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朝鮮半島南岸の城と輸送船を描いた想像図(特定の城の復元図ではありません)(AI生成イメージ)
合戦・事件1597–1598慶長二〜三年

慶長の役1597年再開の朝鮮出兵と撤退

朝鮮半島南部

AI生成イメージ

慶長の役は1597〜1598年、講和交渉の破綻で再開した朝鮮出兵。南原攻略、蔚山の籠城、泗川・順天の攻防から秀吉死後の撤退までを、日本・中国の史料に沿ってたどり、局地戦の勝敗と戦争全体の帰結を読み分ける。

戦国ジャーナル編集部戦いを読む
再出兵
1597
慶長二年
撤退
1598
慶長三年
主な城郭戦
蔚山・泗川・順天
南岸の拠点をめぐる攻防

この戦いの要点

  1. 講和から再出兵へ

    文禄の役後の交渉は決着せず、秀吉は再び軍を送った。国王冊封と朝鮮での要求は別の問題だった。

  2. 城郭と補給の戦争

    蔚山・泗川・順天では、日本軍の拠点を明・朝鮮軍が攻めた。城の堅さだけでなく水・食糧・救援が戦況を左右した。

  3. 秀吉の死後も続く戦闘

    帰国の方針が決まっても戦いは終わらず、露梁での海戦を経て日本軍は撤退した。

慶長の役の概要

城を守り切った武将たちが、最後にはその城を捨てて海を渡った。 慶長の役は、豊臣秀吉が1597年に再開し、翌1598年に日本軍の撤退で終わった二度目の朝鮮出兵である。 蔚山や泗川には日本軍が攻撃を退けた戦いがある。それでも、朝鮮半島の占領を維持することはできなかった。

最初の出兵である文禄の役との間には、日明の講和交渉があった。 その交渉が破綻すると、日本軍は再び朝鮮半島へ進出し、南原攻略を経て南岸の城々で明・朝鮮軍と向き合った。 だが、1598年八月に秀吉が死去しても、海の向こうにいる将兵がただちに帰れるわけではない。 撤退を妨げる敵軍との戦闘が残っていた。

この戦争では、城を落とすこと、占領地を保つこと、軍を帰すことが、それぞれ別の難題になった。 以下の月日は当時の旧暦で、西暦は対応する年を示す。

再出兵を招いた講和の破綻

文禄の役後、交渉の一つの到達点となったのが、明の皇帝から秀吉への国王冊封だった。 1595年の「明神宗誥命」は現存し、秀吉を日本国王に封じる公式文書として九州国立博物館でも紹介されている。 明の秩序に秀吉を位置づけることと、朝鮮に進出した日本軍をどうするかは、同じ問題ではなかった。

中国の編纂史料『明史』巻320を読むと、明側が撤兵や再侵攻の停止を求める一方、秀吉は朝鮮への処分をなお要求していたことがわかる。 1596年に冊封使が日本へ来ても、双方が受け入れられる戦争の終わらせ方は定まらなかった。 同書が記す秀吉の不満には、朝鮮王子の来日などの問題も含まれる。 「日本国王と呼ばれたので怒り、すべてを覆した」とだけ説明すると、この条件の食い違いが見えなくなる。

翌慶長二年正月、日本側は再び軍を送り始めた。 『大村市史』では大村喜前が小西行長らと同じ第一陣に編成されたとされ、渡海日は正月十五日と記される。 再出兵は、各大名が部隊を海の向こうへ移していく過程だった。 一日に全軍が一斉に上陸したわけではない。

海を越える兵と馬

軍勢の名簿だけでは、遠征軍は動かない。 兵を運ぶ船、食糧を運ぶ船、馬を渡す船を用意しなければならなかった。 慶應義塾図書館が公開する慶長二年六月二十六日の毛利秀元書状は、小姓たちの馬を運ぶ渡船を急いで手配するよう、家臣に命じたものである。 大軍の移動が、こうした一つずつの輸送手配からできていたことが見える。

