ほんだ・まさのぶ
本多正信家康を支えた生涯と死因、忠勝との関係
- 生没年
- 1538–1616
- 出身
- 三河国(現・愛知県)
- 家
- 徳川
- 主な合戦
- 1

- 生年
- 天文7年1538年
- 没年
- 元和2年1616年・数え79歳
- 出身
- 三河国本多俊正の子
- 官位
- 従五位下佐渡守家康・秀忠の側近
- 家紋
- 丸に立ち葵
本多正信は、徳川家康と二代将軍・秀忠の政務を支えた側近である。若いころは三河一向一揆で家康に敵対したが、帰参後は文書の取次ぎなどを担い、晩年には秀忠を補佐した。
本多忠勝とは、系譜上は別の流れに属する本多氏で、兄弟や親子ではない。正信は1616年の旧暦6月7日に江戸で死去した。数え79歳だったが、具体的な死因は確認した資料では特定できない。息子には正純・政重・忠純があり、正純の失脚後も政重の加賀本多家などに系譜が続く。
一度は敵となった武士が、なぜ徳川の政務に深く関わるようになったのか。派手な策謀の話だけでは見えにくい正信の仕事を、残された書状と家族の歩みからたどる。
家康に仕え、やがて敵となる弥八郎

天文7年(1538)、本多正信は三河の本多俊正の子に生まれた。通称は弥八郎。のちに佐渡守と呼ばれる人物である。安城市歴史博物館の展覧会解説では、小川村を出生地とする説が紹介されている。現在の愛知県安城市にあたる地域だ。
本多氏は松平氏に仕えた一族だが、同じ姓の武士が一つの家にまとまっていたわけではない。家康の重臣となる本多忠勝も本多氏の出身である。ただし、正信と忠勝は別の系統に属する。忠勝を正信の弟や息子と考えると、三河時代から家族関係を取り違えてしまう。
若い正信が仕えた松平家康は、三河で自らの支配を固めようとしていた。一方、この土地には領主の命令だけでは動かない寺院と門徒の結びつきがあった。武士も門徒となり、寺を支えた。主君に仕えることと、寺の側に立つことが両立するとは限らない。その緊張が、やがて家中に持ち込まれる。
永禄6年(1563)、三河一向一揆が起きる。正信は弟の正重とともに一揆側に加わり、家康と戦う道を選んだ。後年の側近・本多正信の生涯には、主君と敵味方に分かれた時期がある。この離反を経てなお政権の中枢へ戻ったことが、正信の歩みを際立たせている。
信仰と領主支配がぶつかった三河一向一揆

三河一向一揆は、永禄6年から翌7年(1563〜1564)にかけて家康を苦しめた。安城市の解説が挙げる背景には、寺院の不入権をめぐる衝突がある。寺の領域へ役人が立ち入ることや、年貢の徴収などに関わる権利を、家康の領国支配とどう折り合わせるかが争点となった。
拠点の一つが本證寺である。現在も境内を囲む堀や土塁が残り、寺であると同時に防御の備えを持った場所だったことがわかる。周辺の武士や村々と結びつく寺院を相手にした戦いは、家康の家臣団まで分裂させた。正信の離反も、こうした地域社会の対立の中で起きている。
家康から見れば、正信が一揆側に加わったことは裏切りだった。しかし、正信が何を優先して決断したのかを語る本人の言葉は確認できない。信仰、寺との縁、一族の関係のうち、一つだけを動機と決めることは難しい。少なくとも、別の大名から大きな領地を約束されて寝返った、という話ではない。
一揆の収束後、正信は三河を離れた。加賀へ向かったとされるが、その後の滞在先や移動の順序は明瞭ではない。後世には松永久秀に仕えたという話も生まれたものの、これを確実な経歴として並べることはできない。
一揆に加わった過去は、正信と寺院との縁を考える手掛かりにもなる。安城市歴史博物館は、本證寺の復興に関わる正信らの書状に注目している。家康に帰参したあとも、かつての寺との関係がすべて断たれたわけではなかった。
戻った時期は不明でも、政務の足跡は残る

