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戦国時代〜江戸初期宗氏15681615
武将列伝戦国時代〜江戸初期

そう・よしとし

宗義智朝鮮侵攻と国交回復を担った対馬の領主

15681615享年 48SO YOSHITOSHI
宗義智の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 参考図の装束をもとにした想像表現。容貌と所用甲冑の復元ではない
  • 対馬
  • 日朝外交
  • 文禄の役
生年
永禄11年1568年/対馬生まれ
没年
慶長20年1615年/数え48歳
本拠
対馬府中現在の長崎県対馬市厳原
役職
対馬藩祖侍従、対馬守

宗義智を知るには、朝鮮侵攻の先鋒と、戦後の国交回復の担い手という二つの姿を、一人の生涯として見る必要がある。 小西行長の娘を妻とした対馬の領主は、秀吉の命に従って海を渡り、戦後には徳川政権と朝鮮を結ぶ交渉を続けた。 1607年に回答兼刷還使が来日し、1609年には己酉約条によって通商が再開する。 その過程には、君主の名義を使った国書の偽造と、朝鮮から届いた国書の改作があった。

義智の成功を、危機を切り抜けた知恵だけで説明することは難しい。 なぜ対馬は、そこまでして往来を取り戻す必要があったのか。 何が実現し、何が解決されないまま残ったのかは、戦争と外交を分けずにたどると見えてくる。

01対馬ISLAND

海の往来に生きる宗家

対馬の港と若き宗義智を描いた想像場面(AI生成イメージ)
対馬の港と若き宗義智を描いた想像場面 · AI生成イメージ

宗義智は、朝鮮への侵攻に加わって交易相手との関係を失いながら、戦後の交渉で日朝の往来を開き直した、対馬藩の礎を築いた領主である。 その生涯を動かしたのは、日本と朝鮮のあいだにある対馬という土地だった。

永禄11年(1568)、義智は宗将盛の子として対馬に生まれた。 初めは昭景と名乗り、天正7年(1579)に宗家を継いだとされる。 数え12歳の当主を支えたのが、養父にあたる宗義調である。 若い当主が名を連ねても、経験を積んだ先代の役割がただちに終わるわけではなかった。 義智の政治は、宗家に蓄えられた経験を受け取るところから始まった。

対馬では山地が多く、広い平野を持つ領国のように田畑を増やすことが難しかった。 そこで暮らしを支えたのが、海を渡る交易である。 宗家は中世から朝鮮との交渉を重ね、船を送り、往来を管理する立場を強めていた。 海の向こうと話をまとめる能力は、領主にとって家を守る力でもあった。

ただし、海が近ければ自由に商売できるというものではない。 相手の国が往来を認め、使者や文書を受け入れて初めて、安定した交易が成り立つ。 朝鮮王朝との関係は、宗家だけで完結する家中の問題ではなかった。 朝鮮側には朝鮮側の秩序と判断があり、日本の領主の都合をそのまま通すことはできない。

義智が受け継いだのは、城と領地に加えて、海の向こうとの交渉を絶やさない役目だった。 その役目が、日本の天下統一によってまったく別の重さを帯びていく。

02服属SUBMISSION

秀吉の領地安堵と朝鮮への要求

豊臣政権に服属した頃の宗義智を描いた想像場面(AI生成イメージ)
豊臣政権に服属した頃の宗義智を描いた想像場面 · AI生成イメージ

天正15年(1587)、豊臣秀吉が九州を平定した。 九州の諸大名が豊臣政権の支配へ組み込まれるなか、対馬の宗家も、海を隔てて独自の立場を保ち続けることはできなかった。 この年には義調が当主に復帰し、義智とともに秀吉のもとへ出向いている。

二人の服属を具体的に伝えるのが、同年6月15日付の領知宛行状である。 秀吉が義調と義智に宛てたこの文書によって、対馬一国の支配は認められた。 宗家は島を守った。 だが、領地の安堵と引き換えに背負った朝鮮への交渉は、それまでの貿易交渉と同じようには進まなかった。

