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九州の沿岸を進む軍勢と輸送船を描いた想像場面(AI生成イメージ)
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合戦KASSEN

九州征伐|1587年、秀吉と秀長が島津を降す

九州征伐とは、1587年に豊臣秀吉が島津氏を服属させた遠征。読み方と時期、総大将の秀吉と日向方面を率いた秀長、兵力の諸説、長宗我部父子の戸次川、秋月氏の降伏、戦後の領地配分を史料と地域史からたどる。

1587年天正15年3〜5月(旧暦・秀吉本隊の遠征)九州各地勝 豊臣秀吉方敗 島津氏・秋月氏など戦国ジャーナル編集部戦いを読む
秀吉の遠征
1587年
天正15年・前段の戦闘は1586年
全軍の総大将
秀吉
秀長は豊後・日向方面を指揮
豊臣方の兵力
20万余
遠征全体の概数・25万説もある
義久の降伏
5月8日
旧暦・島津家は存続

この戦いの要点

  1. 秀吉自ら九州へ

    1587年、秀吉は筑前・肥後を経て薩摩へ進んだ。弟の秀長は豊後から日向へ南下する別の軍を率いた。

  2. 長宗我部父子は前段で参戦

    元親と信親は1586年に秀吉方として豊後へ渡った。旧暦12月の戸次川の戦いで信親が戦死する。

  3. 降伏から領地の再配分へ

    秋月氏と島津氏が降伏し、秀吉は九州の領地を再編した。島津家には薩摩・大隅などが残された。

九州征伐とは|読み方・いつ・結果

九州の統一を目前にした島津氏の前に、秀吉自身が大軍を率いて現れた。九州征伐の読み方は「きゅうしゅうせいばつ」。天正15年(1587年)、豊臣秀吉が島津氏を服属させた軍事遠征で、「九州平定」「九州攻め」とも呼ばれる。

遠征全体を率いたのは秀吉で、弟の豊臣秀長が豊後・日向方面を指揮した。総大将は秀吉、東側から南下する軍の指揮官は秀長、と分けると九州征伐の流れをつかみやすい。結果は豊臣方の勝利。ただし島津家は滅亡せず、南九州に領地を残して豊臣政権に組み込まれた。

「いつの戦いか」への基本の答えは1587年である。秀吉の本隊が出陣したのは3月1日、島津義久が降伏したのは5月8日。前年にはすでに豊臣方の援軍と島津軍が戦っていたため、前段を含めて1586〜1587年の戦役として扱うこともある。以下、月日は旧暦で記す。

知りたいこと九州征伐の概要
読み方きゅうしゅうせいばつ
中心となる年1587年(天正15年)
総大将豊臣秀吉
秀長の役割豊後から日向へ進む軍の指揮
主な敵対勢力島津氏、筑前の秋月氏など
兵力豊臣方は20万余・25万など。対象範囲に注意が必要
結果島津氏が服属し、秀吉が九州の領地を再配分

なぜ秀吉は島津を攻めたのか

九州征伐の前提には、島津氏の勢力拡大と、大友氏への圧迫があった。薩摩を本拠とする島津義久らは九州各地へ進み、大友宗麟は秀吉に助けを求める。秀吉にとっては、九州の大名間の争いを自らの裁定に従わせる機会でもあった。

1585年10月、秀吉は島津・大友両氏に停戦を要求した。しかし、その後の経過を「島津が命令を無視した」の一言だけで片づけると、交渉の動きを見落とす。

東京大学史料編纂所の『大日本史料』編纂概要によれば、1586年1月の島津家中の協議には、秀吉に従う意向と、自衛のための戦いはありうるという考えが並んでいた。一方で島津氏は大友領への攻撃も計画しており、交渉の言葉と軍事行動が一致していたわけではない。

停戦を誰が決め、どこまで従うのか。秀吉と島津氏の対立は、領地を取り合う戦いであると同時に、九州の秩序を定める権限をめぐる争いでもあった。出自への反感だけを理由にすれば、こうした政治的な駆け引きが見えなくなる。

