
合戦KASSEN
忍城の戦い|1590年・石田三成の水攻めと開城
忍城の戦いは1590年、現在の埼玉県行田市で起きた小田原征伐の攻城戦。石田三成の水攻めと堤防、真田昌幸・大谷吉継・佐竹義宣の参加、甲斐姫の伝承をたどり、勝敗と成田家のその後を史料から読み解く。
この戦いの要点
水攻めに耐え、最後は開城
忍城は水攻めだけでは落ちなかった。しかし、小田原の北条氏が降伏した後、成田方も城を明け渡した。
三成の指揮と秀吉の命令
現地の攻囲は石田三成らが担当した。水攻めには秀吉の意向が強く働き、7月にも堤の補強が命じられている。
堤防と武勇伝は確かさを分ける
石田堤の遺構は残るが、全長や工期には伝承の幅がある。甲斐姫個人の武功も、合戦の経過とは別に確かめる必要がある。
忍城の戦いはいつ、どこで起きたのか――場所と勝敗
水攻めに耐えた城が、戦の終わりには明け渡された。忍城の戦いの勝敗は、この二つを分けると見えてくる。
忍城の戦いは、1590年(天正18年)の6月初旬から7月にかけて、武蔵国の忍城で行われた攻城戦である。場所は現在の埼玉県行田市。
小田原征伐の一環として、石田三成ら豊臣方の軍勢が、北条方に属する成田氏の城を攻めた。月日は、以下すべて当時の旧暦で記す。
結果は成田方の開城であり、豊臣方が城を得た。ただし、三成の水攻めによって守備側が屈服したわけではない。忍城は攻囲を持ちこたえ、小田原の北条氏が降伏した後に明け渡された。このため、「豊臣方が勝った」と「水攻めでは落ちなかった」は両立する。勝者の名だけでは、城をめぐる攻防を言い尽くせないのである。行田市郷土博物館・鈴木紀三雄の解説
小田原城と忍城――湿地の城が残った理由
忍城は、高い山の上にそびえる城ではなかった。北の利根川と南の荒川の間に広がる低地で、沼や自然堤防を利用して築かれた城である。水の多い土地にも、周囲よりわずかに高い場所がある。その微高地をつないで城を構えると、湿地そのものが敵の進入を妨げる。
現在の忍城跡に立つ御三階櫓を、戦い当時の姿として思い浮かべるのは早計である。この櫓が完成したのは江戸時代の1702年で、いまの建物は1988年の再建だ。 1590年の防御を考えるときにまず見るべきものは、櫓の高さより、水と陸の入り組んだ地形である。行田市「忍城跡」
当時、城主の成田氏長は小田原城に入っていた。忍城の守備を担ったのは、氏長の叔父にあたる成田泰季や、その子の長親、正木利英らである。泰季が病死し、長親が後を担ったという経過は、『成田記』などをもとに伝えられている。城主が不在でも、城内の指揮が失われたわけではなかった。
城内の人数は、伝える資料によって異なる。行田市の石田堤資料は『忍城戦記』の2,700人を紹介するが、『北本市史』では侍・足軽500人と雑兵など3,000人を挙げる。しかも、これらの数字には百姓・町人・女性が含まれる。城内にいた人の総数を、全員が武装して戦う兵士の数として攻囲軍と比べることはできない。北本市史の城内人数の記述
豊臣軍は小田原城を包囲しながら、北条領の各地の城を攻略していた。忍城の抗戦も、この広い戦役の中にあった。目の前の攻囲軍を退けることと、北条方全体が戦争を続けられることは、別の条件だったのである。

攻めた武将――石田三成・大谷吉継と佐竹義宣
忍城攻めの中心として知られるのが、石田三成である。行田市の解説では、6月初旬に三成が約2万の軍勢を率いて攻め寄せたとされる。ただし、これを戦いの全期間を通じて変わらない在陣人数と考えることはできない。他の城から転戦した部隊もあり、時期と集計範囲には注意が要る。
三成とともに名が挙がるのが、大谷吉継と長束正家である。行田市「石田堤」は、吉継を「大谷吉隆」の名で記している。彼らは攻める側に加わった武将だが、それぞれがどの局面で何を立案したかまで、名簿だけから決めることはできない。三成をめぐる有名な物語に、吉継の役割を後から埋め込むのは慎重でありたい。行田市「石田堤」