秀吉は明への進出を構想し、朝鮮に対しても自らの要求に従うことを求めた。 宗家が持つ朝鮮とのつながりは、秀吉にとって、その構想を伝えて実現させるための手段となったのである。 一方、対馬から見れば、交渉相手を従わせようとする要求は、従来の往来を危うくする。 同じ外交の窓口に、相いれない注文が集まった。

翌天正16年(1588)、義調が死去し、義智が再び当主となる。 秀吉への対応も、朝鮮への使者派遣も、若い領主が引き受けなければならなくなった。 宗家は朝鮮の事情を知っていたが、知っているからといって秀吉の方針を変えられるわけではない。 領地安堵の文書を得たことは、外交の自由を得たこととは違った。

秀吉の支配に従いながら、朝鮮との関係を断たない。 義智はこの二つを両立させようとした。 しかし、対馬を守るために従った政権が、対馬の交易を断ちかねない戦争を求めていたのである。

03使節ENVOYS

朝鮮使節を迎えても埋まらない隔たり

外交文書に向き合う若い宗義智の想像場面(AI生成イメージ)
外交文書に向き合う若い宗義智の想像場面 · AI生成イメージ

義智は朝鮮との交渉を進め、天正18年(1590)には黄允吉らの使節が日本を訪れた。 秀吉と朝鮮の使節が会うところまで、往来をつないだのである。 ただ、使節が来たという事実だけでは、双方が同じ条件で合意したことにはならなかった。

朝鮮に伝えられた使節派遣の趣旨と、秀吉が相手に求めていた服属や明への進出には、大きな隔たりがあった。 義智たちは、戦争を避けるために、その隔たりを調整しようとした。 そこで用いられた手段には、国書の書き替えまで含まれていた。 1590年の朝鮮国書と、それに使われた偽造印にかかわる資料が、外交工作の存在を伝えている。

国書は、君主から別の君主へ送られる正式な文書である。 そこに誰の名を記し、相手をどう呼ぶかは、両者の上下関係を示すことにもなる。 文面を整える仕事は、言葉の置き換えだけでは済まなかった。 対馬が双方へ伝える内容を変えれば、目先の衝突は避けられても、それぞれが違う前提で次の交渉に進むことになる。

この頃の義智を支えたつながりには、外交僧の景轍玄蘇や博多商人の嶋井宗室らとの関係があった。 宗室に宛てた義智の起請文も、嶋井家に伝来している。 朝鮮との往来は、領主一人の話術だけで動く仕事ではなく、文書を扱う僧や海を知る商人との関係の上に成り立っていた。

義智はまた、小西行長の娘を妻としていた。 行長はのちに朝鮮で同じ軍の先鋒を担い、講和交渉にもかかわる人物である。 だが、こうした人脈と交渉を重ねても、秀吉の出兵は止まらなかった。 使節を迎えることと、戦争の計画を撤回させることのあいだには、なお隔たりが残った。

04侵攻WAR

交易相手の国へ攻め入る

文禄の役の渡海を想起させる宗義智の姿(AI生成イメージ)
文禄の役の渡海を想起させる宗義智の姿 · AI生成イメージ

文禄元年(1592)、秀吉の軍勢が朝鮮へ侵攻した。 義智は小西行長らとともに先鋒の軍に加わった。 朝鮮との戦争を避けようと交渉していた対馬の領主が、その朝鮮を攻める側に立ったのである。 戦争回避の努力と、実際の侵攻への参加は、どちらも義智の生涯から外せない。

日本軍の侵攻は朝鮮の人々に大きな被害をもたらし、それまでの外交と交易も断ち切った。 対馬にとっては、長く関係を築いてきた相手の土地が戦場となった。 軍船が海を渡ることと、商船が往来できることは同じではない。 武力で渡海しても、宗家の暮らしを支えてきた通交の仕組みを、そのまま維持することはできなかった。

戦争が続くなか、義智は行長らとともに講和にもかかわった。 だが、交渉を担うことができても、戦争を始めた秀吉の決定権を持っていたわけではない。 明も加わる交渉のなかで、宗家が調整すべき相手と条件はさらに増えていった。 戦前の使節派遣が和平を保証しなかったように、戦中の交渉も終戦を保証しなかった。