正信は、のちに家康のもとへ戻った。帰参の時期や経緯には異説がある。元亀元年(1570)の姉川の戦いに従ったとする伝えがある一方、天正10年(1582)ごろの帰参を記す辞典もある。いずれかを選んで、三河を離れた年から放浪の年数を確定することはできない。
確かな仕事へ目を移すと、天正10年には家康の文書発給に関わっていたことが辞典類で指摘される。文書の取次ぎとは、主君の意向を相手に届け、相手の用件を主君へ伝える仕事である。単に文字を書くのではなく、誰が何を求めているかを把握する必要があった。
岐阜県歴史資料館が紹介する徳山秀現宛ての正信書状にも、その一端が見える。家康と正信に贈り物が届いたことへの礼を伝える文書で、天正年間後半のものと推定されている。手紙の正確な年は確定していないが、正信が家康の周辺で他の武士と連絡を交わしていたことを示す一通だ。
贈答への返事は、小さな用件に見える。しかし、差出人にとっては自分の品が主君に届いたかが重要になる。その返答を引き受ける人物は、主君への入口にもなる。残された書状から見えてくるのは、家康のそばで人と用件をつなぐ正信である。
天正14年(1586)には従五位下佐渡守となった。佐渡守は官職名であり、佐渡を領地として治めたという意味ではない。正信の名とともに使われる「本多佐渡」は、この官職に由来する。江戸幕府が開かれるより前から、正信は家康の側近として地位を築いていた。
領地の広さだけでは測れない、側近の仕事

天正18年(1590)、家康は関東へ移った。正信も新たな領国の政務を担うことになる。知行地については、上野国八幡に1万石を与えられたとする説明と、相模国甘縄・玉縄に結びつける説明がある。領地の所在には記述の違いがあるため、一つの地名だけで全時期の本拠を説明するのは避けたい。
正信の知行はのちに2万2,000石となる。大領を持つ大名に比べれば小さいが、主君の近くで文書や相談を扱う側近の立場は、石高だけでは測れない。領地から動員できる兵や収入と、主君の判断に関わる仕事の重さは、異なるものだった。
関東移転後の家康には、新しい領国を治める仕事があった。各地の武士や寺社との連絡を整え、命令を届け、返答を受ける。正信はこうした実務に携わりながら、家康の側近として活動した。後年「謀臣」と呼ばれる人物だが、その働きは秘密の策だけを想像しても見えてこない。
ここで正信を、本多忠勝と比べてみると違いがわかる。忠勝は合戦での指揮や武勇で知られ、正信は政務や取次ぎの記録に姿を現す。同じ主君を支える家臣でも、担う仕事は一様ではなかった。
ただし、二人を「武勇だけの忠勝」「知恵だけの正信」と分け切るのも単純すぎる。正信も軍勢に同行しており、戦争と無縁の役人ではない。関ヶ原の戦役では、その事実がはっきりする。彼が従ったのは、家康の後継者である徳川秀忠の軍だった。
関ヶ原では秀忠軍に従い、上田へ向かった

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦役で正信は家康に従って下野の小山へ進んだ。その後は秀忠の軍に加わり、中山道を西へ向かう。正信が家康の本隊とともに関ヶ原の戦場で指揮していた、というわけではない。
秀忠軍は、真田昌幸・信繁(幸村)父子の守る信濃の上田城を攻めた。これが第二次上田合戦である。正信は秀忠軍の一員として真田方と敵対したが、父子と一騎討ちをしたという意味ではない。上田をめぐる戦いを経た秀忠軍は、関ヶ原本戦に間に合わなかった。戦役全体への参加と、本戦の現場にいたかどうかは分けて考える必要がある。
一方、息子の正純は家康に従っていた。同じ本多父子であっても、同じ場所にいたわけではない。関ヶ原に関する記述では、正信と正純の名前を取り違えないことが大切になる。のちに父子が江戸と駿府に分かれて主君を補佐する体制を考えるうえでも、この区別は欠かせない。
