メインコンテンツへスキップ
戦国時代〜江戸初期鍋島氏15381618
武将列伝戦国時代〜江戸初期龍造寺

なべしま・なおしげ

鍋島直茂龍造寺の家臣から佐賀藩祖へ、乗っ取りの実像

享年 81NABESHIMA NAOSHIGE
生没年
1538–1618
出身
肥前佐賀
家
龍造寺
主な合戦
3
鍋島直茂の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 鍋島直茂の甲冑姿(想像図)
  • 佐賀藩
  • 龍造寺家
  • 今山の戦い
生年
天文7年1538年/肥前本庄
没年
元和4年1618年/数え81歳
転機
龍造寺家の国政担当1590年、秀吉の承認
後世の位置づけ
佐賀藩の藩祖初代藩主は息子の勝茂
家紋
杏葉

鍋島直茂(1538〜1618)は、龍造寺隆信の重臣から佐賀藩の基礎を築いた武将である。今山の戦いで主家を支え、隆信の戦死後は秀吉の承認を受けて国政を担った。佐賀藩の初代藩主は息子の勝茂で、直茂は藩祖と呼ばれる。

主家を助けた人物の家が、やがて領主家になった。この経緯から「龍造寺家を乗っ取ったのか」という問いが生まれるが、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。と実権は段階を踏んで移っている。生涯をたどったうえで、妻・彦鶴、子孫の家系、幕末の鍋島直正との関係、性格を伝える逸話、死因をそれぞれ確かめたい。

01出自と主従ORIGIN

本庄に生まれ、龍造寺家を支える

肥前の館のそばを歩く若い直茂の想像図(AI生成イメージ)
肥前の館のそばを歩く若い直茂の想像図 · AI生成イメージ

天文7年(1538)、鍋島直茂は肥前国の本庄に、鍋島清房の子として生まれた。のちの佐賀藩祖も、出発点では龍造寺氏に仕える家の一員である。若いころには千葉胤連の養子となり、やがて鍋島家へ戻ったとされる。鍋島、千葉、龍造寺という家々の縁の中で育った人物だった。

直茂が仕えた龍造寺隆信は、肥前を足場に勢力を広げた戦国大名である。直茂の父・清房が隆信の母・慶誾尼と再婚したため、隆信と直茂は義兄弟の間柄にもなった。同じ両親を持つ兄弟ではないが、単に命令を受けるだけの家臣とも違う。主家の内側に近い立場で、その軍事と政治を支えていく。

ただし、親族関係だけで重臣の地位が保証されたわけではない。当時の肥前では有力な国人がそれぞれの地域に根を張り、隆信も周辺の勢力と争いながら支配を広げていた。直茂には、その戦いを実際に担う働きが求められた。後年の領国経営につながる人脈も、こうした主家への奉公を通じて形づくられたと考えられる。

直茂には信昌、信生という旧名があり、孫四郎とも呼ばれた。古い記録で鍋島信昌が登場しても、別人ではない。本記事では改名による混乱を避け、生涯を通じて直茂と表記する。また、後世の「藩祖」という呼び方を、そのまま若いころの身分に当てはめることもしない。

直茂が主家の命運に深く関わったのが、元亀元年(1570)の今山の戦いだった。豊後の大友氏が佐賀を攻め、隆信の本拠が危機に陥る。生まれ育った土地と主家を守る戦いで、直茂は大きな役割を果たすことになる。

02今山の戦いIMAYAMA

夜襲の伝承に残る、佐賀を守った戦功

今山の夜襲を題材に、兵へ合図を送る直茂の想像図(AI生成イメージ)
今山の夜襲を題材に、兵へ合図を送る直茂の想像図 · AI生成イメージ

元亀元年(1570)、龍造寺方は今山で大友勢を破った。佐賀の歴史を伝える地域資料は、この戦いを隆信の躍進と直茂の評価を高めた転機として紹介している。直茂は数え33歳。まだ主家に代わって領国を治める立場ではなく、隆信を助けて危機を切り抜ける重臣だった。

よく知られるのは、敵の本陣を夜襲したという物語である。後世の軍記によれば、城内で開城や退去が論じられるなか、直茂が出撃を主張した。成松信勝らがこれに加わり、今山に陣取る大友親貞を襲ったとされる。佐賀市の「さがの歴史・文化お宝帳」も、『肥陽軍記』『九州治乱記』などに基づく経緯を載せている。

夜の進軍、途中で合流する味方、夜明け前の突入。こうした場面が直茂の機転と胆力を印象づける。ただ、伝承に出てくる兵数や敵の酒宴、軍議の発言まで、同時代の報告で確定した事実として扱うことはできない。龍造寺方の勝利と、その細部を彩る物語には、根拠の違いがある。

