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高城と小丸川周辺の攻防をイメージした実写調の想像図(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

耳川の戦い|1578年、大友軍の敗因と戦死者

耳川の戦いとは、1578年に日向の高城・小丸川で大友軍が島津軍に敗れた合戦。いつ、どこで戦ったのかを地図と布陣図で整理し、兵力の諸説、戦死者、釣り野伏せと敗走の違い、現在の古戦場をわかりやすく解説する。

1578年天正六年日向国高城・小丸川勝 島津軍敗 大友軍戦国ジャーナル編集部戦いを読む
決戦の年
1578年
天正六年十一月十二日(旧暦)
攻防の拠点
高城
現在の宮崎県木城町
主戦場
小丸川
高城川とも呼ばれる
結果
島津勝利
大友軍は日向から撤退

この戦いの要点

  1. 日向の支配を争う

    伊東氏を退けた島津氏と、日向へ軍を進める大友氏が高城周辺で衝突した。

  2. 籠城と救援軍

    山田有信らが高城を守り、義久の救援軍と義弘らの戦闘が大友軍を敗走させた。

  3. 重臣を失った大友家

    敗戦による有力家臣の損失に領国内の反乱が重なり、大友氏の支配は揺らいだ。

耳川の戦いとは?いつ、どこで起きたのか

耳川の戦いとは、天正六年(1578年)十一月十二日(旧暦)、日向へ進出した大友軍を島津軍が破った合戦である。主戦場は現在の宮崎県木城町にある高城と小丸川の周辺だった。大友軍は城を落とせず、救援に来た島津軍との決戦に敗れる。北へ逃れる途中にも追撃を受け、多くの将兵を失った。

「耳川」という名前から、美々津の耳川河口だけで戦ったように思えるかもしれない。だが、高城の攻防と耳川方面への敗走は場所が違う。決戦の中心は小丸川、敗走先はその北にある耳川。二つの川を分けると、戦いの流れをつかみやすい。

知りたいこと答え
いつ1578年、天正六年十一月十二日(旧暦)に決戦
場所日向国の高城・小丸川周辺。現在の宮崎県木城町付近
誰と誰大友宗麟の勢力と、島津義久を総大将とする島津軍
勝った側島津軍。大友軍は日向から撤退した
別の呼び名高城川の戦い、高城川合戦、耳川の合戦
大きな影響大友氏が有力家臣を失い、島津氏の日向支配が固まった

決戦の日付と、高城から耳川まで追撃されたという経過は、鹿児島県の黎明館による『日州耳川合戦日帳』の展示解説でも確認できる。ここでの十一月十二日は旧暦の日付であり、現在の暦の11月12日に置き換えたものではない。

高城・小丸川・耳川の場所と地図

戦いを追うときの目印は、南から高城と小丸川、美々津の耳川、さらに北の無鹿である。高城は宮崎県児湯郡木城町、耳川河口の美々津は日向市、宗麟が拠点を置いた無鹿は延岡市にあたる。無鹿の宗麟と、高城を攻める前線の諸将は、同じ場所にいたわけではない。

高城付近では、城の東側の台地にも大友方が陣を置いた。川南町の史跡解説は、小丸川左岸にある国光原台地の南西端を「松山之陣」とし、佐伯宗天らの陣所だったと伝える。一方、黎明館の解説では、島津義久の本陣は根白坂に置かれていた。

地点戦いでの役割現在の位置を調べる手がかり
高城山田有信らが守った城木城町の城山公園
松山之陣大友方の佐伯宗天らの陣所川南町の宗麟原供養塔周辺
根白坂島津義久の本陣木城町の根白坂古戦場跡周辺
耳川敗走した大友軍への追撃が及んだ方面日向市美々津の河口付近
無鹿大友宗麟の拠点延岡市無鹿町

この記事の布陣図では、高城・松山之陣・根白坂の位置関係を示した。高城包囲から救援にかけての拠点をまとめた概略図で、決戦の一瞬を再現したものではない。各部隊の渡河点や伏兵の位置は、参照した資料だけでは確定できないため描いていない。

現在の地形は国土地理院の地図で確認できる。ただし、現在の川筋や道路をそのまま1578年の戦場に重ねることはできない。現地へ向かう地図と、当時の軍勢の動きを読む図は、用途を分けて使いたい。

伊東氏の退去と大友軍が南下した理由

前年の1577年、日向の伊東氏は島津氏との戦いに敗れ、豊後の大友氏を頼って退いた。島津氏が日向へ支配を広げると、北に勢力を持つ大友氏と直接向き合うことになる。耳川の戦いの背景には、伊東氏の旧領をめぐる問題と、日向を押さえようとする両家の競争があった。

