そう・よしとし
宗義智対馬の国書偽造と関ヶ原、死因・子孫
- 生没年
- 1568–1615
- 出身
- 対馬
- 家
- 宗
- 主な合戦
- 2

- 生年
- 永禄11年1568年/対馬生まれ
- 没年
- 慶長20年1615年/数え48歳
- 本拠
- 対馬府中現在の長崎県対馬市厳原
- 事跡
- 日朝復交1607年使節来日・1609年通商再開
宗義智(そうよしとし、1568〜1615年)は、対馬を治め、朝鮮との国交回復を進めた大名である。豊臣秀吉の朝鮮侵攻では小西行長とともに出陣し、関ヶ原では西軍に所属したが、対馬の領地を保った。戦後は家臣や外交僧と交渉を重ね、国書の偽造・改ざんを用いて1607年の朝鮮使節来日を実現させた。
海の往来は、耕地の少ない対馬にとって生活を支える基盤だった。なぜ義智は偽造に踏み込み、西軍の敗北後も外交を担えたのか。その経緯をたどり、史料に残る死の直前の病状、子孫の宗義成・義真、宗家の家紋と甲冑も確かめる。
海の往来を受け継いだ若い当主

宗義智は永禄11年(1568)、対馬の宗将盛の子として生まれた。初名は昭景。天正7年(1579)、数え12歳で宗家の家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継いだとされる。その背後には、隠居後も家政を支えた宗義調がいた。後に朝鮮との交渉を担う領主の出発点は、幼い当主と経験豊かな先代が並び立つ家中だった。
対馬は、九州と朝鮮半島の間に連なる島である。山が多く、耕地は限られる。田畑を広げて年貢を増やすだけでは、領主も家臣も暮らしを支えにくかった。宗家は中世から朝鮮との通交を重ね、使者や商人が海を渡る権利を確保してきた。領国を治める仕事に、外国との交渉が組み込まれていたのである。
港に船が入れば、荷が届き、人が動く。しかし、往来の条件を決めるのは対馬だけではなかった。朝鮮王朝が使船を受け入れ、渡航を認める仕組みがあってこそ、継続した貿易になる。義智が継いだのは島の支配権と、海の向こうに認められた交渉の立場だった。
この家の当主には、国内の有力者に従いながら、朝鮮との関係も維持する必要があった。九州で戦乱が続く間は、それぞれとの関係を調整する余地がある。ところが、日本を統一しようとする豊臣秀吉は、その窓口を自分の対外構想に使おうとした。領内を守るだけでは済まない時代が、対馬にも迫っていた。
対馬を安堵した豊臣秀吉が求めたもの

天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定に際し、宗義調と義智は服属した。義調はいったん当主に復帰し、義智はその後継者という立場になる。二人に宛てた同年6月15日付の領知宛行状が残っており、秀吉が対馬一国の支配を認めたことが分かる。宗家の領地は守られた。
同時に、秀吉は朝鮮への交渉を宗家に命じた。目指していたのは明への進出であり、朝鮮をその構想に従わせようとする要求だった。朝鮮王朝との関係を保ちたい対馬にとって、従来の貿易交渉とは性質が違う。宗家が頼りにしてきた相手に、天下人の大きな要求を伝えなければならなくなった。
翌天正16年(1588)に義調が没し、義智が再び当主となる。まだ二十歳前後の領主に、秀吉への奉公と朝鮮への使者派遣が重くのしかかった。対馬の事情を訴えるだけで秀吉の方針が変わるわけではなく、朝鮮も日本側の命令をそのまま受け入れる国ではない。義智は双方の要求を取り持ち、使節の往来によって衝突を避けようとした。
この頃、義智は小西行長の娘を妻としていた。九州を支配する豊臣大名との婚姻は、宗家を政権へ結び付ける関係でもあった。行長は後に朝鮮侵攻の先鋒となり、義智とともに講和交渉へも関与する。義智の外交は、朝鮮との長いつながりに加え、豊臣政権内のこうした人間関係の中で進んだ。