また、直茂が敵将を一人で討ち取った戦いでもない。伝承の中でも、親貞を討つ働きは成松信勝らに帰せられている。成松は龍造寺家の武将であり、今山で共に戦ったことだけを理由に、直茂個人の家臣と呼ぶのも適切ではない。直茂の指揮を評価するときには、主家の軍勢の中で誰と力を合わせたのかも見ておきたい。

この勝利のあとも、直茂は隆信を支えて戦った。今山の功績から鍋島家の佐賀支配へ一直線に進んだのではない。主家の勢力が広がる時期を経て、隆信の戦死という大きな断絶が訪れる。その前に直茂は、九州の外の有力者とも接点を持ち始めていた。

03秀吉との関係LETTERS

本能寺の変の直後に届いた一通の手紙

秀吉からの書状を読む場面を題材にした直茂の想像図(AI生成イメージ)
秀吉からの書状を読む場面を題材にした直茂の想像図 · AI生成イメージ

天正10年(1582)7月11日付で、羽柴秀吉から直茂へ送られた書状が残る。本能寺の変が起き、秀吉が明智光秀を破った直後の手紙である。そこには上方の戦況とともに、直茂が贈った南蛮帽子への礼が記されている。龍造寺隆信はまだ生きていた。

この一通によって、直茂が隆信の死後に初めて秀吉と結びついたわけではないことが分かる。館の解説によれば、前年からのやり取りをうかがわせる文言もある。主家を支える肥前の武将が、遠く離れた秀吉から直接返書を受け取る。直茂の活動範囲は、龍造寺家中だけに収まっていなかった。

書状は天地が約10センチという小さな紙に書かれており、所蔵館は内容と形状から密書とみている。だが、秘密の通信があったことと、龍造寺家を奪う計画があったことは別の主張である。この手紙から確かめられるのは、贈答と情報の交換を伴う関係だ。後年に鍋島家が領主家になった結果を知っているからといって、当時の手紙にその目的まで読み込むことはできない。

天正12年(1584)、隆信は沖田畷の戦いで島津・有馬方に敗れて戦死した。直茂は生き残り、主君を失った龍造寺家を支えることになる。政家をはじめ主家の一門がいる一方で、軍事と交渉を担える直茂への依存は大きくなった。戦場での補佐役が、領国全体の行方を左右する役割へ近づいていく。

さらに天正15年(1587)、秀吉の九州平定によって、地域の勢力関係は全国政権のもとに組み直された。直茂は龍造寺政家の領分とは別に、肥前の養父郡・基肆郡の一部を与えられた。同年の朱印状には、肥後国人一揆への対応を求める命令も残る。かつて手紙を交わした相手は、土地を認め、軍勢の出動を命じる天下人となっていた。

04家督と実権GOVERNANCE

家督は龍造寺高房へ、国政は直茂へ

家臣たちと政務を話し合う直茂の想像図(AI生成イメージ)
家臣たちと政務を話し合う直茂の想像図 · AI生成イメージ

天正18年(1590)は、龍造寺から鍋島への移行を考えるうえで欠かせない年である。龍造寺政家が隠居し、幼い高房が家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぐ一方、直茂が国政を担うことを秀吉に認められた。この段階では、主家の当主と実際の政務担当者が分かれていた。「直茂が龍造寺家の家督を継いだ」とまとめてしまうと、当時の仕組みが消えてしまう。

同年正月8日の知行割を伝える秀吉朱印状の写しは、高房宛てになっている。その配分で直茂の知行は4万4500石とされ、一門・重臣の中で最も大きかった。息子の勝茂にも知行が割り当てられている。家の名義が龍造寺にある一方、鍋島父子が強い経済的基盤を持っていたことを示す資料である。

なお、この4万4500石は直茂個人への配分であり、国政を担当する領域全体の石高ではない。個人の知行と、軍勢や政務を統率する範囲を混ぜると、直茂の地位を小さくも大きくも誤解してしまう。また、現存する朱印状は江戸時代の写しで、国政担当の説明には後世の『直茂公譜』も用いられている。原本・写し・後代の編纂史料を区別しながら読む必要がある。

直茂の立場を支えたのは、秀吉の承認だけではなかった。龍造寺の一門や重臣を動かし、出陣や領内の仕事をまとめる実績も必要だった。多くの家を抱える領国では、当主の名を変えるだけで命令が行き渡るわけではない。直茂は主家の仕組みを引き受けながら、鍋島家のもとへ統率を集めていった。

