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安土桃山片桐氏15561615
片桐且元|豊臣と徳川に引き裂かれた秀頼の家老の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
片桐且元賤ヶ岳七本槍豊臣秀頼
かたぎり かつもと

片桐且元|豊臣と徳川に引き裂かれた秀頼の家老

KATAGIRI KATSUMOTO · 1556 — 1615 · 享年 60

賤ヶ岳七本槍の武功を誇り、秀頼の傅役として豊臣家に尽くしながら、徳川との板挟みに引き裂かれた悲運の家老

片桐
生年
弘治2年(1556年)
近江国浅井郡の生まれ/浅井氏の旧臣の家系から秀吉へ
没年
慶長20年(1615年)
5月28日、大坂落城の直後に没/生年から数えて享年60が通説
出身
近江国浅井郡
現・滋賀県長浜市周辺/浅井長政旧臣の家から秀吉の子飼いへ
居城
摂津茨木城・大和竜田
茨木城主を経て大和竜田2.8万石/のち加増され4万石を称される

片桐且元

片桐且元は、賤ヶ岳七本槍に数えられた武功の将でありながら、晩年は豊臣秀頼の傅役・家老として、滅びゆく豊臣家を一人で支えようとした、悲運の調整役である。

弘治二年(一五五六年)、近江国浅井郡に生まれた且元は、浅井氏の旧臣の家系から、北近江を得た羽柴秀吉のもとへ仕えた。天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、後世に賤ヶ岳七本槍の一人として語り継がれる。だが且元の本領は、派手な槍働きよりも、検地や普請といった地味な実務にこそあった。

慶長三年(一五九八年)に秀吉が没すると、且元は幼い秀頼の傅役を託される。関ヶ原の戦いの後は、秀頼の立場を徳川家康に説き、豊臣と徳川を取り次ぐ役回りを一身に背負った。慶長六年(一六〇一年)には大和竜田に二万八千石を得るが、その実態は大坂城で秀頼を補佐する家老だった。

すべてが暗転したのが、慶長十九年(一六一四年)の方広寺鐘銘事件である。梵鐘の「国家安康」「君臣豊楽」を徳川側に難詰された且元は、駿府で交渉し、苦渋の三案を持ち帰る。だが、それが淀殿らの不信を招き、内通を疑われた且元は大坂城を退去した。豊臣家を守ろうとした調停者の退去は、皮肉にも大坂の陣開戦の引き金となってしまった。

大坂の陣で且元は徳川方に立ち、かつての主家と戦う。慶長二十年(一六一五年)五月、豊臣家は滅亡し、その直後の五月二十八日、且元もまた享年六十でこの世を去った。片桐且元は、武功の七本槍にして豊臣家最後の柱石でありながら、徳川との板挟みに引き裂かれて散った、戦国の調整役の悲劇を体現する武将である。 その毀誉褒貶の激しい生涯を、ここから読み解いていく。

01出仕ORIGINS

近江浅井の子 — 秀吉に見出された助作

近江で秀吉に出仕する若き日の助作
近江で秀吉に出仕する若き日の助作

弘治二年(一五五六年)、近江国浅井郡須賀谷(現在の滋賀県長浜市)に、一人の男児が生まれた。幼名を助作、のちの片桐且元である。片桐家は、北近江に勢力を張った浅井氏に仕える家柄だった。

だが助作が十代の半ばを迎えるころ、主家の運命は暗転する。天正元年(一五七三年)、浅井氏は織田信長によって滅ぼされ、片桐家は寄る辺を失った。旧主を失った若い助作は、やがて北近江を与えられた羽柴秀吉のもとへ仕えることになる。

秀吉にとって、近江は自らの新たな根拠地だった。土地の事情に通じた地侍の子弟は、貴重な人材である。助作も弟の貞隆とともに、子飼いの近習として秀吉に近侍し、頭角を現していった。

主家の滅亡から、天下人の側近へ。運命の歯車は、この近江の地で大きく回り始めた。浅井氏の旧臣の子という出自は、且元を秀吉子飼いの武将へと導き、生涯を貫く豊臣家への深い縁の出発点となった。

刀を取る武辺の道と、算盤をはじく吏僚の道。片桐且元の物語は、滅びた主家から天下人のもとへと拾い上げられた、近江の若武者の出仕から始まる。

方広寺鐘銘事件。弁明に駿府へ赴いた且元が持ち帰った三案は、豊臣家を窮地へ追い込んだ

「国家安康・君臣豊楽 — 鐘の銘文に、豊臣と徳川の運命が懸かった」

02七本槍SEVEN SPEARS

賤ヶ岳の槍働き — 七本槍に数えられた武功

賤ヶ岳で槍を構える若武者の且元
賤ヶ岳で槍を構える若武者の且元

天正十一年(一五八三年)、秀吉と柴田勝家が近江賤ヶ岳で激突した。織田信長亡き後の覇権を賭けた、天下分け目の合戦である。このとき且元は、秀吉麾下の若武者として最前線に身を投じた。