長宗我部父子はどちら側か|1586年の戸次川

長宗我部元親と信親は、九州では秀吉方として戦った。1585年の四国征伐で秀吉に服属した元親は、翌年、豊後へ渡る。かつて秀吉に抵抗した大名が、今度は秀吉の遠征に加わる立場へ移ったのである。

ところが天正14年12月、仙石秀久や長宗我部元親らの援軍は、大友義統方とともに戸次川の戦いで敗れた。相手は島津家久の軍である。元親は生き延びたが、嫡男の長宗我部信親が戦死した。

高知市の信親墓所の案内と『宿毛市史』の年表は、ともにこの戦死を1586年の戸次川に置く。これは天正14年に西暦年を対応させた表記で、旧暦12月の戦闘を現在の暦に換算すると1587年1月にあたる。信親は翌春の秀吉本隊の遠征に参加したわけではない。「九州征伐で信親が死んだ」という説明を読む際は、戦役のどの段階を指しているかを確かめたい。

戸次川で嫡男を失った長宗我部元親を描いた河畔の想像場面(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

戸次川では島津軍が勝った。それでも九州全体の戦局は、翌年に逆転する。局地戦の勝敗と、さらに大きな軍を送り込める豊臣政権の動員力は、分けて考える必要がある。

総大将・秀吉と、日向方面を率いた秀長

1587年、秀長が先発し、3月1日には秀吉も本隊を率いて西へ向かった。『行橋市史』は、九州へ入った豊臣軍を、秀吉の筑前・肥後方面と、秀長の豊後・日向方面に分けて説明している。現在の地名で大づかみにいえば、秀吉は福岡から熊本を経て鹿児島へ、秀長は大分から宮崎へ向かう進み方である。

ここで混同しやすいのが、二年前の四国征伐との違いだ。四国では秀長が現地の総大将を務めた。九州では秀吉本人も渡海し、軍事行動と降伏の受け入れを進めている。秀長の役割が大きかったことと、遠征全体の総大将が秀吉だったことは両立する。

九州遠征中の陣所で使者の報告を聞く豊臣秀吉の想像場面(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

秀長の軍には、黒田官兵衛や小早川隆景らも加わった。秀吉一人の進軍だけを追うと、日向で島津軍を押し返した戦いが見えない。兄弟が異なる方面を進んだことで、島津氏は複数の戦線への対応を迫られた。

九州征伐の兵力|20万余と25万の違い

豊臣方の兵力は、辞典や地域史で20万余、あるいは25万と記される。ただし、これらは遠征全体の規模を示す概数であり、ある一日の戦場に全員が集まったという意味ではない。

『世界大百科事典』の「九州征伐」は20万余の動員を記す。一方、『ブリタニカ国際大百科事典』や『行橋市史』には25万という数字が現れる。さらに行橋市史は秀長方面を15万とするが、木城町の第二次高城合戦の解説では、高城を囲んだ秀長軍を約10万とする。同じ「秀長軍」でも、説明する局面や範囲が異なる。

数字資料が説明する対象読む際の留保
20万余世界大百科事典が記す豊臣方の動員遠征全体の概数
25万ブリタニカ・行橋市史などの遠征軍全員が一か所で戦った人数ではない
15万/約10万行橋市史の秀長方面/木城町の高城包囲軍異なる資料・局面の数字を合算しない
約2万木城町が記す高城への島津救援軍島津氏の全領国の動員総数ではない

とくに「豊臣25万対島津2万」という比較には注意がいる。一方が遠征軍全体、もう一方が高城を救う軍なら、分母がそろわない。確実にいえるのは豊臣方が大規模な軍を送り込んだことであり、兵力比を小数点まで求めて戦いの厳しさを測ることはできない。

秋月氏の降伏|岩石城の攻略が開いた道

秀吉の進む北部九州では、島津氏と結んだ秋月種実が抵抗した。筑前の領主である秋月氏は、南九州の島津氏とは別の勢力である。九州征伐は、秀吉軍と島津軍だけが向き合った一枚岩の戦争ではなかった。