1590年の来日と、すでに使われていた偽造印

天正18年(1590)、黄允吉ら朝鮮の使節が日本へ来た。義智たちの交渉は、使節と秀吉が会うところまで進んだのである。ただし、来日が実現したことは、朝鮮が秀吉の要求を受け入れたことを意味しなかった。朝鮮側が考える交隣と、秀吉が求める服属・明への進出には、大きな隔たりがあった。
この隔たりを埋めようとする過程で、宗家は国書の偽造や改ざんに踏み込んだ。九州国立博物館の戦国大名展では、対馬側が改作した1590年の朝鮮国書と、朝鮮国王印をまねた「為政以徳」印が紹介されている。宗義智の偽造は、関ヶ原後に突然思いついた策ではない。秀吉の時代から、正式な文書に見せかけて伝達内容を変える工作が行われていた。
国書では、相手を何と呼ぶか、誰から誰へ送るかが政治上の立場を表す。言い回しを柔らかくするだけでは、従う側と従わせる側という食い違いは消えない。そこで文面や印まで作り替えれば、双方へ異なる内容を伝えられる。目の前の衝突を避けても、次の交渉にその不一致を持ち越す方法だった。
実務には外交僧の景轍玄蘇らがかかわった。義智は博多商人の嶋井宗室ともつながり、1590年5月30日付の起請文が嶋井家に残る。交渉は一人の才覚だけでは動かない。文書を扱う僧、海を渡る使者、各地に人脈を持つ商人がいて、ようやく往来をつなげた。それでも、秀吉の出兵を止めるには至らなかった。
小西行長とともに、交易相手の国へ攻め入る

文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮への侵攻を始めた。義智は小西行長らと先鋒の軍に加わり、海を渡った。戦争を避けようと交渉してきた領主が、実際には侵攻軍の一員となったのである。以後の復交を理解するうえでも、この参戦を抜くことはできない。
朝鮮では人命や暮らしが大きく損なわれ、日本へ連れ去られた人々もいた。宗家にとっても、長年の通交相手との関係が断たれた。港が軍勢を送り出す場所になっても、以前の貿易が続くわけではない。豊臣政権への軍役を果たすことが、対馬を支えてきた往来を壊す結果となった。
義智は行長とともに戦中の講和交渉にもかかわる。しかし、明も加わった交渉で条件をまとめ、秀吉に受け入れさせるのは容易ではなかった。交渉担当者が接触を続けても、それぞれの政権が同じ合意を承認しなければ戦争は終わらない。慶長2年(1597)、再び侵攻が始まり、義智も参戦した。
慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、日本軍は撤退した。だが、撤兵だけで両国の関係が元に戻ることはなかった。失われた人命は戻らず、帰国を待つ人々も残っていた。朝鮮側から見た義智は、交易の窓口であると同時に、自国に攻め込んだ武将だった。その当事者が、今度は和平を求める使者を送る。戦後の交渉は、この厳しい関係から始まる。
西軍に属しながら、対馬の領地を保つ

宗家は慶長4年(1599)から朝鮮との講和交渉を始めた。関ヶ原の戦いの前年であり、江戸幕府もまだない。貿易を失った対馬にとって、国内の新しい体制が固まるまで待てる問題ではなかった。義智のもとで、家臣の柳川調信と智永、外交僧の玄蘇らが交渉に働いた。
翌慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで義智は西軍に属した。義父にあたる小西行長も西軍につき、敗戦後に処刑される。ところが、義智は対馬の領地を失わなかった。徳川政権のもとでも、朝鮮と交渉する宗家の役割は残されたのである。
領地を保った経緯について、人物辞典は柳川調信の弁明があったと伝える。また、その後の徳川側が宗家を外交の窓口として用いたことから、蓄積された交渉能力の重要性が分かる。ただし、特定の一言だけで赦免が決まったとする会話や、義智が関ヶ原本戦で戦った具体的な場面は、確認した史料からは描けない。ここで確かなのは、西軍に属したことと、戦後も対馬支配を続けたことである。
