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冬の蔚山城包囲を題材にしたAI生成の想像図。城郭・地形・布陣の復元ではない(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

蔚山城の戦い|1597〜1598年・慶長の役と加藤清正の籠城

蔚山城の戦いは慶長の役で起きた二度の攻防。1597〜1598年、加藤清正・浅野幸長の籠城と水・兵糧不足、立花宗茂らの救援、小早川秀秋の参戦説を史料からたどり、城を守った結果と日本軍撤退までを読み解く。

1597–1598年第一次:慶長二年十二月〜三年正月/第二次:三年九月朝鮮・蔚山城(現・韓国蔚山広域市中区)勝 日本軍(蔚山城を防衛)敗 明・朝鮮軍(攻城を断念)戦国ジャーナル編集部戦いを読む
蔚山城をめぐる攻防
二度
第一次と第二次を区別
朝鮮への再侵攻
慶長の役
1597〜1598年
第一次籠城の弱点
水・兵糧
城の備えが整う前の包囲

この戦いの要点

  1. 清正と幸長の籠城

    第一次では加藤清正・浅野幸長らが城を守った。堅い石垣があっても、水や食糧の不足が守備側を追い詰めた。

  2. 城外の救援が包囲を解く

    毛利秀元・黒田長政らが救援に動き、慶長三年正月四日に明・朝鮮軍は撤退。立花宗茂の関与も、諸将の共同作戦として読む。

  3. 防衛成功と侵攻の結末

    九月の再攻撃でも城は落ちなかったが、秀吉の死後、日本軍は撤兵した。蔚山の防衛は朝鮮侵攻全体の成功を意味しない。

蔚山城の戦いは何の役か

石垣を守り切っても、飲む水が尽きれば城は危うい。蔚山城の戦いは、豊臣秀吉による朝鮮への再侵攻、慶長の役で起きた攻城戦である。加藤清正・浅野幸長らが籠城し、明・朝鮮軍の攻撃を受けた。第一次は慶長二年(1597)十二月から翌三年正月、第二次は三年(1598)九月の戦いを指す。二度とも城は落ちなかったが、その後、日本軍は朝鮮半島から撤退した。

「蔚山」は「うるさん」と読む。現在の韓国・蔚山広域市にある城で、日本側が侵攻先に築いた倭城の一つだった。先の文禄の役とは、講和交渉を挟んで戦争が再開された点を区別したい。この記事の日付は旧暦にそろえ、年は対応する和暦年の西暦表記を添える。旧暦の十二月二十二日を、そのまま現在の暦の12月22日と読むことはできない。

清正の籠城、立花宗茂らの救援、小早川秀秋をめぐる武功談は、同じ戦いに関係しながら、史料で確かめられる範囲が違う。まずは城の内側と外側で何が起きたかを追ってみよう。

蔚山城の場所と、築城を急いだ理由

蔚山城は、朝鮮半島南東部を流れる太和江の下流、島山と呼ばれた丘に築かれた。島山城ともいい、城跡は現在の鶴城公園一帯に残る。蔚山広域市中区の案内は、浅野幸長らによる築城と加藤清正の駐屯を伝えている。城の石材には、周辺の既存の城から運ばれたものも使われたという。日本軍の拠点整備は、侵攻を受けた地域の城や土地の利用を変える行為でもあった。

羅麗馨の築城研究によれば、日本軍は南岸に複数の城を整備し、蔚山もその一角を占めた。城の立地は河口や海上交通との関係が深い。ただし、当時の海岸線と現在の市街地を同じものとして、現代地図に軍勢を置くことはできない。ここでは、川と海を通じて城外と連絡できる場所だったことを押さえたい。

城壁を立ち上げる仕事と、籠城に備える仕事は別だった。兵を収容できても、食糧、飲み水、弾薬がそろわなければ長くは持たない。蔚山では、その備えが整う前に敵の攻撃が始まった。完成した城で計画どおりに敵を待ち受けた、という状況ではなかったのである。

第一次の戦い|加藤清正・浅野幸長の籠城

愛媛県歴史文化博物館は、第一次の攻防を旧暦の慶長二年十二月二十二日から翌三年正月四日までとしている。明側の楊鎬・麻貴、朝鮮側の権慄らが蔚山へ向かった。攻撃が迫った時、加藤清正は西生浦におり、蔚山の城外には浅野幸長や太田一吉らがいた。井上泰至の合戦経過の整理では、幸長らは城外での戦闘を経て城へ退き、知らせを受けた清正が船で戻って防衛に加わる。清正一人が最初からすべてを指揮した、と描くと緒戦の担い手を見失う。

冬の城内で周囲を見守る加藤清正のAI生成の想像図。特定の場面や装束の厳密な復元ではない

石垣と城兵の抵抗は、攻め手を食い止めた。一方、後世に編纂された中国側の史書『明史』も、城が堅固であることと、水・食糧を断つ包囲の方針を記している。攻撃をはね返すたびに城内の備蓄が減る。敵が石垣を登れなくても、包囲が続くこと自体が守備側への圧力になった。

