島津豊久
島津豊久は、日向・佐土原を治めた島津家久の子である。慶長五年(1600)の関ヶ原で伯父・島津義弘とともに西軍に加わり、敗戦後の「島津の退き口」で戦死した。数え三十一歳、満三十歳だった。
捨てがまりの殿軍として知られるが、最後の場所や致命傷の詳細には不明な点が残る。井伊直政を豊久自身が討ったと確認できるわけでもない。一方、妻は島津忠長の娘と分かっており、真田宝物館には「島津豊久画像」という肖像画が伝わる。
その生涯には、沖田畷の初陣、父の死後の領地継承、朝鮮出兵がある。日記に残る少年時代の逸話と、後世に語られた美少年像を区別しながら、関ヶ原だけでは見えない豊久をたどりたい。本文中の年月日は、特記しない限り当時の暦による。
島津四兄弟の末弟・家久の子として

父が倒れたとき、島津豊久は数え十八歳だった。九州の戦いに敗れた直後の家を継ぎ、豊臣政権のもとで領地を守らなければならない。元亀元年(1570)に生まれた豊久は、島津四兄弟の末弟・島津家久の長男である。
母は島津家の重臣・樺山善久の娘。父の兄には島津義久、島津義弘、島津歳久がいた。関ヶ原で豊久と行動をともにする義弘は、父の兄、つまり伯父にあたる。父子でも実の兄弟でもない。
生まれた土地は、当時の父の居城から薩摩の串木野と考えられている。ただし、出生地を直接記す確かな記録が揃っているわけではない。家久が日向の佐土原を拠点にすると、豊久もこの地で少年期を送った。佐土原は、現在の宮崎市北部に位置する。
幼名は豊寿丸。若いころの姿は、島津家臣・上井覚兼の日記に現れる。天正十一年(1583)四月、覚兼の使者が家久を訪ねた際、父は留守だった。そこで応対に出た「御兒様」を、歴史研究者の新名一仁は豊久とみている。覚兼本人を迎えた話ではなく、使者を通じて日記に残った出来事である。
まだ元服前の少年が、父の不在時に来客へ応じる。そこには、家の跡継ぎとして少しずつ役割を担う豊久が見える。同じ年には、弟と鼓を打った記録もある。後年の激しい合戦の印象だけでは拾いきれない少年時代だ。
ただし、父からどのような言葉で兵法を教わったかは分からない。日記に姿が残る少年と、後世の勇将像の間を、想像の訓話で埋める必要はない。豊久が自ら戦場に出るのは、翌年のことになる。
沖田畷の初陣は、元服より先だった

天正十二年(1584)三月、豊久は父・家久とともに肥前へ渡った。島原半島で龍造寺隆信を迎え撃つ、沖田畷の戦いである。数え十五歳の豊久にとって、初めての合戦だったとされる。
島津・有馬の連合軍は龍造寺勢を破り、隆信は戦死した。豊久について、後世に編まれた『本藩人物誌』は新納忠元に従って戦い、敵一人を討ち取ったと記す。ここで討ち取った人物を「敵将」とまで言い切ることはできない。まして、総大将の隆信を豊久が討ったわけではない。
この初陣には、順序を取り違えやすい点がある。豊久の元服は合戦のあとだ。『上井覚兼日記』の同年四月二十一日条は、四月十四日に八代で元服したことを伝えている。元服してから初陣に臨んだ、という筋書きにはならない。
元服後の名は忠豊、通称は又七郎だった。「島津豊久」という名で知られるが、実際にはその生涯の大部分を忠豊として過ごしている。本記事では人物を追いやすいよう豊久と表記するものの、古文書で忠豊の名に出会っても別人と考える必要はない。
翌天正十三年(1585)には、豊久が疱瘡にかかったことも日記に見える。家久は治療に用いる薬を求めていた。戦果だけでなく、家の若者の病気も周囲の関心事だったのである。後年の美少年説と結びつけて顔に痕が残ったかどうかを論じるには、別の証拠が要る。