佐竹義宣も、忍城を守る側ではなく豊臣方として参戦した。『北本市史』は、三成の指揮下に入った関東の諸将として、義宣、宇都宮国綱、結城晴朝、多賀谷重経、水谷勝俊らを挙げる。忍城の包囲を、三成個人の手勢だけによる戦いと考えると、この陣容が見えなくなる。秀吉に従った諸大名も、北条方の城を攻める軍勢に組み込まれていたのである。
北本市史「忍城の攻防戦」

真田昌幸は何をしたのか――鉢形城から忍城へ
真田昌幸も忍城攻めに加わった。ただし、忍城だけを目指して最初から三成と一緒に進んだ、とまとめると経過が粗くなる。
寄居町が紹介する北条氏と真田氏の歩みでは、昌幸は小田原征伐に出陣し、前田利家・上杉景勝の軍勢とともに北条領へ進んだ。鉢形城が開城した後、忍城攻めへ転戦したと説明されている。真田の動きは、一つの城の攻略が次の城の包囲へつながる、豊臣軍の進軍の中にあった。広報寄居2016年3月号「北条と真田」9頁
真田昌幸は上田の戦いで知られるため、忍城でも一人で戦局を動かしたように語りたくなる。しかし、転戦を確認できることと、個々の攻撃の手柄を確定できることは同じではない。忍城での参戦を押さえたうえで、軍記の細かな戦闘場面には、その記述を裏付ける史料が必要になる。
また、真田が参戦した事実は、忍城が真田の城だったことを意味しない。昌幸は豊臣方の攻囲軍、城内は成田方である。人物の名を追うときほど、どちらの側で、どの段階から戦ったのかを確かめたい。

水攻めと堤防――石田堤はなぜ城を沈められなかったのか
水に守られた城へ、さらに水を入れる。忍城の水攻めは、城の周囲に堤を築き、水をせき止めることで守備側を追い詰めようとした作戦だった。この工事に結びつく遺構が、現在の石田堤である。
その方針には、豊臣秀吉の意向が強く働いていた。行田市教育委員会の資料が紹介する6月20日の秀吉の朱印状には、三成から送られた堤の絵図を了承したことが見える。さらに7月にも、堤を補強して水攻めを続けるよう指示している。三成が独断で選び、秀吉が関知しなかった作戦として扱うことはできない。行田市教育委員会『石田堤』年表
では、巨大な堤防を造れば城は沈んだのか。行田市の解説は、城と城下の地盤が比較的高く、南側の堤根付近が低いことに注目する。水は城内を直接押し流すより、低い方へ集まりやすかった。低地全体に水がたまることと、城を降伏に追い込むほど浸水させることは違うのである。
築堤も、平らな地面からすべて同じ高さの壁を立ち上げる工事ではなかった。既存の自然堤防などの微高地を利用し、低い箇所を盛り上げたと考えられている。行田市側には約282メートルが残り、隣接する鴻巣市側にも遺構が続く。現存部分は工事の実態を知る手がかりだが、それだけで堤の全周や水位を復元できるわけではない。行田市「石田堤」の地形・遺構解説
水攻めが続く間にも、城の周囲では攻撃が行われた。行田市の年表は、7月1日に浅野長吉、のちの長政が皿尾口での戦果を報告したことを挙げる。水を入れて、あとは待つだけの包囲ではなかった。築堤、補修、各口の戦闘が並んで続いていたのである。

甲斐姫の活躍はどこまでわかるのか
忍城の名を広めた人物の一人が、成田氏長の娘、甲斐姫である。講談社の人名辞典は、甲斐姫が母とともに忍城を守り、のちに秀吉の側室となったと紹介する。城を守る女性として語り継がれたことは、甲斐姫の来歴を考える大切な手がかりだ。デジタル版 日本人名大辞典+Plus「甲斐姫」
一方、忍城が抗戦したという合戦の事実だけでは、甲斐姫個人の武功までは証明できない。甲冑を着て出撃し、敵兵を倒したという物語を読む際も、いつ成立した記録なのかを確かめる必要がある。後世の軍記や伝承が描く勇姿と、当時の書状が伝える軍事行動には、史料としての違いがある。
忍城を「甲斐姫対石田三成」の一騎打ちのように捉えると、泰季・長親らの守備も、秀吉の命令も、湿地の地形も抜け落ちてしまう。甲斐姫の物語は合戦を知る入口になる。そこから城内外の人々へ視野を広げると、抗戦が一人の力だけで成り立ったものではないことがわかる。