『行橋市史』は、水や兵糧に加えて鉄砲の玉薬も不足し、投降者が出たとする。年末には和睦をめぐる動きもあった。寒さの中で、城兵は攻撃への対応と物資の欠乏に同時にさらされたのである。清正の忍耐だけで説明するよりも、戦える城と、持ちこたえられる城の違いを見ると、この籠城の厳しさが分かる。

空に近い水桶と少量の穀物で籠城中の補給難を表したAI生成イメージ。出土品の復元ではない

立花宗茂らの救援|包囲を外から動かす

城内だけで解けない包囲を、城外から動かしたのが救援軍だった。

毛利秀元、黒田長政らが蔚山へ向かい、正月四日、明・朝鮮軍は撤退する。九州国立博物館の解説は援軍の到着を正月二日、井上の整理は南方の高地への到着を三日とする。援軍の集結を一日の一場面にまとめず、年明けに救援が進み、四日に包囲が解けたと読むのがよい。

立花宗茂も、井上が整理した第一次の救援諸将に名を連ねる。ただし、これを宗茂一人の奇策で大軍を退けた話へ縮めることはできない。博物館や自治体の解説を比べると、毛利・黒田勢をはじめ複数の部隊が動いたことが分かる。愛媛県歴史文化博物館の秀吉朱印状の解説は、加藤嘉明の救援参加も伝えている。 宗茂の働きは、城内の抵抗と諸将の救援が結び付いた中に置きたい。

冬の水辺で救援に備える立花宗茂のAI生成の想像図。上陸地点や部隊配置を特定するものではない

包囲が解けたことは、当時の書状にも残った。慶長三年正月三十日付の徳川家康書状は、太田一吉の蔚山での働きを称えている。太田は、小早川秀秋の目付として朝鮮へ渡っていた人物である。この書状が示すのは、前線の働きが日本国内にも伝わっていたことだ。家康自身が海を渡り、清正を救出したという意味ではない。

小早川秀秋は参戦したのか|総大将と武功談

小早川秀秋は、慶長の役で日本軍の総大将として渡海した。『行橋市史』は慶長二年七月の釜山上陸を記す。秀秋を蔚山救援の諸将に挙げる叙述もあり、先に触れた井上の合戦経過にも名前が見える。ただし、渡海軍の指揮者だったこと、配下の太田一吉が籠城したこと、秀秋本人が突撃したことは、それぞれ別の主張である。

今回確認した家康書状の解説が裏付けるのは、太田の立場と働きである。これをそのまま秀秋本人の武功の証拠にすることはできない。参戦を記す叙述は紹介できても、本人の細かな動きや戦果まで確定した経過として描くには留保が要る。本記事の秀秋の画像も、朝鮮で指揮を担う立場を題材にしており、蔚山での突撃を再現したものではない。

朝鮮の陣所で報告を待つ小早川秀秋のAI生成の想像図。蔚山での本人の参戦を示す図ではない

戦後の処遇にも注意が必要だ。中野等の研究は、慶長三年に秀秋の越前への転封が命じられ、筑前の旧領が収公され、石田三成が代官となった経過を整理している。そして翌年、秀秋は筑前へ復帰する。領地が動いた事実と、その理由を「蔚山の武功を三成が悪く報告したから」と結ぶ説明は、同じ確かさではない。さらに関ヶ原の戦いでの離反まで、一つの恨みで説明することも避けたい。蔚山をめぐる話が有名であるほど、秀秋本人の行動を支える史料が何なのかを確かめる必要がある。

第二次の戦いと撤兵|城を守っても戦争は終わらない

第一次の包囲のあと、秀吉は城の備えを立て直そうとした。正月十七日付の加藤嘉明宛朱印状では、城の普請を丈夫にし、兵糧や玉薬を確保するよう命じている。寒さを案じて衣類を贈ったことも、同じ書状から分かる。精神論ではなく、食糧・弾薬・防寒を補う指示だった。

一方、現地の諸将からは蔚山城や順天城を放棄する案が出た。城を守れても、同じ苦境を繰り返すのではないか。前線を縮めようとする判断に対して、秀吉は城の保持を求めた。中野の研究は、報告を担う目付と現地の諸将との関係にも亀裂が生じた経過を論じている。戦いの後には、勝敗の報告だけでなく、戦線をどこまで維持できるかという問題が残った。

慶長三年九月、明軍は蔚山へ再び攻め寄せる。これが第二次蔚山城の戦いである。『明史』は麻貴の蔚山攻撃と、その失敗を記す。そこには空の陣地へ誘われたという叙述もあるが、それだけで立花宗茂の特定の奇策を証明することはできない。第一次の救援と、九月の戦闘にまつわる逸話を混ぜないことが大切だ。