現地に送られたのは兵だけではない。国内の領地や家臣の暮らしも、戦争を支える側に組み込まれた。 『大村市史』は「大村家覚書」を引き、出陣費用を家臣自身が負担する「自分賄」の重さを説明している。 これを全国共通の仕組みとすることはできないが、大村家では出陣しなかった家臣への処罰にもつながった。

渡海できれば終わりではなかった。 攻め進む部隊にも、沿岸の城に残る部隊にも、継続して食糧を届ける必要がある。 海と城を結ぶ補給は、このあとの籠城戦で将兵の生死を左右することになる。

港の倉で米俵を積み出す遠征軍の補給を描いたAI生成イメージ

南原攻略と海上の戦い

慶長二年の夏、日本軍は水陸から攻勢を強めた。 漆川梁をめぐる水軍の戦果は日本側にも報告され、『愛媛県史』には、八月九日付で秀吉が島津又七郎の働きを賞した朱印状が紹介されている。 ただし感状は、届いた報告をもとに手柄を認める文書である。 そこに載る捕獲船の数を、そのまま敵艦隊全体の損失とすることはできない。

八月には、全羅道の南原が日本軍の攻撃で陥落した。 『明史』は、南原を守った明将楊元の敗走と、全州を守る陳愚衷の退却を記す。 日本軍の進出に対し、明側は漢城方面の防衛を立て直すことになった。 一つの城の陥落が、周辺の守備や増援の配置にも影響していたのである。

一方、海の戦況は日本軍の勝利だけでは続かなかった。 九月の鳴梁海戦に関連する損失として、来島通総の戦死がある。 『愛媛県史』が引く日本の家譜『寛政重修諸家譜』は、通総が九月十六日に水営浦で討死したと記す。 艦隊の総数や戦術の細部までこの短い記事から復元することはできないが、日本側にも指揮官を失う戦いがあったことは確認できる。

やがて戦争の中心は、半島南岸の拠点をめぐる攻防に移っていく。 進出した土地を保ち続けるために、日本軍は城と海路を押さえ、明側はそれを切り崩そうとした。

蔚山城の籠城と救援

蔚山の日本軍を追い詰めたのは、城壁へ迫る敵だけではなかった。 慶長二年十二月、楊鎬・麻貴らが進める明・朝鮮軍の攻撃で、加藤清正らは籠城に入った。 『明史』は石城の堅固さを記す一方、水と食糧の不足を見込んで包囲を続ける明側の判断も伝える。 守りやすい高所の城でも、必要な物資が入らなければ持ちこたえられない。

日本側の救援によって包囲は解かれた。 九州国立博物館の解説では、年明けの正月に援軍が到着し、四日に明・朝鮮軍が撤退したとされる。 城が救われたことは、国内へ届いた書状からも確かめられる。 慶長三年正月三十日、徳川家康は太田一吉に対し、蔚山城を堅く守った働きを称えた。

この書状の家康は、日本国内にいる。 前線からの報告を受けて労をねぎらったのであり、家康が蔚山へ救援に来たわけではない。 毛利秀元書状の図録解説も秀元の救援参加を伝えており、蔚山を一人の武将だけの武勇伝に閉じ込めることはできない。

城は落ちなかった。だが、南岸で戦争を続けるために必要な水・食糧・援軍の負担は消えなかった。 蔚山の防衛成功は、占領地の維持が容易だったことを意味しない。

冬の石垣と乏しい水桶で籠城の補給難を表したAI生成イメージ。蔚山城の厳密な復元ではない

泗川・順天をめぐる攻防

慶長三年、明側は陸軍と水軍を組み合わせて日本軍の南岸拠点を攻めた。 『明史』巻320は、蔚山方面の麻貴、泗川方面の董一元、順天方面の劉綎、水軍の陳璘らの動きを記している。 日本側では、蔚山の加藤清正、泗川の島津義弘、順天の小西行長らが各地で対峙した。

十月、泗川では董一元の軍が日本側の新しい城を攻めたものの、敗退した。 『明史』の説明では、明軍の陣中で火薬が爆発し、その混乱に日本軍が攻めかかったという。 これは中国側の記録にも、明軍の攻城失敗が明記されている例である。 ただし、爆発の細かな原因や日本側が伝える大きな討取数まで、同じ確かさで扱えるわけではない。