大友軍は1578年に日向北部へ進み、土持氏の拠点だった松尾城を落とした。延岡市の歴史解説によれば、現在の延岡市域はこのとき一時、大友氏の領地となっている。北部で足場を得た大友方は、さらに南の高城へ進んだ。遠征の初めから敗勢だったわけではない。

日向へ南下する大友軍と荷駄の列をイメージした実写調の想像図(AI生成)

大友宗麟は無鹿に拠点を置いた。同年に洗礼を受けた宗麟には、ここにキリスト教の共同体を築く構想もあったと臼杵市の解説は伝える。日向への進出には、領土をめぐる思惑に宗麟自身の信仰も重なっていた。

一方、高城で軍を指揮したのは、田原親賢、田北鎮周、佐伯惟教らの重臣だった。田原親賢は田原紹忍、佐伯惟教は佐伯宗天の名でも登場する。別人として数えると、指揮官も戦死者も増えてしまうので注意したい。宗麟の無鹿での活動と、前線での判断は分けて追う必要がある。

無鹿の後方拠点をイメージした海辺の軍営。実在の建物を復元したものではない(AI生成)

兵力は何人か?大友3万・4万・5万の違い

耳川の戦いの兵力は、公的な解説の間でも数字が揃っていない。よく見かける大友3万・島津2万は、木城町の高城川合戦場案内に載る組み合わせである。しかし、同町の別の案内では大友4万、鹿児島県観光連盟の紹介では諸説あると断ったうえで5万とされる。

解説・資料大友軍島津軍数字を読むときの注意
木城町「城山公園・高城川合戦場・根白坂古戦場跡」3万2万史跡案内に示された兵力
木城町「歴史探訪コース」4万比較する数字の記載なし同じ町の解説でも大友軍の人数は異なる
鹿児島県観光連盟「島津義弘公の戦い」5万ここでは比較しない大友軍の人数に諸説があると明記

この違いを平均して「4万人だった」と決めることはできない。遠征全体の動員数と、高城周辺で実際に戦った人数を、同じ条件で数えた値かどうかも確認が必要になる。『豊津町史』にも4万という説明はあるが、それで決戦当日の実数が確定するわけではない。

ここから読み取れるのは、大友方が数万規模と伝えられる軍勢を送り込んだことだ。「何倍の敵を破ったか」を計算するより、その軍勢が高城を落とせず、城外の救援軍にも対処しなければならなくなった経過に目を向けたい。

籠城から決戦までの流れをわかりやすく

高城は、土塁や空堀で守りを固めた中世の山城だった。木城町の文化財解説では、丘陵上の曲輪と堀が確認され、発掘で十六世紀を中心とする陶磁器が出土したとされる。巨大な天守を持つ城を想像するより、丘陵の地形を使った防御拠点と考えると実態に近い。

守将は山田有信で、島津家久も籠城側に加わった。大友軍は高城を包囲し、木城町の案内によれば大砲も用いたが、城を落とせなかった。城攻めが続く間に、島津義久が救援軍を率いて近づく。城内の兵を押さえる戦いに、城外から来る敵との戦いが加わった。

高城の土塁と木柵を守る兵士をイメージした実写調の想像図。城郭の厳密な復元ではない(AI生成)

決戦は旧暦十一月十二日だった。黎明館の展示解説は、小丸川を渡ろうとした田北・佐伯らの大友勢が、島津義弘らの前に崩れたとする。島津方は高城を守り切ったうえで、大友軍を退却に追い込んだ。

段階起きたこと戦局の変化
高城包囲大友軍が攻め、有信らが籠城する大友軍の前進が止まる
島津軍の救援義久が出陣し、義弘らも戦う大友方は城外の敵にも対応を迫られる
十一月十二日の決戦小丸川周辺で大友勢が崩れる包囲を続けられなくなる
北への敗走耳川方面まで島津軍が追撃する大友方の人的損失が広がる

勝敗は城内と城外の双方で決まった。高城が持ちこたえたこと、援軍が間に合ったこと、野戦で大友軍を崩したこと。この三つが島津の勝利につながった。釣り野伏せという戦術名だけでは、その前に続いていた城攻めが見えなくなる。

釣り野伏せの「逃げ」と大友軍の敗走

耳川の戦いの「逃げ」には、島津軍が敵を誘うために退くという戦術の説明と、敗れた大友軍が北へ逃れたという結果がある。両者を一つにしてはいけない。

釣り野伏せとは、一部の兵が敵を引きつけ、伏せていた兵とともに攻める戦い方をいう。豊後高田市の学習資料は、大友軍が深入りしたところを左右の伏兵に挟まれた、と耳川の戦いを説明している。鹿児島県観光連盟の解説も、この合戦を釣り野伏せの例として紹介する。