沖田畷の勝利で、父子の前途が約束されたわけではなかった。三年後、九州へ進軍してきた豊臣勢との戦いで、豊久は敗戦と父の死を続けて経験する。
十八歳で家を継ぎ、豊臣大名として領地を得る

天正十五年(1587)四月、豊久は父や伯父の義弘とともに、日向の根白坂で豊臣秀長の軍に挑んだ(「根白坂の戦い」)。宮部継潤や黒田孝高らが守る豊臣方の陣を崩せず、島津勢は敗れた。沖田畷で勝った父も、この戦いでは優位を取り戻せなかった。
島津氏が豊臣方に降伏したのち、六月五日に家久が死去した。数え四十一歳。父の死因には議論があるが、ここで確かなのは、豊久が家を継ぐ立場になったことである。父を失った当日に、領地も政治的地位もすべて自動的に確定したわけではない。
家久の死から五日後、秀長は豊久に書状を送り、藤堂高虎を派遣して相談させる旨を伝えた。つい先ごろまで対戦していた相手が、今度は相続をめぐる交渉相手になる。豊久は島津一門の若者であると同時に、豊臣政権が処遇を決める領主となっていた。
翌天正十六年(1588)八月、秀吉は豊久の領地を安堵した。さらに文禄三年(1594)の朱印状では、検地による増加分を含め、二万八千六百四十六石が示される。一般に「佐土原約三万石の大名」と呼ばれるのは、この規模による。町で表された初期の安堵と、後の石高は区別しておきたい。
領地の承認には、政権への軍役が伴う。天正十八年(1590)、豊久は北条氏政・氏直の勢力を攻める小田原の戦役に参加した。九州の領主が関東の戦場へ向かう。父が九州の諸大名と争っていたころとは、動員される範囲が変わっていた。
佐土原を本拠としながら、京都・大坂の政権に従って出陣する。その一方、伯父たちとの一門関係も続く。豊久の行動は、島津家の中だけでも、豊臣大名という立場だけでも説明しきれない。二つの関係が交わるところに、彼の領主としての仕事があった。
朝鮮出兵で長く留守にした佐土原

文禄元年(1592)、秀吉の命令で朝鮮への侵攻が始まった。豊久も兵を率いて渡海する。文禄の役では毛利吉成を中心とする第四軍に組み込まれ、島津義弘、伊東祐兵、秋月種長らと同じ軍団に属した。
豊久が進んだ地域には江原道があり、春川方面での在陣が知られる。九州から海を越え、さらに朝鮮半島の内陸へ進む行軍だった。佐土原の領地から集めた人員や物資は、はるか遠い戦争のために使われることになった。
この時期を「伯父義弘のそばで兵法を学んだ日々」とだけ説明すると、軍団の編成や豊久自身の動きが見えなくなる。義弘と同じ戦域にいたことと、いつも義弘の直属で戦ったことは同じではない。豊久は、兵を出す責任を負った一人の領主として従軍していた。
慶長二年(1597)の再出兵では、黒田長政や毛利吉成らの軍団に組み込まれ、八百人の動員を命じられた。翌年には蔚山の救援に関わる彦陽方面での戦闘も伝わる。豊久の朝鮮での働きは、これらの配置や行動からたどることができる。
一方、島津義弘の戦歴として有名な泗川の戦いに、豊久も当然参加したとするのは慎重でありたい。今回確認した史料・研究の範囲では、本人の直接参加を裏づけられない。伯父の勝利を、そのまま甥の戦功として数えることはしない。
慶長三年(1598)、秀吉の死後に撤退が進み、豊久は十一月に釜山から博多へ戻った。帰国しても、すぐに平穏な領国生活へ戻れたわけではない。翌年には、島津領内で新たな争いが起こる。長い海外での戦いを終えた豊久を、今度は一門の内紛が待っていた。
妻のいる家と、庄内の乱

豊久には妻がいた。島津忠長の娘で、元亀四年(1573)に生まれ、慶長十四年(1609)に亡くなった女性である。忠長は父・家久の従兄弟にあたり、婚姻は島津一門の中で結ばれたものだった。