このため、支配の移行は一日の政変として説明しにくい。主家を支える役目と、臣下の権力が育つ過程が重なっている。その変化をさらに進めたのが、秀吉の命で行われた朝鮮への出兵だった。直茂は領国の軍勢を率い、海の向こうの戦争へ向かう。

05朝鮮出兵OVERSEAS WAR

海を渡る軍勢と、鍋島家中の形成

朝鮮出兵の渡海を題材に、船上で海を見つめる直茂の想像図(AI生成イメージ)
朝鮮出兵の渡海を題材に、船上で海を見つめる直茂の想像図 · AI生成イメージ

文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮へ大軍を送り込んだ。直茂もこの侵攻に参加し、佐賀県立名護屋城博物館の解説では1万2000人を率いて渡海したとされる。出兵の拠点となったのは、肥前北部の名護屋城と周辺の陣屋だった。佐賀を守る戦いとは異なり、遠く離れた地域へ兵と物資を運ぶ戦争である。

直茂は加藤清正らとともに朝鮮半島で軍事行動を行った。その軍勢には鍋島家に直接つながる者だけでなく、龍造寺家の一門や旧来の家臣団も含まれる。九州国立博物館は、直茂・勝茂父子が朝鮮出兵を通じて家臣団の統制を強めたことを指摘している。領国内で別々の由緒を持つ武士たちを、一つの指揮のもとで動かす経験でもあった。

遠征の指揮には、戦場での命令に加え、渡海、兵糧、連絡、帰還の手配が伴う。その負担を統率する立場が鍋島父子に集まったことは、後の領国支配を考える手がかりになる。ただし、鍋島家の発展だけを取り出せば、この戦争で侵攻を受けた朝鮮の側が見えなくなる。人々の生活を破壊した対外戦争として、武将の成功物語とは分けて捉えたい。

朝鮮出兵と肥前の陶磁文化の関係も、その一例である。帰国後の陶磁器生産を語る際には、渡来した陶工たちの技術と仕事を欠かすことができない。博物館は鍋島父子による陶工の保護を紹介しているが、それだけで戦時下の人の移動を平穏な文化交流と言い換えることはできない。直茂の政策と、技術を担った人々の経験は、それぞれに見ていく必要がある。

慶長の役を経て、慶長3年(1598)に秀吉が死去し、日本側は撤退した。直茂の権限を認めてきた豊臣政権の中心が失われ、次の政治秩序をめぐる争いが始まる。まもなく鍋島父子は、領国そのものを失いかねない選択に直面することになった。

06立花宗茂との戦いYANAGAWA

関ヶ原のあと、柳川へ向かった理由

柳川方面の戦役を題材に、筑後の川辺で振り返る直茂の想像図(AI生成イメージ)
柳川方面の戦役を題材に、筑後の川辺で振り返る直茂の想像図 · AI生成イメージ

慶長5年(1600)、鍋島勝茂は龍造寺高房とともに西軍に加わった。伏見城や伊勢方面での戦闘に関わっており、鍋島家が初めから一貫して徳川方だったわけではない。関ヶ原で西軍が敗れると、領国を維持するためには家康との関係を立て直す必要が生じた。ここで直茂の交渉が重要になる。

守友隆の柳川合戦研究は、井伊直政、本多正信、僧の閑室元佶らによる取り成しを紹介している。鍋島側は家康への服属を示し、西軍に属した立花宗茂を攻める側へ回った。その戦いが、筑後の柳川合戦である。宗茂との個人的な恨みを原因とするより、関ヶ原後の処分と領地維持をめぐる行動として捉えるのが筋だ。

同年10月20日、江上・八院周辺で両軍の部隊が衝突した。立花方では小野鎮幸や立花統次らが出陣し、鍋島・龍造寺方も複数の将が先陣を率いた。「鍋島直茂対立花宗茂」という見出しは両家の対立を示すが、二人がその場で直接槍を合わせたという意味ではない。大名同士の戦争と、現場の部隊を指揮した武将を分けておくと、合戦の構造が分かりやすい。

立花方はこの戦闘で損害を受け、その後、宗茂は柳川を開城した。九州国立博物館の解説では、加藤清正の説得が降伏に関わったとされる。したがって、柳川の決着を直茂一人の武勇で説明することもできない。野戦の結果に加え、周辺の大名や徳川方との交渉が重なっていた。

鍋島家は結果として領国を保った。秀吉が生きていたころの地位を、そのまま徳川の時代へ持ち越せたわけではない。西軍参加という不利を負いながら、交渉と軍事行動によって新しい支配秩序に入り直したのである。直茂の晩年を支えたのは、勝つための用兵だけでなく、敗者となりかけた家を存続させる働きでもあった。