正信が秀忠のそばにいたことから、秀忠軍の判断をすべて正信の策に帰すことはできない。攻城の継続や進軍の遅れをめぐる軍議の会話も、その場の発言を確かめられる史料なしには再現できない。確認できるのは、正信が秀忠軍に属し、上田を経て西へ向かったという行動である。
本戦に遅れた経験のあとも、正信は秀忠に仕え続ける。慶長10年(1605)、秀忠が二代将軍となると、正信はその政務を支える立場へ進んだ。正信の晩年の仕事は、家康一人への奉仕から、次の将軍を支える役割へ広がっていく。
江戸の正信、駿府の正純

秀忠が将軍となったあとも、家康は大御所として政治に関わった。とくに慶長12年(1607)に家康が駿府へ移ると、江戸の将軍と駿府の大御所が政務を担う形が明瞭になる。正信は江戸の秀忠を、息子の正純は駿府の家康を補佐した。
父子の連絡を伝える資料が、本間美術館の所蔵する正純の書状である。宛先は父の正信。駿府城の火災後に家康が正純邸へ移った時期の文書で、慶長13年(1608)正月のものと推定されている。正純は、上杉景勝と直江兼続から届いた蝋燭を家康へ取り次いだことを父へ報告した。
大名から贈り物が届き、側近が主君へ渡し、その経過をもう一方の側近へ知らせる。父子の協力は、このような具体的なやり取りとして残っている。そこに書かれているのは密談の台詞ではなく、誰から何が届き、どこへ伝えたかという実務の記録だ。
正信の仕事は、大名家の相談にも及んだ。慶長16年(1611)、真田信之から父・昌幸の供養について相談を受け、返書を送っている。信之の心情に配慮しながら、流罪となった昌幸を弔うには公儀の許可を得るよう求めた。親子の情と、幕府の処分とを調整しなければならない場面だった。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣でも、正信は秀忠に従った。晩年まで軍事と政務の両方に関わったのである。ただし、大坂城の堀の埋め立てを指揮した正純の仕事を、父の正信の事績として扱ってはいけない。似た名前の父子は、それぞれ異なる場所で役割を果たした。
家康と同じ1616年、江戸で死去

元和2年(1616)、家康が死去した。同じ年の旧暦6月7日、本多正信も江戸で生涯を終える。天文7年(1538)生まれで、数え79歳。主君の死に続く最期だったが、殉死を裏付ける根拠は、ここで確認した辞典や資料にはない。
正信の死因についても、具体的な病名や直接の原因は特定できない。高齢だったことはわかるが、年齢だけを理由に老衰と決めることはできない。毒殺や自害などの劇的な最後を伝える根拠も確認できず、死去の年月日と場所を確かな情報として記しておきたい。
正信が亡くなった時点で、秀忠はすでに将軍として政務を担い、正純も家康の側近として経験を積んでいた。正信は家康の天下取りだけを支えて世を去ったのではない。次代の将軍のもとでも働き、徳川の支配が継承される時期を生きた。
その後、長男の正純は宇都宮15万5,000石の大名となるが、元和8年(1622)に改易される。これは正信の死から6年後の出来事である。父が息子の失脚を見届けたわけではなく、父子の最期を一つの場面として描くことはできない。
一方、次男の政重を初代とする加賀本多家は、前田家の重臣として続いた。正純の失脚によって正信の子孫がすべて絶えたわけではない。一人の側近が世を去ったあと、その子供たちは別々の主君や土地と結びつき、それぞれの家の歴史を歩んでいった。
史料の読み解き
本多忠勝との関係は? 同じ本多氏でも別の家
本多正信と本多忠勝は、兄弟でも親子でもない。本多氏の系譜では別の枝に属する一族として扱われる。『世界大百科事典』の「本多氏」は、助政の子とされる定通・定正の系統を区別し、忠勝を定通系、正信を定正系に位置づけている。
ただし、本多氏の古い系譜自体には不明な部分がある。共通祖先から何親等離れているかを厳密に数え、確定した血縁関係として示すのは難しい。「遠い一族とされるが、直接の親子・兄弟ではない」と理解するのがよい。