通説と俗説の射程――長大な堤と「三成の敗北」
石田堤の長さは約14キロ、あるいは約28キロとされ、工期も5日や1週間などと伝えられる。数字の大きさは工事を印象づけるが、資料によって値が違う。自然の高まりを利用した範囲と、新たに土を盛った範囲を区別しなければ、必要な工事量も見誤る。 7月まで補修命令が続いたことを考えても、伝承上の数日を工事全体の期間と決めるのは難しい。
『成田記』には、風雨の中で城兵が堤を壊したとする話もある。しかし、行田市教育委員会の解説は、その真偽を不明としている。堤が破れたという伝承と、誰がどの場所を壊して決着をつけたかは、同じ確かさで語れない。地図で堤を追う場合も、自治体の石田堤資料が示す遺構と推定範囲を分けて見る必要がある。
広く知られる堤の周回図には、大正2年(1913)に清水雪翁が地元の聞き取りなどをもとにまとめた図がある。戦いから300年以上後の調査にも、失われる前の土地の記憶を伝える価値はある。ただし、1590年当時の実測図として読めるものではない。残る土塁、後世の伝承図、当時の命令書は、それぞれ違う部分から水攻めを伝えている。
三成の評価も、反対方向へ単純化するべきではない。秀吉の命令だったからといって、現地で水攻めを進めた三成の役割が消えるわけではない。ただ、水攻めで城を落とせなかった一件から、三成の軍務全体を「戦下手」の一語で片づけるには飛躍がある。確認できるのは、この城、この地形、この指揮系統のもとで、水攻めが決着をつけられなかったことである。
その後――忍城の開城と成田家・甲斐姫
忍城の終局を決めたのは、城外の戦況だった。小田原の北条氏が降伏すると、忍城の成田方も城を明け渡す。行田市の解説が採る開城日は7月14日である。一方、『北本市史』には7月16日とする記述があり、日付には資料差がある。ここでは行田市の採用日に従う。
城を守り抜いたことは、領地を守り続けられたことと同じではなかった。成田氏長は忍城を失い、蒲生氏郷のもとに預けられる。その後、翌1591年には下野国烏山で大名として復帰した。忍城からの退去を、成田家の断絶と読み替えることもできない。市報ぎょうだ「石田三成の忍城水攻め」
甲斐姫は、のちに秀吉の側室となったと伝わる。ただし、生没年や晩年には不明な点が多い。忍城の武勇伝から、その後の人生を切れ目なく描けるほど史料がそろっているわけではない。父の大名復帰と娘の側室という来歴を、直接の褒賞関係として決めつけるのも避けたい。
いま忍城跡と石田堤を訪ねると、城を守った地形と、城を攻めた工事の痕跡をたどれる。小田原征伐全体の前後関係は戦国年表から確認できる。忍城が持ちこたえた間にも、関東の戦争は終わりへ向かっていた。その時間のずれが、水攻めの失敗と豊臣方の最終的な勝利を、ともにこの城の歴史に残したのである。
両軍の対比
石田三成ら(全体の指揮は豊臣秀吉)
成田泰季・成田長親ら
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 石田堤(2015年10月、年表・解説)行田市教育委員会参照日 2026-11-07
- 鈴木紀三雄「石田三成の忍城水攻め」(市報ぎょうだ2011年6月、24頁)行田市/行田市郷土博物館参照日 2026-11-07
- 忍城跡行田市参照日 2026-11-07
- 石田堤行田市参照日 2026-11-07
- 北本市史 通史編 古代・中世 第6章第5節「忍城の攻防戦」北本市教育委員会/北本デジタルアーカイブズ参照日 2026-11-07
- 北条と真田(広報寄居2016年3月、8〜9頁)寄居町参照日 2026-11-07
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus「甲斐姫」講談社/コトバンク参照日 2026-11-07