慶長2年(1597)、再び日本軍が侵攻し、義智も参戦した。 翌慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、日本軍は撤退へ向かい、長い戦争は終わる。 しかし、軍勢が去った後にも、破壊された土地と連れ去られた人々の問題は残った。 交渉相手の警戒が、撤兵だけで消えるはずもなかった。

義智は対馬へ戻ったが、戦前の交易をそのまま再開することはできない。 朝鮮側にとって義智は、和平を求める使者である以前に、自国への侵攻に加わった領主でもあった。 その相手と、もう一度話をするところから始めなければならなかった。

05戦後AFTERMATH

関ヶ原の前から始まった復交交渉

戦後の対馬で使者を迎える宗義智の想像場面(AI生成イメージ)
戦後の対馬で使者を迎える宗義智の想像場面 · AI生成イメージ

宗家が朝鮮との関係修復に動き始めたのは、慶長4年(1599)からである。 関ヶ原の戦いより前、江戸幕府の成立よりも前だった。 復交は新しい天下人から命じられて初めて生じた仕事ではなく、貿易を失った対馬が早くから取り組んだ課題であった。

ところが、日本国内でも政権をめぐる争いが激しくなる。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、義智は西軍に属した。 婚姻関係にあった小西行長も西軍の将であり、敗戦後に処刑される。 義智も立場を失いかねなかったが、結果として所領を保ち、徳川政権のもとで朝鮮との交渉を続けることになった。

その後の徳川政権は、宗家を日朝交渉の窓口として用いた。 対馬の領地が残ることと、外交の仕事を引き受けることは、戦後も深く結び付いていた。 義智と小西行長の娘との婚姻は、関ヶ原の後に解消されている。

朝鮮への交渉では、柳川調信とその子の智永、景轍玄蘇らが働いた。 日本へ連れてこられた人々の送還は、関係を修復するうえで具体的な意味を持った。 朝鮮側が知りたいのは、和平を望むという言葉だけではない。 日本の新しい政権が再び侵攻するのか、連れ去られた人々を帰すのかという、戦争の後始末にかかわる問題だった。

秀吉が死に、家康が力を握っても、朝鮮から見て日本への不信が自動的に解けるわけではなかった。 義智たちは使者を送り、人を帰し、徳川側との接触を取り持ちながら、交渉を積み重ねた。 国内の勝敗が決まった後も、海の向こうとの関係は、別の時間をかけて結び直されていった。

06復交RESTORATION

改作された国書と1607年の使節

朝鮮使節の来航を迎える対馬の港の想像場面(AI生成イメージ)
朝鮮使節の来航を迎える対馬の港の想像場面 · AI生成イメージ

関係修復を進めるうえで、誰が先に国書を差し出すかが難題となった。 朝鮮側は、日本から先に国書を送ることを求めた。 戦争を起こした側から関係を改める意思を示させる要求であり、形式だけの問題ではなかった。 一方、その形を徳川側へ受け入れさせることは、義智たちにとって容易ではなかった。

宗家は慶長11年(1606)、家康名義の国書を独自に作成して朝鮮へ届けた。 双方の合意を待って文書を整えたのではなく、合意を進めるために君主の名を用いたのである。 朝鮮からの返書にも、先に受け取った国書への回答であることが示される。 そこで対馬側は、今度はその返書も改作した。

この工作を経て、慶長12年(1607)に朝鮮の使節が日本へやって来た。 使節の名は回答兼刷還使という。 回答は日本側の国書への返答、刷還は戦争で日本へ連れてこられた朝鮮の人々を連れ帰る役目を指していた。 後の朝鮮通信使とひと続きに語られる使節だが、その出発点には戦争の後始末があった。

江戸で朝鮮国書を受け取った将軍は、家康の子の徳川秀忠である。 対馬側が改作した当時の国書は、現在、京都大学総合博物館に保管されている。 秀忠が受領した文書と、対馬側の工作を伝える資料が、国交回復の実態をたどる手がかりとなる。 書き替えの話は、義智の機転をほめるために後から作られた逸話だけではない。