ただし、妻本人の実名や、いつ婚礼を挙げたかは、今回確認した資料からは明らかにできない。二人の間に子はなかったとされる。夫婦の会話や別れの場面を伝える確かな記録も、ここで挙げることはできない。長く出陣した夫を、どのような思いで待ったかを物語として補うのは避けたい。
朝鮮から戻った豊久は、慶長四年(1599)二月ごろ、侍従・中務大輔となり、忠豊から豊久へ改名したと考えられている。現在広く知られる「豊久」の名で過ごした時間は、二年にも満たない。
同年三月、島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を殺害し、忠棟の子・忠真との対立が表面化した。庄内の乱である。豊久は三月末に佐土原へ帰り、六月から始まる忠真方との戦いに参加した。緒戦の山田城攻めにも出陣している。
この軍事行動には、島津一門の問題と中央政権の命令が重なっていた。八月には徳川家康からも忠真討伐を命じられるが、豊久はそれ以前から戦っていた。家康の命令だけで動いたのでも、政権と無関係に一門の都合だけで戦ったのでもない。
庄内の乱が終息したのは翌慶長五年(1600)春。豊久は五月に佐土原を発ち、再び上方へ向かった。この出立が、領国への最後の別れとなる。妻は豊久の死後、町田久幸に再嫁したと伝わっている。家が失ったのは戦場の武将だけではなく、夫でもあった。
西軍の敗走と、取り残された島津勢

慶長五年(1600)夏、豊久は上方にいた。やがて石田三成らの挙兵によって諸大名の対立が決定的となり、豊久は伯父・義弘とともに西軍側で行動する。佐土原へ帰るはずの道は、関ヶ原の戦場へつながった。
島津勢が西軍に加わった理由には、義弘の伏見城入城をめぐる話などが伝わる。しかし、それだけで一門の判断を説明するのは難しい。上方にいた義弘・豊久と、薩摩に残る本家の動きを、一つの意思で動く軍隊のようには扱えない。
九月十五日、関ヶ原の戦い。岐阜関ケ原古戦場記念館の解説は、義弘・豊久らの兵力を約千五百とする。島津勢は激しい攻防のなかでも積極的な攻勢に出ず、陣を保った。援軍や軍議の事情をめぐる説はあるが、豊久本人の心中を示す言葉が残っているわけではない。
やがて西軍が崩れた。味方の各隊が敗走し、島津勢も退路を求める局面となる。通常の撤退なら追撃を受けるうえ、敵味方の配置が崩れた戦場では、来た道をそのまま引き返せるとは限らない。
義弘らが選んだのは、東軍の間を突破して南へ逃れる道だった。これが「島津の退き口」と呼ばれる撤退である。本多忠勝、井伊直政、松平忠吉らが追撃側に名を連ねる。ただし、これらの武将全員が豊久と一対一で戦ったという意味ではない。
ここから先、豊久の動きを細かく再現するのは難しくなる。後世の軍記、島津家に残った記録、退却路沿いの土地の伝承が、それぞれ異なる場面を伝えるからだ。確かなのは、義弘がこの撤退を生き延び、豊久は関ヶ原の戦いで命を落としたという結末である。
退き口で戦死――最後の場所には複数の説がある

義弘を逃がすため、少人数の兵が追撃を食い止める。島津の退き口は、こうした厳しい戦闘を伴うものとして語り継がれてきた。豊久も殿軍として踏みとどまり、命を落とした武将として知られる。
その最期の場所として有名なのが、現在の岐阜県大垣市上石津町牧田にある烏頭坂だ。豊久が井伊直政・松平忠吉らの追撃を受けて戦死したと伝わり、大正九年(1920)に顕彰碑が建てられた。碑は豊久を記憶し、顕彰してきた歴史を伝えている。
しかし、碑のある場所だけで死去地点を確定することはできない。負傷した豊久が多良までたどり着いて亡くなったという地元の伝承があり、瑠璃光寺には位牌と墓が残る。さらに、関ヶ原宿口で豊久の馬が見つかった記録から、現在の関ケ原町市街地付近での戦死を考える研究上の説もある。
