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安土桃山高山氏15521615
高山右近|信仰のため領国を捨てたキリシタン大名の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
キリシタン大名利休七哲高槻城
たかやま うこん

高山右近|信仰のため領国を捨てたキリシタン大名

TAKAYAMA UKON · 1552 — 1615 · 享年 64

領国も身分も捨て、信仰だけは手放さなかった、海を越えて福者となったキリシタン大名

高山
生年
天文21年頃
1552年頃/摂津国高山の生まれ(諸説1553年)
没年
慶長20年(1615年)
正月6日、マニラで客死/享年64(数え・諸説63)
出身
摂津国高山
現・大阪府豊能郡豊能町/父は高山友照(ダリオ)
居城
高槻城・船上城
高槻4万石→明石6万石/改易後は加賀金沢の客将

高山右近

高山右近は、大名としての領国も家臣も投げ打ちながら、信仰だけは生涯手放さず、死から四百年を経て福者にまで列せられた、戦国随一のキリシタン大名である。

天文の終わりごろ、摂津国高山に生まれた右近は、父・高山友照(洗礼名ダリオ)の影響で、少年期にジュストの霊名を受けて受洗した。元亀四年・天正元年(一五七三年)には高槻城主となり、城内に天主教会堂を擁して、高槻を近畿キリスト教布教の一大拠点に育て上げる。武勇と信仰を兼ね備えた若き城主の名は、畿内に広まった。

その信仰が最初に試されたのが、天正六年(一五七八年)の有岡城の乱だった。主筋の荒木村重が信長に背いたとき、右近は人質に取られた肉親と、教会の安全との板挟みになる。彼は髪を剃り、紙衣一枚で信長の前へ出頭したと伝えられ、結果として高槻領を安堵された。信仰を最優先するという生き方は、この時すでに鮮明だった。

本能寺の変の後は秀吉に仕え、山崎の戦いで先陣を務めたとされる。茶の湯では千利休に学んで後世の利休七哲に数えられ、天正十三年(一五八五年)には明石六万石を得て船上城を築いた。武勇・茶・築城を兼ねた文化人大名として、右近は頂にあった。

だが天正十五年(一五八七年)の伴天連追放令が、すべてを変える。右近は棄教を拒み、明石六万石も大名の身分も惜しげなく捨て、信仰だけを抱いて流浪の身となった。小西行長や前田利家に庇護され、加賀金沢で二十六年を客将として過ごす。

そして慶長十九年(一六一四年)、徳川幕府の禁教令により国外追放となり、マニラへ送られた右近は、翌慶長二十年正月六日(一六一五年二月三日)、異郷で熱病に客死する。高山右近は、領国も祖国も捨てて信仰を貫き、四百年後に福者となった、戦国きってのキリシタン大名である。 その劇的な生涯に重なる史実と伝承を、ここから読み解いていく。

01受洗BAPTISM

摂津高山の少年 — 父ダリオと受けた洗礼

大和沢城で家族とともに受洗する少年期の右近
大和沢城で家族とともに受洗する少年期の右近

天文の終わりごろ、摂津国高山(現在の大阪府豊能町)に一人の男児が生まれた。幼名を彦五郎、のちの高山右近である。生年は天文二十一年(一五五二年)とも翌年ともいい、確かなところは分かっていない。

父は摂津の国人・高山友照。永禄六、七年(一五六三〜六四年)ごろ、友照は大和の沢城にイエズス会の宣教師を招き、その教えに深く打たれて一族そろって洗礼を受けた。父の洗礼名はダリオ、そして少年彦五郎にもジュスト(正義の人、の意)という霊名が授けられる。

まだ年端もいかぬうちに信仰を胸へ刻んだこの体験は、右近の生涯を貫く一本の芯となった。武士の子として刀を学ぶのと同じ熱量で、彼は祈りを身につけていく。

戦国の世にあって、神仏ではなく異国の神を信じる。それは決して当たり前の選択ではない。だが右近にとって信仰は、選び取ったものというより、少年のうちに暮らしへ深く根づいたものだった。のちに領国も命も懸けて守る信仰は、少年期の受洗とともに右近の人格へ深く根を下ろしていた。

武士であること。そしてキリシタンであること。高山右近の物語は、刀と十字架という二つの誇りを同時に背負った、摂津の少年の受洗から始まる。

大名の地位も領国も投げ捨て、棄教を拒んで流浪の身となった

「天正十五年、伴天連追放令 — 明石六万石を捨て、右近は信仰を選ぶ」

02高槻城主LORD OF TAKATSUKI

荒木村重の与力 — 城下に十字架を掲げて

高槻城下に建てられた天主教会堂と城主右近
高槻城下に建てられた天主教会堂と城主右近

元亀四年・天正元年(一五七三年)、右近は和田惟長との激しい抗争を経て、摂津高槻城の主となった。二十歳そこそこの若さである。当時の摂津は織田信長から荒木村重が任され、右近はその村重の与力として高槻を預かる立場にあった。