関ヶ原後、義智と小西行長の娘との婚姻は解消された。かつての義父との関係が終わる一方、徳川家康との関係を築き、朝鮮への交渉を続けていく。朝鮮側にとって重要なのは、天下人が交代したという知らせだけではなかった。日本が再び攻めてこないか、連れ去られた人々を帰せるかを確かめる必要がある。義智たちによる送還と使者の往来が、次第に交渉を前へ進めた。
家康名義の国書を偽造し、朝鮮からの返書も改める

講和が具体化すると、朝鮮側は日本から先に国書を送ることを求めた。戦争を起こした側から関係を改める意思を示させる要求である。誰が先に書簡を差し出すかは、君主同士の立場にもかかわった。宗家は、徳川側がその形に応じるのは難しいと考えた。
慶長11年(1606)、義智らは家康名義の国書を独自に作成して朝鮮へ送った。徳川家康が出した正式な書状ではなく、宗家が偽造したものだった。朝鮮が返事を送れば、そこには受け取った国書への言及が含まれる。それをそのまま将軍へ渡すと、知らない書状への返答が届くことになる。そこで、朝鮮からの返書も書き替えた。
この工作を経て、慶長12年(1607)、回答兼刷還使が来日する。「回答」は国書への返答、「刷還」は日本へ連れてこられた朝鮮の人々を連れ帰る仕事を指す。後の朝鮮通信使につながる使節だが、この時点では、戦争の後始末が大きな役目を占めていた。江戸で国書を受け取った将軍は、家康ではなく徳川秀忠だった。
当時の改作された朝鮮国書は現存し、京都大学総合博物館に保管されている。国書偽造は、義智の機転をほめるために生まれた後世の物語だけではない。実際の文書を調べて確認できる外交工作である。
使節の来日は、断たれていた関係を開き直す成果となった。一方、双方に異なる文面を見せることで、合意に至ったように装う部分も残った。その秘密を領主、重臣、外交僧が保ち続けられるか。義智の代に動き出した復交は、次代にも課題を引き継いだ。
己酉約条から、病と幼い後継者への心配へ

慶長14年(1609)、朝鮮と宗氏の間で己酉約条が結ばれた。通交と貿易の条件が整い、対馬が求めてきた往来は制度として再開へ進む。 1607年の使節来日は外交儀礼の再開、1609年の取り決めは通商の枠組みを定める節目だった。秀吉の死から、すでに十年以上がたっていた。
義智は江戸時代の対馬藩の基礎を築いたが、晩年には大病を抱えた。九州国立博物館に残る慶長19年(1614)12月28日付の書状案では、本多正信に、病のため大坂の陣へ参陣できないと伝えている。代わりに子の義成を出したいが、まだ家康・秀忠への御目見えが済んでいないため、取り成してほしいという依頼だった。
義成は慶長9年(1604)生まれで、この時はまだ幼い。海外との交渉を担う家であっても、徳川の主君に後継者を認めてもらう手続きは欠かせなかった。義智は病を抱えながら、自分の参陣だけでなく、息子の奉公と家の将来を気に掛けていたのである。ただし、この書状案から分かるのは大病と依頼の内容であり、病名までは記されていない。
慶長20年(1615)正月3日、義智は数え48歳で没した。日付は旧暦で、死因の詳しい特定はできない。家を継いだのは義成である。義智の墓は対馬の万松院にあり、そこは宗家の菩提寺となった。
朝鮮へ侵攻した武将は、その後、使者を送り続け、国書を作り替え、貿易の条件を整えた。その仕事によって、対馬には再び往来が開かれた。ただ、義智の死で国書工作が終わったわけではない。息子の代には、家臣との対立が外交文書の秘密を幕府の前へ引き出すことになる。
史料の読み解き
宗義智は何をした人か――対馬の貿易を開き直した大名