享年は数え三十一、満年齢では三十歳。最後の瞬間に誰と戦い、どの傷が命を奪い、何を言い残したのかは、同じ確かさでは語れない。義弘の生還を願う有名な台詞も、本人の発言をそのまま記録したものとして引用するには注意が要る。
豊久の死後、佐土原城は弟・忠直らが守ったものの、翌慶長六年(1601)には旧領が収公された。やがて家の名跡は、養子による継承を経て永吉島津家へつながっていく。豊久に実子がいたという意味ではない。
美濃の退却路と、薩摩の永吉には、今も豊久を弔う場所が残る。三十一年の生涯を閉じた場所は一つに絞れなくても、その死を記憶し続けた土地はたどることができる。戦死の経緯を調べることと、後世の人々がどう供養したかを知ること。その両方が、豊久の最後を読む手がかりになる。
史料の読み解き
捨てがまりとは何か――豊久が発明した戦法なのか
捨てがまりは、撤退する本隊から少人数が残り、追撃する敵を食い止めて退却の時間を稼ぐ戦い方として説明される。「捨て奸」とも表記され、島津の退き口と豊久の名に結びついている。
退却する部隊には、追手との距離を保つ必要がある。全員が同時に逃げれば、後方から追いつかれて隊列を崩されかねない。そこで一部がその場に残り、追撃を遅らせる。ただし、残された兵は本隊との距離が開き、逃れることが難しくなる。退き口の物語は、この犠牲を伴う役割を強く印象づける。
一方、「必ず何人ずつ」「全員が座って鉄砲を撃つ」「豊久がその場で考案した」と細部まで決めるには、その描写を載せた史料の確認が必要だ。現在よく知られる説明を、すべて当日の命令書に書かれた手順のように扱うことはできない。
岐阜関ケ原古戦場記念館の解説でも、追撃戦と豊久の戦死地には伝承としての留保がある。名前の由来や用語の初出についても、確認せずに「関ヶ原当時からの正式名称」「江戸時代に作られた呼び名」と断言するのは避けたい。
豊久を理解するうえで押さえたいのは、島津勢が追撃を受けながら撤退し、豊久は生還しなかったという点である。捨てがまりの勇壮な説明だけを読めば、その場で全員が同じ覚悟を共有したようにも感じられる。だが、一人ひとりの意思まで分かるわけではない。激しい退却戦を説明する言葉として用い、その詳細には史料ごとの差があることを残しておきたい。
死因と最後――烏頭坂で即死したと断定できるか
島津豊久の死因は、一般に関ヶ原の戦闘による戦死とされる。ただし、致命傷を与えた人物、武器、死亡した地点を一組の確定情報として示すことは難しい。「烏頭坂で井伊直政に討ち取られた」と一本の物語にまとめると、史料が示す範囲を越えてしまう。
新名一仁の研究は、豊久の最後について、烏頭坂の伝承、関ヶ原宿口付近での戦死を考える説、多良での死去の伝承を紹介している。少なくとも、現在一つの説明だけが残っているわけではない。
| 場所・説 | 伝えられる内容 | 読むときの注意 |
|---|---|---|
| 烏頭坂 | 井伊・松平勢らの追撃を受け、豊久が戦死したと伝わる | 顕彰碑があるが、碑の存在と当日の死亡地点の確定は別 |
| 関ヶ原宿口付近 | 豊久の馬が見つかった記録などから、現在の関ケ原町市街地付近での戦死を考える | 桐野作人の説を新名論文が紹介。位置の特定は研究上の推定 |
| 多良 | 負傷した豊久がたどり着いて亡くなり、葬られたと伝わる | 地域で伝えられた話と、瑠璃光寺の位牌・墓の由来を併せて読む |
