磯野員昌は、浅井長政に仕えた近江の武将である。 姉川の戦いでは「十一段崩し」の伝承で知られるが、史料でたどれる大きな転機は、その後の佐和山開城にある。 1571年に織田信長へ降り、琵琶湖西岸の高島へ移った。 新庄城を拠点とし、織田方の出陣や神社再興にも関わるが、1578年には出奔した。
佐和山を明け渡した時点で生涯を閉じると、高島での仕事が見えなくなる。 逆に、十一段崩しを詳しい戦闘記録として扱えば、後世の軍記が描いた人物と、日記や文書に残る人物を混ぜてしまう。 以下では、まず城主としての足取りを追い、そのうえで武勇談や出奔理由の読み方を考える。 日付は、史料の旧暦表記に従う。
南の境を預かる

磯野員昌が預かった佐和山城は、浅井家の南の守りだった。小谷の本城を離れ、南近江へ通じる道を押さえる。敵が迫れば、主君の援軍が届くまで持ちこたえなければならない城である。
員昌は近江国磯野を本拠とする国人の家に生まれ、浅井長政に仕えた。生まれた年と亡くなった年は、確かな数値を示しにくい。講談社の人名辞典も生没年を不明とする。年齢から人物像を決めるより、城主として何をしたかを追うほうが、その働きはよく見える。
佐和山は現在の滋賀県彦根市に位置する。東には陸路が通り、西には琵琶湖の港があった。北近江と南近江の接点にあたるため、城を押さえる者は山上だけでなく、麓を通る人や物にも目を配ることになる。浅井氏と六角氏が競い合うなか、員昌は永禄四年(1561)に城主となったとされる。
城主の仕事は、戦いの支度だけではなかった。永禄十二年(1569)、京都の吉田兼右が浅井長政を訪ねた際、員昌は両者の取次を務めている。神道を伝える吉田家との連絡を受け持つ姿が、兼右の日記に残る。伊藤信吉が紹介したこの記録は、軍記の合戦場面とは違う場所から員昌を照らしている。
長政の名のもとに城を守り、京都の人々との連絡も担う。員昌を浅井家の武勇だけを代表する人物とみると、この役割を見落とす。佐和山という要地を任される立場には、兵を動かす力に加え、他者と交渉を続ける働きも求められたのだろう。
やがて浅井と織田の関係が崩れる。城の南側に迫る相手も、六角氏から織田信長へ変わった。員昌の名が広く語られる姉川の戦いは、その対立のなかで起きる。
敗れた野戦、残された城

元亀元年(1570)六月二十八日、浅井・朝倉勢は姉川で織田・徳川勢と戦った。員昌の名に結びつく「十一段崩し」は、この合戦を舞台とする。後世の軍記では、員昌ら浅井勢が織田方の備えを次々に破ったと語られた。
ただし、十一の陣を突破したという細部は、同時代の出来事をそのまま写した記録としては扱えない。『浅井三代記』が描く勇戦であり、太田牛一の『信長公記』には同じ場面がない。員昌の姉川参戦は自治体や人名辞典でも紹介されるが、その具体的な戦いぶりをたどる際は、後世軍記への依存に注意がいる。
合戦全体では、徳川家康が朝倉勢と向き合い、織田信長は浅井勢と戦ったと『信長公記』は記す。家康は員昌の属する浅井方と戦った連合軍の指揮者である。ただし、このことから二人が直接に槍を合わせたとはいえない。敵味方の関係と、戦場のどの位置で戦ったかは別の話になる。
勝ったのは織田・徳川方だった。敗走する敵を追った織田勢は小谷の近くまで進むが、山城をそのまま攻め落とすには至らない。一方、横山城は開城し、信長は木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉を置いた。野戦の勝利が、浅井領内の拠点を奪う動きへつながっていく。
員昌には佐和山が残っていた。軍記は、敗戦のなかで手勢をまとめ、城へ戻る員昌を描く。その帰路の細部は確かめられなくても、七月には員昌が佐和山に籠もっていたことを『信長公記』で確認できる。姉川の一日で、城主としての役目まで終わったわけではなかった。
野戦に敗れた浅井家が、どの城を保ち、どこから織田方の進出を止めるのか。戦いはその段階へ移った。後世の武勇談は突撃の一瞬を大きく描くが、員昌がこれから向き合うのは、出口を塞がれた城での日々だった。
四方に置かれた織田の砦

姉川の戦いから間もない七月一日、信長は佐和山城を包囲した。『信長公記』は城内の将を「磯野丹波」と記す。その周囲には、東西南北それぞれに織田方の拠点が置かれた。