義智の大きな事跡は、朝鮮侵攻で断たれた日朝関係を修復し、宗家の通交を再開へ導いたことだ。 1607年には回答兼刷還使が来日し、1609年には己酉約条が成立した。前者は国書を交わす外交の節目、後者は通商の条件を決める節目である。二つを同じ出来事として扱うと、復交に時間がかかった理由が見えにくくなる。
対馬では、貿易は一部の商人だけの仕事ではなかった。中世の宗氏は使船の運営にかかわる権益を家臣に与え、家中の基盤を築いていた。船が渡れなくなると、荷が止まるだけでなく、家臣を支える収入や権利にも影響する。外交を絶やさないことは、領国の内部を保つ仕事でもあった。
江戸時代の宗家を「10万石格」と説明する場合も、それを対馬の田畑から取れる米の量と考えてはいけない。九州国立博物館は対馬一国を「無高」、宗家を10万石以上格と説明している。領地の実情と、幕府内で認められた大名の格式は別である。海外との窓口を担う宗家の特殊な立場が、こうした扱いにも表れていた。
国書偽造は何をしたのか――1590年と1606・1607年
義智の国書偽造には、秀吉の時代と徳川の時代の工作がある。主な流れを分けると、誰に何を見せたのかが分かりやすい。
| 時期 | 文書と届け先 | 工作の要点 |
|---|---|---|
| 1590年 | 秀吉へ渡す朝鮮国書 | 対馬側が改作。朝鮮国王印をまねた印も使われた |
| 1606年 | 朝鮮へ送る家康名義の国書 | 宗家が独自に作成し、日本から国書を先に送る条件に対応した |
| 1607年 | 朝鮮使節が持参し、秀忠へ渡す国書 | 先の偽造国書への返答であることを隠すため、返書を改作した |
偽造と改ざんの違いも、この往復から理解できる。家康が出していない国書を家康名義で作るのが偽造であり、朝鮮から実際に来た文書の内容を変えるのが改ざん・改作である。一度目の工作を隠すため、次の文書にも手を加える必要が生じた。
文化庁の「朝鮮国書」の解説は、対馬側が改作した現存文書を対象としている。したがって、この問題は伝説や噂の域にとどまらない。ただし、個々の文書を誰が起草し、どの場で差し替えたのかは別に調べる必要がある。領主の義智だけが机に向かい、すべてを一人で書き替えたとする筋書きは、実際の外交組織を単純にしすぎる。
工作は使節来日の実現に役立ったが、両国に同じ合意を伝える方法ではなかった。国交回復という成果と、相手に事実と違う文書を示した行為は、分けて評価する必要がある。
関ヶ原でなぜ改易されなかったのか
関ヶ原の戦いで西軍に属した義智は、戦後も対馬を保持した。背景として考えられるのは、朝鮮外交の窓口として宗家が持っていた経験と人脈である。徳川政権はその後も宗家を通して交渉を進めた。改易を免れた理由を考える際、この継続した役割は外せない。
ただし、これは政策上の背景の説明であり、家康の内心を直接伝える発言ではない。『日本大百科全書』は、家臣の柳川調信による弁明があったと記すが、これだけで判断の全過程が分かるわけではない。「偽造の才能を家康が気に入った」「関ヶ原で途中から東軍へ寝返った」といった説明を足す根拠は、今回確認した史料には見当たらない。
西軍所属と、関ヶ原本戦の戦場で戦ったことも同一ではない。本記事では本戦での布陣や戦功を断定せず、所属と戦後処遇を記す。関ヶ原によって小西行長を失った宗家は、徳川政権下で朝鮮への交渉を続ける道を残した。
小西行長とは義理の親子――娘との婚姻と離縁
小西行長の娘は義智の妻であり、二人の武将は義理の親子だった。文禄・慶長の役では同じ侵攻軍に加わり、講和交渉にも関与する。親族関係だけでなく、朝鮮での軍事と外交でも結び付いていた。