使節の来日は、長く断たれていた関係を開く成果だった。 ただし、その成果には、両国へ同じ内容を伝えないという危うさが組み込まれていた。 義智たちは対面を実現させたが、両者が受け取る文書の食い違いまで解消したわけではなかった

07継承LEGACY

己酉約条から義成への引き継ぎ

通商が再開した頃の対馬の海を見つめる義智の想像場面(AI生成イメージ)
通商が再開した頃の対馬の海を見つめる義智の想像場面 · AI生成イメージ

慶長14年(1609)、朝鮮と宗氏のあいだに己酉約条が成立した。 これによって、対馬と朝鮮の通交と貿易が新しい取り決めのもとで再開される。 1607年の使節来日が外交関係の回復を示す節目なら、1609年は海の交易を制度として立て直す節目であった。

秀吉の死から十年以上が過ぎていた。 戦争が終われば元どおりになるというほど、両国の関係は単純ではなかったのである。 使節の派遣、国書の授受、交易の条件は、互いに結び付きながらも、それぞれ調整が必要だった。 義智の仕事は、通商が続くための条件を交渉するところまで及んだ。

宗家は徳川政権のもとで日朝外交の実務を担い、対馬藩の基盤を築いていく。 慶長19年(1614)末、義智は本多正信に宛てた書状案で、大病のため大坂の陣へ参陣できないことを伝えた。 代わって子の義成を出したいが、まだ家康と秀忠への御目見えが済んでおらず、取り成しを頼むという内容であった。

自らの病気と、跡を継ぐ子の立場を同時に案じる必要があった。 朝鮮との窓口を務める家でも、徳川の主従関係のなかで次代を認めてもらう手続きは欠かせない。 海外への交渉と、国内の政権への奉公が、晩年の一通にも重なっている。

慶長20年(1615)正月3日、義智は没した。 数え48歳。宗家は義成が継ぎ、義智は対馬の万松院に葬られた。 戦争に参加した責任と、断たれた往来を修復した成果は、ともに残る。 義智が再開へ導いた海の関係を、次の当主は維持し、さらに制度として整えていくことになった。

02
READING

史料の読み解き

対馬にとっての貿易と領国

対馬は、隣国との交渉を失っても領内の田畑だけで同じ暮らしを続けられる土地ではなかった。 山地が多く耕地が限られるため、交易の役割が大きかった。 宗家が外交に力を注いだ背景を、個人の性格だけに求めることはできない。 領主の収入と家臣の生活を支える仕組みが、海の往来に結び付いていたのである。

田代和生の研究は、中世の宗氏が使船の運営から得られる権益を家臣に与え、領国支配を固めたことを指摘している。 広い田畑を家臣に与えるだけが、家中を維持する方法ではなかった。 渡航や交易を認められる地位そのものが、宗家の支配を支えた。 この経済構造から見れば、戦争で通交が断たれることは、外国の客を失うという範囲に収まらない。 領国の内部を動かす収入と権利にも影響する出来事だった。

江戸時代の宗家を説明する際に用いられる石高にも注意がいる。 九州国立博物館の概説では、対馬一国は「無高」とされ、宗家は10万石以上格と説明される。 これは、対馬の田畑から実際に10万石の年貢米が収穫されたという意味ではない。 幕府のなかで与えられた格式と、島の農業生産、交易による収入は区別する必要がある。

もっとも、交易を守ろうとする必要が強かったからといって、義智の行動が常に一つの利益計算だけで決まったとは断定できない。 秀吉や家康への奉公、家臣団との関係、朝鮮側の要求も、そのつど判断を制約した。 土地の条件は行動を理解する手がかりになるが、史料にない胸の内をすべて説明する答えにはならない。

戦争回避の交渉と侵攻への参加

義智を和平のために働いた人物と評する根拠はある。 戦前に朝鮮との交渉を重ね、戦中にも講和にかかわり、戦後には復交のために動いた。 一方、文禄と慶長の両役で日本軍の侵攻に参加したことも、同じ資料群が伝えている。 片方だけを残すと、その人物が置かれた立場を取り違える。