東の百々屋敷には丹羽五郎左衛門、すなわち丹羽長秀。北には市橋九郎右衛門、南には水野下野守、西の彦根山には河尻与兵衛が入る。周囲の砦で城の出入りを抑える配置だった。長秀はこの包囲に加わった相手であり、開城後には員昌に代わって佐和山を預かることになる。
四方の出口を押さえられると、籠城側は兵を出すにも、外から物を受け取るにも制約を受ける。城を守る時間が長くなるほど、外との連絡や補給が重くなる。佐和山の籠城を考えるうえで、この配置は兵の数以上に具体的な手掛かりとなる。
もっとも、信長自身がそのまま城下に居続けたのではない。『信長公記』によれば、七月六日には京都へ向かい、八日には岐阜へ帰っている。包囲の仕組みを整え、諸将に継続を任せたのである。員昌が向き合ったのは、一度の総攻撃だけで決着する戦いではなかった。
籠城は翌年二月まで続く。月をまたいだ長い抵抗だったが、城内の毎日の暮らしや、残された兵糧の量まで明らかではない。兵数や飢えの様子を細かく描き足せば緊迫した物語にはなる。けれども、史料から確かに追えるのは、包囲の配置と、開城までの隔たりである。
員昌はすぐに城を明け渡さず、織田方もただちに城を奪えなかった。その状態が続いた末に、双方は開城へ進む。佐和山を守り抜いて浅井家へ戻る道は、ここで閉じられた。員昌は生きて城を出るが、仕える主君と拠点は変わることになる。
城を渡し、琵琶湖の西へ

元亀二年(1571)二月、員昌は信長に降り、佐和山城を明け渡した。『信長公記』巻四は、二月二十四日の記事で降参と開城、高島への移動をまとめている。員昌の退去後、城代として入ったのは丹羽長秀だった。
ここで確実に起きた変化は三つある。浅井の城だった佐和山が織田方へ移り、員昌が浅井家を離れ、活動の場を高島へ移したことである。日付の一行だけから、交渉、引き渡し、渡湖のすべてが同じ日に完了したとまでは決められない。
高島は琵琶湖の西側にある。佐和山のある東岸からは、湖を隔てた別の地域だった。高島市の解説は、員昌と籠城兵が船で移されたと紹介している。城を失った人物が、直ちに戦国史の表舞台から退いたわけではない。員昌はその後も、織田方の武将として記録に現れる。
この降伏を、長政の裏切りによって追い込まれた決断と説明する物語もある。人質の母が処刑されたという話は、その代表だ。だが、そうした事情は後世の『浅井三代記』に見える筋立てである。『信長公記』の簡潔な記録に、その動機まで書き込まれているわけではない。
佐和山が織田の城になることは、員昌一人の転身にとどまらなかった。信長は、浅井家の南を押さえていた城を自らの家臣に預けられるようになった。横山に続いて佐和山が織田方の拠点となり、浅井領へ圧力を加えるための場所が増えたのである。
員昌にとっても、同じ城を守り続ける生活は終わった。今度は信長のもとで、高島との関係を築かなければならない。降伏の瞬間だけを見れば失ったものが目立つが、高島へ移った後の記録を読むと、新たな仕事を担う姿が続いている。
新庄に拠点を置く

高島へ移った員昌は、新庄城を拠点とした。現在の高島市新旭町新庄にあたる。ただし、元亀二年の移転と同時に、高島一郡を隅々まで支配できたと考えるのは早い。高島には浅井方の勢力が残り、信長の攻略はその後も続いていた。
高島市の文化財解説は、天正元年(1573)の高島郡攻略後、員昌が新庄城を郡支配の拠点としたと説明する。市の略年表には元亀二年に新庄城主となったとの整理もある。高島へ移った時期と、新庄を中心に支配が固まった時期を分けて考えると、この地域の変化を追いやすい。
新庄城については、城の中心部と推定される場所に土塁が残り、周辺には堀や屋敷地の跡が確認されている。高島市は、残された地割や発掘の成果から城下町の整備を推測する。城主の館だけでなく、武家屋敷や町場を含む一帯が、員昌の活動を考える舞台になる。
その高島で、天正元年に員昌が捕らえた人物がいる。杉谷善住坊である。『信長公記』によると、善住坊は元亀元年、千草越えの道中で信長を鉄砲で狙った後、高島に身を隠していた。員昌が捕縛し、岐阜へ送られた経緯が記される。