戦いは、大岩山砦をめぐる激しい攻防の末、秀吉方の勝利に終わる。乱戦のなかで槍を振るって武功を挙げた若者たちのうち、とりわけ働きの目立った者が、後世に賤ヶ岳の七本槍として顕彰された。且元も、加藤清正福島正則・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則と並んで、その一人に数えられている。

この武功により、且元は知行を加増されたと伝わる。子飼いの近習が、武辺の将としても認められた瞬間だった。賤ヶ岳をともに駆けた清正や正則とは、生涯を通じて浅からぬ縁で結ばれていく。

ただし、「七本槍」という括りそのものは、後世の軍記や顕彰のなかで整えられた面が強い。且元が賤ヶ岳で武功を挙げたことは確かだが、「七本槍」という華やかな枠組みは、後世が選び出して整理した英雄譚でもある。

武勇の誉れを背負って、且元は豊臣家中での歩みを進めていく。賤ヶ岳の槍働きは、吏僚肌の且元に「七本槍の武将」というもう一つの顔を与えた、若き日の輝きだった。

内通を疑われ退去。冬の陣を招き、落城の直後に世を去った悲運の家老

「大坂城を去った日 — 忠臣は、はからずも開戦の引き金を引いた」

03茨木城主THE STEWARD

茨木城主への出世 — 茶の湯に親しむ実務家

茨木城で実務にあたる壮年の且元
茨木城で実務にあたる壮年の且元

賤ヶ岳の後、且元は秀吉の天下取りに従って各地を転戦し、着実に加増を重ねていった。だが武功だけではない。検地や普請、寺社との折衝といった地味な実務にこそ、彼の本領があった。算盤と帳簿に明るい吏僚として、且元は豊臣政権の屋台骨を支える一人となる。

やがて且元は、摂津茨木城に関わる身となった。茨木城主としての且元——これは広く知られた通説だが、実際には弟の貞隆が城主だったとする見方もあり、兄弟どちらの居城かには議論が残る。いずれにせよ、片桐兄弟が摂津に確かな地歩を築いたことは間違いない。

且元のもう一つの顔は、茶の湯への素養である。戦国武将の教養として茶に親しんだ且元の周辺からは、のちに弟貞隆、そして甥の片桐石州(貞昌)が出て、石州は一流の武家茶道「石州流」の祖となる。片桐の家は、武と算盤と茶の素養を兼ね備えた一族だった。

派手な武功よりも、地に足のついた実務。且元は槍働きの七本槍であると同時に、検地や普請をこなす実務家であり、茶の湯にも通じた、調整型の吏僚武将だった。

その実直な手腕を、秀吉は見逃さなかった。茨木城に拠ったこの時期、且元は「戦う武将」から「家を支える吏僚」へと、その重心を静かに移していった。

04傅役THE GUARDIAN

秀頼を託されて — 豊臣家の柱となる

幼い秀頼を後見する傅役の且元
幼い秀頼を後見する傅役の且元

慶長三年(一五九八年)、天下人・豊臣秀吉が世を去った。残されたのは、まだ幼い遺児・秀頼である。秀吉は死に臨んで、我が子の行く末を信頼する家臣たちに託した。且元もまた、秀頼の傅役——後見役として、豊臣家の中枢に据えられる。

二年後の慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の戦いが天下を二分した。且元の立場は、単純な東西いずれかの色分けでは語りにくい。戦いの渦中での去就には諸説あるが、確かなのは、戦後に且元が秀頼の立場を徳川家康に説き、豊臣家と徳川家を取り次ぐ役回りを得たことである。

慶長六年(一六〇一年)、且元は大和竜田に二万八千石を与えられた。とはいえ、その実態は一個の大名というより、大坂城にあって秀頼を補佐する豊臣家の家老だった。徳川との交渉ごとは、ほとんど且元の双肩にかかっていた。

豊臣家の柱でありながら、徳川への取次も担う。且元は秀頼の傅役として豊臣家に忠誠を尽くしつつ、同時に徳川との交渉窓口をも一身に背負う、危うい二重の立場に立っていた。

平時であれば、その均衡は保てたかもしれない。秀頼を託された且元は、豊臣と徳川という二つの巨大な力のあいだで、薄氷を踏むような均衡役を引き受けていた。

05鐘銘事件THE BELL

国家安康の波紋 — 駿府交渉と三つの案

駿府への道を急ぐ交渉者としての且元
駿府への道を急ぐ交渉者としての且元

慶長十九年(一六一四年)、豊臣秀頼は、かつて秀吉が建立し地震や火災で損なわれた京都・方広寺の大仏殿を再建した。だが、その梵鐘に刻まれた銘文が、思いもよらぬ大事件を引き起こす。「国家安康」「君臣豊楽」——この一節をめぐる、方広寺鐘銘事件である。