07晩年と死去LEGACY

勝茂へ渡した佐賀と、数え81歳の最期

多布施の隠居所で茶碗を手にする晩年の直茂の想像図(AI生成イメージ)
多布施の隠居所で茶碗を手にする晩年の直茂の想像図 · AI生成イメージ

慶長12年(1607)、勝茂は龍造寺高房の跡を継ぎ、佐賀藩初代藩主となった。徴古館の略歴は、これを家康の命による継承として説明している。初代藩主は直茂ではなく勝茂である。直茂は、その支配を可能にした人物として藩祖と位置づけられた。

慶長16年(1611)には佐賀城が完成し、勝茂が新しい本丸御殿へ入った。龍造寺氏以来の拠点を整え、藩の政治を行う城と城下町をつくる仕事は、直茂・勝茂親子にまたがる。佐賀市も、現在の中心部に残る城下町の形成を両者の事績として紹介している。戦国の領国を継ぐとは、土地の名義だけでなく、政務を続ける場所を整えることでもあった。

直茂は晩年、城下の北にある多布施で暮らした。隠居した年の扱いには資料による違いがあるため、勝茂の継承と直茂の生活の移り変わりを同じ一日にまとめることは避けたい。その後も、直茂の経験と言葉は鍋島家の中で重く扱われた。多布施の墓所に関する遺言の伝承も、佐賀を守る藩祖の記憶として残っている。

元和4年(1618)6月3日、直茂は死去した。日付は旧暦で、享年81は数え年である。最期については耳の腫れ物に苦しんだという話が伝わるが、現代の医学的な病名まで確定できる資料はここでは確認できない。戦死ではなく晩年の病没として紹介される一方、具体的な死因の説明には留保が必要だ。

勝茂は父の隠居所の地に宗智寺を建立して弔い、墓は明治4年(1871)に高伝寺へ改葬された。直茂が生きたのは、龍造寺氏が肥前で戦った時代から、鍋島氏が佐賀を治める江戸初期までである。その間に蓄えた軍事・外交・統治の実績は、息子へ渡された。さらに後の鍋島家は、その始まりを直茂の生涯に求めていく。

02
READING

史料の読み解き

鍋島直茂は龍造寺家を「乗っ取った」のか

結果として、佐賀の領主家は龍造寺から鍋島へ移った。その意味で、旧主に代わって臣下の家が支配を引き継いだことは確かである。しかし、直茂がある日に主家を倒して全権を奪った、という一度の事件では説明できない。

まず、隆信が戦死した1584年と、直茂が国政を任された1590年を分ける必要がある。前者は龍造寺家が有力な指導者を失った軍事的な危機であり、後者は豊臣政権が家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。と国政の担当を整理した段階である。そして勝茂が初代藩主となる1607年までには、さらに十数年の隔たりがあった。

1584年
沖田畷で隆信が戦死、直茂が主家を支える
戦死と同時に鍋島の藩が成立したわけではない
1587年
秀吉が直茂にも別の領分を認める
政家への領地承認と並行する
1590年
高房が家督を継ぎ、直茂が国政を担当
家の当主と実務の責任者が分かれる
1600年
鍋島・龍造寺勢が徳川方へ服属し柳川を攻める
領国を保つため新政権との関係を築き直す
1607年
勝茂が高房の跡を継いで初代藩主となる
直茂自身を初代とする説明とは異なる
年龍造寺家と鍋島家の動き区別したい点
1584年沖田畷で隆信が戦死、直茂が主家を支える戦死と同時に鍋島の藩が成立したわけではない
1587年秀吉が直茂にも別の領分を認める政家への領地承認と並行する
1590年高房が家督を継ぎ、直茂が国政を担当家の当主と実務の責任者が分かれる
1600年鍋島・龍造寺勢が徳川方へ服属し柳川を攻める領国を保つため新政権との関係を築き直す
1607年勝茂が高房の跡を継いで初代藩主となる直茂自身を初代とする説明とは異なる

幼い当主を補佐し、主家の領国を維持した働きに注目すれば、直茂は龍造寺家を救った重臣となる。一方、国政を長く担い、その息子が領主の座を得た結果に注目すれば、鍋島家への権力集中が見える。二つは、どちらかを消さなければ成り立たない説明ではない。

長野暹の辞典解説も、直茂が統一権力との関係を領内支配の確立に結びつけた点を重視する。秀吉や家康の承認は、地元の一門・重臣を動かす根拠となった。ただし、こうした仕組みを説明できることと、直茂が最初から主家の継承を狙っていたと証明することは別である。「乗っ取り」という言葉を使うなら、結果を指しているのか、本人の計画を指しているのかを明らかにしたい。