員昌はかつて信長の包囲を受ける側だった。高島では、信長を襲った人物を取り押さえる側にいる。この一件から、降伏後の主従関係が実際の行動にも表れていたことがわかる。ただし、捕縛の具体的な手順や、員昌本人が現場で何をしたかまでは記録にない。
城を受け取り、その周囲の土地と人に関わり、主君に求められる仕事を果たす。高島での員昌には、そうした領主の姿がある。後継となる津田信澄の名が前に出るまでの数年間も、単なる敗将の余生として片づけられる時間ではなかった。
戦場へ出て、社の再興にも関わる

織田家に入った後も、員昌は軍勢の一員として出陣した。天正三年(1575)八月の越前一向一揆攻めでは、『信長公記』に磯野丹波の名が見える。同じ記述には阿閉淡路守や津田七兵衛信澄らも並ぶ。高島にとどまるだけでなく、織田方の作戦へ組み込まれていた。
この記録でわかるのは、員昌がその軍事行動に参加したことだ。どの敵将を倒し、どの砦を独力で奪ったかという個別の戦功は、書かれていない。姉川の物語に慣れた目で読むと短い記述だが、降伏した将が引き続き軍役を負う姿を確かめられる。
一方、吉田家との連絡も続いた。元亀三年(1572)三月十四日の『兼見卿記』には、員昌からの書状が届いたとある。湖北の八幡社が焼け、仮殿は造られたこと、本式の再興については改めて相談したいことを伝える内容だ。伊藤信吉の論文は、この社を長浜八幡宮として検討している。
ここで員昌が担ったのは、近江と京都の間の連絡だった。仮殿を造った人々の働きと、吉田家へ相談を持ち込む働きは、同じではない。員昌が再興の費用すべてを負担した、あるいは工事のすべてを指揮したとまでは、この書状の記録からはいえない。
天正五年(1577)には、伊勢の外宮別宮・土宮の仮殿造営にも関わる。伊藤が引く『外宮遷宮記』は、同年八月十二日の仮殿遷宮で、願人を磯野丹波と記している。関連する記録には造営料の寄進も残る。員昌の活動範囲は、高島の城下だけで閉じていなかった。
出陣を記す『信長公記』と、社の再興を記す日記や神宮の記録。それぞれに現れる仕事は違うが、どちらも同じ員昌の活動である。軍勢を率いる立場と、社に願いを立てる立場を持ちながら、員昌は織田家に仕えていた。翌年、その奉公は急に終わる。
理由を語らない一行

天正六年(1578)二月、員昌は信長のもとを去った。『信長公記』巻十一の二月三日条は、上意に背き、折檻を受け、逐電したと記す。そして高島一円は、津田七兵衛信澄に与えられた。
信澄は信長の甥で、員昌の養子となっていた人物である。高島市の解説によれば、天正四年(1576)には、今津より北を員昌、南を信澄が治めていたとされる。出奔するまで員昌だけが全域を独占し、翌日から信澄一人に入れ替わったと単純化することはできない。
それでも、天正六年の変化は大きかった。『信長公記』は員昌の離脱と、信澄への高島一円の付与を続けて書く。信澄は新庄から大溝へ移り、新しい支配拠点を持つことになる。員昌が担ってきた地域の支配は、織田一門の将へ引き継がれた。
員昌は何を命じられ、何に従わなかったのか。『信長公記』のこの箇所には具体的な内容がない。信澄への家督や所領の譲渡をめぐる対立と説明されることがあるが、命令の全文や員昌の返答が残されているわけではない。領主交代の結果を、そのまま争いの原因に置き換えることは避けたい。
その後、員昌は高野山に入ったと伝えられる。講談社の人名辞典も、この点を伝聞として紹介している。出奔後の足取り、没年、最期の様子には不明な点が残る。特定の年に没したとして享年を計算したり、死の床の言葉を添えたりできるだけの裏付けはない。
史料の上では、員昌の姿はここから見えにくくなる。佐和山を守ったこと、高島へ移ったこと、軍役と神社再興に携わったことは残った。最期を描き切れなくても、それまでの仕事は消えない。員昌の生涯を考えるには、出奔という結末から過去のすべてを逆算しないことが大切になる。
史料の読み解き
員昌の評価は、どの場面から読むかで変わる。 姉川を入口にすれば猛将、佐和山開城を入口にすれば降将、天正六年の出奔を入口にすれば信長と折り合えなかった家臣となる。 しかし、いずれか一つだけでは、高島で社の再興に関わった姿まで説明できない。
記録をつなぐ際には、そのつながりが史料に書かれているのか、後から読み手が補ったものなのかを確かめたい。 特に、結果がわかっている出来事ほど、原因までわかった気になりやすい。 員昌の場合は、降伏と出奔の二度、その問題に行き当たる。