順天でも、劉綎の陸軍と陳璘の水軍による攻勢が続いた。 『明史』は、攻撃だけでなく会見の誘いも交錯したことを記す。 交渉が行われたというだけで、双方の間に安全な撤退が保証されていたとはいえない。 城の外へ出ることと、そこから海を渡り帰国することの間には、なお敵の軍と船があった。

各地の防衛は、ひとまず城を支えることには成功した。 その一方で、日本国内ではすでに、戦争の継続を左右する出来事が起きていた。

南岸の城の水際に停泊する木造船を描いたAI生成イメージ。順天城の正確な配置図ではない

秀吉の死と露梁海戦

慶長三年八月十八日、豊臣秀吉が死去した。 日本側は撤退に向かったが、その後にも泗川・順天などの戦闘が続いている。 国内で帰国の方針が定まることと、現地の部隊が無事に港を離れられることには隔たりがあった。

十一月、島津義弘らの船団は小西行長の救援に向かい、明・朝鮮水軍と交戦した。 露梁海戦である。 『明史』巻320は救援に動く島津側の船団と陳璘の迎撃を記し、巻247の鄧子龍伝は、鄧子龍と李舜臣がこの撤退期の戦闘で命を落としたことを伝える。 誰が誰を射殺したかという細部や、双方の正確な損害まで、この記述だけから確定することはできない。

やがて日本軍は帰国した。 『大村市史』が記す大村喜前の釜山出発は、十一月二十六日である。 これは大村勢の帰路を示す日付で、全軍が同日に撤退したという意味ではない。 各部隊が前線を離れ、集結し、船に乗って帰るまでに、いくつもの段階を踏んでいた。

朝鮮出兵は終わった。その終わりは、秀吉の死去当日の停戦でも、すべての日本側拠点が落城した結果でもなかった。 戦闘と交渉を重ねた末に、日本軍が占領地から引き揚げたのである。

薄明の海へ離れていく帰国船団を描いたAI生成イメージ。露梁海戦の戦術配置を示すものではない

従軍僧が残した住民の被害

軍が帰れば、焼けた家や失われた家族まで戻るわけではない。 日本軍に従って渡海した僧・慶念は、その日記「朝鮮日々記」に、家屋が焼かれ、人々が殺され、親子が互いを求める様子を書き留めた。 小和田哲男は、北島万次による同日記などの研究書を紹介する文章で、慶長二年八月のこうした記述を取り上げている。

同じ紹介文は、鍋島家・藤堂家・吉川家の文書に基づく研究にも触れている。 討取の証として送った鼻を受領した「鼻請取状」の存在や、捕らえられて日本へ連れられた人々の問題である。 これは日本側にも残る、戦争の被害を伝える記録だ。 ただし、ここで参照したのは日記や家文書を紹介する研究者の文章であり、そこから戦役全体の犠牲者数を割り出すことはできない。

城の攻防を記す戦功報告と、住民の姿を記す従軍日記は、同じ戦争の異なる部分を残している。 どこで勝ったかを追うだけでは、軍勢が通った土地で何が失われたかが抜け落ちる。

戦争後の暮らしの喪失を表す、静かな空き家と土器のAI生成イメージ。特定の村の復元ではない

通説と俗説の射程

「日本軍が城を守ったから日本の勝利」「最後に撤退したから日本軍はどの戦場でも負けた」というまとめ方は、どちらも戦局を取りこぼす。 蔚山では包囲が解かれ、泗川では攻め手の明軍が敗れた。 それでも、日本軍は最後に撤退し、占領を継続できなかった。 城の防衛と、戦争で目指した支配の維持は、別々に評価する必要がある。

兵力や討取数にも、同じ区別がいる。 出兵を命じられた人数と、特定の日に一つの城の前で戦った人数は一致しない。 感状の戦果は、報告を受けて認められた手柄であり、敵側の損害台帳ではない。 『明史』にも勝敗の記録だけでなく、誤った情報が混じる。日本・中国いずれの記録も、一文ずつ別の証拠と照合して読むべきものだ。