これらを無理につないで「烏頭坂で致命傷を負い、必ず多良まで移動して死亡した」と確定することもできない。伝承同士がつながりそうに見えることと、同じ経過を独立した記録が裏づけることは異なる。
数え三十一歳という年齢も、現在の満年齢との違いに注意したい。元亀元年(1570)生まれ、慶長五年(1600)没という生没年から、満年齢では三十歳となる。「三十一歳」と「三十歳」が並んでいても、それだけで生年が食い違っているとは限らない。
豊久が関ヶ原で生涯を終えたことを押さえたうえで、最後の道筋は未確定として読む。その余地を残すことが、土地に伝わる話を尊重しながら史実を確かめる出発点になる。
井伊直政を倒したのは豊久なのか
豊久と井伊直政は、退き口をめぐって対立する側にいた。直政は島津勢を追撃して負傷した人物として知られる。しかし、豊久が自ら直政を撃った、槍で討ち取った、あるいは一騎討ちで相討ちになったとする説明は、今回確認した出典からは裏づけられない。
彦根城博物館の井伊家解説によれば、直政が亡くなったのは慶長七年(1602)二月一日、佐和山城でのことだ。豊久が戦死した慶長五年九月十五日よりあとであり、関ヶ原の当日に二人がともに死んだわけではない。
同館は直政の死について、鉄砲傷が悪化した可能性を示しつつ断定を避けている。戦傷と後年の死を結びつける説明はできても、現代の診断書のように医学的な因果関係を確定できるわけではない。直政を負傷させた射手の伝承と、豊久の討取者をめぐる話も、別々に調べる必要がある。
ここには、合戦の物語が個人同士の勝負へ置き換わりやすいという問題がある。島津方に豊久、追撃側に直政という著名な武将がいれば、二人の決闘として描いたほうが分かりやすい。けれども、多数の兵が入り乱れる撤退戦で、隊の敵対関係と本人同士の直接交戦は同じではない。
豊久の働きを評価するために、直政を倒したという戦果を足す必要はない。義弘の退却を支えた人物としての豊久と、負傷しながら戦後の処理にも関わった直政。それぞれの履歴を分けて追うほうが、退き口の影響を長い時間の中で理解できる。
妻は誰か――子供と永吉島津家の関係
豊久の妻は、島津忠長の娘である。新名一仁の研究と、黎明館の林匡「薩摩藩家老の系譜」で、この婚姻関係を確認できる。確認した資料では妻の実名を特定できないため、「忠長の娘」と記す。
忠長は家久の従兄弟にあたる。したがって、豊久の婚姻は島津一門内部の縁組だった。ただし、血縁関係が分かることと、婚姻の目的や夫婦の感情が分かることは別である。結婚した年や、夫婦がともに暮らした期間も、ここでは確定できない。
新名論文によれば、二人の間に子はなく、豊久の死後、妻は町田久幸へ再嫁した。このため、「豊久には妻がいなかった」「若くして死んだので結婚していなかった」という説明は採れない。妻がいたことは、豊久の生涯を考えるうえで外せない事実だ。
一方、後世の永吉島津家が豊久の家を継いだことをもって、豊久に実子がいたと考えるのも誤りである。新名論文は、弟・忠直や、その娘の婿となった忠栄らを介した名跡の継承を整理している。家の存続には、養子や婿による継承も含まれていた。
「子孫」という言葉は、血縁上の子孫と、家を継いだ人々の双方を曖昧に含むことがある。豊久については、夫婦の子供の有無、弟の家系、家名と文書の継承を分けると理解しやすい。豊久本人は帰らなくても、その名と記録を守った家は後世へ続いたのである。
「美少年だった」という逸話は、どこから来たのか
豊久を美少年として描く根拠の一つは、白尾国柱が編んだ『倭文麻環』の記述である。新名一仁の論文は、同書にある「容顔美麗」という容貌への評価を紹介している。勇敢さと美しさを兼ね備えた若者として、豊久が語られていたことは分かる。