佐和山の開城を、忠義だけで測れるか
『信長公記』に見えるのは、城の四方を押さえる包囲と、翌年の降参である。 員昌がいつから条件を探り、何を最も重く考えて決断したかは、そこには書かれていない。 長い籠城をしたことと、最後には城を渡したことを、まず別々に受け取る必要がある。
浅井家の立場から見れば、佐和山を失うことは痛手だった。 南の要地が織田方のものとなり、丹羽長秀が入ったためである。 一方、員昌本人の立場では、城と主家を離れた後も、新しい主君のもとで働く道が残った。 同じ開城でも、浅井家の軍事的損失と、員昌のその後の生存は、異なる結果として現れる。
そこへ母の処刑という逸話を置くと、降伏は耐え難い仕打ちへの反応として理解しやすくなる。 ただし、物語として納得できることと、出来事の原因が確認できることは同じではない。 母の話を外しても、四方に包囲された佐和山と、長く続いた籠城の事実は残る。 動機を一つに決めなくても、置かれた状況を具体的に考えることはできる。
城主がどこまで抵抗すれば忠義を尽くしたことになるのか。 その答えを、後世の読み手が一律に決めるのは難しい。 員昌を賞賛するためにも非難するためにも、史料にない決心の言葉を代弁させるべきではないだろう。
「十一段」という数字は、何を伝えるのか
『浅井三代記』の場面には、先陣の奮戦、味方の加勢、敵本陣の危機、別方面からの反撃という流れがある。 十一段突破は、その流れの山場に置かれている。 敵が幾重にも構えた備えを破るという描写によって、浅井勢の強さが伝わる構成である。
ここで、員昌の部隊だけが十一段をすべて破ったという要約は、軍記そのものの記述からも離れる。 本文には他の浅井方諸将が加わる過程があり、突破は集団の攻撃として語られている。 よく知られた短い逸話の名前だけで、原文の主語まで決めないほうがよい。
さらに、軍記の内部で話が整っているからといって、実際の陣形が確認されたことにはならない。 『信長公記』に同じ細部がない以上、両書を合わせて、十一段を突破したうえで公記どおりに敗れた、と一つの確定した戦闘経過に組み直すことはできない。 二つの叙述は、いったん別々に読む必要がある。
一方で、確認できないから無意味な話だと切り捨てると、後世に員昌がどう記憶されたかが失われる。 敗れた側にも優れた働きがあり、その先頭に磯野丹波がいた。 軍記が伝えるのは、そうした人物像でもある。 戦功の数量的な証明にはせず、記憶のされ方を知るために読むなら、逸話の役割ははっきりする。
高島での仕事を、敗戦の後日談にしない
高島市の文化財解説が取り上げるのは、新庄城跡の土塁や地割、町場と武家屋敷の配置である。 これらは、員昌の心情を語る資料ではない。 その代わり、領主の活動を館の中だけで考えず、城下を含む空間として捉える手掛かりになる。
佐和山から高島へ移ったことは、地図の上では湖の東から西への移動である。 しかし、領主の仕事として考えると、預かる城、接する人々、地域を治める条件が変わる出来事だった。 史料に個々の施策がすべて残っているわけではないため、優れた民政家だったと一括して称えることはできない。 城下町整備についても、遺構や地割からの推定という位置づけを保つ必要がある。
そのうえで、杉谷善住坊の捕縛や、越前への出陣は、織田家の家臣として果たした具体的な仕事に数えられる。 神社再興の連絡は、主家が変わっても京都の吉田家との関係が続いたことを示す。 すべてを信長の命令で動いた結果とみなす根拠も、すべてを員昌個人の独立した意思とみなす根拠もない。 それぞれの記録が示す行為から、領主の活動範囲を少しずつ確かめられる。
この数年間を丁寧に読むと、佐和山を失った人物が、その後も役割を持っていたことが見えてくる。 出奔という結末を知っていても、その途中で担った仕事まで失敗の前触れとして扱う必要はない。
海津天神社の再建伝承をどう扱うか
高島の海津天神社にも、員昌による再建の伝えが残る。 伊藤信吉が紹介する宮司藤田家の系譜は、天正四年(1576)の再建を記す。 ただし、後世の系譜に残る事績であり、日付を追える当時の日記や神宮記録と同じ確かさには置けない。 長浜八幡宮、土宮と併せて見るときも、三社それぞれの根拠の違いを残す必要がある。