絵もまた、後世の伝え方を考えずには使えない。 九州国立博物館の「蔚山城合戦図屏風」は18〜19世紀の写本で、江戸時代初めの原図をもとに制作されたと考えられている。 戦いの記憶を伝える貴重な資料だが、描かれた人数や位置を、そのまま1597年の実測値として扱うことはできない。

撤退が残したもの

慶長の役で、豊臣政権は朝鮮半島の占領を維持できなかった。 明・朝鮮側は日本軍の撤退を迎えたが、その結果を「被害のない勝利」と呼ぶこともできない。 日本側の従軍記録にも、現地の人々が被った破壊と離散が残る。

最初に海を越えたときには、兵や馬、米を前線へ運ぶ船が必要だった。 最後には、その船に将兵を乗せて帰すために、なお戦わなければならなかった。 蔚山や泗川で守り切った城も、慶長三年の撤退によって日本軍の手を離れたのである。

両軍の対比

日本軍

加藤清正・小西行長・島津義弘ら

大将:加藤清正・小西行長・島津義弘ら
総兵力兵数は時期・戦場で異なる
出陣蔚山・順天・泗川など
国内の指揮豊臣秀吉
東部の拠点加藤清正らの蔚山
中部の拠点島津義弘らの泗川
西部の拠点小西行長らの順天
城の防衛に成功した局面もあったが、最終的に撤退
vs
明・朝鮮軍

麻貴・董一元・劉綎・陳璘・李舜臣ら

大将:麻貴・董一元・劉綎・陳璘・李舜臣ら
総兵力増援を重ねて水陸から攻撃
出陣日本軍の南岸拠点に対する水陸作戦
蔚山方面楊鎬・麻貴ら
泗川方面董一元ら
順天方面劉綎・陳璘ら
撤退期の水軍陳璘・鄧子龍・李舜臣ら
城郭攻撃で敗退した局面もあったが、日本軍の撤退に至る

戦況の経過

再出兵
慶長二年(1597年)正月以降
加藤清正・小西行長らが再渡海。各部隊の渡海日は異なる。
南部へ進攻
慶長二年七〜八月
日本水軍の攻勢に続き、陸上では南原が陥落する。
蔚山の包囲
慶長二年十二月〜三年正月
明・朝鮮軍が蔚山を包囲。日本軍は救援を受けて城を守り、包囲は解かれる。
秀吉死去
慶長三年(1598年)八月十八日
秀吉が死去。日本側は撤退へ向かうが、現地の戦闘はなお続く。
秋の城郭戦
慶長三年九〜十月
蔚山・泗川・順天で攻防が続き、泗川では董一元の明軍が敗退する。
露梁と撤退
慶長三年十一月
島津義弘らの救援船団と明・朝鮮水軍が交戦。日本軍は順次帰国する。

その後の世界

1598
日本軍が撤退し、慶長の役は終結。大村喜前については十一月二十六日に釜山を出発したと大村市史が記す。
江戸時代
蔚山の戦いが合戦図屏風に描かれ、模写を重ねて伝わる。現存作品の成立年代と戦いの年代は区別が必要となる。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 『明史』巻320・朝鮮伝(万暦二十四〜二十六年)
    張廷玉等編/維基文庫公開本文参照日 2026-09-21
  2. 『明史』巻247・劉綎・陳璘・鄧子龍伝
    張廷玉等編/維基文庫公開本文参照日 2026-09-21
  3. 徳川家康書状(慶長三年正月三十日、太田一吉宛)
    九州国立博物館参照日 2026-09-21
  4. 『愛媛県史 近世 上』二 慶長の役(日本側書状・家譜の紹介)
    愛媛県/愛媛県生涯学習センター参照日 2026-09-21
  5. 蔚山城合戦図屏風(18〜19世紀の写本、A153)
    九州国立博物館参照日 2026-09-21
  6. 朝鮮出兵
    鹿児島県歴史・美術センター黎明館参照日 2026-09-21

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-09-21

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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