九州国立博物館が紹介した「梅花皮写象牙鞍」には、行長の娘が嫁入りの際に持参したという伝承がある。梅花皮は鮫皮の粒状の模様を指し、この鞍では象牙でその風合いを表している。行長所用と伝わる品だが、嫁入りの経緯まで同時代史料で確定しているわけではない。こうした伝来品は、政略や合戦の年表だけでは見えにくい婚姻関係を伝える。
関ヶ原後、義智は行長の娘と離縁した。『日本大百科全書』はその年を1601年とする。行長が処刑された1600年と、離縁の年を無条件に重ねない方がよい。また、後継者の義成が1604年生まれだからといって、彼を行長の娘の子とすることもできない。妻との関係と、子の母系は区別して扱う必要がある。
家臣は誰か――柳川調信・智永と外交僧の玄蘇
義智の復交を支えた主な家臣は、柳川調信と、その子の智永である。景轍玄蘇は外交僧として交渉や文書の実務に関与した。武家の重臣と僧にはそれぞれの役目があり、関係者全員を同じ意味で「家臣」と呼ぶと、外交を動かした体制が見えにくくなる。
| 人物 | 義智との関係・役割 | 混同しやすい点 |
|---|---|---|
| 柳川調信 | 宗家の重臣。戦後の講和交渉を推進 | 後の告発者・調興とは別人 |
| 柳川智永 | 調信の子。交渉実務を継承 | 義智の子ではない |
| 景轍玄蘇 | 外交僧。文書を含む外交実務に関与 | 柳川一件の僧・玄方とは別人 |
| 嶋井宗室 | 義智と交流した博多商人 | 宗家の直属家臣として扱わない |
柳川氏は宗家に仕える一方、徳川側とも関係を深めた。田代和生の研究は、調信の死後、智永への所領配分に家康が指示した経緯を述べる。家中の実務を担う重臣が、主家を越えて将軍家とのつながりを持ったのである。この重なった立場は、義智の子・義成の代に宗家と柳川氏が対立する背景にもなった。
死因は何か――1614年末の大病と、1615年の死
義智の没日は慶長20年(1615)正月3日、数え48歳である。死の直前に大病を患っていたことは確認できるが、具体的な病名や直接の死因は特定できない。根拠となるのは、九州国立博物館所蔵の前年12月28日付「宗義智書状案」だ。
この書状案は、本多正信への参陣不能の説明と、義成の取り成しを求める内容である。医学的な診断や最期の記録ではない。したがって、「大病だった」という事実から、特定の感染症や内臓の病気まで推測して書くことはできない。
『日本大百科全書』は自殺説にも触れるが、真偽不明としている。病死説と自殺説を同じ確かさで並べたり、国書偽造の発覚を恐れて自害したと結び付けたりするのは適切でない。確認できる病状と、確定していない死因を分けて読むのが妥当である。柳川一件の裁決は1635年であり、義智の死より二十年後だった。
子孫はどうなったのか――義成から義真へ
義智の跡を継いだ子は宗義成(1604〜1657年)で、対馬藩2代藩主となった。次の3代藩主・宗義真は義成の子にあたり、義智の孫である。対馬市の広報でも、義成・義真の事跡とその継承が紹介されている。義智が開き直した日朝の往来は、次の当主たちが維持する仕事になった。
義成の代には、家臣の柳川調興との対立が国書改ざんの告発へ発展した。 1633年の告発を経て、1635年に幕府が裁決し、義成は宗家の地位を保った。義智本人が裁判で勝ったのではない。告発した調興は、義智の復交を支えた調信・智永の次の世代に属する人物である。
事件後は幕府が外交文書への監督を強め、京都五山の僧が交代で対馬に入り、文書の起草などを担うようになる。宗家が引き続き窓口を務めたことと、従来の工作がそのまま許されたことは別だ。家の存続と、外交の仕組みの変更が同時に進んだ。
「宗義智の子孫」を調べる際、宗家の歴代当主と、義智からの血縁を完全に同じものと考えることにも注意がいる。大名家の継承には養子を迎える場合があるためだ。ここでは父子関係を確認できる義成と義真を示し、現代の個人について、姓や伝聞だけで義智の直系子孫と断定しない。