家系図で見る妻・子孫と鍋島直正との関係

鍋島直茂の父は清房で、佐賀藩を継いだ息子は勝茂である。妻には前妻の高木胤家の娘と、継室の彦鶴が知られる。彦鶴は藤とも呼ばれ、陽泰院の名で夫婦の逸話に登場する。本記事の家系図は後継関係を中心とした略図で、すべての子女を網羅したものではない。

人物直茂との関係家系を読む手がかり
鍋島清房父隆信の母・慶誾尼との再婚で両家の縁が深まる
高木胤家の娘前妻彦鶴とは別人
彦鶴(陽泰院)継室石井氏の出身、勝茂の母
鍋島勝茂子佐賀藩初代藩主
鍋島元茂・直澄・直朝孫にあたる勝茂の子たちそれぞれ小城・蓮池・鹿島の支藩へつながる
鍋島直正後世の鍋島家当主幕末の佐賀藩第10代藩主。直茂の子ではない

「鍋島直茂」と「鍋島直正」は一字違いだが、生きた時代が大きく異なる。直茂は戦国時代から江戸初期の人物で、直正は文化11年(1814)に生まれた幕末の藩主である。直正の父は第9代藩主の斉直であり、天保元年(1830)に家督を継いだ。直茂が築いた鍋島家の支配を後世に受け継ぎ、藩財政の再建や西洋技術の導入を進めた。

また、歴代藩主の順番をそのまま父から長男へ続く系図として描くこともできない。大名家の継承には兄弟や支流からの相続もあるため、「第10代」を直茂から数えた血縁上の世代数へ置き換えると誤りになる。本藩と支藩のつながりを詳しくたどる場合は、徴古館の鍋島家略系図で継承と親子関係を分けて見るとよい。

子孫の歴史には、勝茂から続く藩主家だけでなく、支藩の家々や近代の鍋島家も含まれる。同じ姓を持つ人をすべて直茂の子孫とみなしたり、現代の個人について姓だけで血縁を推定したりすることはできない。この略図では、公開された家の記録で確かめられる歴史上の人物に範囲を限っている。

家臣は誰か――龍造寺の武将と鍋島家中を分ける

直茂を支えた人物を並べる際には、その人がどの家に属し、どの時期に働いたかが重要になる。今山の成松信勝は龍造寺家の武将で、直茂とともに主家のために戦った。一方、成富茂安は龍造寺氏への奉公を経て鍋島氏に仕え、後年には治水の事績で知られる。「同じ合戦に出た人」と「直茂個人に仕えた人」は、必ずしも一致しない。

人物・集団主な接点呼び方の注意
成松信勝今山の戦いの伝承龍造寺家の武将。直茂だけの家臣として固定しない
成富茂安鍋島氏への奉公と領内の水利事業武功に加え、直茂・勝茂期をまたぐ働きがある
鍋島茂忠ら江上・八院での先陣直茂本人の直接戦闘とは分ける
龍造寺一門・重臣朝鮮出兵や領国運営鍋島家中への移行を一括した服従で説明しない

成富茂安の事績を紹介する武雄河川事務所は、石井樋などの水利施設を元和期以降の仕事として挙げている。直茂の没年は元和4年であり、茂安の事業をすべて直茂が直接指示したものとすることはできない。城下と農地を支える仕事は、勝茂の時代にも続いていた。

こうした家臣の働きに目を向けると、直茂の統率力も具体的になる。自分の武勇だけで問題を解決する将ではなく、主家の一門や多様な経歴の武士をまとめる立場だった。その集団がどのように鍋島家の家中になったかという問題は、直茂の人物評と佐賀藩成立の歴史をつないでいる。

対戦相手と合戦――大友・島津・立花との接点

直茂の対戦相手は、時期と戦場によって変わる。今山では龍造寺家を守る側だったが、柳川では徳川方への服属を示すために立花領へ進んだ。誰を敵としたかだけでなく、どの家の軍勢として戦ったかを併せて読むと、その立場の変化が分かる。

相手合戦・戦役直茂との関係と範囲
大友宗麟今山の戦い(1570年)龍造寺を攻めた大友方の大名。今山で軍を率いた大友親貞とは分ける
島津家久沖田畷の戦い(1584年)有馬方を援けた島津軍の指揮官。直茂は隆信の軍勢に加わっていた
立花宗茂柳川合戦(1600年)立花家と鍋島・龍造寺勢の敵対。江上・八院の現場指揮官は小野鎮幸ら

島津家久の出陣と鍋島信生、すなわち直茂の参戦は、新名一仁の研究が『上井覚兼日記』などを用いて検討している。有馬氏も沖田畷の敵方であり、表の三人だけで対戦勢力を網羅するわけではない。また、相手の武将名が並んでいても、いずれも一騎討ちを示すものではない。