| 比較する点 | 本多正信 | 本多忠勝 |
|---|---|---|
| 生年 | 1538年 | 1548年 |
| 父 | 本多俊正 | 本多忠高 |
| 通称 | 弥八郎 | 平八郎 |
| 系譜上の流れ | 定正系 | 定通系 |
| 徳川家で知られる働き | 文書の取次ぎ、家康・秀忠の政務補佐 | 合戦での指揮と武勇 |
同姓で同じ主君に仕えた二人を、対照的な人物として描く物語は多い。正信を嫌う忠勝、武功を持たない正信、と並べれば役割の違いはわかりやすくなる。しかし、そこから二人の生涯を通じた不仲や、徳川家中全体からの嫌悪まで断定することはできない。
正信が秀忠軍に従った事実は、政務を得意とする家臣も戦争に関わったことを示している。武勇と政務を完全に別々の世界に置くよりも、同じ政権に必要な仕事をそれぞれ担ったと考える方が実態に近い。本多忠勝の生涯と読み比べると、同じ本多姓の二人を混同せずに追える。
死因と最後は? 死去の日付と病名を分ける
本多正信の死去は、元和2年(1616)旧暦6月7日、江戸とされる。没年齢の79歳は数え年である。数え年は生まれた年を1歳とし、新年ごとに年齢を加えるため、現在一般的な満年齢とは一致しない。
死因については、ここで確認した辞典類は具体的な病名を示していない。高齢だったことから老衰を想像することはできても、それを診断として記事に書く根拠にはならない。「いつ、どこで亡くなったか」と「何が直接の原因だったか」は、資料からわかる範囲が異なる。
家康は同年の旧暦4月17日に亡くなっている。正信の死去はその約2か月後にあたる。主君の後を追うような時期だが、これだけで殉死や自害と結びつけることはできない。本人の意図を示す史料なしに、死去の日付へ意味を付け加えるのは避けたい。
また、正信が正純に遺言を残し、その直後に正純の家が滅びたかのような説明も年代を縮めすぎている。正純が宇都宮へ移ったのは父の死から3年後、改易は6年後だった。正信の最後と、息子のその後には時間の隔たりがある。
一向一揆で家康を裏切った理由と、帰参の謎
正信が家康に敵対したのは、三河一向一揆で一揆側に加わったためである。この意味で「家康を裏切った」と説明することはできる。ただし、なぜその道を選んだのかという内面まで、同じ確かさでわかるわけではない。
安城市の解説は、一揆の背景に寺院の権利と家康の領国支配の衝突を置く。寺を守る門徒の中には家康の家臣もおり、主従関係と信仰・地域の結びつきが重なっていた。主君と宗教の二者択一だけでなく、寺が持つ具体的な権利をめぐる争いだった点が重要になる。
本證寺には堀や土塁が残る。現在の境内を見ると、寺が祈りの場であると同時に防御の拠点でもあったことを実感しやすい。ただし、現存する本堂などは江戸時代の建物であり、一揆当時の景観がそのまま残っているわけではない。遺構と後世の建築を区別すると、史跡から読み取れる内容も明確になる。
帰参の理由はさらに不確かである。家康が正信の能力を評価したことは、その後の仕事からうかがえるが、許した瞬間の心情や条件まではわからない。鷹匠として戻ったという伝承を、必ずしも確定した経歴にできないのも同じ理由だ。
帰参の年を一つに決めるより、天正年間には文書発給に関わる立場にいたことを押さえたい。正信の評価が変わった過程には空白がある。それでも、一揆で敵対した人物が再び家康に仕え、重要な政務を任されるようになったという変化は追える。
徳川家康は正信に何を任せたのか
正信の働きを「家康の知恵袋」と表現するだけでは、具体的な仕事が見えにくい。残された書状には、贈答の取次ぎ、相手への返答、大名家からの相談などが現れる。誰が主君への用件を受け取り、どう伝えるかは、政権を動かすうえで欠かせない役割だった。