豊臣政権への服属は、宗家に領地の安堵をもたらした。 だが、その政権の軍事行動に従うことが、朝鮮との通交を破壊した。 義智はこの矛盾の外から和平を訴えた第三者ではなく、軍を率いて行動した当事者である。 戦争回避を図った事実は参戦の事実を消さず、参戦した事実も、戦後の交渉が生んだ成果を消すものではない。

「戦争を望んでいなかったのだから責任はなかった」とまで言うには、別の論証が必要になる。 命令に従う圧力があったことと、その人が実際に何をしたかは、異なる問いだからである。 義智の選択肢が狭かったことを説明しながら、侵攻を受けた側から見た彼の立場も残すことはできる。 そこを両立させると、戦後の復交が容易でなかった理由も理解しやすくなる。

朝鮮側は、かつての交易相手であり侵攻軍の一員でもあった宗家と、再び交渉しなければならなかった。 その判断には、日本の新政権の動向を確かめることや、日本にいる朝鮮の人々を帰還させることがかかわっていた。 宗家の熱意だけで成立した和解と描くより、相手にも受け入れる理由と確かめたい条件があったと見る方が、使節の役目に合っている。

国書改作をどこまで説明できるか

国書の改作には、現存する文書という根拠がある。 文化庁の「朝鮮国書」の解説は、1607年の李昖書契と別幅を、対馬藩が改作したものと明記している。 東京大学史料編纂所の外交文書表でも、原文書と偽造された文書が区別されている。 したがって、改作を単なるうわさとして片付けることはできない。

ただし、改作の存在が確認できることと、誰がどの場面で何を考えたかをすべて確定できることは別である。 領主、家老、外交僧が共同で仕事を進める仕組みのなかで、具体的な起草や文書の受け渡しを誰が担ったかは、個々の史料で判断する必要がある。 義智がすべてを一人で考え、一人で書き替えたという場面を描けば、分かりやすくはなる。 しかし、分かりやすい場面が、そのまま史実になるわけではない。

工作の仕組みを理解するには、国書の往復の順番が役に立つ。 朝鮮側から見れば、日本から届いた国書へ返事を送る。 ところが、その最初の国書が宗家の独自作成であれば、朝鮮の返事をそのまま徳川側に渡したとき、存在を知らない文書への言及が現れてしまう。 最初の偽造が、次の文書の改作を必要にする。 これは単に丁寧な言葉へ直す通訳とは異なる仕事だった。

この方法は、双方の主張を正面から衝突させずに使節の往来を実現した。 一方、書き替えた内容を知る人々の結束に依存し、秘密が露見した場合には、外交と家中の秩序をともに揺るがす危険を抱えた。 成果を認めることと、その危うさを指摘することは矛盾しない。 国交が回復したという結果から逆算して、すべてが最初から安全な策だったと考えることはできないのである。

1607年と1609年の違い

復交の年を一つだけ挙げると、何が回復したのかが見えにくくなる。 1607年には使節が来日し、将軍が国書を受け取った。 1609年には己酉約条によって通交と貿易の条件が整えられた。 外交儀礼が再び行われることと、船が継続して商いを行えることは、関連するが同じ出来事ではない。

回答兼刷還使という名も、その違いを考える手がかりになる。 朝鮮側は返答をする使節を送り、同時に、戦争で連れ去られた人々の帰還を求めた。 使節の一行が江戸へ到着したという日本側の政治的成果だけを見ていると、この帰還の役目が抜け落ちる。 往来が回復することの意味は、領主、幕府、朝鮮王朝、帰国を待つ人々で同一ではなかった。

己酉約条についても、現在の国家同士が結ぶ対等な通商条約とそのまま重ねることは避けたい。 朝鮮と宗氏が、従来の外交秩序と対馬の特殊な地位を前提にして、通交貿易を取り決めたものである。 日本全体の窓口を担う一方、実際の条件を交渉するのは対馬の領主だった。 国家間の関係と一大名家の交渉が重なっているところに、この時代の日朝関係の特徴がある。