性格は慎重な策士か、主家を支える実務家か

直茂の性格を示す言葉として、知略、忍耐、現実的な判断力などが挙げられる。その根拠を考えるなら、まず確認できる行動を見たい。隆信存命中から秀吉と交信し、隆信の死後は国政を担い、関ヶ原後には徳川方との関係を築き直した。一人の主君のもとで戦う役割から、領国を存続させる役割へ応じたことが、直茂への評価を形づくっている。

ただし、「慎重だった」とまとめるだけでは今山の夜襲の伝承が持つ大胆さを取りこぼす。逆に、夜襲の一話だけで常に危険を好んだ人物とするのも無理がある。兵を動かす場面、中央の権力と交渉する場面、家中の利害を調整する場面では、必要な判断が違う。性格を一語で固定するより、どの状況で何をしたかを読むほうが実像に近づける。

妻の機転を認める話や、城下を守るため墓の場所まで考えたという話は、後世の人々が好んだ直茂像を伝える。そこには、人を見て用い、先を考える藩祖という理想がある。それらは人物の記憶を知る資料にはなるが、本人の内面を直接観察した記録とは限らない。

特に『葉隠』は、直茂自身が書いた本ではない。山本常朝の談話を田代陣基がまとめ、享保元年(1716)に完成したもので、直茂の死から約100年後にあたる。直茂に関する言葉を紹介するときも、『葉隠』などの伝承元を確かめ、すべてを生前の発言として無条件に引用しないことが大切だ。

死因は何か――耳の腫れ物と祟りの物語

直茂は元和4年(1618)に亡くなり、数え81歳だった。死因については、耳に生じた腫れ物に苦しんだという話が、PHP研究所の歴史記事などで紹介されている。しかし、それを現代の病名で診断できるわけではない。本記事では、晩年の病没と伝えられることまでを押さえ、がんなど特定の病気と断定しない。

この最期は、龍造寺家との関係をめぐる祟りや化け猫の物語と結びつけられてもきた。だが、物語の中で不幸に意味を与える説明と、実際の病気の原因は区別すべきである。旧主から鍋島への支配の移行に後世の人々が抱いた感情を考える材料にはなっても、祟りを死因として採用することはできない。

年齢にも注意がいる。 1538年生まれ、1618年没という経歴に付される81歳は数え年であり、現代の満年齢表示ではない。旧暦6月3日という没日も、そのまま現在の暦の6月3日へ置き換えるべきではない。長寿だったことを述べる際ほど、年代と年齢の数え方を揃えておきたい。

関わった城は佐賀城だけではない

直茂と最も深く結びつく城は佐賀城である。ただし、龍造寺氏の時代からの拠点と、直茂・勝茂親子が整えた近世の城を同じ姿として想像することはできない。佐賀城本丸歴史館は慶長16年(1611)を築城年とし、初代から11代までの藩政の中心だったと説明している。戦国末期の軍事拠点が、江戸時代の統治の場へ整備されたのである。

蓮池城も直茂に関係する城で、名護屋城の築城にあたり、その天守を献上したという伝承がある。佐賀県立名護屋城博物館も「伝わる」として紹介しており、建物がどのように移されたかまで確定した事実とは扱わない。また、朝鮮出兵の拠点・名護屋城と、後世の尾張名古屋城は別の城である。

場所直茂との関係見どころとなる論点
佐賀城・城下町直茂と勝茂が整備した政治拠点城だけでなく、堀・街路・水路を含む領国の中心
蓮池城直茂に関わる城名護屋城への天守献上は伝承として読む
肥前名護屋の陣跡朝鮮出兵時の拠点大軍の渡海を準備した場所
多布施晩年の隠居所と当初の墓所城下北方の防御と藩祖の記憶
高伝寺改葬後の墓所直茂の死後も続く鍋島家の歴史

佐賀の町を考える際には、水にも目を向けたい。平野の城下では、堀や川は守りと暮らしの双方に関わる。直茂の遺言の伝承を紹介する徴古館も、城下北方の十間堀や寺院の配置を絵図から説明している。城を築いた人物という評価は、天守だけでなく、住む人と領地を支える町の構造まで含めて考えることができる。

異名・別名・家紋を混同しない

直茂の異名として紹介されるのが「龍造寺の仁王門」や「老虎」である。岩松要輔の評伝『鍋島直茂』の出版社紹介にも、仁王門や佐賀の老虎という表現が使われている。主家を支えた強さや、長く政治の転換を生き抜いた姿を伝える呼び方だ。ただし、この現代の紹介から、生前の誰がいつそう呼んだかまで確定することはできない。