ただし、こうした概説から、伏兵の人数や配置、各隊が退いた順番まで確定することはできない。この記事の布陣図にも、裏づけられない包囲の矢印や伏兵の点は置いていない。戦術の説明と、実際の戦場の復元には距離がある。

大友軍が北へ敗走したのは、小丸川周辺の決戦に敗れた後だった。川南町の史跡解説では、高城川原から美々津の耳川へ追撃されたとされる。鹿児島県観光連盟は、逃れる兵が増水した耳川で溺れたとも伝える。追撃と渡河の困難が重なったという説明だが、当日の水位や渡河点を特定できるわけではない。

宗麟自身は、前線の高城から逃げ出した指揮官として描くと位置関係を誤る。無鹿にいた宗麟について、『豊津町史』は陸路で臼杵へ帰ったと記す。また、前線の田原親賢も負傷して帰還したとされる。宗麟と親賢を戦死者に含めるのは誤りである。

耳川方面への敗走をイメージした、川原を退く大友方の兵士たちの想像図(AI生成)

戦死者は誰か、何人か

大友方では田北鎮周、佐伯惟教、吉弘鎮信らが戦死した。前線で軍を率いた重臣をまとめて失ったことが、この敗戦を重くした。以下は自治体史や文化財解説で確認できる人物の例であり、戦死者全員の名簿ではない。

大友方の戦死者別名・関係確認に用いた資料
田北鎮周日向方面軍の指揮に加わった武将みやこ町公開『豊津町史』
佐伯惟教法名は宗天。佐伯宗天と同一人物みやこ町公開『豊津町史』
吉弘鎮信吉弘統幸の父豊後高田市「吉弘統幸について」
古庄鎮光古庄鎮方の父豊後高田市「田原親貫の乱について」

吉弘氏では、父の鎮信を失った統幸が家を継いだ。

豊後高田市の人物解説は、この家督継承も耳川の敗戦と結びつけている。一人の戦死は、次代の当主を立て、家臣や領地を引き継ぐ問題にもつながった。

では、両軍あわせて何人が死んだのか。

川南町の宗麟原供養塔の解説

には、大友方4千人、島津方3千人といわれる、とある。これは史跡案内に伝えられる数字として紹介すべきもので、確定した集計値ではない。兵力自体にも異なる説明がある以上、ここから厳密な戦死率を出すことも避けたい。

名の残る武将だけが、この戦いで命を落としたわけではない。豊後高田市の学習資料は、都甲・田染・真玉などからも兵が動員され、多くが帰らなかったと伝える。重臣を失った城や館だけでなく、兵を送り出した地域にも犠牲が残った。

通説と俗説の射程

耳川の戦いは「釣り野伏せで大軍を破った戦い」として知られる。それは流れを理解する手がかりになるが、後退のすべてが予定された演技だった、全軍が一つの合図で動いた、という細部まで保証する説明ではない。高城の籠城と救援軍の到着も、勝敗の前提にあった。

宗麟の信仰だけを敗因とする説明も、前線で起きたことを省きすぎる。受洗や無鹿の構想は確認できても、それだけで城攻めの停滞や決戦での敗北を説明することはできない。日向の領有争い、城の守備、救援、前線の戦闘を順に追うほうが、何が大友軍の南下を止めたかが見えてくる。

大友氏はこの一戦で滅びたわけでもない。敗戦後には田原親貫らの反乱への対応に追われたが、1580年には鞍懸城を攻略して反乱を鎮圧した。ただ、有力家臣を失った後も内部の争いに兵を割く状況は、島津氏と向き合う大友家にとって重荷になった。

古戦場の高城城跡と宗麟原供養塔

古戦場を訪ねるなら、まず高城城跡の城山公園と、その近くの高城川合戦場を組み合わせるとよい。城が置かれた丘陵と小丸川の位置を、現地の地形で確かめられる。高城城跡の所在地は、木城町の文化財案内で「大字高城3528-1」とされている。

史跡見るポイント案内・地図
高城城跡・城山公園城を支えた丘陵と周辺の地形木城町の文化財案内
高城川合戦場小丸川周辺の主戦場を考える場所木城町の史跡案内と地図
宗麟原供養塔大友方の陣所と、敵味方を弔った記憶川南町の案内と地図

宗麟原供養塔は、1585年に山田有信が建立した。文化遺産オンラインにも、天正十三年二月彼岸と有信の名を刻む銘文が紹介されている。高城を守った島津方の武将が、敵味方の戦死者を弔った塔である。宗麟の名が付いていても、宗麟本人の墓ではない。