家紋と甲冑――宗家の紋と義智所用を区別する
宗家の家紋としては、桐紋と四つ目結紋が知られる。名古屋刀剣博物館の家紋一覧は、宗家の紋として五七桐を掲載している。また、長崎歴史文化博物館の展覧会記録には、四目結紋入りの具足や、桐・丸に四目結紋を散らした火事装束が載る。宗家の伝来品を調べると、複数の紋が使われたことが分かる。
ただし、「宗家で使われた紋」と「義智がいつ、どの道具に使った紋」は別の問いである。後世の道具から、そのまま戦国時代の義智の装備を復元することはできない。本記事の想像図では、根拠のない家紋を衣服や船へ描き加えていない。
甲冑については、同館の平成25年度年報に「紺糸縅五枚胴具足・鉄六十二間筋兜 四目結紋入」が出品資料として記録されている。所有者は対馬市、時代は江戸時代とされるが、その出品記録には義智所用と書かれていない。この資料を見つけただけで「宗義智の甲冑が現存する」と断定するのは早い。
一方、万松院には義智の肖像が伝わる。肖像の礼装、宗家に伝わった甲冑、作品中の武将デザインは、それぞれ成立した時代と用途が異なる。実物を見るときは、紋の形だけでなく、制作年代、伝来、誰の所用とされるのかを確認すると、混同を避けられる。
史料から言えること・言い切れないこと
| 主張 | 確度 | 根拠・留保 |
|---|---|---|
| 1587年、秀吉が宗義調・義智に対馬を安堵した | 高 | 両人宛の領知宛行状が残る |
| 文禄・慶長の役に参戦し、戦後の復交も進めた | 高 | 人物辞典・専門研究・博物館解説を照合できる |
| 関ヶ原では西軍に属し、対馬の領地を保持した | 高 | 辞典類で確認。本戦での具体的行動は断定しない |
| 復交には国書の偽造・改ざんが用いられた | 高 | 改作国書の現物と文化財解説、専門研究がある |
| 外交の役割が宗家存続の背景になった | 中〜高 | 戦後の政策と宗家の役割からの説明。家康の内心は不明 |
| 義智は死の直前に大病を患っていた | 高 | 1614年末の書状案がある。病名・直接の死因は不明 |
| 宗義成が家を継ぎ、柳川一件を経ても存続した | 高 | 自治体・博物館解説と研究による |
| 宗家伝来の甲冑はすべて義智所用である | 根拠なし | 所用者の確認が必要。出品目録の江戸時代表記だけでは特定できない |
対馬を守るために秀吉に従い、その戦争によって対馬の貿易が断たれる。義智はこの難題に直面し、侵攻への参加と復交の交渉の両方を担った。海を再び開いた成果は大きいが、国書工作の秘密と、その管理の問題は子の代へ残った。宗義智の生涯には、戦争の後に関係を結び直す仕事が、どれほど長く続くかが刻まれている。
参戦合戦
宗義智の逸話
- 逸話 01
「為政以徳」の偽造印と、博多に残った起請文

複数の文書を見比べる宗義智。国書や印の実物を再現したものではない · AI生成イメージ 君主の意思を装った国書には、文章だけでなく印も必要だった。宗家が模造した朝鮮国王印「為政以徳」は、国書工作が言葉の調整を越え、文書を本物らしく仕立てる行為だったことを物語る。九州国立博物館の展示では、1590年の朝鮮国書とともに紹介された。
一方、福岡市博物館の嶋井家文書には、同年5月30日付の宗義智起請文がある。これは義智と博多商人・嶋井宗室との関係を伝える史料だ。宗室は朝鮮との交易にもかかわり、戦時には兵糧の集積や渡海を命じられた。国境を越える商業と、大名の外交・軍事が接する場所にいた人物である。
ただし、義智と宗室の交流が確認できるからといって、この起請文だけで宗室の偽造への加担を証明することはできない。印と国書は外交工作を、起請文は人物間の関係を伝える。異なる場所に残った史料を重ねることで、領主一人では説明しきれない対馬の外交が見えてくる。
- 逸話 02