信澄への交代と、出奔の原因を分ける
天正六年の『信長公記』は、員昌の離脱に続いて、高島を信澄へ与えたと記す。 この順番から、員昌が去った後の支配を信長が信澄へ集めたことは読み取れる。 ただし、それ以前に何を命じ、どのような応答があったかは省略されている。
ここで「信澄が後継になったのだから、員昌は後継の指名を拒んだのだ」と考えると、結果から原因を作ることになる。 養子関係や高島の分割支配は、両者の立場を考える材料にはなる。 けれども、それだけで具体的な対立の場面を復元できるわけではない。
また、『信長公記』の「折檻」という語から、現代語の感覚で身体への暴力を細かく想像するのも慎重でありたい。 この箇所でまず読み取れるのは、主君の意に背いたとして処分・叱責を受けたという関係である。 員昌側の言い分が同じ分量で残されていない以上、信長か員昌のどちらかに全面的な非があったと断じる材料も足りない。
晩年をめぐる高野山の伝えも、出奔の記録と同じ確かさには置けない。 生没年を不明とするのは、人物を曖昧にするためではない。 最後に確認できる出来事と、その先の伝承を分けるためである。 員昌の足取りは、最後まで描ける部分と描けない部分を残したまま読むほうが、史料に近づける。
確度のまとめ
「高」は出典に明確な記述があるという意味であり、記録者の立場や省略がなくなるわけではない。 とくに『信長公記』は織田方からの叙述である。 吉田家の日記や神宮の記録は伊藤信吉の論文が掲げる本文を介して確認したもので、原本を直接閲覧したものではない。
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 1570年に佐和山を守り、織田方の包囲を受けた | 高 | 『信長公記』巻三に城主名と包囲配置がある |
| 1571年二月に降伏し、高島へ移った | 高 | 『信長公記』巻四。二十四日は同書の記事日付として扱う |
| 神社再興や吉田家との連絡に関わった | 高 | 日記・神宮記録に行為の記載がある。本文は伊藤論文経由 |
| 新庄城下の計画的な整備を進めた | 中 | 高島市が遺構・地割などから推定。事業の全容は未確定 |
| 信澄を養子とし、高島支配を引き継がれた | 高 | 養子関係は地域史の整理、1578年の支配移行は『信長公記』 |
| 十一段の突破が、そのまま実際の戦闘経過だった | 低 | 後世の『浅井三代記』の叙述。公記では同じ細部を確認できない |
| 母の処刑が降伏の直接原因だった | 低 | 後世軍記の逸話で、叙述の順序にも注意が必要 |
| 信澄への家督譲渡拒否が出奔の原因だった | 低 | 『信長公記』は違背した命令の内容を記さない |
| 高野山で出家し、特定の年に没した | 低 | 高野山入りは伝聞として扱われ、確かな没年は示しにくい |
参戦合戦
磯野員昌の逸話
- 逸話 01
十一段を崩したのは、員昌一人なのか

後世の軍記が描く員昌の勇戦を題材にしたイメージ · AI生成イメージ 『浅井三代記』の姉川合戦には、織田軍が本陣まで十三段に備えたとある。磯野丹波の先手が坂井右近や池田勢を押すと、浅井玄蕃、阿閉、新庄らも加わり、浅井勢は総懸かりとなる。その流れのなかで、十一段まで切り崩したと語られる。
よく知られる「磯野員昌の十一段崩し」は、この長い場面を一人の武勇へ集約した呼び名と読める。軍記の本文に沿って読むだけでも、員昌一人が十一の部隊を順に撃破したという単純な図とは違っている。
しかも、これは後世に編まれた軍記の叙述である。『信長公記』の姉川記事から、同じ隊列や突破の順を確認することはできない。数字をそのまま戦術図に落とすと、確かめられない陣形を確定させてしまう。
伝承として読む価値はある。敗戦を語る物語のなかで、員昌は押し負けるだけの将ではなく、敵を脅かし、城へ帰り着く人物として描かれた。何段破ったかを実績表に記す前に、軍記が誰の働きを際立たせようとしたかに目を向けると、この逸話の見え方が変わる。
- 逸話 02
鎮札を求めた佐和山城主

