阿閉貞征(あつじ・さだゆき)は浅井氏の滅亡を生き延びて織田信長に仕え、本能寺の変後に明智方となった近江の武将である。本拠は山本山城。1582年、山崎の戦いのあとに阿閉一族は秀吉方の処分を受けた。
「裏切り」と結びつけて語られやすいが、二度の転機の間には越前、有岡、伊賀などでの軍役がある。子の孫五郎の行動や渡辺了の系譜を父の貞征と分けることで、最期や子孫についても、史料から言えることが見えてくる。
琵琶湖を望む山城と阿閉氏

阿閉貞征は近江北部の山本山城を本拠とした武将である。姓は「あつじ」、名は「さだゆき」と読む。記録には淡路守の呼称で現れ、阿閇と書かれる場合もある。現在の滋賀県長浜市湖北町山本にあった城が、貞征の軍事活動を追う出発点になる。
山本山は琵琶湖の東岸にあり、賤ヶ岳から南へ続く山系の端に位置する。標高は325メートル。城は湖と平地に近い山上に築かれ、のちに浅井氏の支城として働いた。山頂の城跡には土塁などが残る。今日の地形からも、湖岸の平地と山の守りを併せ持つ立地が分かる。
滋賀県立図書館が『日本城郭大系』を引いて説明する城の歴史では、京極氏に仕えた阿閉氏が山本山を本拠としたとされる。貞征個人の生年や幼少期は明らかでない。家が城に入った経緯と、本人が当主として活動した時期を一つにして、幼いころからの物語を作ることはできない。
貞征が浅井長政に従っていたころ、浅井氏は織田信長と戦うことになった。元亀元年(1570年)の姉川の戦いについて、後世の軍記『浅井三代記』は阿閉淡路守を浅井方の第三陣に置く。先陣に挙がる磯野員昌とともに、浅井軍の一翼を担った人物として語られている。
ただし、第三陣という配置を当日の確実な陣立として読むことはできない。軍記に描かれる各隊の突撃や兵数には、後世の叙述が重なる。貞征の生涯を追ううえでは、姉川での武勇だけに頼るよりも、山本山に織田軍が迫った際の行動を確かめるほうが、その立場を具体的に捉えられる。
山本山を攻めた木下藤吉郎

元亀3年(1572年)、信長は浅井長政の居城である小谷城へ圧力をかけた。『信長公記』巻五には虎御前山などに軍勢を置き、周囲を攻めた様子が記される。山本山もその攻撃対象となった。信長が差し向けたのは、木下藤吉郎、のちの羽柴秀吉である。
藤吉郎の軍は山本山の麓に火を放った。これに対して城内から兵が出て応戦したが、藤吉郎はその兵を切り崩したと『信長公記』は伝える。城の名と城主の阿閉淡路守が記されるため、貞征の本拠が攻められたことを具体的に追える場面だ。後年の秀吉との対立には、浅井方として向き合ったこの時期がある。
この攻撃の記事だけで、山本山城がただちに落城したと考えることはできない。翌年にも貞征は山本山を拠点とする人物として登場する。麓を焼かれ、城から出した兵が敗れることと、城主が開城して主君を変えることは別の出来事だった。
同じころ、貞征のもとには若い藤堂高虎が身を寄せたと伝わる。NHK出版の『藤堂家覚書』を用いた解説は、1572年の高虎を阿閉家にいた「牢人分」として紹介する。所領を持つ正規の家臣と同じ待遇を意味する言葉ではなく、扶持を受けながら軍事奉公する立場だったという。
高虎はのちに阿閉家も離れ、磯野員昌のもとへ移ったとされる。刃傷に関する家伝はあるが、その理由を貞征の冷遇と決めつける根拠は確認できない。山本山の城主には、上位の浅井氏へ奉公する立場と、自ら人を受け入れて軍勢を整える立場の両方があった。
1573年、織田方へ転じる

天正元年(1573年)8月8日、貞征は織田方に加わる姿勢を示した。『信長公記』巻六は、その知らせを受けた信長が夜のうちに出陣したと記す。前年に織田軍を迎え撃った山本山の城主が、今度は信長の進軍を助ける側へ回ったのである。日付は当時の旧暦である。
その後、織田軍は小谷城の周辺へ進み、浅井氏を救うために出てきた朝倉軍との戦いに入る。貞征に続き、浅見対馬守も織田方に応じた。浅井氏の周囲では、城を支える武士たちの立場が変わり、援軍との連絡を保つことも難しくなっていった。
