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水辺の柳川城を題材にした想像図(AI生成)。1600年の城郭を正確に復元したものではない(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

柳川の戦い|1600年、難攻不落の柳川城と立花宗茂の開城

柳川の戦いは1600年、関ヶ原後の筑後で起きた合戦。城主・立花宗茂の軍が江上・八院で鍋島直茂勢に敗れ、加藤清正・黒田如水との交渉を経て開城した。難攻不落と呼ばれた柳川城の実像と、城主交代の経緯をたどる。

1600年慶長五年十月(旧暦)筑後国・江上、八院、柳川城勝 鍋島勢・加藤勢・黒田勢敗 立花勢戦国ジャーナル編集部戦いを読む
関ヶ原後の筑後
1600年
慶長五年十月・旧暦
江上・八院で交戦
10月20日
柳川城の北方で立花勢敗北
柳川城を開城
10月下旬
降伏・開城日の記述には差がある

この戦いの要点

  1. 野戦と開城を分ける

    小野鎮幸らが鍋島勢と戦った江上・八院の野戦と、城主・立花宗茂が柳川城を開いた交渉は別の局面だった。

  2. 清正と如水も迫る

    鍋島勢の勝利後、加藤清正・黒田如水の軍勢が柳川に迫った。家康の許しを伝える使者の到着が、開城へつながった。

  3. 難攻不落という評判

    堀と水辺の地勢は城の守りを支えた。ただし、1600年に三年間籠城したわけでも、後世の五層天守が完成していたわけでもない。

柳川の戦いとは――関ヶ原のあとに続いた戦争

柳川の戦いは、1600年(慶長5)10月、筑後の城主・立花宗茂と、鍋島・加藤・黒田の軍勢が戦った一連の軍事行動である。立花勢は江上・八院の野戦で鍋島勢に敗れ、その後、宗茂が柳川城を開いた。難攻不落と呼ばれる城にも、戦いを終える時が来た。

この戦いは「柳川合戦」「柳川城の戦い」とも呼ばれる。なかでも江上・八院合戦は、10月20日に柳川城の北で起きた野戦を指す。小野鎮幸らが戦った場所と、宗茂が交渉の末に開いた城は分けて見る必要がある。日付は以下、当時の旧暦で記す。

きっかけは、9月15日の関ヶ原の戦いでの西軍敗北だった。宗茂は西軍として近江の大津城攻めに加わっており、関ヶ原本戦にはいなかった。大津での戦果があっても、政権の行方を決める局面では西軍が敗れていた。国元へ戻った宗茂を、今度は九州での戦争が待っていたのである。

城主・立花宗茂と「難攻不落」の柳川城

柳川城は、蒲池氏が永禄年間に築いたと伝えられる。 1584年に始まる筑後出兵では、立花道雪と高橋紹運が、龍造寺側の守る城を攻めても落とせなかった。宗茂が城主となる前から、容易には攻め落とせない城だったことがうかがえる。

1587年、豊臣秀吉の九州平定後、宗茂は柳川を本拠とする大名になった。道雪の養子であり、紹運の実子でもある武将が、父たちの落とせなかった城に入ったのである。宗茂は領内の検地領地の田畑を測量し、収穫高(石高)を確定する土地調査。豊臣秀吉による太閤検地が代表例で、近世社会の土台となった。や城の修築に取り組んだが、文禄・慶長の役にも出征しており、国元だけで領国経営に専念できたわけではない。

水辺に面した木造の室内に座る立花宗茂の想像図。既存記事の人物像を基にしたAI生成画像

柳川の守りを考えるうえで、堀割と低湿地は欠かせない。高い山に立つ城ではなく、水と平地の地形を利用する城だった。建設コンサルタンツ協会の解説も、堀割が暮らしを支えるとともに、防衛の役割を担ったことを指摘している。

ただし、現在知られる城の姿を、そのまま1600年へ戻してはならない。柳川市の文化財解説によれば、五層の天守を含む近世城郭は、宗茂の改易後に入った田中吉政が整えたものだ。この戦いを「五層天守の城に宗茂が籠もった」と描けば、城の年代を取り違える。水に守られた城という地勢と、後世に完成した城郭は区別したい。

鍋島直茂はなぜ立花を攻めたのか

柳川に迫った鍋島直茂の側にも、関ヶ原後の切実な事情があった。直茂の子・勝茂と龍造寺高房は、当初、西軍に加わって伏見城攻めや伊勢方面の戦いに出ていた。西軍が敗れた以上、そのままでは家の存続が危うい。家康側に協力した実績を示す必要があった。