本多正信に頼んだ、息子の御目見え

幼い義成と向き合う晩年の宗義智の想像場面。史料に記された対面の再現ではない · AI生成イメージ 義智の最晩年を伝える書状は、送った原本ではなく、宗家に残った「案」である。慶長19年12月28日付、本多正信宛。そこには、外交の成果を誇る言葉よりも、病のため軍役を果たせない事情と、義成を代わりに出すための相談が記されている。
御目見えは、主君の前に出て関係を結ぶ手続きだった。義成が家康・秀忠にまだ会っていないという事情から、子を送り出すにも政権内部の取り成しが必要だったことが分かる。日朝の間を取り持ってきた義智が、家の内側では、自分の息子と主君を取り持ってほしいと頼んでいた。
この頃の義成は数え11歳である。後年、柳川一件を切り抜ける藩主も、父の死が迫った時には幼い後継者だった。書状案は義智の重病を示す一方、具体的な病名や看取りの様子は伝えない。最期を劇的な台詞で飾るより、この一通に残る後継者への配慮の方が、晩年の姿をよく伝えている。
- 逸話 03
万松院という名で続いた、海の向こうとの往来

宗家の墓所を想起させる対馬の寺院風景。万松院の実測復元ではない · AI生成イメージ 対馬市厳原の万松院には、義智の墓がある。万松院は義智の法号でもあり、その名は寺院だけでなく、朝鮮へ渡る使者の呼び名にも残った。元和8年(1622)、朝鮮側は義成に図書と呼ぶ銅印を与え、万松院送使の派遣を認めた。
義智が没して七年後にも、その名に結び付いた通交の枠が設けられたのである。使者や使船の名目を得ることは、儀礼上の栄誉であるだけでなく、継続して海を渡る条件を確保することでもあった。朝鮮側の承認を受け、次の当主と家臣が実際の往来を担う。復交の成果は、こうした具体的な仕組みに受け継がれた。
墓所は一人の生涯の終わりを示すが、その人の名を冠した船は後の時代にも海へ出た。そこに宗義智の仕事の持続性が見える。もちろん、通交の承認によって侵攻の被害が消えたわけではない。戦争の記憶を残したまま、再び関係を結ぶ条件が積み重ねられていった。
関連人物
- 宗将盛(実父)
- 宗義調(養父)
- 宗義成
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 対馬と宗家九州国立博物館参照日 2026-10-19
- 宗義智(日本大百科全書・山川日本史小辞典・ブリタニカ国際大百科事典ほか)コトバンク/小学館・山川出版社ほか参照日 2026-10-19
- 종의지(宗義智)(張舜順執筆)韓国学中央研究院参照日 2026-10-19
- 田代和生「近世の日朝関係」日本学士院紀要72巻特別号、251〜254頁日本学士院/J-STAGE参照日 2026-10-19
- 朝鮮国書(対馬藩による改作、京都大学総合博物館保管)文化庁 国指定文化財等データベース参照日 2026-10-19
- 豊臣秀吉領知宛行状(天正15年6月15日付)九州国立博物館/文化遺産オンライン参照日 2026-10-19
- 宗義智書状案(慶長19年12月28日付、本多正信宛)九州国立博物館 収蔵品ギャラリー参照日 2026-10-19
- 戦国大名―九州の群雄とアジアの波涛―(為政以徳印・梅花皮写象牙鞍)九州国立博物館参照日 2026-10-19
- 嶋井家文書の世界(宗義智起請文ほか、堀本一繁執筆)福岡市博物館参照日 2026-10-19
- 広報つしま2019年8月号「わがまち再発見」(宗義成・宗義真)長崎県対馬市参照日 2026-10-19
- 平成25年度年報(対馬藩と日朝交流、出品番号47・202〜204)長崎歴史文化博物館参照日 2026-10-19
- 家紋イラスト(宗家・五七桐)名古屋刀剣博物館 名古屋刀剣ワールド参照日 2026-10-19