朝倉軍を追う先手の顔ぶれには、阿閉淡路守と阿閉孫五郎の両名が挙がる。父子は転属してほどなく、織田軍の作戦に組み込まれていた。名簿にいることから貞征が一人で勝敗を決めたとは言えないが、浅井氏から離れたあとも山本山に留まって静観していた、という経歴ではない。
『信長公記』はこの追撃で、先手の諸将が信長の動きに遅れ、叱責されたことも記している。阿閉父子が名を連ねる一覧は、華々しい軍功を一人に帰すための記録ではない。どの軍勢の中で働くようになったのかを示す記録として読むと、貞征の変化がはっきりする。
朝倉義景の勢力が崩れ、小谷城の浅井氏も滅亡へ向かった。貞征は旧主と命運を共にせず、織田方の武将として残った。なぜ転じたのかを本人の言葉で説明する史料は、今回の調査では確認できていない。追い詰められた浅井方の情勢は判断の背景になるが、恩賞の条件や密約の内容をそこから作り出すことはできない。
木ノ芽城からの退去と再出兵

織田方に加わった翌年、貞征は越前で守備にあたっていた。『福井県史』は、信長が木ノ芽城を守る兵として貞征を置いたと説明する。近江の山城を守っていた武将が、織田氏の勢力の及ぶ別の地域へ送られるようになった。
天正2年(1574年)、越前では一向一揆浄土真宗本願寺派の門徒(一向宗徒)による武装蜂起。戦国大名の脅威となり、織田信長との十年戦争で知られる。の勢力が拡大した。県史によれば、6月下旬に貞征は攻撃を受け、木ノ芽城を捨てて退いた。攻め手として挙げられるのは、鑓講や北庄勢である。鑓講は本願寺門徒の武装した集団とみられている。貞征個人と本願寺の指導者が直接戦ったとする記述ではない。
城を守る任務はこのとき果たせなかった。一方、退去によって貞征の織田家での軍歴が終わったわけでもない。翌天正3年(1575年)、信長が越前へ大軍を進めた際の『信長公記』の一覧には、阿閉淡路守と孫五郎の名が再び並ぶ。貞征は攻められて退いた地域へ、今度は織田軍の一員として戻っている。
この軍には磯野丹波守、すなわち磯野員昌の名もある。かつて浅井氏に属した武士たちが、織田氏のもとで同じ戦役に加わっていたことが分かる。ただし、名が並ぶことを貞征と員昌の個人的な盟約の証拠とすることはできない。確認できる関係は同じ側で軍役を担ったという範囲である。
越前への出兵では、一揆側の拠点が攻められ、多くの人が殺された。『信長公記』に現れる戦役全体の犠牲者数を、そのまま貞征の戦果に置き換えることはできない。貞征の参加を確認することと、本人がどの場所で何人を討ったかを確定することは、必要な根拠が異なる。
有岡と伊賀、近江を越えて続く奉公

天正6年(1578年)、摂津の荒木村重が信長に背いた。織田軍は有岡城を中心とする荒木方の拠点へ圧力をかける。『信長公記』巻十一には、蜂屋と阿閉が陣を取る場所へ鉄砲が撃ち込まれたという記述がある。蜂屋頼隆とともに陣を構えた貞征の名を、この戦役の中に確かめられる。
この箇所は中川清秀の織田方への転属をめぐる込み入った経過の中にある。清秀が親族を欺くために織田方への敵対を装った様子が語られ、その行動の対象として蜂屋と阿閉の陣所が出てくる。記録上の一場面から貞征と村重の一騎討ちや、有岡城突入の先陣を描くことはできない。
貞征の軍役はさらに伊賀へ及んだ。天正9年(1581年)の伊賀攻めでは、甲賀口から進む顔ぶれに阿閉淡路守と孫五郎がいる。複数の入口から軍勢が入る作戦の一部であり、父子は近江の諸将らとともに動いた。元の城の守りだけに専念する立場から、広い地域の戦争に加わる立場へ変わっていた。
翌天正10年(1582年)正月の左義長でも、貞征は近江衆の一人として『信長公記』に記される。左義長は正月の火の行事である。軍役の記事とは性格が違うが、安土の信長のもとへ集まる人々の中に、貞征がいたことを示している。
同年3月には、信長が法華寺に陣を置いた際の部隊編成にも阿閉淡路守が現れる。武田氏を滅ぼした戦役の末期であり、ここでの在陣を武田勝頼との直接交戦と同一視することはできない。それでも、本能寺の変のわずか数か月前まで、貞征が織田方の軍役を担っていた経過は追える。1573年の転属と1582年の最期の間には、こうした奉公の年月があった。
