の接点が、天下人から命令を受ける関係の一部になっていく。
直茂にとって中央との関係は、家中での権限を支える根拠になった。 誰にどの土地を認め、誰に出陣を命じるかを、豊臣政権が定めるからである。 地元で有力者であることだけでは、全国政権のもとで同じ位置を保てるとは限らない。 直茂は外部の権威から認められた立場で、領内の人々を動かしていった。
この点を論じる長野暹の辞典項目も、直茂が統一権力に接近し、その権威を領内支配の確立へ結びつけたことを重視している。 軍略だけに秀でた補佐役という人物像では、この働きは説明しきれない。 書状や知行の配分は、合戦の勝敗と同じくらい、直茂の立場を変える力を持った。
それだけに、中央の権力が豊臣から徳川へ移ると、関係を築き直す必要が生じた。 関ヶ原後の柳川攻めと領地の維持は、その別の局面である。 一度よい関係をつくれば、その後も自動的に領国が守られるわけではなかった。 直茂の政治は、変わる相手に対して、手元の軍勢と交渉の接点を用いる仕事でもあった。
ただし、父子が最初から東西に分かれて家を残す策だったと断定することはできない。 勝茂の西軍参加と戦後の領地維持は確認できても、結果がうまくつながったことだけでは、開戦前の計画は証明されない。 また、関ヶ原をめぐる家の動きを、直茂本人が美濃の本戦に出陣したことと混同してはならない。 直茂の働きとしてここで追えるのは、領国の処遇をめぐる交渉と九州での軍事行動である。
今山の戦功と夜襲物語
今山で大友勢を破ったことと、その夜の行動を分刻みで再現できることは同じではない。 「さがの歴史・文化お宝帳」の解説は『大和町史』を出典とし、末尾に『成松戦功略記』『肥陽軍記』『九州治乱記』を挙げている。 夜襲の経路、兵の集合、敵陣の酒宴などは、こうした語りの系統に属する細部である。
少人数が大軍を倒した話は、戦いの意味を分かりやすくする。 しかし、動員全体の数と、攻撃を受けた一つの陣の人数を並べれば、差は大きく見える。 何人がどこで戦ったかを確定できないまま数字だけを置くと、直茂の判断の巧さを説明する代わりに、誇張した構図をつくってしまう。 そのため、生涯では戦功の大筋を記し、夜襲の詳細は伝承として扱った。
また、合戦の叙述には成松らの働きも含まれている。 直茂の功を認めることは、参加者すべての働きを一人へ集めることではない。 家中の者がどのように集まり、誰の判断に従ったと語られるかを見ると、今山の話は個人の武勇だけでなく、軍勢をまとめる力の物語でもある。 その記憶が、後世の藩祖像を支える一部になったと読める。
朝鮮出兵と佐賀に残った人々
直茂の朝鮮出兵は、鍋島家が家中を率いる立場を強めた出来事である。 ただし、その説明は日本側の権力関係を中心にしている。 朝鮮の人々の暮らしや移動を考える際には、軍事侵攻という前提を外すことはできない。 のちに技術や産業が育ったことと、戦争の中で人が移されたことは、別の評価を必要とする。
佐賀の唐人町には、宗歓という人物に関する由緒書が残る。 徴古館所蔵の『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』は1842年にまとめられたもので、宗歓の漂着、佐賀への移住、直茂への協力を語っている。 これは出来事から長い年月を経た家の記録である。 本文にある行動を、そのまま1590年代の本人による証言として引用することはできない。
一方、佐賀市は金立に残る朝鮮の人々の墓碑を文化財として紹介し、『葉隠』が伝える陶工の記録との関係を説明している。 記録の成立事情を確かめることと、実際に土地へ残された痕跡を見ることの両方が必要になる。 直茂が連れ帰ったと伝えられる人々にも、それぞれの生涯があった。 その意思や出自が十分に分からない場合、全員が喜んで来たとも、すべて同じ経路で移されたとも書けない。
直茂を佐賀の産業の恩人としてだけ描くと、こうした違いが見えなくなる。 戦争を率いた側の業績と、そこで移動した人々の歴史を分けて問い直すことが、藩祖の評価にも必要である。
藩祖として語られるまで
直茂の没年は1618年であり、『葉隠』の完成は1716年である。 口述者の山本常朝は1659年生まれなので、直茂の言葉を本人から聞いた人物ではない。 『葉隠』に直茂の言行が収められていても、それは後代の佐賀藩で伝えられ、選び取られた記憶として読む必要がある。