1587年4月、豊臣方は豊前の岩石城(がんじゃくじょう)を攻略する。現在の福岡県添田町にあたる。朝倉市の『広報あさくら』は、城が一日で落ち、その後に種実が降伏したと説明する。『行橋市史』も岩石城の陥落と秋月氏の降伏を続けて記しており、北部での抵抗が短期間に崩れたことがわかる。

北部九州の山城へ進む軍勢を描いた想像場面。岩石城の正確な復元図ではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

秋月家には降伏後も領地が与えられたが、場所は故郷の筑前ではなかった。種実・種長父子は日向の財部、後の高鍋へ移される。朝倉市の解説では3万石である。家の存続と、それまでの領国を保てるかどうかは別問題だった。

秋月氏の降伏後、秀吉はさらに肥後から薩摩へ向かう。北部九州の一城を落とした意味は、その城の獲得にとどまらない。敵対勢力を服属させながら、島津氏の本拠へ近づく遠征だったのである。

秀長と根白坂の戦い|高城を救えなかった島津軍

東側では秀長軍が日向へ進み、高城(たかじょう)を包囲した。高城は現在の宮崎県木城町にあたる。木城町教育委員会の解説では、山田有信らが守る城を秀長軍が囲み、島津義久を中心に、島津義弘・家久らが救援に動いた。

日向の陣所で指示を出す豊臣秀長の想像場面(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

4月17日の夜、島津軍は根白坂の陣を攻める。守るのは宮部継潤らの豊臣方だった。救援軍が包囲する側の陣を破れば、高城の状況を変えられる。しかし攻撃は退けられ、島津軍は翌朝にかけて退いた。詳しい攻防は根白坂の戦いで扱う。

日向の土塁と柵を描いた夜明けの想像場面。根白坂の配置を復元したものではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

この敗北は、島津氏にとって高城の救援を果たせなかったという意味を持つ。同時に、西側からは秀吉の軍が薩摩へ近づいていた。一つの陣を破れなかった敗戦と、本拠へ迫る別働の大軍。その二つが重なった。根白坂だけで遠征全体を説明することはできないが、降伏へ至る大きな転機だった。

島津義久はいつ降伏したのか

島津義久が秀吉に降伏したのは、1587年5月8日である。『行橋市史』は、出家して龍伯と名乗った義久が、薩摩の泰平寺で秀吉に降ったと記す。現在の鹿児島県薩摩川内市にあたる地域まで、秀吉が入っていた。

出家後の島津義久を描いた寺院内の想像場面(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

ただし、この一日をもって各地の城や一族の対応がすべて同時に終わった、とまで広げるべきではない。義久の降伏は政治的な大きな区切りであり、軍の撤収や領地の処分はその後も続く。

また、降伏は島津氏の滅亡を意味しなかった。鹿児島県の歴史解説は、戦後に義久へ薩摩、義弘へ大隅と日向の一部が認められたとする。九州を広く支配する構想は失われたものの、島津家が南九州に存続する基盤は残った。

通説と俗説の射程|短い遠征の前にあった交渉

秀吉の出陣から義久の降伏までを見ると、九州征伐は短期間で決着した遠征に見える。しかし、1585年の停戦要求、1586年の交渉と援軍派遣、戸次川の敗戦を含めれば、その前には長い折衝と戦闘があった。1587年だけを切り取って「大軍が来たので直ちに降った」とすると、長宗我部父子が戦った局面も抜け落ちる。

逆に、戸次川での勝利をもって島津軍が豊臣軍全体に勝っていた、と考えるのも適切ではない。先発した援軍と、秀吉・秀長が率いてきた本格的な遠征軍では、指揮と動員の規模が違う。個々の戦場の強さだけでなく、敗戦後にも兵を集め、複数の方面へ送り出せた点に豊臣方の優位があったと考えられる。