信長の死と阿閉一族の選択

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去した。阿閉一族はその後の争いで明智光秀の側に立った。信長が生きている間に従軍していた事実と、死後に誰の軍事行動へ加わったかを分けると、貞征の最後の転機が見えてくる。
大村由己の『惟任退治記』は、近江の長浜に阿閉孫五郎が明智方として在城したと記す。ここで名指しされるのは貞征の子の孫五郎である。貞征の生涯を語る文章であっても、この行動を父が単独で成し遂げたように書き換えてはいけない。阿閉一族が明智側についたことと、史料が示す個人の行動を区別する必要がある。
長浜は羽柴秀吉の拠点だった。その城に明智方の阿閉氏がいるという事態は、秀吉との対立を具体的なものにした。『惟任退治記』は、孫五郎が秀吉に以前からの恨みを持っていたという趣旨も記す。ただし、これは秀吉の勝利を伝える側の叙述である。阿閉氏の訴えや、貞征自身の言葉がそのまま残っているわけではない。
同じ史料には、秀吉が以前から阿閉氏を憎んでいたという説明も続く。両者の不和をうかがわせる記述ではあるが、貞征が明智方を選んだ理由を一つに決めるには足りない。かつて山本山を攻められた経験、領地をめぐる利害、信長の死後の情勢は、それぞれ別に検討する必要がある。
阿閉氏が本能寺の襲撃に参加したことや、貞征本人が山崎の野戦に出たことまで、この長浜の記事は証明しない。本能寺の変との関係で確かめられるのは、変の後に明智方へ加わり、近江で秀吉と対立する側になったことだ。京都で起きた主君の死は北近江の城と一族の存亡にも直結した。
山崎の敗戦後に処分された一族

山崎の戦いで光秀方が敗れると、明智側に加わった阿閉氏も追い詰められた。『惟任退治記』によれば、長浜にいた孫五郎は城を退き、自らの本館に立てこもった。秀吉への降参に踏み切れなかったことを、同記はそれまでの不和と結びつけて説明している。
秀吉が差し向けた人物として、宮部次兵衛尉と中村孫平次一氏が挙がる。宮部継潤と中村一氏である。そして阿閉一族が磔にされたと記される。貞征の最期を説明する際にも、この一族への処分の記事が重要な根拠になる。
ただし、同記は一族をまとめて述べており、貞征個人を捕らえた時刻や処刑場所、刑の執行者まで記しているわけではない。宮部と中村が派遣されたことから、どちらかが自ら貞征を処刑したとする場面を作ることもできない。貞征は1582年に没したと整理できるが、最期の細部には確定できない部分が残る。
山本山城も阿閉氏の滅亡とともに廃城になったと説明される。浅井氏の支城であった山城は、城主の織田方への転属を経ても存続したが、信長の死後の争いを越えて阿閉氏の拠点であり続けることはできなかった。
浅井氏から織田氏への転属では、貞征は旧主の滅亡を生き延びた。それから約9年後、明智方として迎えた敗戦では、一族が処分される結末となる。結果は大きく違うが、後の破局を知っていることと、当時の貞征が何を見通せたかは別である。残された軍役と城の記録をつなぐと、二度の選択の間にも続いていた、近江の城主としての生涯が見えてくる。
史料の読み解き
貞征の経歴には、城主としての行動、父子の軍役、一族の処分という異なる単位の記録が重なっている。阿閉という姓が同じでも、常に貞征本人を指すとは限らない。『信長公記』と『惟任退治記』、後世の軍記や系譜を区別すると、二度の転属だけでは見えにくい問題が残る。
「裏切り」の時期と相手
1573年に貞征が離れたのは浅井長政であり、従ったのは織田信長だった。『信長公記』はこの経過を「阿閉謀叛之事」という見出しで記す一方、本文では信長の味方となった行動として叙述する。同じ転属でも、浅井側から見るのか織田側から見るのかで評価は変わる。その言葉だけを貞征の一生に貼り付けると、誰に対する行動だったかが曖昧になる。