徳川方は、この銘文を難詰した。「国家安康」は家康の名を「家」と「康」に分断して呪うものであり、「君臣豊楽」は豊臣の繁栄を願うものだ、というのである。今日から見れば、多分に言いがかりめいた解釈だった。だが、豊臣と徳川の緊張が高まるなか、それは決定的な火種となった。

弁明のため、且元は駿府の家康のもとへ赴く。しかし家康には会えず、本多正純や金地院崇伝らとの交渉を強いられた。苦慮の末、且元が大坂へ持ち帰ったのが、いわゆる三案である。秀頼が江戸へ参勤するか、淀殿を人質として江戸へ送るか、あるいは秀頼が大坂城を出て国替えに応じるか。いずれも豊臣家の誇りを深く傷つける、苦渋の選択肢だった。

家を守るための妥協が、かえって家中の不信を呼ぶ。鐘銘への難詰は徳川側の強引な解釈だったが、且元が大坂に持ち帰ったこの三案は、豊臣家にとって到底のめない屈辱的な内容だった。

且元は、滅亡を避けるために最善を尽くしたつもりだった。方広寺の鐘の銘をめぐる難詰は、且元を豊臣と徳川の板挟みの最前線へと突き落とす、運命の引き金となった。

06退去THE EXILE

疑いの渦 — 大坂城を去る家老

大坂城を退去し茨木へ向かう且元
大坂城を退去し茨木へ向かう且元

且元が持ち帰った三案は、大坂城内に激しい動揺を引き起こした。とりわけ秀頼の生母・淀殿と、その側近である大蔵卿局らは、徳川への譲歩に強く反発する。豊臣家の誇りを守ろうとする者たちにとって、且元の案は降伏も同然に映った。

事態をさらにこじらせたのは、駿府での交渉の食い違いである。且元とは別に、大蔵卿局も駿府で家康に面会していた。彼女が穏やかな言葉をかけられて帰ったのに対し、且元は厳しい三案を突きつけられた。この落差が、「且元は徳川に内通しているのではないか」という疑念を、城内に呼び起こす。

やがて且元の暗殺を企てる噂までが流れた。命の危険を感じた且元は、慶長十九年(一六一四年)十月、ついに大坂城を退去し、自らの拠る茨木城へと引き上げる。豊臣家の家老が、その本拠を去ったのである。これは徳川方に大坂攻めの大義名分を与え、大坂冬の陣開戦の直接の引き金の一つとなった。

忠誠を尽くしたはずの家老が、内通を疑われて去る。且元の退去は、彼自身の裏切りというより、和平の道が断たれて豊臣家が滅亡へと突き進んでいく、悲劇の分岐点だった。

板挟みの果てに、且元は旧主の城を後にした。大坂城を去ったその日、調停者であろうとした且元は、はからずも開戦の引き金を引く者となってしまった。

07落城と死THE FALL

旧主と戦う — 落城の直後に果てる

落城後の大坂を遠望する晩年の且元
落城後の大坂を遠望する晩年の且元

大坂の陣が始まると、且元は徳川方として参陣した。かつて主君と仰いだ豊臣家に、弓を引く立場である。長年その存続に心血を注いできた家老にとって、これほど痛ましい戦いはなかっただろう。彼は大坂城の構造や内情に通じる者として、徳川軍のなかで重んじられた。

慶長二十年(一六一五年)五月、大坂夏の陣は豊臣方の敗北に終わる。秀頼と淀殿は城とともに果て、栄華を誇った豊臣家は、ここに滅亡した。且元が守ろうとし続けた家は、彼の目の前で歴史から姿を消したのである。

そして、その直後だった。落城からわずか二十日ほど後の五月二十八日、片桐且元はこの世を去る。享年六十。死因は病死とするのが基本線だが、旧主の滅亡を見届けた直後の死であったことから、心労による病とも、自害とも噂された。元和への改元はこの年の七月であり、且元が没したのは、まだ「慶長二十年」の世だった。

主家とともに、その柱もまた倒れた。且元の死は豊臣家の滅亡とほとんど時を同じくしており、彼の生涯が豊臣家の運命と分かちがたく結ばれていたことを、何より象徴している。

なお片桐の家は絶えなかった。嫡男・孝利が大和竜田の所領を継ぎ、弟・貞隆の家系は小泉藩として存続した。豊臣と徳川に引き裂かれた家老は、旧主の落城を見届けるようにして、その波乱の生涯を静かに閉じた。