城主となった右近は、領内にキリスト教を厚く保護した。天正二年(一五七四年)には、父・友照を中心とする高山父子の保護のもと、城内(現在の野見神社付近)に大きな天主教会堂が建てられ、宣教師の宿舎や、大十字架を据えた庭園まで設けられたと宣教師ルイス・フロイスは記している。

右近の熱意のもと、高槻は京都・堺と並ぶ近畿キリスト教布教の中心地となった。城下では家臣から領民まで多くが洗礼を受け、教会の鐘が町に響いたと伝わる。一国の領主が先頭に立って布教する例は、当時の日本でも際立っていた。

武勇に優れ、領民に慕われ、そして信仰に篤い。若き城主の評判は畿内に広まっていく。高槻城主・高山右近の名は、武辺の将としてよりも先に、領国ぐるみで信仰を奉じる稀有なキリシタン大名として知られていった。

だが、信仰と主従。この二つが正面からぶつかる試練は、すぐそこまで迫っていた。城下に十字架を掲げた高槻時代こそ、右近が「信仰の人」として頭角を現した日々だった。

国外追放の四十日後に客死。四百年後の2017年に福者へ列せられた

「慶長二十年正月六日、マニラ — 海を越えた信仰、異郷に果てる」

03有岡城の乱THE ARIOKA CRISIS

信仰を選んだ選択 — 紙衣一枚で信長の前へ

剃髪し紙衣一枚で信長の前へ赴く右近
剃髪し紙衣一枚で信長の前へ赴く右近

天正六年(一五七八年)十月、主筋にあたる荒木村重が、突如として織田信長に反旗をひるがえした。有岡城の乱である。村重の与力だった右近は、たちまち窮地に立たされた。村重方には、誠意の証として差し出した妹と子が、人質として留め置かれていたのである。

村重に従えば信長に背くことになり、信長に従えば人質の肉親を見捨てることになる。進退きわまった右近に、信長は強烈な圧力をかけた。宣教師オルガンティノを使者に立て、降伏しなければ高槻城下で修道士を磔にし、教会を焼き払うというのだ。

信仰か、肉親か、武士の意地か。三つに引き裂かれた末、右近が選んだのは信仰だった。彼は髪を剃り、紙衣一枚の無防備な姿で、単身、信長のもとへ赴いたと伝えられる。城も兵も差し出し、ただ教会と信徒を守ろうとしたのである。

この捨て身の出頭に信長は感じ入り、右近はかえって高槻領を安堵された。のちに高槻四万石を治めることになる。一方、人質となった肉親は村重方に残されたが、村重は彼らを手にかけなかった。右近は領地も肉親も天秤にかけながら、最後に信仰を守る道を選び、その決断がかえって彼を救った。

なお、城に残った父ダリオは村重方にとどまり、乱の後は柴田勝家に預けられる身となる。一族を二分してでも信徒を守った息子の選択は、戦国の主従の常識からは大きく外れていた。有岡城の乱で見せた「信仰を最優先する」姿勢こそ、のちの右近の生き方を予告する原点だった。

04山崎と臣従TENNOZAN

天王山の先陣 — 秀吉のもとで戦う日々

山崎の戦いで先陣を切る右近
山崎の戦いで先陣を切る右近

天正十年(一五八二年)六月、本能寺の変で信長が斃れる。中国大返しで取って返した羽柴秀吉明智光秀が、山城・山崎で激突した。このとき右近は、地の利を知る摂津衆として秀吉方の先陣を務めたとされる。天王山の麓で光秀勢と斬り結んだと伝わる。

山崎の勝利ののち、右近は秀吉に臣従する。信長という後ろ盾を失っても、彼はすぐに新たな天下人のもとで戦力として重んじられた。武辺の将としての確かな実力が、そこにはあった。

翌天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いでは、右近は岩崎山に布陣した。だが、近くの大岩山砦が佐久間盛政の急襲を受け、盟友・中川清秀が討死する。右近も支えきれずに退却を余儀なくされた。華々しい武功ばかりではなく、苦い敗走も味わっている。

それでも秀吉の信頼は揺るがなかった。右近は天下統一へ進む豊臣軍団の中で、着実に地歩を固めていく。信長から秀吉へと主を替えながらも、右近は一貫して前線で戦う将として遇され、その武勇は天下人に認められ続けた。

戦場での働きと、城下での信仰。二足の草鞋を履く右近に、やがて大きな加増の沙汰が下る。山崎の先陣から賤ヶ岳の苦杯まで、秀吉麾下の右近は武将として確かな評価を積み重ねていた。