一方、1582年の選択は信長の死後に起きた。明智方に加わったことを、貞征が本能寺で信長を襲ったことと同じに扱うことはできない。ここでは主君を失った後、近江でどちらの勢力に加わったかが問題になる。少なくとも『惟任退治記』の長浜の記事から、事前の謀反計画への参加までは遡れない。
二度の行動には、所属する側を変えたという共通点がある。しかし、一度目は主君が生きている間の敵方への転属、二度目は主君の死後の勢力選択という違いもある。両者を分けても、浅井氏を離れた事実や明智方に加わった事実が消えるわけではない。貞征を擁護するためにも非難するためにも、記録にない動機を足す必要はない。
秀吉との不和はどこまで分かるか
貞征と秀吉は、1572年には山本山を守る側と攻める側だった。翌年以降は同じ織田方として軍役に名を連ねるが、1582年には阿閉氏の孫五郎が秀吉の長浜に明智方として在城する。敵対、同陣営、再び敵対という順序は、単純な「昔から敵だった」という説明では捉えにくい。
『惟任退治記』は孫五郎の秀吉への宿意と、秀吉が阿閉氏を憎んでいたことを述べる。これを不和の存在を考える材料にはできる。ただし、同記は秀吉による光秀討伐を伝える叙述であり、勝者の行動を説明する方向に書かれている。阿閉側がなぜ不満を持ち、どの条件なら降参できると考えたのかを、双方の証言から再構成した記録ではない。
「信長より秀吉が嫌いだったから光秀についた」と言い切れば、分かりやすい因果にはなる。しかし、その説明には貞征と孫五郎の意向が一致していたことや、他の政治判断がなかったことまで含まれてしまう。史料に書かれた不和を認めつつ、それが唯一の動機だったとは決めないほうが、記録の範囲に忠実である。
最期と「一族滅亡」の範囲
『惟任退治記』は阿閉一類が磔にされたと記す。一族に厳しい処分が及んだという記述であり、貞征の死を考える中心史料になる。一方、そこには処刑された全員の姓名、生年、家族関係の一覧はない。この違いは最期の描写と子孫の説明の両方に関わる。
貞征の処刑日を特定するには、一族への処分が書かれたこととは別に、日付を裏付ける記録が必要になる。山崎の戦いの日と、その後の長浜退去、阿閉一族への処分を同じ日にまとめることもできない。戦後の経過を伝える文章の順序は、すべての出来事の日時を確定する年表ではないからだ。
また、「一族滅亡」は山本山を拠点とした阿閉氏の勢力が失われたことを表す言葉として使える。それだけで、あらゆる傍系や女性を通じた血縁まで絶えたと証明できるわけではない。反対に、同じ姓を名乗る後代の人物が見つかっただけで、貞征の子孫と認定することもできない。生存を断定する場合にも断絶を断定する場合にも、世代ごとのつながりを確かめる必要がある。
子孫と渡辺了の系譜
渡辺了を介した子孫の説明には、養縁と実系を混同しやすい箇所がある。『東浅井郡志』では、了の実父と養父がそれぞれ記され、阿閉氏との関わりは養母の縁として説明される。その記録は、了が貞征に仕えた経緯を考える手掛かりになるが、了自身が貞征の血を引くことを意味しない。
同書は近代に編纂された郡史であり、了の項では渡辺家の系図などを参照している。当人たちが同時代に書いた戸籍のように扱うことはできないが、誰を実父、養父、養母と記したかは具体的に読める。紹介記事の「妻」と原本の「養母」が食い違うとき、両方を一つの関係図に押し込むと、世代や婚姻が矛盾してしまう。
現段階では、貞征から現代まで続く系統を確認したとは言えない。了の家に子孫がいるかどうかと、その系統が貞征の実系かどうかは別の問いである。家臣としての奉公、養家を通じた親族関係、本人の婚姻を分けて追うことが、子孫を調べる際の出発点になる。
藤堂高虎の奉公から見える阿閉家
高虎の経歴からは、貞征が人を受け入れる側でもあったことが分かる。ただし、NHK出版が紹介する「牢人分」という言葉は、阿閉家の所領を持つ直臣と同じ身分を意味しない。人物関係として「高虎の主君」とまとめる場合も、その下でどのように奉公したのかという差は残しておきたい。