岐阜県歴史資料館の徳山秀現宛て書状は、家康への贈答と正信の立場を結びつける。正信は家康に近い場所にいるだけでなく、その周囲の連絡を引き受ける人物として手紙に名を残している。文書の存在によって、漠然とした「信頼関係」を実務の形で捉えられる。
さらに、本間美術館の正純書状からは、家康のもとで働く息子が、父へ情報を送っていたことがわかる。贈り物の内容が蝋燭であっても、その連絡は政権中枢の人間関係を映している。大名と主君をつなぐだけでなく、父子が離れた場所で相手の動きを把握していたのである。
正信を万能の策士として描くと、あらゆる出来事が彼の計略に見えてしまう。だが、書状に表れる仕事の積み重ねだけでも、その立場の重さは理解できる。家康を支え、やがて徳川秀忠の政務を担ったことが、正信の経歴の中心にある。
真田昌幸の供養をめぐる一通の手紙
上田市の資料公開ページには、慶長16年(1611)旧暦6月13日付の正信書状が掲載されている。宛先は真田信之。父の昌幸が九度山で亡くなったことを受け、信之が供養について相談した際の返答である。
正信は、信之が父を失った悲しみに配慮しつつ、昌幸が「公儀御憚りの仁」であることを指摘した。幕府から処分を受けた人物であり、供養を行うにも上の許しを得る必要がある、という趣旨だ。親を弔うという私的な行為にも、昌幸の政治的立場が関わっていた。
この一通から、正信が信之に冷酷だったと決めることも、密かに真田家を救ったと物語ることもできない。手紙が伝えるのは、相談を受けた正信が、幕府の処分と供養の手続きをどう結びつけたかである。
正信が介在したのは、戦場の勝敗だけでは解決しない問題だった。父を弔いたい子がいて、その父には流罪という処分があった。両方を踏まえて返答する側近の仕事は、抽象的な「知略」よりも、このような一件によく表れている。
家系図で見る父・兄弟・息子
正信の父は本多俊正である。弟の本多正重は、正信とともに三河一向一揆に関わった。一方、次男は本多政重。同じ「まさしげ」という読みでも、弟は「正重」、息子は「政重」と書く。家系図を読む際に混同しやすい箇所だ。
| 正信との関係 | 人物 | 主なつながり |
|---|---|---|
| 父 | 本多俊正 | 三河の本多氏 |
| 弟 | 本多正重 | 正信とともに三河一向一揆に参加 |
| 長男 | 本多正純 | 家康の側近、のち宇都宮藩主 |
| 次男 | 本多政重 | 加賀本多家の初代 |
| 三男 | 本多忠純 | 下野榎本藩主 |
ここでは父子・兄弟の関係を中心に整理した。子供の一覧は、正信の家に生まれた全員を網羅するものではない。また、家系図で子の名前が横に並んでいても、全員の母が同じだという意味にはならない。
正純は父とともに徳川の政務に深く関わったが、政重は加賀の前田家に仕える道を歩んだ。忠純も榎本に領地を持つ大名となる。同じ父の息子でも、仕えた家と政治的な立場は異なる。正信の後継者を正純一人だけと考えると、家の広がりを見落としてしまう。
子孫はどうなった? 正純の改易と加賀本多家
長男の正純は、元和5年(1619)に宇都宮15万5,000石へ移り、元和8年(1622)に領地を失った。その後は出羽へ送られ、横手で寛永14年(1637)に亡くなっている。正信の死後も一時は大きな地位を得たが、政治の中枢から退けられたのである。
ただし、正純の改易を正信一族全体の断絶と捉えるのは誤りだ。次男・政重を初代とする加賀本多家は、前田家の重臣として続いた。日本博物館協会の加賀本多博物館紹介では、政重は5万石を領し、加賀藩の八家筆頭となったと説明されている。幕府の大名である正純とは、主君も家の位置づけも違っていた。
石川県が紹介する「加賀本多家伝来品」には、政重と二代政長に関わる武具や馬具などが含まれる。なかには、父の正信から政重へ伝わったとされる腹巻もある。腹巻は鎧の一種である。伝来の説明には留保が付くが、正信と加賀の家を結ぶ品として伝えられてきた。