ただし、『倭文麻環』の成立は文化九年(1812)。豊久の死から二百年以上あとである。豊久を直接見た人物が、その場で書き留めた容貌の記録ではない。「美少年と伝えられた」と「実際の顔立ちが確定した」は分けなければならない。
ここで少年時代の日記に戻ると、鼓を打ったこと、父に代わって使者に応対したこと、狩りへ出たことが見える。具体的な行動の記録はあるが、それらは容貌の美しさを保証する資料ではない。礼儀正しい応対や芸能の経験から、顔立ちまで推し量ることはできない。
疱瘡にかかった記録もある。しかし、それを理由に「美少年ではなかった」「顔が大きく変わった」と逆方向へ断定するのも行き過ぎだ。病気の記録には、治療後の容貌を詳しく説明する情報がない。
美少年説は、豊久が後世にどう受け止められたかを知る逸話として読むと面白い。若くして戦死した武将の勇敢さに、容姿への賛美が重なっている。一方で、関ヶ原の豊久は満三十歳の領主だった。少年時代の美称を、そのまま最期の年齢や姿と取り違えないようにしたい。
島津豊久の肖像画はある――真田宝物館の所蔵品
島津豊久の肖像画は存在する。長野市の真田宝物館が所蔵する「島津豊久画像」で、公開書誌には作者を藤原信徴、材質を絹本、資料番号を「書026-08」と記している。
「肖像画がないので顔は一切伝わらない」と説明するのは正確ではない。ただし、肖像があるからといって、当人が画家の前に座った生写しと確認できるわけでもない。公開書誌の制作年月日欄には記載がなく、そこから制作年を決めることはできない。
歴史上の人物の肖像には、生前に描かれたもの、後の世代が伝来の像を写したもの、追善や顕彰のために制作されたものなどがある。この作品がどの事情で描かれ、どの先行作例を参照したかを判断するには、書誌だけでは足りない。作者名の記載と、顔の再現性への評価は別の情報だ。
また、所蔵先が真田宝物館であることを、豊久と真田氏が生前に親しく交流した証拠として使うこともできない。物の伝来を知るには、収集や継承の経路を調べる必要がある。
本記事の肖像・場面画像は、人物や時代のイメージを伝えるためのAIによる想像図であり、この歴史資料の複製でも、本人の顔を復元したものでもない。史料としての肖像を見たい場合は、所蔵館のデジタル資料を参照してほしい。美少年という評判、歴史肖像、現代の人物イメージをそれぞれ分けると、豊久の「顔」をめぐる情報が整理できる。
逸話の名台詞や「義弘の身代わり」はどこまで分かるか
豊久の最後には、義弘を逃がすために言葉を尽くしたという話が重なる。だが、名台詞として紹介するには、どの史料に、いつ、どのような形で記されたかを確かめる必要がある。出典が示せない言葉を鉤括弧で囲むだけでは、本人の発言にはならない。
同様に、「義弘と兜や陣羽織を交換し、敵を欺いた」という話も、豊久の行動として確実に確認できる資料は今回の調査では見つからなかった。退き口で犠牲となったことから、具体的な衣装交換まで推測することはできない。
一方、後世の伝承だからすべて無価値、というわけでもない。誰を救った人物として記憶したのか、何を忠義と考えたのか、どの土地で供養が続いたのかを知る資料になる。日置市が紹介する天昌寺跡の墓所も、その記憶をたどる場所である。
当日の出来事を知るための資料と、後世の評価を知るための資料では、答えられる問いが違う。豊久の場合、少年期の日記、領地を認めた文書、後代の家譜、地域の顕彰碑を一緒に読むことで、その違いがよく見える。
島津豊久の生涯・最後を確度で整理する
| 論点 | 確認できる範囲 | 確度 |
|---|---|---|