中野等の研究解説では、直茂・勝茂による立花攻撃には、井伊直政らの教示があったとされる。加藤清正も、柳川を攻めることが家康への忠節になると直茂に勧めていた。鍋島側の攻撃は、単なる隣国同士の争いではない。関ヶ原の敗者となる危険を抱えた家が、戦後の処分に向き合う行動でもあった。

平坦な田野に設けた陣所の前に立つ鍋島直茂の想像図。特定の場面を復元したものではないAI生成画像

守友隆の研究によれば、鍋島勢は10月14日に佐賀を出陣した。そして20日、立花側の迎撃部隊と江上・八院で衝突する。戦場は現在の久留米市・大川市・大木町にまたがる地域で、柳川城そのものの堀際ではない。「柳川の戦い」を城への総攻撃だけで思い浮かべると、この重要な局面が抜け落ちる。

江上・八院合戦――小野鎮幸らの迎撃

立花側の野戦を担ったのが、小野鎮幸らだった。柳川城の守りが堅くても、城外で敵を食い止める戦いがうまくいくとは限らない。江上・八院では鍋島勢が勝ち、立花勢は敗れた。守友の研究は、この戦いで立花統次が戦死したと記している。

小野鎮幸自身も負傷した。立花家史料館が紹介する宗茂の感状には、鎮幸が2か所の傷を負ったことが記されている。感状は、戦功を認めて賞する文書である。後世の勇ましい物語だけでなく、当事者が家臣の働きを認めた文書からも、激しい戦闘だったことがわかる。

水路のある平坦な田野を進む無名の兵たちの想像図。江上・八院の布陣や進軍路を示すものではないAI生成画像

一方、兵力や損害の数字は慎重に扱う必要がある。野戦に出た人数、城に残った人数、後から迫った加藤・黒田勢を一つにまとめれば、別の局面の軍勢を比較することになる。ここでは閲覧できた史料解説から総数を確定できないため、兵力差を数字や比率では示さない。

この敗北で、立花側は城外の戦闘によって鍋島勢を退けることができなかった。宗茂のもとへは、さらに加藤清正と黒田如水の軍勢も迫る。柳川城を守れるかという問題に、どの条件で戦争を終えるかという問題が重なった。

加藤清正・黒田如水との交渉と開城

加藤清正は肥後での軍事行動を進めたのち、筑後へ向かった。黒田如水(官兵衛)の軍勢も柳川へ迫った。鍋島勢との野戦が終わっても、立花領への軍事的な圧力は続いていたのである。

ここで宗茂のもとに、家康の許しを伝える使者が来た。宗茂の書状を紹介する立花家史料館の解説によれば、丹親次が身上安堵の朱印を携えて水田へ到着した。家康の意思が、宗茂と弟・高橋直次の助命にかかわる条件として伝えられたのである。書状と研究を合わせると、開城は敵の武力と、この許しの伝達を受けた交渉の先にあった。

陣所に座る加藤清正の想像図。開城交渉の具体的な会見を描いたものではないAI生成画像

柳川城は10月下旬に開かれた。九州文化財研究所の資料集には、山田貴司の解説で宗茂の降伏を24日とする一方、巻末年表では講和・開城を25日とする記載がある。降伏の決定、講和、城の明け渡しを同じ出来事として扱うかにも注意がいる。ここでは日を一つに決めず、20日の野戦から下旬の開城へ進んだ経過を押さえる。

清正が一人で説得し、すべてを収めたという説明では足りない。鍋島勢の戦勝があり、加藤・黒田勢の圧力があり、家康の許しが届いた。宗茂が城を開くまでには、複数の武将と使者がかかわっていた。城の堀を越える戦闘だけで、結末が決まったわけではなかった。

通説と俗説の射程――難攻不落でも開城した理由

「難攻不落の柳川城」は、城の堅さを伝える呼び方である。柳川には、攻略に3年かかるとする「柳河三年」の言い伝えがある。しかし、これは1600年に3年間の籠城戦が続いたという記録ではない。この戦いは同年10月の軍事行動と交渉のなかで終わっている。

堀割が防衛に役立ったことと、この時に特定の水門を操作して敵を防いだことも、同じではない。水利の解説だけを根拠に、1600年の水攻めや冠水作戦の場面を足すことはできない。城の詳しい形も、部隊の配置も、裏づけられる範囲にとどめる必要がある。

では、宗茂はなぜ開城したのか。江上・八院で味方が敗れ、さらに別の軍勢が迫る状況で、家康の許しが伝えられたからだ。城主が向き合っていたのは、堀を守り切れるかどうかだけではなかった。このとき、柳川城の守りの堅さと、立花家の領地が安堵されるかは、別の問題だった。