信昌・信生は旧名、孫四郎は通称、加賀守は官途に関わる呼称であり、性格を評した異名とは種類が違う。日峯も法名に結びつく呼び方で、後世には日峯明神として祀られた。直茂を祀る日峯社が創設されたのは明和9年(1772)である。同じ人物の呼び名にも、生前の社会的な立場と死後の顕彰が重なっている。

鍋島家を表す家紋は杏葉で知られる。ただし、家紋の伝承を、そのまま直茂がいつどの甲冑に付けたかという装備の証拠にすることはできない。本記事の人物画は想像図であり、現存する所用甲冑や本人の顔を復元したものではない。伝わる肖像、現存する武具、後世の物語、現在つくられる人物像を、それぞれの資料として見分けたい。

史料から分かること、伝承として残ること

直茂の生涯には、同時代の手紙で確かめられる出来事と、後世の物語で親しまれてきた場面がある。一方を採れば他方を捨てるという関係ではないが、何を根拠にした話かは明らかにしておく必要がある。秀吉の手紙は贈答と政治的な接点を示し、家譜や『葉隠』は後世の鍋島家がどのような藩祖像を受け継いだかを考える材料になる。

主張確度根拠と読み方
1538年生、1618年没。佐賀藩の藩祖高徴古館、辞典、博物館の解説を照合
1582年に秀吉と交信し、南蛮帽子を贈った高日付のある秀吉書状が現存
1590年に高房が家督、直茂が国政を担う高知行割の写しと家譜を踏まえた所蔵館・辞典の説明
龍造寺家の継承を最初から計画していた未確認後の結果から本人の内心までは断定できない
今山で夜襲を進言した細かな場面中後世の軍記をもとにした地域資料
彦鶴の鰯調理が縁談につながった伝承地域の物語として残る。婚姻の事実とは分ける
耳の腫れ物が最期に関わった伝承歴史紹介で語られるが、医学的診断は確認できない
墓を城下北方に置くよう語った伝承『元茂公御年譜』が古老の口伝として伝える

沖田畷の戦いを読むと、直茂が支えることになった主家の危機が分かる。文禄の役は、鍋島家中の形成が対外戦争と重なった時代を考える入口になる。 さらに立花宗茂の側から柳川の戦後を見ると、同じ関ヶ原後の処分が両家に違う道をもたらしたことが見えてくる。

03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

鍋島直茂の逸話

  1. 逸話 01

    妻・彦鶴との縁を結んだ鰯の逸話

    彦鶴の鰯調理の逸話を題材にした想像図(AI生成イメージ)
    彦鶴の鰯調理の逸話を題材にした想像図 · AI生成イメージ

    直茂の妻としてよく知られるのが、彦鶴、のちの陽泰院である。佐賀に伝わる物語では、龍造寺隆信と家臣たちが石井氏の館へ立ち寄った際、大勢に出す食事の準備が間に合わなかった。そこで彦鶴は鰯をまとめて調理し、急な来客へ素早く振る舞ったという。直茂はその機転に感心し、縁談につながったとされる。

    地域資料の紹介では、藁を使って鰯を焼く場面が語られる。一方、広く紹介される話には調理の手順などに違いもある。婚姻の関係そのものと、出会いの場面を再現する逸話は分けて読むべきだろう。本人たちの会話や、その瞬間の恋心が記録で確かめられるわけではない。

    この物語で中心にいるのは、武将をただ待つ妻ではない。大勢の人を前にして状況を判断し、食事を用意する彦鶴である。直茂の性格だけを語る材料にするより、鍋島家の記憶の中で妻にも判断力が期待されていたことに目を向けたい。夫妻の親しさを伝える逸話として知られるが、家庭生活の全体を一話から断定することはできない。

  2. 逸話 02

    南蛮帽子の贈り物は、返書で確かめられる

    秀吉への贈答を題材に、包みを整える直茂の想像図(AI生成イメージ)
    秀吉への贈答を題材に、包みを整える直茂の想像図 · AI生成イメージ

    直茂から秀吉へ贈られた南蛮帽子は、単なる後世の逸話ではない。天正10年(1582)7月11日付の秀吉書状に、その礼が残っている。手紙が示すのは、贈った品が届き、相手から返事があったという具体的な関係である。

    ただし、帽子の形、贈答の場面、秀吉が手に取ったときの表情まで分かるわけではない。所蔵館の解説は長崎で入手した品として紹介するが、ここで確認しているのは帽子の現物ではなく書状だ。挿絵も、贈答を題材にした想像図としている。