このため、「家康が国交を回復した」という説明と「義智が国交を回復した」という説明は、どちらか一つを選ぶだけでは足りない。 徳川政権の受け入れ、宗家の実務、朝鮮側の使節派遣の判断がそろって、往来は成立した。 義智の功績は、そのなかで宗家が担った長い交渉を具体的に追うことで評価できる。

義智の死後に起きた柳川一件

国書改作の問題が幕府で大きく表面化するのは、義智が没した後である。 寛永12年(1635)の柳川一件では、子の義成と家臣の柳川調興が争い、宗家の外交文書の扱いが問題となった。 義智本人が幕府の裁判に出て勝訴したのではない。 復交に働いた柳川調信、その子の智永、のちに告発する調興も、同じ人物ではない。

宗家はこの事件を経ても日朝外交の窓口であり続けたが、文書を扱う仕組みには幕府の監督が強まった。 義智の時代に動いた交渉の方法が、後の政権のもとで無条件に認められ続けたわけではなかったのである。 外交が個々の担当者の力量に頼る段階から、文書の作成と授受を監督する制度へ移っていく過程としても見られる。

ここから義智の生涯を振り返ると、二つの時間が重なっている。 ひとつは、戦争で失われた往来を、一代のうちに回復させようとした時間である。 もうひとつは、その往来を次の当主や家臣が受け継ぎ、制度として維持していく時間だ。 義智は前者に大きくかかわったが、後者まで一人で完成させたわけではない。

対馬の港に船が戻るには、交渉の成果が必要だった。 その船が次の年も、次の代にも来るためには、相手との取り決めと家中の体制が必要になる。 宗義智の生涯は、戦争の当事者が、再び往来できる条件を作ろうとした過程として残っている。 そこには外交の成果だけでなく、戦争によって壊された関係を修復する仕事の長さも刻まれている。

確度のまとめ

主張確度根拠と留保
1568年生、1615年没、父は宗将盛複数の辞典と韓国学中央研究院の解説が一致。出生順位は採らない
1587年に秀吉へ服属し対馬を安堵された義調と義智に宛てた領知宛行状が現存する
戦争回避を図りながら両役に参戦した博物館の概説、専門研究、人物辞典を照合できる
1607年の朝鮮国書は対馬側が改作した現存国書の文化財解説と外交文書表に裏付けがある
1607年の使節来日と1609年の通商再開異なる段階として複数の機関解説と研究が一致する
貿易への依存が復交を急ぐ背景となった中〜高地域経済と交渉の経過に基づく研究上の説明。個々の決断の唯一の動機とはしない
晩年に大病を訴えた1614年末の書状案による。ただし病名と死因は確定しない
義智が単独で国書改作の全実務を担った複数の担当者による外交を個人の機転に縮める根拠はない
義智が1635年の柳川一件に勝訴した誤り義智は1615年没。事件当時の宗家当主は子の義成
04
EPISODES

宗義智の逸話

  1. 逸話 01

    国書と偽造印が伝える外交工作

    文書と印を扱う外交実務の想像場面。実物資料の複製ではない(AI生成イメージ)
    文書と印を扱う外交実務の想像場面。実物資料の複製ではない · AI生成イメージ

    義智の国書改ざんを、巧みな言い換えだけの話と考えると、現存資料の重みを取り落とす。 九州国立博物館の戦国大名展では、宗家が模造した朝鮮国王印「為政以徳」と、対馬宗家が改作した1590年の朝鮮国書が紹介された。 文書に君主の意思を装うには、文章だけでなく、それを正規の国書として見せる印も必要だったのである。

    一方、福岡市博物館に残る1590年5月30日付の宗義智起請文は、嶋井宗室との関係を伝える別系統の資料である。 外交工作にかかわる人物を調べる際も、宗家側の記録だけでなく、相手側に残った手紙や誓約文が手がかりになる。 起請文が裏付ける両者の交流と、国書や印が裏付ける外交工作は、証拠の範囲が異なる。 交流があったことだけを根拠に、宗室も国書改作に加担したとまではいえない。