05茶人と築城TEA & CASTLES

利休七哲の南坊 — 明石六万石の名手

茶室に座す利休七哲の右近と築いた船上城
茶室に座す利休七哲の右近と築いた船上城

右近は、ただの猛将ではなかった。茶の湯の世界では千利休に学び、後世に利休七哲の一人として数えられる高弟となる。茶号は南坊。蒲生氏郷や細川忠興、古田織部らと並び、戦国武将のなかでも指折りの数寄者だった。

静謐を尊ぶ茶の心と、祈りに生きるキリシタンの精神。一見遠いこの二つは、右近のなかでは無理なく溶け合っていたらしい。簡素な茶室に身を置く時間は、彼にとって信仰の祈りとよく似た、静かな充足だったのだろう。

天正十三年(一五八五年)、右近は高槻から播磨明石へ移り、六万石を領した。明石川の河口に船上城を築き、城の西に城下町を、南には海へ通じる港を整えた。城づくりと町割りに長けたその手腕は、のちのちまで「築城の名手」として語り継がれていく。

武勇、茶、そして築城。右近は戦国武将に求められる教養と技術を、高い水準で兼ね備えていた。右近は槍働きだけの武辺者ではなく、茶の湯と築城に通じた、当代屈指の文化人大名でもあった。

順風満帆に見えた右近の人生は、しかし、ここで最大の岐路を迎える。信仰そのものが、天下人によって禁じられようとしていた。利休七哲の茶人にして築城の名手——明石六万石の右近は、武勇と文化を兼ね備えた大名の頂にあった。

06棄教拒否THE GREAT REFUSAL

すべてを捨てた信仰 — 加賀前田家への流浪

領国を捨て加賀へ向かう改易後の右近
領国を捨て加賀へ向かう改易後の右近

天正十五年(一五八七年)、九州を平定した豊臣秀吉は、突如として伴天連追放令を発した。キリシタン大名たちには、信仰を捨てるか、大名の地位を捨てるかの二者択一が迫られる。多くの者が表立った信仰を控えるなか、右近の答えは違った。

右近は、信仰を捨てなかった。明石六万石も、大名としての身分も、あっさりと投げ捨てたのである。一国一城の主が、神への忠誠のために、世俗のすべてを手放した。戦国の常識からすれば、正気とは思えない選択だった。

領地を失った右近を、まずキリシタン大名の小西行長が小豆島にかくまった。やがて天正十六年(一五八八年)、右近は小西とともに南肥後へ移り、その後、秀吉の命によって前田利家に預けられる。こうして加賀金沢へ移った右近は、客将として遇された。

前田家での右近は、ただの食客ではなかった。築城の知識を買われ、金沢城の修築や高岡城の縄張りに関わったと伝わる。関ヶ原の年には前田利長に従い、大聖寺城の攻略にも加わった。武将としての腕も、なお健在だったのである。右近は大名の地位を失ってなお、築城家として、また一軍の将として、前田家に重んじられ続けた。

しかし、彼を支えた前田家の庇護にも、やがて限界が訪れる。天下の主が徳川へ移り、信仰への風当たりは、いっそう強まっていった。領国も身分も捨てて信仰を貫いた右近を、加賀前田家は二十六年にわたって客将として支え続けた。

07マニラと列福MANILA & BEATIFICATION

海を越えた信仰 — 四百年後の福者

マニラの港に立つ晩年の右近と十字架
マニラの港に立つ晩年の右近と十字架

慶長十八年末に発せられた禁教令を受け、慶長十九年(一六一四年)、ついに右近にも国外追放の沙汰が下る。正月、彼は二十六年を過ごした金沢を去り、長崎へ向かった。そして同年の暮れ、信徒たちとともに船でマニラへと送り出される。

当時スペイン領だったマニラは、海を越えてきた高名なキリシタン武将を、熱烈に歓迎した。総督みずから出迎え、右近は異国で英雄として遇されたという。国を追われた老将にとって、それはせめてもの慰めだったかもしれない。

だが、長い船旅と慣れない異郷の暮らしは、すでに六十を超えた身体を蝕んでいた。マニラ到着からわずか四十日ほど後の慶長二十年正月六日(西暦一六一五年二月三日)、右近は熱病のうちに息を引き取る。信仰を貫き、海を越えた果ての客死だった。

物語は、ここで終わらない。死から四百年を経た二〇一六年、ローマ教皇フランシスコは右近を殉教者として列福することを認めた。翌二〇一七年二月七日、大阪城ホールで盛大な列福式が執り行われる。領国を捨て、国を追われ、異国で没した敗者は、四百年の時を超えて「福者ユスト高山右近」として教会の祭壇に迎えられた。

血を流して斃れたのではなく、信仰ゆえに追われ、異郷で力尽きた死。それを教会は殉教と認めた。すべてを捨てて信仰を守り抜いた右近の生涯は、四百年後に福者という大きな名誉となって結実した。