伝承だから無意味なのではない。 どのような振る舞いが藩祖にふさわしいと考えられたかを知る資料になる。 墓を城下の北に置くという話には、防衛上の知恵と、人々が直茂の名を守ろうとする姿が重なる。 生前の一言を完全に再現できなくても、後世に求められた領主像は読み取れる。
1772年には、直茂をまつる日峯社が創設された。 また、直茂の伝記を詳しくまとめた『直茂公譜考補』は1841年の成立である。 本人が生きた時代、家の記憶が書物にまとめられた時代、祭祀によって顕彰された時代は、それぞれ違う。 同時代の秀吉書状と、後世の教訓や伝記を同じ性質の証拠として扱わないことが、直茂の像を過度に美化したり、逆にすべて疑ったりしないための足場になる。
隠居年についても、解説には1607年と1610年の違いがある。 勝茂が高房の跡を継いだ時点と、直茂が政務から退いたとする時点を、一律の「交代の日」にまとめることは避けた。 少なくとも、直茂を初代藩主、勝茂を二代目と数える説明は、徴古館の歴代紹介とは合わない。 藩祖という呼び名は、直茂が勝茂へ渡した基礎と、その仕事が後世に持ち続けた重みを表している。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と留保 |
|---|---|---|
| 生没年は1538〜1618年 | 高 | 徴古館、辞典、国立国会図書館の典拠が一致。享年81は数え年 |
| 隆信の家臣として働き、没後に国政を主導した | 高 | 所蔵館、自治体、専門家の辞典解説で確認 |
| 1582年、隆信存命中に秀吉と交信していた | 高 | 直茂宛て秀吉書状が現存する |
| 1590年、高房の家督と直茂の国政担当が並立した | 高 | 知行割の朱印状写と、所蔵館が引用する編纂史料の説明を照合 |
| 今山の夜襲で直茂が活躍した | 中 | 戦功の大筋は支持されるが、経路や敵の酒宴などは軍記系の伝承 |
| 直茂が自ら虎を槍で倒した | 低 | 虎の送付を手配した書状から、本人の狩猟行動までは証明できない |
| 父子が関ヶ原前から計画的に東西へ分かれた | 保留 | 西軍参加と戦後の領地維持だけでは、事前の計画を裏付けられない |
| 勝茂が初代藩主、直茂が藩祖である | 高 | 徴古館の歴代紹介で区別されている |
| 墓を城下北方に置くという遺言 | 中 | 後世に伝えられた言行。宗智寺建立と後年の改葬とは根拠を分ける |
直茂の生涯には、主家を支える仕事と、自分の家の力が大きくなる過程が重なっていた。 その重なりを解きほぐすと、名臣という一語にも、乗っ取りという一語にも収まらない領国継承の姿が現れる。 今山で知られた家臣の名は、秀吉の書状の宛先となり、国政の担当者の名となり、やがて佐賀でまつられる藩祖の名になったのである。
鍋島直茂の逸話
- 逸話 01
南蛮帽子がつないだ交信

南蛮帽子の贈答を題材にした静物の想像図(AI生成) · AI生成イメージ 直茂と秀吉の関係を伝える品の一つが、南蛮帽子である。 帽子そのものがここで確認できるわけではなく、天正10年(1582)の秀吉書状に、その贈り物への礼が残っている。 物が届いたことを、受け取った側の言葉から確かめられる例だ。
所蔵館の解説は、この手紙の内容と紙面の小ささから、密書と考えられるとしている。 ただし、密書という評価を、そのまま主家への反逆に読み替えることはできない。 贈答と通信があったことは書状の根拠を持つが、それをどのような政治目的で行ったかは、別に検討する必要がある。
この逸話には、豪華な品で相手を驚かせたとか、秀吉が直茂の将来を予言したといった話を足す必要がない。 隆信が生きていた時期に、肥前の家臣へ秀吉から返書が来ている。 その事実だけで、直茂の活動範囲が領国内に閉じていなかったことが分かる。 小さな贈り物が残した記録は、戦功とは違う形で人と人の関係を伝えている。
- 逸話 02
虎狩りの英雄像と朱印状

遠征の命令や物資手配を示す帳面と荷の想像図(AI生成) · AI生成イメージ 朝鮮出兵にまつわる虎の話は、武将の豪勇を示す逸話になりやすい。 直茂についても、秀吉へ虎を送ったことが朱印状に関わっている。 だが、そこで確かめられるのは、直茂が送付を手配し、秀吉がそれを受け取ったという関係である。