兵数についても同様である。現在読める自治体史や辞典は、戦役の大勢を知る助けになる一方、すべての数字が同じ原史料や集計方法に基づくわけではない。本記事では数値を一つに統一せず、何を数えた数字なのかを添えた。大軍だったことと、その正確な実数がわかることは区別しておきたい。

九州国分と博多の復興|戦後に秀吉が定めたもの

戦いの後、秀吉は九州の領地を再配分した。これが九州国分(きゅうしゅうくにわけ)である。島津家を南九州に残す一方、秋月家は日向へ移され、小早川隆景には筑前などが与えられた。降伏を受け入れるだけでなく、誰がどこを治めるかを決めたのである。

博多では町の復興も進んだ。福岡市の文化財解説は、1587年6月11日に秀吉が博多の再興を行ったとし、町割りに関わる資料として『宗湛日記』などを挙げている。太閤町割りと呼ばれる都市の整備は、遠征後の統治を考えるうえで欠かせない。

九州征伐の結果は「秀吉が島津に勝った」だけでは尽くせない。秀吉は九州の大名に服属を求め、領地の配置を改め、町の復興にも関与した。四国に続いて九州を政権のもとへ組み込む過程は、天下統一への歩みにつながっていく。前後の戦役は戦国年表でもたどれる。

本文の人物・情景画像はAIで制作した想像図であり、当時の容貌や城・陣地の配置を実証的に復元したものではない。

両軍の対比

TOYOTOMI

豊臣秀吉

大将:豊臣秀吉
総兵力20万余・25万など(遠征全体の概数)
出陣筑前・肥後方面と豊後・日向方面に分進
全軍の総大将豊臣秀吉
日向方面の指揮豊臣秀長
主な諸将黒田官兵衛・小早川隆景・宮部継潤ら
勝利・九州の領地を再配分
SHIMAZU

島津義久

大将:島津義久
総兵力遠征全体に対応する総数は未確定
出陣南九州を本拠とし、秋月氏などと連携
島津氏当主島津義久
日向での救援島津義弘・島津家久ら
筑前の同盟勢力秋月種実
服属・島津家は存続
vs

戦況の経過

停戦の要求
1585年10月
秀吉が島津氏と大友氏に停戦を求める。翌年も交渉と軍事行動が並行する
戸次川の敗戦
1586年12月
豊後で秀吉方の援軍が島津軍に敗れ、長宗我部信親が戦死する
秀吉が出陣
1587年3月1日
秀吉が本隊を率いて西へ向かう。先発した秀長とともに九州へ大軍を進める
秋月氏の降伏
4月
岩石城の攻略を受け、筑前の秋月種実が秀吉に降伏する
根白坂の戦い
4月17日
日向の高城を救おうとした島津軍が根白坂の陣を攻め、秀長方に退けられる
義久が降伏
5月8日
出家した島津義久が薩摩の泰平寺で秀吉に降伏する
戦後の再編
6月
秀吉が九州の領地配分を進め、博多では町割りによる復興を行う

その後の世界

1587
島津家には薩摩・大隅と日向の一部が残され、秋月家は日向財部へ移る
1587年6月
博多の復興と町割りが進み、豊臣政権による九州の統治が形を取り始める

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 九州征伐(世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典ほか)
    平凡社ほか/コトバンク参照日 2026-10-09
  2. 行橋市史「島津氏の降伏」(255〜256頁)
    行橋市/ADEAC参照日 2026-10-09
  3. 秀吉の九州遠征
    鹿児島県/黎明館参照日 2026-10-09
  4. 第二次高城合戦(根白坂古戦場跡)
    木城町教育委員会参照日 2026-10-09
  5. 長宗我部信親墓所
    高知市参照日 2026-10-09
  6. 太閤町割り
    福岡市歴史文化情報発信サイト参照日 2026-10-09
  7. 宿毛市史・宿毛市年表(1585〜1587年)
    宿毛市参照日 2026-10-10
  8. 戸次川の合戦と鶴賀城(オープニング・エンディング)
    大分市教育委員会・大分県立芸術文化短期大学藤原厚作研究室参照日 2026-10-10

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-10

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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