書状と鎮札を題材にした静物。現存史料の複製ではない · AI生成イメージ 永禄十年(1567)三月二日の『兼右卿記』には、員昌が目賀田・肥田・佐和山の鎮守に関する鎮札を求めた記録がある。伊藤信吉の論文が本文を紹介している。城やその周辺の社をめぐる不安を、京都の吉田兼右へ相談していたのである。
同じ日の記事には、南郡衆との誓約を破ったことに関する相談も見える。戦いの約束を破ることは、人と人の関係だけで済む話ではなかった。神に誓った言葉をどう扱うかという問題が、日記の記述には現れている。
ただし、この短い記録から員昌の内心をすべて言い当てることはできない。何をどれほど恐れたか、どの出来事を最も悔やんだかは書かれていない。確かめられるのは、相談を持ち込む相手がいて、実際に鎮札を求めたという行動である。
佐和山の城主は、槍や鉄砲だけを頼りにしていたわけではなかった。武勇の逸話と並べて読むと、社や誓約に関わる問題にも対処しようとした姿が見える。ここでは敵を破った数より、一通の相談の内容が人物を具体的にしてくれる。
- 逸話 03
母の死は、降伏の原因だったのか

佐和山と琵琶湖を題材にした無人の風景。歴史地形の厳密な復元ではない · AI生成イメージ 佐和山開城には、浅井長政が員昌の老母を処刑したという痛ましい話がつきまとう。『浅井三代記』第十六に記された逸話である。ただし、その本文の順序は、単純な「母を殺されたから織田へ寝返った」という説明に収まらない。
軍記は、員昌と織田方の交渉、人質の交換、佐和山の引き渡しを語った後、小谷へ向かおうとする員昌のくだりで母の処刑を記す。長政が員昌の二心を疑い、小谷へ入れなかったという筋立てだ。この語り自体を、同時代の確かな記録と同じには扱えない。
『信長公記』の開城記事には、母の処刑は出てこない。ただし、記述がないことだけをもって事件が絶対になかったと証明することもできない。使える根拠の範囲では、降伏の原因として確定できない、というところに留めるのが妥当である。
籠城の末に主家を離れた人物には、忠義と裏切りをめぐる物語が重なりやすい。母の逸話を読む際も、員昌を責めるため、あるいは免罪するために事実を先取りしない。城を明け渡した記録と、その理由を説明する後世の物語を、一度離して眺めたい。
関連人物
所縁の地
- 佐和山城跡滋賀県彦根市
員昌が浅井方の城主として守り、1571年に織田方へ明け渡した城跡。現在の遺構をすべて員昌の時代のものとみなすことはできない。湖岸の港と東側の街道を併せて考えると、この山城を双方が重くみた理由をたどれる。
- 新庄城跡滋賀県高島市新旭町新庄
高島へ移った員昌が拠点とした城跡。大善寺周辺の土塁や地割、発掘で確認された堀などから城と城下の姿が検討されている。高島市の解説は町場の整備にも触れる。現地の痕跡と、史料上の領主交代を重ねて考えたい場所である。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 藤堂高虎 略年譜津市参照日 2026-10-05
- 太田牛一『信長公記』巻三・四・六・八・十一(翻刻)Wikisource/底本・甫喜山景雄編、町田本我、1881年参照日 2026-10-03
- 伊藤信吉「磯野員昌と神社―吉田家の日記を素材として―」『皇學館論叢』49巻5号、66–89頁皇學館大学、2016年参照日 2026-10-03
- 平成21年度 佐和山城遺跡現地説明会資料滋賀県文化財保護協会ほか、2009年参照日 2026-10-03
- 歴史散歩 No.66「磯野員昌と新庄城」『広報たかしま』2010年6月1日号26頁(PDF2頁)高島市文化財課参照日 2026-10-03
- 「磯野員昌」デジタル版 日本人名大辞典+Plus講談社/コトバンク参照日 2026-10-03
- 『浅井三代記』第十五「姉川合戦の事」(後世軍記・翻刻)Wikisource/底本・近藤瓶城編『史籍集覧』第6冊、近藤出版部参照日 2026-10-03
- 『浅井三代記』第十六(佐和山開城の叙述・後世軍記)Wikisource/底本・近藤瓶城編『史籍集覧』第6冊、近藤出版部参照日 2026-10-03
- 高島市統計書2020「年表」高島市参照日 2026-10-03