文化遺産データベースの解説は、直茂自身が槍を握って虎を捕らえたと読むことに慎重である。 命令を受けて人を動かしたことと、本人が狩りの場で獲物と向き合ったことは違う。 書状の宛先に直茂の名があっても、獲物を追った者や、運搬を担った者まで直茂一人だったとはいえない。
この書状が見せるのは、天下人の要求に応じて動く遠征軍の一面である。 軍を率いる者の役割には、命令を受け取り、担当する者へ伝え、結果を届ける実務も含まれた。 虎を倒した瞬間を想像するより、誰が何を命じ、誰の名で送られたのかを追うと、直茂が置かれた立場がはっきりする。
- 逸話 03
城下の北に墓を置くという遺言

多布施の寺院と城下北辺を題材にした情景想像図(AI生成) · AI生成イメージ 直茂は、自分の墓を多布施に置けば、人々がそれを敵に踏ませまいとして戦うだろうと語ったという。 徴古館が紹介する、城下北方の防衛に結びついた遺言の伝承である。 本人の発言をその場で書き取った記録としてではなく、後世に伝えられた人物像として受け止めたい。
元和4年(1618)に直茂が亡くなると、勝茂は父の隠居所の地に宗智寺を建てた。 その墓所は明治4年(1871)に高伝寺へ改葬されている。 現在の墓の場所だけを見て、最初から高伝寺に葬られたと考えると、この移動が抜け落ちる。
遺言の物語では、直茂の名を守る気持ちが、佐賀の町を守る行動へ結びつけられている。 そこには戦国武将としての個人的な武勇より、領国の人々を一つにまとめる藩祖の姿がある。 墓所の歴史と伝承を分けて読むことで、直茂の死後にどのような記憶が育てられたかも見えてくる。
関連人物
- 鍋島清房
- 鍋島勝茂
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 藩祖 鍋島直茂公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-09-20
- 佐賀市史跡佐賀市参照日 2026-09-20
- 鍋島直茂(世界大百科事典ほか)コトバンク参照日 2026-09-20
- 鍋島直茂宛て豊臣秀吉書状文化遺産オンライン/鍋島報效会参照日 2026-09-20
- 鍋島直茂宛て豊臣秀吉朱印状(1587年)文化遺産データベース/鍋島報效会参照日 2026-09-20
- 龍造寺高房宛て豊臣秀吉朱印状写文化遺産データベース/鍋島報效会参照日 2026-09-20
- 鍋島直茂陣跡佐賀県立名護屋城博物館参照日 2026-09-20
- 鍋島直茂宛て豊臣秀吉朱印状(虎の送付)文化遺産データベース/鍋島報效会参照日 2026-09-20
- 初代 鍋島勝茂公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-09-20
- 今山の戦さがの歴史・文化お宝帳参照日 2026-09-20
- 第3回 敵は北から攻めてくる!公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-09-20
- 第80回展 藩祖鍋島直茂公と日峯社公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-09-20
- 葉隠公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-09-20
- 御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書文化遺産データベース/鍋島報效会参照日 2026-09-20
- 杏葉紋付円鏡公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-09-20
- 鍋島, 直茂, 1538-1618国立国会図書館参照日 2026-09-20
- 佐賀市街なみ環境整備事業について佐賀市参照日 2026-09-20
- 戦国大名展(鍋島直茂像・直茂と勝茂の陶磁文化)九州国立博物館参照日 2026-09-20