    国書と印、商人へ送った文書は、それぞれ違う関係を記録している。 一点の資料を万能の証拠にせず、誰が誰に何を示そうとしたのかを分けて見ると、宗家の交渉を支えた人々が見えてくる。

  2. 逸話 02

    大病を訴えた晩年の書状案

    晩年の書状を想起させる文机。現存書状の再現ではない(AI生成イメージ)
    晩年の書状を想起させる文机。現存書状の再現ではない · AI生成イメージ

    九州国立博物館所蔵の「宗義智書状案」は、慶長19年(1614)12月28日付で、本多正信に宛てた文書の案である。 義智は大病を理由に参陣できないと述べ、子の義成の参陣について、家康と秀忠への取り成しを求めている。 華々しい外交の成果とは異なる、病を抱えた領主の晩年を伝える資料である。

    注目したいのは、義成の御目見えがまだ済んでいないと説明している点だ。 子がいることだけで家の将来が決まるわけではなく、主君との関係を整え、その子を奉公の場へ出す必要があった。 義智は自分が出陣できない状況で、その手続きを正信に頼んだ。 対馬という遠い領国の後継者も、徳川政権の人間関係を通して立場を作らなければならなかった。

    この文書は重病の存在を示すが、病名や最期の経過をすべて説明するものではない。 翌年正月の死と時期が近いからといって、書状にない病名や死因まで書き足すことはできない。 残された言葉が確かに伝えるのは、参陣の難しさと、次代へ奉公をつなごうとした依頼である。

  3. 逸話 03

    万松院の名が海を渡る

    対馬の寺院の石段を想起させる無人の情景。万松院の実測復元ではない(AI生成イメージ)
    対馬の寺院の石段を想起させる無人の情景。万松院の実測復元ではない · AI生成イメージ

    義智の墓所は、現在の対馬市厳原にある万松院である。 万松院は義智の法号でもあり、その名は死後の日朝通交にも残った。 元和8年(1622)、朝鮮側は義成に図書という銅印を与え、万松院送使の派遣を認めた。 義智が没してから七年後のことである。

    これは、義智の死後にも、その名に結び付いた往来の枠が設けられたことを示す。 ただし、交易上の取り決めが存在することと、朝鮮の人々が全員同じ思いで義智を評価したことは、同じではない。 復交に働いた人物への扱いを、侵攻の記憶がすべて消えた証拠として読むことはできないのである。

    墓所には一人の領主の生涯が刻まれる一方、海の向こうでは、その名を冠した使船の往来が続く。 個人の死で途切れなかった通交の仕組みに、義智の仕事の持続性を見いだすことができる。 その仕組みを動かしたのは、跡を継いだ義成と家臣たちであり、往来を認める朝鮮側の判断でもあった。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

家系図FAMILY TREE
  • 宗将盛(実父)
  • 宗義調(養父)
本人宗義智
配偶者小西行長の娘(のち離縁)
  • 宗義成

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 対馬と宗家
    九州国立博物館参照日 2026-09-20
  2. 宗義智(山川日本史小辞典、日本大百科全書ほか)
    コトバンク/山川出版社、小学館ほか参照日 2026-09-20
  3. 종의지(宗義智)(張舜順執筆)
    韓国学中央研究院参照日 2026-09-20
  4. 朝鮮国書(京都大学総合博物館保管)
    文化庁 国指定文化財等データベース参照日 2026-09-20
  5. 豊臣秀吉領知宛行状(天正15年6月15日付)
    九州国立博物館/文化遺産オンライン参照日 2026-09-20
  6. 宗義智書状案(慶長19年12月28日付、本多正信宛)
    九州国立博物館/文化遺産オンライン参照日 2026-09-20
  7. 嶋井家文書の世界(堀本一繁執筆)
    福岡市博物館参照日 2026-09-20
  8. 日朝関係史(中世編)
    福岡市博物館参照日 2026-09-20
  9. 1607年の朝鮮使節をめぐる大島大使コラム(韓国語)
    在大韓民国日本国大使館参照日 2026-09-20

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-09-20

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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