近くの根白坂は、1578年の義久本陣に加え、1587年の合戦でも知られる土地だ。後者では高城を包囲した豊臣軍に対し、救援する島津軍が敗れた。

根白坂の戦いの記事と読み比べる際は、同じ地域で九年後に起きた別の合戦だと押さえておきたい。

耳川の戦いで大友氏の南下は止まり、島津氏は日向での支配を固めた。その後の九州の動きは、戦国年表の1578年の項目から続けて追える。高城の攻防、二つの川、残された供養塔をたどると、勝敗の向こうに、帰れなかった人々と戦後を生きた家々の姿が見えてくる。

合戦後の川原と丘陵をイメージした静かな風景の想像図。現在の古戦場の写真ではない(AI生成)

両軍の対比

島津軍

島津義久(総大将)、島津義弘ら

大将:島津義久(総大将)、島津義弘ら
総兵力2万とする説明あり(木城町の史跡案内。当日の実数は未確定)
出陣高城とその周辺
高城の守将山田有信
籠城側島津家久も加わる
救援義久が軍を率いて出陣
高城を守り、大友軍を撃退
大友軍

田原親賢ら(前線)、大友宗麟(無鹿に拠点)

大将:田原親賢ら(前線)、大友宗麟(無鹿に拠点)
総兵力3万・4万・5万などの説明がある(動員と実戦参加の区別に注意)
出陣無鹿から高城へ
前線の諸将田北鎮周、佐伯惟教ら
作戦高城を包囲
宗麟の拠点無鹿(現延岡市)
敗走して有力家臣を失い、日向から撤退
vs

布陣図

戦場の配置

天正六年(1578年)旧暦十一月、高城包囲と救援の拠点

模式図 / 縮尺不同
100%
耳川の戦い|1578年、大友軍の敗因と戦死者 布陣図耳川の戦い|1578年、大友軍の敗因と戦死者の主要部隊と拠点。位置と距離は概略。番号は部隊一覧に対応。島津義久佐伯宗天ら高城松山之陣根白坂小丸川(模式線)010203

北が上。高城・松山之陣・根白坂の位置関係を示す概略図で、同一時刻の厳密な布陣ではない。点は陣所の広がりを示さず、距離は縮尺どおりではない。小丸川は現在の地図を参考に模式化した線で、1578年の川筋や渡河点を復元したものではない。伏兵の位置・人数・進退経路は描いていない。

布陣の根拠
布陣図

戦況の経過

伊東氏が豊後へ退く
1577年
島津氏に圧迫された伊東氏が大友氏を頼り、日向をめぐる両勢力の対立が深まる。
大友軍の日向進出
1578年
大友軍が土持氏の松尾城を攻略。宗麟は無鹿に拠点を置き、前線の軍勢は高城へ進む。
高城包囲と救援
決戦に先立つ攻防
山田有信らが籠城を続け、島津義久が救援に向かう。島津家久も籠城側に加わる。
小丸川周辺の決戦
天正六年十一月十二日(旧暦)
義弘らと戦う大友勢が崩れ、島津軍の勝利となる。
耳川方面への敗走
決戦後
島津軍の追撃が耳川方面まで及ぶ。大友軍は田北鎮周、佐伯惟教ら有力家臣を失う。

その後の世界

1578年以後
大友氏の領国支配が動揺。田原氏の反乱など、内部の抗争への対応が必要になる。
1580年
大友方が鞍懸城を攻略し、田原親貫の反乱を鎮圧する。
1585年
山田有信が敵味方の戦死者を弔う宗麟原供養塔を建立。塔には天正十三年二月彼岸の銘が残る。
1587年
豊臣軍が高城を包囲し、救援する島津軍が根白坂で敗れる。同じ地域が再び九州の戦局を左右する舞台となる。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 日州耳川合戦日帳(展示解説)
    鹿児島県歴史・美術センター黎明館参照日 2026-10-11
  2. 高城城跡
    木城町参照日 2026-10-11
  3. 歴史探訪コース
    木城町参照日 2026-10-11
  4. 延岡市の歴史(中世)
    延岡市参照日 2026-10-11
  5. 豊津町史・通史編上巻 第七編/大友氏の日向侵略と大敗
    みやこ町歴史民俗博物館参照日 2026-10-11
  6. 郷土の文化財探訪バスツアー 第二弾(14頁)
    豊後高田市参照日 2026-10-11
  7. 宗麟原供養塔
    川南町参照日 2026-10-11
  8. 宗麟原供養塔(銘文と史跡解説)
    文化庁・文化遺産オンライン参照日 2026-10-11
  9. 大友宗麟とその時代
    大分市参照日 2026-10-11
  10. 島津義弘公の戦い(第一部)
    鹿児島県観光連盟参照日 2026-10-11
  11. 大友宗麟
    臼杵市参照日 2026-10-11
  12. 豊後高田市で活躍した戦国武将・吉弘統幸について
    豊後高田市文化財室参照日 2026-10-11

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-11

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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