| 生没年と父 | 1570年生、1600年没。父は島津家久 | 高 |
| 義弘との関係 | 父・家久の兄にあたる伯父 | 高 |
| 妻 | 島津忠長の娘。実名・婚姻年月日は未確認 | 関係は高、細部は不明 |
| 子供 | 妻との間に子はいなかったとされ、家名は別の継承をたどる | 中〜高 |
| 沖田畷 | 初陣とされる。元服は合戦後の1584年4月 | 中〜高 |
| 佐土原の領地 | 1588年安堵、1594年に28,646石 | 高 |
| 鼓・鳥猟の逸話 | 『上井覚兼日記』に具体的な行動が記される | 高 |
| 関ヶ原の死因 | 退き口に伴う戦死とされる | 高 |
| 最後の場所 | 烏頭坂・多良の伝承、関ヶ原宿口付近とする説がある | 個別の地点は未確定 |
| 井伊直政との直接対決 | 敵対する軍にいたが、本人同士の決闘や豊久による射撃は未確認 | 低・採用せず |
| 美少年説 | 死後二百年以上を経た『倭文麻環』に容貌への賛美がある | 後世の評価として確認 |
| 肖像画 | 真田宝物館に「島津豊久画像」が現存する | 所蔵は高、実貌との一致は不明 |
| 光明仏の話 | 後代の家譜に別人を豊久とした話がある | 家譜の逸話。生存の証拠ではない |
豊久の名が強く残ったのは、関ヶ原の退き口だった。しかし、日記や領地の文書をたどれば、鼓を打つ少年、父の家を継いだ若い領主、海を渡った軍勢の指揮者が見えてくる。最後の武勇を調べることは、その前に積み重なった生涯を知ることにもつながっている。
参戦合戦
島津豊久の逸話
- 逸話 01
少年の豊久は、弟と鼓を打った

少年期の鼓の記録を題材にした場面(AIによる想像図) · AI生成イメージ 合戦の逸話が多い豊久だが、同時代の日記には芸能の場に立った姿も残る。天正十一年(1583)六月二十三日、祖父・島津貴久の十三回忌にあたり、大中寺で能が奉納された。『上井覚兼日記』には、このとき豊久と弟が鼓を打ったことが記されている。
豊久は数え十四歳。翌年の沖田畷で初陣を迎える前のことである。武家の少年が法要に伴う芸能へ参加していたことが、具体的な日付とともに分かる。剣術や槍の稽古だけを重ねていた少年として描くと、このような日常が見落とされる。
もっとも、記録は演奏を聴いた人の感動や、豊久の腕前を詳しく伝えてはいない。「芸に秀でた美少年だった」とまで広げるのは別の話だ。鼓を打ったという行為と、名人だったという評価は分けておきたい。
誰もが知る最期の武勇から、ほんの少し視線を戻す。すると、家の法要に参加する少年が現れる。この逸話の面白さは、後の戦死を予感させる演出ではなく、戦場の外にも豊久の生活があったことを確かめられる点にある。
- 逸話 02
翌朝には出猟――日記に残る網を使った鳥猟

日向の水辺で鳥猟の網を確かめる若き豊久(AIによる想像図) · AI生成イメージ 天正十四年(1586)十月、豊久と弟の忠直は、上井覚兼らと穂村へ鳥猟に出かけた。現在の宮崎市塩路周辺にあたる。使われたのは「越網」と呼ばれる網で、馬上から鷹を放つ場面とは違う。
日記によると、一行は夜に酒を飲み、翌朝も狩りを続けた。覚兼は酒が残っていたため、先に出た豊久らをあとから追っている。記録の語り手が年長の覚兼なので、若者たちの動きと、遅れて加わる本人の様子が対照的に見える。
この一件から、豊久を「誰にも負けない酒豪」と決めることはできない。酒量も飲み比べの結果も示されていないからだ。確認できるのは、前夜の宴のあとも豊久らが翌朝の猟へ出ていたことまでである。