その違いは戦後に表れる。宗茂らの命は保たれたが、柳川の領有まで存続したわけではない。西軍に加担した宗茂は改易となり、領地を失った。「城が破られなかったから勝利」「開城したから武将として弱かった」といった一方だけの評価では、この結末を説明できない。

柳川城の城主交代と立花宗茂の帰還

開城の前後も、宗茂は立花家の存続にかかわる手配を続けていた。 10月26日付の書状には、母・宋雲院を翌27日に人質として上洛させる予定が記される。戦闘が終われば、すぐ平穏な日常へ戻れたのではない。家族を送り出し、処分を待つ戦後が始まっていた。

清正との関係も、開城時の敵味方だけでは終わらなかった。立花家史料館が紹介する清正の書状には、肥後に移った誾千代への兵糧支援が見える。また、旧家臣たちを清正が預かったことは柳川市の解説にも記されている。戦争のあとの立花家は、こうした他家との関係のなかで支えられた。

水路の岸に荷を積んだ小舟を描く想像図。特定の人物の移動や日時を再現したものではないAI生成画像

1601年、柳川城には新たな城主・田中吉政が入った。吉政は城を大規模に修築し、城下町や道路、堤防の整備を進めた。今日語られる柳川の城と町には、立花氏だけでなく、田中氏が築いた部分も大きい。

そして1620年、田中忠政が跡継ぎのないまま亡くなると、宗茂は再び柳川へ封じられた。実際に再入城するのは翌1621年である。改易から再封まで20年。柳川の戦いで失った城に宗茂が戻ったことは、この敗戦が立花家の終わりではなかったことを示している。

両軍の対比

柳川を攻める側

鍋島直茂・勝茂/加藤清正・黒田如水

大将:鍋島直茂・勝茂/加藤清正・黒田如水
総兵力総兵力は確定できない
出陣肥前・肥後などから筑後へ
野戦鍋島直茂・勝茂の軍勢
包囲と交渉加藤清正・黒田如水ら
政治的立場家康側への協力
江上・八院で勝利、柳川城開城
柳川を守る側

立花宗茂/野戦の主将・小野鎮幸

大将:立花宗茂/野戦の主将・小野鎮幸
総兵力総兵力は確定できない
出陣筑後・柳川城と北方の戦場
城主立花宗茂
江上・八院小野鎮幸らが迎撃
政治的立場関ヶ原では西軍に加担
野戦で敗れ、交渉の末に開城
vs

戦況の経過

関ヶ原で西軍が敗れる
慶長五年九月十五日
宗茂は大津城攻めに加わっており、関ヶ原本戦には参加していない。西軍敗北後、国元の柳川へ戻った。
鍋島勢が佐賀を出陣
十月十四日
直茂・勝茂の軍勢が立花領へ向かう。この記事の月日は旧暦で、開始日は鍋島勢の出陣を基準とする。
江上・八院合戦
十月二十日
柳川城の北で立花勢と鍋島勢が衝突。小野鎮幸らが戦うが、立花勢は敗北した。
許しを伝える使者が到着
十月二十二日
家康の身上安堵の朱印を携えた丹親次が水田へ到着。柳川には加藤・黒田勢も迫り、交渉が進んだ。
柳川城を開く
十月下旬
宗茂は家康の許しが伝えられたのちに開城した。専門資料には降伏を二十四日、講和・開城を二十五日とする記載があり、ここでは日を一本化しない。
母の上洛を準備
十月二十六日付書状
宗茂は母・宋雲院を翌二十七日に人質として上洛させる予定を記した。開城後も、立花家は戦後処理への対応を続けた。

その後の世界

1600
宗茂は西軍に加担したことで改易され、柳川の領地を失った。開城時の助命と領地の存続は同じ結論にはならなかった。
1601
新たな城主・田中吉政が柳川へ入城。柳川城と城下町を大規模に整え、近世の城郭・都市の基礎を築いた。
1620
田中忠政が跡継ぎのないまま没したのち、宗茂が柳川へ再封された。実際の再入城は翌1621年である。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 第3章〜第6章 立花宗茂と柳川の武士たち(作品78・82・85〜87ほか)
    立花家史料館/Google Arts & Culture参照日 2026-10-22
  2. 柳川城本丸跡
    柳川市参照日 2026-10-22
  3. 立花宗茂と吉政
    柳川市参照日 2026-10-22
  4. 城下町柳川
    柳川市参照日 2026-10-22

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-22

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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