    直茂の政治的な働きは、合戦で軍勢を率いる姿だけでは捉えきれない。情報を得る相手を持ち、使者や贈り物を介して関係を続けることも、その仕事に含まれる。この一通は、隆信存命中の直茂を九州と中央の間に置いて見せる。秀吉が将来を予言したといった話を付け足さなくても、手紙の宛先と日付が、その交際の早さを物語っている。

  3. 逸話 03

    墓を北に置き、佐賀を守らせるという遺言

    城下北辺の守りを題材に、北の山を指す晩年の直茂の想像図(AI生成イメージ)
    城下北辺の守りを題材に、北の山を指す晩年の直茂の想像図 · AI生成イメージ

    自分の墓を城下の北に置けば、家中の者はそれを敵の馬に踏ませまいと戦うだろう。直茂には、そのように語ったという遺言の伝承がある。徴古館は『元茂公御年譜』を典拠に、多布施の位置と城下の防衛を結びつけて紹介している。典拠の記述も古老からの口伝として伝えており、本人の発言をその場で記録したものではない。

    伝承の舞台となる多布施は、直茂が晩年を過ごした場所である。死後に勝茂が宗智寺を建てたこと、さらに明治期に高伝寺へ改葬されたことは、墓所の変遷として確認できる。現在の高伝寺の墓と、当初の埋葬地は同じではない。

    この話には、亡くなったあとも佐賀の守りに関わる藩祖の姿が託されている。兵を率いる将の記憶が、城下を守る人々の結束へと結びつけられたのである。墓が敵を退けたという超自然的な話ではなく、直茂の名を守ろうとする人の行動を語る伝承として読むと、その意図が見えてくる。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 鍋島清房
本人鍋島直茂
配偶者高木胤家の娘/継室・彦鶴(陽泰院)
子
  • 鍋島勝茂

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 藩祖 鍋島直茂
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  2. 鍋島直茂(世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
    コトバンク/長野暹ほか参照日 2026-10-18
  3. 戦国大名展(直茂・勝茂と陶磁文化、立花宗茂)
    九州国立博物館参照日 2026-10-18
  4. 今山の戦
    さがの歴史・文化お宝帳参照日 2026-10-18
  5. 鍋島直茂宛て豊臣秀吉書状(1582年)
    文化遺産データベース/鍋島報效会参照日 2026-10-18
  6. 鍋島直茂宛て豊臣秀吉朱印状(1587年)
    文化遺産データベース/鍋島報效会参照日 2026-10-18
  7. 龍造寺高房宛て豊臣秀吉朱印状写(1590年)
    文化遺産データベース/鍋島報效会参照日 2026-10-18
  8. 鍋島直茂陣跡
    佐賀県立名護屋城博物館参照日 2026-10-18
  9. 守友隆「慶長5年(1600)柳川合戦(八院・江上表の合戦)に関する研究」公開抜粋・73頁
    鍋島報效会研究助成研究報告書 第7号(2016)参照日 2026-10-18
  10. 初代 鍋島勝茂
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  11. 第10代 鍋島直正
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  12. 鍋島家略系図
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  13. 陽泰院様物語
    さがの歴史・文化お宝帳参照日 2026-10-18
  14. 陽泰院〜夫・鍋島直茂を支えた良妻
    PHP研究所 WEB歴史街道参照日 2026-10-18
  15. 鍋島直茂〜龍造寺家から独立、佐賀藩祖となった男の才覚
    PHP研究所 WEB歴史街道参照日 2026-10-18
  16. 第3回 敵は北から攻めてくる!
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  17. 御三家座(佐賀城の変遷)
    佐賀県立佐賀城本丸歴史館参照日 2026-10-18
  18. 佐賀市街なみ環境整備事業について
    佐賀市参照日 2026-10-18
  19. 成富兵庫茂安公の事績
    国土交通省 九州地方整備局 武雄河川事務所参照日 2026-10-18
  20. 葉隠
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  21. 第80回展 藩祖鍋島直茂公と日峯社
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  22. 岩松要輔『鍋島直茂』紹介・目次(2016)
    戎光祥出版参照日 2026-10-18
  23. 杏葉紋付円鏡
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  24. 第81回展図録『佐賀藩 初代藩主の子供たち』公開抜粋・5頁
    公益財団法人鍋島報效会 徴古館参照日 2026-10-18
  25. 新名一仁「島津家久・豊久父子と日向国」11〜13頁
    宮崎県立図書館『宮崎県文化講座研究紀要』第44輯(2018)参照日 2026-10-18

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-18

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

本記事の内容に誤りや改善点がある場合は、 お問い合わせページ よりご連絡ください。確認のうえ、必要に応じて修正します。