戦場でどれほど勇敢だったかを説明するための逸話ではない。それでも、日記を残した人物と同じ土地で行動し、宴と猟を楽しむ豊久が見える。後世の物語に整えられた名台詞より、こうした小さな記録のほうが、当人の暮らしに近づけることもある。
- 逸話 03
「豊久が帰ってきた」――家譜に記された別人の話

後世の家譜と記録をイメージした文書(AIによる想像図。史料原本ではない) · AI生成イメージ 最後の姿が明らかでない武将には、生存説が結びつきやすい。豊久にも、死後に本人を名乗る別人が現れたという話がある。新名一仁の研究が紹介する「本城家家譜」に記された、光明仏という男の逸話だ。
家譜によれば、豊久の姉は、上方から来たこの男を豊久だとして佐土原の支配を維持しようとしたという。企ては発覚し、姉の所領は没収され、男も処罰されたと記される。豊久が無事に帰国したという結末ではない。
ただし、この家譜の記事を当日の調書のように扱うこともできない。企ての詳しい経緯や動機には不明な点がある。弟・忠直を含む家の事情についても、後代の記述をそのまま人物への評価に転用するのは慎重でありたい。
注目したいのは、領主の死が家と領地の存続に直結していたことだ。関ヶ原での戦死を英雄譚として語ると、その後に残された人々の問題は見えにくい。「帰ってきた豊久」の話は、生存を証明する資料というより、跡継ぎを失った家が置かれた状況を考える材料になる。
関連人物
- 島津家久(父)
- 樺山善久の娘(母)
所縁の地
- 佐土原城跡宮崎県宮崎市佐土原町
家久・豊久父子が拠点とした城。豊久は父の死後に領地を継ぎ、小田原や朝鮮へ出陣した。関ヶ原だけでは見えにくい、日向の領主としての豊久を考える出発点になる。
- 烏頭坂・島津豊久の碑岐阜県大垣市上石津町牧田
島津の退き口で豊久が戦死したと伝わる場所。1920年建立の顕彰碑がある。死去地点には異説があり、碑の所在だけで最期の瞬間を確定することはできない。
- 瑠璃光寺・島津塚岐阜県大垣市上石津町上多良
負傷した豊久が多良まで来て亡くなったという伝承に関わる場所。位牌と墓が伝わる。烏頭坂の顕彰碑とは別の場所であり、退き口の記憶が地域で守られたことを伝える。
- 天昌寺跡・永吉島津家墓所鹿児島県日置市吹上町永吉
永吉島津家の菩提寺跡。家久・豊久らの墓が残る。美濃の伝承地とともに、島津家側で続いた供養の歴史をたどれる。墓所の存在は、関ヶ原での死亡地点や遺体の移動経路を直接示すものではない。
- 真田宝物館長野県長野市松代町
藤原信徴作と記される絹本の「島津豊久画像」を所蔵。資料番号は書026-08。デジタル資料で作品と書誌を確認できる。常設展示の有無は別途確認が必要。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 新名一仁「島津家久・豊久父子と日向国」『宮崎県文化講座研究紀要』第44輯(2018年)、特に18〜23頁宮崎県立図書館参照日 2026-10-06
- 林匡「薩摩藩家老の系譜」『黎明館調査研究報告』第27号(2016年)、注31鹿児島県歴史・美術センター黎明館参照日 2026-10-06
- 島津豊久画像(藤原信徴作、絹本、資料番号:書026-08)真田宝物館/長野市文化財データベース参照日 2026-10-06
- 島津義弘コース(退き口と烏頭坂の解説)岐阜関ケ原古戦場記念館参照日 2026-10-06
- 彦根藩主井伊家(井伊直政の負傷と死去)彦根城博物館参照日 2026-10-06
- 天昌寺跡(永吉島津家の墓所)日置市参照日 2026-10-06
- 宮崎市広報みやざき2020年10月号・島津豊久特集宮崎市参照日 2026-10-06