高虎が阿閉家を去った経緯には家伝が含まれ、刃傷の理由が詳しく分かるわけではない。また、同解説が述べる加増要求の話は、のちに織田信重、のちの信澄に仕えた時期のものである。主君を何度も変えたという共通の題材だけで、別の奉公先で起きた出来事を貞征のもとへ移すことはできない。
貞征が高虎の将来を見抜いた、あるいは力量を理解できず追い出したという評価は、後の高虎の成功から逆算した物語になりやすい。確認できる奉公の関係を押さえれば、貞征は有名な武将の経歴に一度だけ現れる名前にとどまらない。浅井氏に従う城主の家が流動する武士たちの受け入れ先にもなっていたことを考えられる。
史料ごとに違う貞征の姿
『信長公記』では、貞征は城主、転属した武将、軍勢の一員として現れる。相撲の記事では孫五郎が個人として描かれる一方、戦役の名簿には父子が並ぶ。この記録だけで貞征の内面を詳しく語ることは難しいが、いつどちらの側で活動したかを追う材料は得られる。
『惟任退治記』では、阿閉氏は秀吉と敵対し、敗戦後に処分される一族として登場する。『浅井三代記』では浅井軍の陣立と戦闘を彩る武将の一人になる。それぞれが何を伝えるための文章かを区別すれば、勇将か裏切り者かという一つの評価へ急いでまとめずに済む。
地理や城の経緯には自治体図書館の回答と観光資料を、系譜には郡史を用いた。ただし、別々のウェブサイトに掲載されていても、同じ『信長公記』をもとにした説明なら、独立した二つの目撃証言にはならない。『天正記』に収められた『惟任退治記』も、書名を分けて根拠を二倍に数えることはできない。貞征の生涯を支える資料は、数だけでなく、成立した時期と記述の対象を確かめて読む必要がある。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と限界 |
|---|---|---|
| 山本山を本拠とし、1572年に木下藤吉郎の攻撃を受けた | 高 | 『信長公記』巻五。城主と城名を確認できる |
| 1573年旧暦8月8日に織田方となる姿勢を示した | 高 | 『信長公記』巻六。本人の内心や密約は別問題 |
| 1574年に木ノ芽城を退去した | 中 | 『福井県史』の記述。引用史料に基づく編纂として扱う |
| 越前、有岡、伊賀の軍役に関わった | 高 | 『信長公記』の名簿と陣所記事。個人の戦果や一騎討ちまでは示さない |
| 姉川で浅井軍の第三陣にいた | 中 | 後世の軍記『浅井三代記』の叙述。当日の確実な配置とは区別 |
| 安土で相撲を取った阿閉氏の人物は孫五郎である | 高 | 『信長公記』巻十一。父の貞征へ転記しない |
| 変後の長浜に孫五郎が明智方として在城した | 高 | 『惟任退治記』。本能寺襲撃への参加を意味しない |
| 阿閉一族が秀吉方に処刑された | 高 | 『惟任退治記』。貞征個人の日時と手順は未確定 |
| 秀吉への不満だけで明智方についた | 低 | 不和の記述はあるが、単一の動機までは裏付けられない |
| 渡辺了は貞征の実系の子孫である | 未確認 | 『東浅井郡志』は養母を介した関係を記す。実系の証明にならない |
| 生年、享年、現代まで続く子孫の系統 | 未確認 | 今回確認した資料では確定できない |
貞征の選択をたどるとき、山本山の攻防から本能寺の変までの軍役を省くと、二度の転属だけが残る。父子の名前を分け、城と従軍の記録を戻して読むことで、北近江の城主が織田政権に組み込まれ、その崩壊に巻き込まれた経過を捉えられる。
参戦合戦
阿閉貞征の逸話
- 逸話 01
相撲で力を見せたのは誰か

平服で扇を持つ貞征の想像図。相撲を取った孫五郎の肖像ではない · AI生成イメージ 『信長公記』巻十一には、天正6年(1578年)8月15日に安土で相撲が催された記事がある。信長は、力が強いと聞いていた永田刑部少輔と阿閉孫五郎の取り組みを望んだ。同記は孫五郎の体格と力を評価しながら、勝ったのは永田だったと記している。