城は再び守られた。しかし、八月に秀吉が死去した後、日本側では撤兵が進められ、十一月には清正も蔚山を離れる。つまり、蔚山城の防衛成功は、侵攻を続けられるという答えにはならなかった。城内の生還者だけでなく、侵攻を受けた朝鮮の人々や、戦場へ送られた兵の負担を含めて見れば、二度の防衛と戦争全体の結末を分けて考える必要がある。

晩秋の朝鮮沿岸で船出を待つ兵と木造船のAI生成の想像図。特定の港や撤兵日の復元ではない

通説と俗説の射程|兵数・屏風・英雄像

蔚山の戦いは、清正の苦境と生還を語る格好の題材になった。だが、軍記に描かれる会話や劇的な救出場面を、そのまま当日の記録として扱うことはできない。井上は『絵本太閤記』が先行する『増補朝鮮征伐記』などを踏まえ、清正やその家臣を強調する物語を作った過程を検討している。複数の本に同じ逸話があっても、同じ原拠を引き継いだものなら、独立した証言が増えたことにはならない。

合戦図屏風にも、描かれた時期を確かめる必要がある。九州国立博物館の「蔚山城合戦図屏風」は、十八〜十九世紀の作品とされる。現在残る作品と、そのもとになった絵の伝来を分けて見るべき資料だ。画面に描かれた人数を数えたり、配置を現代地図へ写したりするだけでは、戦場の実数や位置は復元できない。

兵力も同様である。城に籠もった兵、外から来た援軍、攻城に加わった明・朝鮮軍を、どの時点で数えるのか。第一次と第二次の数字を混ぜれば、比較そのものが成り立たなくなる。ここでは確かめられない人数で優劣を図示せず、籠城・補給・救援という関係を追った。

蔚山城を守ったのは、石垣の強さだけでも、一人の武将の勇気だけでもなかった。水と食糧の備え、城内の抵抗、城外の救援が、同じ場所で試された。それでも日本軍は撤退する。その結末までを戦国年表や慶長の役全体の経過と重ねると、武勇伝の舞台だった城が、長い侵攻を支え切れなかった前線の拠点として見えてくる。

両軍の対比

日本軍

加藤清正・浅野幸長ら

大将:加藤清正・浅野幸長ら
総兵力籠城軍と救援軍を分けて考える
出陣蔚山城と南岸の諸城
籠城加藤清正・浅野幸長・太田一吉ら
救援毛利秀元・黒田長政ら諸将
弱点第一次は水・食糧などの不足
城を防衛/1598年に撤兵
明・朝鮮軍

楊鎬・麻貴ら(第一次)

大将:楊鎬・麻貴ら(第一次)
総兵力動員数・攻城兵力は資料に差がある
出陣蔚山城周辺
朝鮮側権慄らが参加
第一次攻城と包囲を続けたのち撤退
第二次麻貴らが再び蔚山を攻撃
二度の攻撃で城を落とせず
vs

戦況の経過

南岸に城を築く
慶長二年(1597)秋
日本軍が南岸の拠点を整備。蔚山では城と籠城の備えを急いだ。
第一次の包囲
同年十二月二十二日〜
明・朝鮮軍が攻撃。清正・幸長らの籠城は水や食糧不足で苦しくなる。
援軍到来、包囲が解ける
慶長三年(1598)正月四日
日本側諸将の救援を受け、明・朝鮮軍が撤退する。
普請と備蓄の指示
同年正月十七日
秀吉が加藤嘉明らに、城の補強と兵糧・玉薬の確保を指示する。
第二次の攻撃
同年九月
明軍が蔚山方面へ再攻撃。城は落ちなかった。
朝鮮半島から撤兵
同年十一月
秀吉の死後に進められた撤兵で、日本軍は蔚山からも退く。

その後の世界

1598
第一次の苦戦を受け、現地諸将から蔚山・順天などの放棄案が出る。秀吉はこれを認めず、前線の維持を求めた。
1598
秀吉の死後に撤兵が進む。二度の防衛に成功した蔚山城も、日本軍が保持し続ける拠点ではなくなった。
近世
軍記や合戦図屏風で清正らの武功が語られ、戦場の記録に後世の英雄像が重なっていく。
現在
城跡は韓国・蔚山広域市の鶴城公園一帯に残る。蔚山倭城・島山城の名でも知られる。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 不変の信頼 今に伝える 加藤嘉明へ秀吉朱印状(第132回)
    愛媛県歴史文化博物館参照日 2026-10-21
  2. 蔚山倭城
    蔚山広域市中区参照日 2026-10-21
  3. 『行橋市史』慶長の役(268〜269頁)
    行橋市/ADEAC参照日 2026-10-21
  4. 蔚山城合戦図屏風(A153、18〜19世紀)
    九州国立博物館参照日 2026-10-21

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-21

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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