子孫を調べるときには、こうした家の継承と伝来品が具体的な手掛かりになる。正純の失脚だけで物語を閉じず、加賀に続いた家にも目を向けたい。現在の特定の個人を正信の子孫と断定するには、さらに各世代をつなぐ系譜の確認が必要になる。
正信ゆかりの土地と、残された資料
三河時代を考える場所として、本證寺の境内がある。安城市の解説では、発掘調査によって一揆以前の土地利用や、一揆後に埋められた堀の跡が確認されている。目に見える建物だけでなく、地中の遺構も寺の歩みを伝える資料となる。
本證寺には正信の供養塔もある。安城市長の2023年のメッセージは、一揆のゆかりを訪ねる文脈でこの塔に触れている。ただし、供養塔があることと、遺骨がそこに葬られたことは同じではない。墓所を調べる際は、埋葬地と供養のための記念物を区別したい。
正信の仕事を知るには、岐阜の徳山家文書、上田の真田家関係資料、本間美術館の正純書状が手掛かりになる。それぞれ、贈答、供養の相談、父子の報告という異なる場面を伝えている。ひとまとめに「謀臣の書状」とするよりも、誰に何を伝えた手紙かを読むと、彼の活動範囲が見えてくる。
加賀本多博物館の伝来品は、息子の政重以降へ視野を広げてくれる。生まれた三河、政務に関わった江戸、子の家が続いた加賀。正信に関する資料は一か所に集まっているわけではなく、本人と家族が結んだ関係に沿って各地に残っている。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と留意点 |
|---|---|---|
| 三河一向一揆で家康に敵対した | 高 | 辞典類と安城市歴史博物館の解説が一致 |
| 一揆への参加は信仰心だけが理由だった | 低 | 本人の動機を一つに絞れる資料は確認できない |
| 帰参は1582年、鷹匠としてだった | 留保が必要 | 帰参年に異説があり、鷹匠説も伝承として扱う |
| 忠勝と正信は兄弟・親子ではない | 高 | 本多氏の系譜では別系統。古い祖先関係には不明点がある |
| 関ヶ原の戦役で秀忠軍に従った | 高 | 上田攻めを経て、本戦には間に合わなかった |
| 晩年は正信が秀忠、正純が家康を補佐した | 高 | 辞典類の説明と父子間の書状を参照 |
| 1616年旧暦6月7日に江戸で死去した | 高 | 辞典類で一致。年齢は数え79歳 |
| 具体的な死因が老衰だった | 未確認 | 高齢であることから病名・死因は確定できない |
| 正信が『本佐録』を書いた | 低 | 本人の著に仮託された書物とする見解がある |
| 正純の改易で正信の子孫がすべて絶えた | 誤り | 政重を初代とする加賀本多家が続く |
参戦合戦
本多正信の逸話
- 逸話 01
鷹匠としての帰参と、足取りの空白

旅装を置いた正信の想像図。帰参の特定場面を復元したものではない · AI生成イメージ 正信が鷹匠として家康に仕えたという話は、人物像を語る際によく登場する。鷹狩りに同行して主君と親しくなった、と聞けば、その後の出世もわかりやすい。ただし、『日本大百科全書』は鷹匠説を伝承として扱い、帰参の時期も明らかではないとしている。
帰参したことと、その入口が鷹匠だったことは、同じ確かさではない。さらに、鷹匠だったという話から、鷹狩りのたびに密談した、他の家臣を遠ざけた、と行動を付け足すこともできない。帰参までの空白を、一続きの成功物語で埋めるのは慎重でありたい。
戻ったあとの正信には、文書を扱う仕事の跡が残る。いつ許され、誰の口添えを受けたかを一つに決められなくても、その後に任された仕事は追える。再出発の瞬間を飾る伝承と、帰参後の活動を示す書状。それぞれから得られる情報を分けると、正信の生涯は読み違えにくくなる。