この逸話の主人公は父の貞征ではない。阿閉という姓だけを拾ってしまうと、子の孫五郎が相撲を取った話が、貞征の怪力伝説へ変わってしまう。同じ記録の軍役の一覧では淡路守と孫五郎が別々に並ぶため、呼称を確かめながら読むことが欠かせない。
また、信長の前で取り組んだことは、戦場で敵を圧倒した証明とも異なる。相撲の記事は、孫五郎が安土の催しに関わり、その体格や力が信長に知られていたことを伝える。父子が織田家の中でどう姿を見せるのかを知る材料にはなるが、父の武勇や親子の性格まで広げて語る根拠にはならない。
- 逸話 02
渡辺了と阿閉氏をつなぐ養母

系譜の検討をイメージした書物と筆の創作静物。実在史料の写真ではない · AI生成イメージ 阿閉氏に仕えた人物として、渡辺了の名も知られる。ところが家族関係を調べると、「貞征の娘を妻にした」とする紹介と、養母を通じた関係を述べる記録がある。婚姻と養縁を区別しないままつなぐと、子孫についての説明も変わってしまう。
『東浅井郡志』巻3の786頁は了を渡辺右京亮高の第二子とし、同族の渡辺任の養子になったと記す。そのうえで、養母の縁によって貞征のもとに寄食し、のちに仕えたと説明する。788頁の任の項では任の妻を阿閉貞大の娘と記している。
ここに示されるのは、了の養家を通じたつながりである。同書の記載から了を貞征の実子や孫とすることはできず、了の子がいたことだけで貞征の血筋が続いたとも証明できない。また、この箇所だけで貞大と貞征を同一人物に置き換えることも避けたい。養父、養母、実父、本人の妻をそれぞれ別の人物として追うと、確認できる範囲が明確になる。
- 逸話 03
山本山城の土塁と湖岸の景色

山本山と琵琶湖を題材にしたAI生成風景。現地写真ではない · AI生成イメージ 現在の山本山城跡には、山上に曲輪や土塁が残っている。曲輪は城の中で区切って設けた平坦な場所、土塁は防御のために土を盛った構造である。びわこビジターズビューローの紹介は、本丸の土塁や、山頂から見える琵琶湖と竹生島を挙げている。
山城の跡では、建物が残っていなくても地形と防御施設を手掛かりにできる。一方、現在見える遺構のすべてを貞征が造ったと断定することはできない。山本山城は阿閉氏以前にも歴史を持ち、同じ山が異なる時代に利用されてきたためである。
貞征の居城を想像する際も、近世城郭の大きな天守をそのまま置くと時代や城の姿を取り違えやすい。地形と史料から確かめられる本拠の位置を先に押さえ、失われた建物の細部は不明のままにしておく。湖に近い山上の拠点という条件が、浅井氏の支城、織田方の城主、明智方となった一族という移り変わりを、同じ場所で考える手掛かりになる。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 信長公記(巻五・六・八・十一・十四・十五の阿閉氏関連記事)太田牛一著・甫喜山景雄編/Wikisource翻刻参照日 2026-11-03
- 惟任退治記(長浜の阿閉孫五郎と阿閉一族の処分)大村由己著・近藤瓶城編/Wikisource翻刻参照日 2026-11-03
- 浅井三代記 第十五「姉川合戦の事」近藤瓶城編『史籍集覧』/Wikisource翻刻参照日 2026-11-03
- 近江にあった山本山城の所在地などのほか、その歴史を知りたい滋賀県立図書館/レファレンス協同データベース参照日 2026-11-03
- 福井県史 通史編3 近世一「平泉寺攻撃」福井県参照日 2026-11-03
- 藤堂高虎はなぜ秀長に仕えたのか? 第2頁「高虎の遍歴」NHK出版デジタルマガジン参照日 2026-11-02
- 東浅井郡志 巻3(1927年)786〜788頁「渡辺了」「渡辺任」黒田惟信編・東浅井郡教育会/国立国会図書館デジタルコレクション参照日 2026-11-03
- 山本山城跡びわこビジターズビューロー参照日 2026-11-03
