- 逸話 02
父の遺言と、正純の失脚を直結させない

家の継承を表す衣服と文箱の想像図。正信の遺品ではない · AI生成イメージ 正信には、息子の正純へ加増を戒めたという逸話が伝わる。小さな領地にとどまった父と、大領を得て失脚した子。この対照は教訓として語りやすい。しかし、ここで確認した資料では遺言の正確な文言を特定できないため、正信の肉声として引用はしない。
正純は元和5年(1619)に宇都宮へ移り、元和8年(1622)、最上氏の領地接収のため山形にいた際に改易された。秀忠を殺す仕掛けを宇都宮城に造ったという「釣天井」の話は、辞典類でも史実とは認められていない。実際の改易と、そこから生まれた物語を混同してはいけない。
改易の背景には、秀忠との関係や政権内部の対立が論じられている。領地が増えたことだけで失脚の原因を説明するのは難しい。父の処世訓に従わなかったから罰を受けた、という筋書きよりも、家康の死後に正純の立場がどう変わったかを見る必要がある。
- 逸話 03
『本佐録』は正信本人の言葉なのか

江戸期の教訓書を思わせる書物の想像図。『本佐録』の現存本の複製ではない · AI生成イメージ 『本佐録』は、政治を担う者の心得を説く書物で、本多佐渡守正信の名に結びつけて読まれてきた。大名や家臣、百姓の統治などを扱い、秀忠の問いに答える形をとる。書名や伝来だけを見れば、正信が政務経験を書き残した本にも思える。
だが、著者を正信とする見方には問題がある。『世界大百科事典』は他の教訓書に手を加えて正信の著に仮託したものとし、『山川 日本史小辞典』も本人の著作とは確定しない。仮託とは、別の人物の名を借りて著作を伝えることである。
このため、『本佐録』の一節をそのまま正信の名言や臨終の遺言にすることはできない。一方、後世の人々が政治の心得を語るとき、正信の名に説得力を感じたことを考える材料にはなる。生前の仕事を知る書状と、死後の人物像を映す書物には、異なる読みどころがある。
関連人物
- 本多俊正
- 本多正純(長男・宇都宮藩主)
- 本多政重(次男・加賀本多家)
- 本多忠純(三男・榎本藩主)
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 上田城の歴史(1600年の昌幸・信繁と秀忠軍)上田市参照日 2026-10-09
- 本多忠勝(生年・父・通称の照合)コトバンク参照日 2026-10-09
- 本多正信(世界大百科事典・日本大百科全書・日本人名大辞典ほか)コトバンク参照日 2026-10-09
- 本多氏(所理喜夫・林亮勝ほか執筆)コトバンク参照日 2026-10-09
- 本多一族―徳川家康を支えた武士たち―安城市歴史博物館/インターネットミュージアム参照日 2026-10-09
- 徳川家康と安城安城市参照日 2026-10-09
- 国史跡 本證寺境内安城市参照日 2026-10-09
- 本多正信書状(徳山家文書)岐阜県歴史資料館参照日 2026-10-09
- 本多正信書状(真田信之宛、慶長16年6月13日)上田市立博物館・真田宝物資料館参照日 2026-10-09
- 本多正純書状 本多正信宛本間美術館参照日 2026-10-09
- 本多正純(世界大百科事典・日本大百科全書ほか)コトバンク参照日 2026-10-09
- 加賀本多博物館日本博物館協会参照日 2026-10-09
- 加賀本多家伝来品石川県参照日 2026-10-09
- 本多正信の子息と系譜に関する解説JBpress参照日 2026-10-09
- 本佐録(世界大百科事典・山川 日本史小辞典ほか)コトバンク参照日 2026-10-09
- 市長のメッセージ 2023年8月(本證寺の本多正信供養塔)安城市参照日 2026-10-09













